篝火は消えない Ⅴ

 崖下に繋がれていた小舟が、明け始めた空と海の間に滑り出る。
 それまで押し黙っていたレオンが、絞り出すように呟いた。
「俺にはわからないよ。・・・何故、何が待ち受けているか目に見えてる王城なんかへ戻って行くのか。
 そうまでして護らなきゃならないものが、王都にあるっていうのか? ずっと閉じ込められてたんだ。このまま亡命でもなんでもすればいいじゃないか!…殺されに帰るようなもんだろう!?」
 終いには声が上擦ってしまう。
『私は別に気が触れてはいないよ。それなりの成算…いや、この場合打算、かな。それはあるつもりだ』
 交渉が不成立なら差し違えてでも斃す、と宣言したアリエル。そんな事態にはなり得ないことを計算していたに違いない。だが、そうまでする理由がレオンには理解できなかった。
「講和を発効させるためには、あの人自身が踏みとどまるしかないんだ。まあ確かに、もう少し巧く立ち回る方法があったのかもしれんが…おれたちが戦っているように、彼も戦っている。そういうことさ」
 そう言ったのは、ルイだった。アリエルの周到な「条件」に戦慄したのは、正確にはルイだけだったのかもしれない。アンリーは半ば覚悟していたようであったし、レオンはといえば…有り体にいえば十分理解しているとは言い難かった。
 そんなレオンを半ば羨みながら、ルイは言葉を継いだ。
「あの御仁はまごうことなきツァーリ王太子ツェサレーヴィチだ。自身の出自も、宮廷での立場も関係なく。…どう育ったらあそこまで意固地になれるもんか、俺には理解できんがね」
「…わからないよっ!」
 舷側に手をかけ、水面を眼に映す。墨を流したような海面が、空が明るむにつれて深い青へ透き通ってゆく。深い青の上を、細波が滑っていった。
 不意に、レオンが肩を震わせた。
「レオン!?」
「…どうした?」
「…ルイ、アンリー」
 レオンの声は、僅かに震えていた。船縁を掴む腕…その皮膚が、粟立っている。
「まずい。なるべく早くカザルへ戻ろう」
「…何が、起こる?」
 至極冷静に、アンリーが訊いた。
 片手を水面に浸し、レオンが呟く。水面を見ながら、水面を見ていない。どこか遠くの光景が映っているようであった。
「…大洋わだつみの怒りが…」
 さながら祭文をむような、特異な抑揚であった。言葉にならないものを、何とか自分の持てる言葉に押し込めるような。だが、すぐにレオンは視線をあげ、遥か水平線を見つめて言った。
「昼前には雨になる…でも、そんなのより…恐ろしいもの・・が来る。皆に伝えなくちゃ…」
 ルイは硬直したが、アンリーは即座に櫂を措いた。
「わかった。見つかり易くはなるが、帆をあげよう」

***

 馬上で小舟を見送りながら、アリエルは明るみはじめた東の空を見た。
 後戻りはできない。するつもりもない。これが今の自分にできるすべてだから。
 多分、今日を迎えるために生きてきたのだ。
 無力な自分が腹立たしい。2年間というもの、何もできずにただ時を過ごすしかなかった。
 だから今、自分にできることをしよう。ただそれだけだ。

***

 単騎、戻ってきたその騎影を認めて、エルンストは天を仰ぐ。
 あるいは、と思っていた。これだけのことをしてしまえばどうなるか、わからないひとではない。わかっていて、戻ってきた。それが何を意味するか。
「…一体何を考えてるんですか、殿下…」
「…ご無事で何より。隊長には、余計な手間をかけさせてしまいましたね。立場のある方なのに、迷惑をかけて申し訳ない」
 アリエルは馬を止め、微笑みさえして静かにそう言った。
「立場ですか。殿下の立場に比べたら、俺の職なんて石ころみたいなもんですがね」
 エルンストの乗騎の足下には累々たる屍。先程の討手の成れの果てであった。逃れた者はひとりとしていない。指揮官以下、すべて絶息していた。
「…俺は何もしてませんよ。先刻のお迎え・・・が丁寧に始末していっただけです」
 それは事実のすべてではなかった。しかし、下手な生き証人は残すべきでないと思ったのは確かだった。
 …だから、エルンストは何もしなかった。古謡にうたわれるシェノレスの「緋の風神」もかくあろうかという苛烈な剣風が巻き起こす殺戮を、ただ見ていたのだ。
 その剣先が自分にだけ向けられなかったことを、不審に思うことすら暫く忘れて。
 エルンストはたった2騎でレオン奪還に来たその人物を識らない。だが、向こうは自分が何者であるかを識っていたと見るべきだろう。刃向かえば斬るつもりはあったかも知れないが、傍観者に徹したエルンストに彼らが剣を向けることはなかった。
 自分以外すべて、地に伏したあと…彼らは確かに自分を見た。だが、何も言わぬままに馬腹を蹴って南へ騎首を向ける。
「私はこのまま王城へ戻ります。あなたはここには来なかった。…いいですね?」
 そう言って、アリエルが微かに笑った。
「衛兵隊第三隊はイェルタの陣に居るはずだ。その隊長たる人が、こんな処にいるわけはありませんよ?」
「…殿下!」
「私には…やらなければならないことがあります。これは、私の役目だから。でも隊長、あなたにはそこまでの義理はない。あなたにあるのは、あなたが預かる隊士の身命を守る責任です」
 その声は至極静かであったが、深く圧倒するような響きを持っていた。ただ穏やかなだけの人物でないことは知っていたつもりだったが、エルンストほどの者が一瞬言葉を失う。一度、深く呼吸してから…改めて訊いた。
「…何が、起こるっていうんです? 殿下とリオライはそれを掴んでた筈だ。違いますか」
 エルンストがその名を口にしたとき、確かにアリエルの表情は揺れた。だがそれも一瞬。毅然と顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。
「確かに彼がいてくれたら、今こんな状況にツァーリが置かれることもなかったかも知れない。でも、私にはこれが精一杯なのですよ。…全く以て、彼に合わせる顔がありません。
 エルンスト隊長、あなたは本当によくしてくださった。だから、あなたにはお話ししておくべきでしょう…ツァーリの窮地を」
「窮地…ツァーリの…」
 東方が明るみ、清爽たる朝の光が空を薙いだが、天に広がる雲は空全体を不吉な茜色に染めた。それは暁暗の草原にもくだり、王太子の陽光色の髪をも同色に染める。
 淡々と告げられた事実はエルンストの想像を軽く越えるもので、疑問を差し挟むことさえできなかった。だが、それならばすべての糸が繋がる。一見無謀としか思えない王太子の行動も。宰相の手の者の動きも。
「あとはあなたの判断で、あなたと仲間のために動いてください。私は私のやり方で、王太子ツェサレーヴィチとしての職責を全うします。
 あぁ、それから…手綱、切ってしまって申し訳ありませんでしたね」
 そう言って、アリエルは穏やかに笑んで馬首を王都の方へ向けた。

 エルンストは、それを止められなかった。