南海の風神 Ⅱ

 大陸歴899年シアルナの中月、シェノレスとツァーリの間で和約が成立した。

 シェノレス・エルセーニュの総督府襲撃から数えて約2年。シェノレスは海という要害を十二分に生かして勝ち続け、カザル砦を占拠後はそこを橋頭堡として陸戦の準備を整えつつあった。

 ツァーリ軍もただ手を拱いていただけではない。衛兵隊第三隊の献策により、第6次イェルタ海戦でシェノレスの旗印たる海神の御子・レオンを捕縛することに成功した。…しかし、このイェルタ海戦が実質的な最後の戦闘となった。

 ツァーリ軍は反攻に転ずることはできなかった。レオンはシェノレスによって奪還されたのである。…より正確を期すなら、講和の条件として解放されたのだ。
 シェノレスはただ一国でツァーリの喉元に食らいついた訳ではない。リーン、シルメナ両国と盟約を結び、戦線を維持するための支援を受けたのである。王太子ツェサレーヴィチアリエルは開戦直後にそれを察知し、早急な停戦と講和を国王に上申するも、容れられず軟禁の憂き目をみた。
 海神の御子レオンの捕縛をきっかけに軟禁を解かれたアリエルは、これを講和のための最後の好機として行動を起こすことを決意する。

 「海神の御子」レオンの、審問の場におけるあまりにも堂々とした姿に恐怖に駆られた一部の者が、レオンの謀殺を図ったのである。アリエルはそれを防ぎ、レオンを獄舎から出すことでその命を救う。
 そして、レオンを無事にカザルへ帰すことと引き換えに…ツァーリとシェノレスの単独講和を企図したのである。

 シェノレス大神官リュドヴィックから全権を委任された代理者立ち会いの下、王太子アリエルと海神の御子レオンの間でそれは成立した。
 アリエルはそれを国王に認めさせるため王城へ帰る。しかし、そんな彼を待っていたのは再びの幽閉であった。国王は宿疾の衰耗として取り合わなかったのである。
 このまま講和が発効されなければ、ツァーリはシェノレス、リーン、シルメナ三国の攻囲に遭って滅ぶ。執行者の帰還を信じて、アリエルは王太子のまま自ら命を絶った。停戦の詔書に遺詔としての効力を残すために。
 執行者は帰還した。ただ、それは…詔書が遺詔となってしまった直後のことだった。

 執行者として指名されていたのは、宰相ジェドの後継者…リオライ=ヴォリスである。リオライはアリエルが最初に国王に対し停戦と講和を説いた時からの協力者であったが、当時はツァーリにおいては無位無官であり、行動を制約されることはかった。このため、国王を説得するための条件を揃えるためにノーアへ赴いたのだった。しかしその往路、ツァーリとノーアを隔てる天険ギルセンティアで「事故」に遭ったのだった。

 リオライは遺詔となった王太子詔書を継承したラリオノフ公リュースの承認を受け、その執行者としてほぼ独断で講和を発効させた。それというのも、ツァーリ王宮内で起きた事件により国王カスファーが頓死、宰相が辞任したためである。
 それは朝議の場であったが、出席者には箝口令が敷かれた。余の者には事件の内容が伏せられ、ただ国王死去と宰相辞任だけが宣された為に、一時はリオライによる軍事的政権奪取クーデターさえ噂された。
 新宰相として戦後処理に当たったリオライがその真偽に関して沈黙を守ったため、その噂は根強く残る。しかし本来ジェド=ヴォリスの後嗣として内外にその名を認知され、相応の武名もあった彼に、正面きって挑戦する者もなかったのである。
 イェルタ海戦で勝利を挙げた筈のツァーリ軍は沿岸を襲った津波の直撃を受けてほぼ壊滅、その上2年という月日の間にかさんだ戦費が国庫を圧迫していた。国の立て直しのためには強力な指導者が必要とされる時期だったのだ。

 リオライ=ヴォリスは新宰相の任に就いた。
 先王カスファーの次男であるラリオノフ公リュースは15歳ながら歴とした王位継承順第2位であり、リオライの補弼を受けて登極する。シェノレスとの講和に王太子の遺詔の継承者として声を上げ、最終的に国を護った功もある。前宰相ジェドは外祖父に当たり、宮廷にその即位に異を唱える勢力はなかった。

 そして、シェノレスでは「海神の御子」レオンが正式に国王として立った。戦争末期において既にその機運はあり、シェノレス軍はもとより本国でもほぼ既定の事実と見做されていた。
 そう思っていなかったのは本人だけだろうな、と吐息混じりにルイが評したのは…即位の日のことである。
 実質的に当面の政務は神官府、その長たる大神官リュドヴィックが執るが、いずれ大侵攻前の王家と神官府の両輪体制を再構築することが即位の際に謳われた。

***

 だが、半年を経ずして南方で一つの事件が発生する。
「…紛争…? シェノレスと、シルメナがか?」
 国境からの通信文を手にしたまま、シェノレスの若き宰相・リオライは表情を硬くした。
「介入なさいますか。うまく行けば、奪われた領地の奪還も…」
 露骨な期待を込めて、その知らせを持ちこんだ南部軍の使者がそう言ったが、リオライは反応しなかった。暫く書面に視線を落とし、二、三質問をすると、ようやく合点がいったように頷いた。
「これは好機では…」
「莫迦を言うな、今のツァーリにそんな余力があるものか」
 勢い込む使者を呆れたように見遣り、リオライは苦笑した。今の今、欲をかいて出兵などすればただでさえ危険な状態にあるツァーリ経済は完全に破綻する。イェルタ海戦がツァーリ軍の最初にして最後の勝利だったのだ。あれ以上は戦えなかった。
「放っておけ。シルメナもシェノレスも早く戦をおさめようと躍起になるはずだ。そう長くはかかるまい…ただ、監視だけは怠るな」
 そう言って、リオライは南部軍の使者を帰した。
 暫く報告書を読み返し、立ち上がると壁の地図を見た。大陸の南寄りに位置するツァーリ。東にリーン。南のシュテス島を中心とする諸島にシェノレス。西にシルメナ。北にノーア。
 紛争のきっかけとなったのはシルメナ・シェノレス両国のほぼ境に位置するマルフ島。過去、ツァーリ侵攻前にも両国はマルフ島を争って戦を起こしている。ツァーリ侵攻に伴い当時シェノレス領であったマルフ島もツァーリの勢力下に入っていた。

 先年の戦…実際に交戦したのは海という要害を擁するシェノレス一国であり、陸地で国境を接するシルメナ・リーン両国は表向きの恭順を続けながら、ツァーリの監視を免れることの出来る新航路を通じて糧食や武器といった物資の供出、輸送を行っていた。
 ツァーリとシェノレスの単独講和によりツァーリが三国に寄ってたかって喰い啄まれるのは避けられたにしても、リーン・シルメナ両国に対して全く知らんふりもできない。後に不平等な条約の大幅な改訂という形でリーンとシルメナに対しても講和が成立した。同時に国境近くの島についてもいくつか権利を放棄したのだが、マルフ島はそのうちの一つだ。リオライとしては勝者同士で喰いあってもらうための餌に他ならなかった。言ってみれば小細工が図に当たったのだが、正直なところ嬉しくはない。
「双方とも、災難と見做しているだろうな」
 シェノレス大神官・リュドヴィックはもとより、シルメナ現国王も、リオライの意図には気付いている筈だ。2年にわたる戦で疲弊したのはツァーリ一国ではなく、三国もそれ相応の出血を強いられている。小さいといえど島を巡る領土の利権は餌としては十分に機能するだろうが、それにおいそれと食いつくほど大神官もシルメナ王も愚鈍ではなかろう。それでしばらく牽制しあってくれれば、リオライとしては十分だったのだ。下手に戦になってこちらツァーリに波及しては迷惑千万である。
 おそらく現地で生じた行き違いに起因しているのだろう。リュドヴィックはいざ知らず、新国王となったという「海神の御子」シェノレスのレオンも決して無益な戦を好む男には見えなかった。
 講和締結の時に顔を合わせたきりだが、おそらくもう余程のことがなければ直接まみえるようなことはないだろう。


 ――――――そして、あの緋の髪の神官とも。

***

 シルメナ…国都をオアシス都市メール・シルミナに置く砂漠の国。
 大陸暦500年頃、聖風王と言われるアリエルⅠ世を輩出した王統はいまだ健在で、現国王はまだ30代、ルアセック・アリエルⅤ世を名乗る。
 ツァーリの勢力下に置かれながらも決してへつらわず、ツァーリの政変の際も軽挙に出ることなく静観し、結果的に国土を三国のなかで一番効率良く回復した強者つわものである。
 リオライの予想通り、この若いくせに老獪と言っていい国王もこの事態には少々手を焼いていた。
「リオライ=ヴォリス…やってくれるな。若年といえどヴォリスの裔というわけか。油断も隙もない。冗談ではないぞ。カスファーの老いぼれならともかく、『あの』大神官相手に正面から喧嘩など真っ平御免だ」
 かなり遠慮会釈もない言い様ではあるが、アリエルⅤ世が苦虫を噛み潰してこう言ったのもまた事実であった。
 アリエルⅤ世は“銀の雨の如き御髪、翡翠の如き御眼”の美貌で知られた人であるが、くだけた人柄で私的にはかなりな毒舌家であったとも伝えられる。諸国の情勢に敏感で、しかもそれは必ずしも行動に直結しない。しばしば沈黙を守り、結果として漁夫の利を得ることも多々あり、それが周辺から『銀狐』と評される所以であった。

 その切れ者がみすみすマルフ島で戦端を切らせてしまったのは、シルメナの国内事情に依る。
 シルメナは本来、都市連合国家であり、聖風王の裔たるシルメナ王家がその盟主という位置づけであった。王家の諮問機関として各部族の長を集めた族長会議があり、そこでの意見はシルメナ王家も相応に重んじる。
 都市の多くは砂漠に点在するオアシスであるが、南の海岸線に接する海上交易都市も存在する。かつてマルフ島(シルメナの地名としてはティーラ島)を所有していたイオルコスもそれだ。族長オレン・ヴァシリスの強硬姿勢にはアリエルⅤ世もいい加減辟易していたが、りとて盟主という立場上、失われた領地を取り返す機会を目の前にしているイオルコスに頭ごなしにマルフ島を諦めろとも言えない事情があった。

 その『銀狐』をして『あの大神官』と言わしめたリュドヴィックも国を回復して気が緩んだか、秋には病を発して床についている。だがこの紛争が始まった時点ではまだ健在であり、アリエルⅤ世が慌てたのも先の戦争におけるリュドヴィックの手腕に危機感を覚えていたからである。

 直接対決は避ける意向ではあったが、一方的に退くわけにもいかない。それは、シェノレスとて同様であった。

***

 マルフ島の火消しにまず赴くことになったのは、ルイだった。
 本来ならばアンリーも同道する予定であったが、ルイが強硬に反対して員数から外させたのである。審神官シャンタール、大神官リュドヴィックの名代としてツァーリとの戦をまとめ上げた手腕は誰もが認めていたが、レオンの即位後まもなくの頃から発熱を繰り返し、普通に動ける時と寝付いている時が半々という有様では、ルイの剣幕も相俟って誰もそれに異を唱えなかった。
 …アンリー自身を除いて。
はなから戦闘はするつもりなどないのだろう。それはそれで、ルイの負担が大きすぎる。起きて喋ることができれば私の仕事はできるのだから、私も行く」
 熱が落ち着いている間は、やつれてきたおもてに冷汗を浮かべながらでもそう反駁したが、アンリーの体力が限界に近いことは誰から見ても明らかであった。
「莫迦抜かせ。歩くのもやっとの奴が戦場へ来て何をするつもりだ」
 ――――ルイの言は全く以て正論であったが、それは結果としてルイがマルフ島における政治と軍事の両方を背負わなければならないということであった。
 結局、アンリーはマルフ島へ向かう船団が出帆する前々夜からまた発熱し、一時人事不省に陥る重態となったことから必然的に残留が決まった。
 ただ、ルイとしても心中快々としてアンリーを置いて出帆するわけではない。その病状は気に掛かるし、自身も戦をするつもりはないにしても行く先が戦場であるからには相応の覚悟は要る。
 出帆前夜、神官府の一隅で療養するアンリーを見舞ったルイは、典薬寮から派遣されている神官の状況説明を聞き、帷帳の奥で眠るアンリーの顔だけを見て辞去することにしたのだった。
「…時々眼は覚ましておいでのようなのですが、お話の方は」
 ソランジュという、典薬寮の女神官は、アンリーの影を蔽う峻厳、冷徹、冷酷の風評など聞いたことがないかのように…自然に、真摯に接していた。
「そう言えば、先程からレオン様…じゃなくて陛下がお見えですよ」
「…何?」
 また仮宮を抜け出したか。ルイは舌打ちした。レオンにしてみれば、俄に祀り上げられた身の上だから仮宮が窮屈なことこの上ないのは理解る。同情もする。だが、国王の座に居る者がそうほいほいと王宮を空けては、仕える者が諸々苦労するだろうに。
 尤も、ソランジュが慌てて言い直したように…レオンに大神官のような威厳を求めている者はそう多くない。レオンという存在は、海神がシェノレスに平和と安寧をもたらすために遣わした者、という…いわば象徴だ。レオン自身もそれをある程度理解っている。
 …と、思う。
 そのレオンに、いわゆる国王らしさを求めているのは神官府の一部に過ぎない。だから、レオンはレオンのままで良いのだ。シェノレスを国として纏めるには、国王は必要だ。政治機関としての王宮が必要なのであれば、それは周囲が整えれば良い。実際それはもう着々と進められているし、そのために積極的に動いているのがルイだった。
 アンリーにしろ、レオンにしろ…もう少し楽になっていい…。
 ルイが静かに帷帳を開けると、アンリーの牀の脇で座っていたレオンはひどく悄然としていた。あるかなきかの物音に振り返ったその顔は、どこかほっとしたふうでさえある。
「あぁ、ルイ」
 そろそろ居たたまれなくなってどうしようかと考えていたのが明らかだ。
「さっき、少し目を眼を開けたように思ったから…声掛けたんだけど」
 そこまで言って、俯く。反応がなかった、ということらしい。
「熱はとりあえず下がってるって聞いたけど。まだ、身体がつらいんだろうな」
 立ちあがり、ルイにひとつしかない椅子を勧める。ルイはすぐ退出するからとそれを謝絶し、アンリーの傍に立った。病臥が長くなった所為か、戦の間は相応に灼けていた肌が本来の色をとりもどしつつある。だがそれは、白皙を通り越して蒼白に近かった。
「…ルイ、出陣だろう?」
「ああ、明日出帆だ」
「俺に、手伝えることがあればいいのにな」
「最終的にはお前が出て行って手打ち、ってのが神官府の筋書きさ。俺は道を整えてくるだけだ。いずれお前にも声が掛かる。窮屈なのはわかるがしばらく仮宮で大人しくしてろ」
仮宮あそこにいても何もすることないぞ、俺」
「…ま、それはわかるが」
 ルイが苦笑する。実直に、ルイがその立場に置かれたとて三日で飽きて抜け出したくなるとは思う。
「神官府から暇潰しには事欠かん巻子かんす1の山が届いてるだろうが。この隙にすこし勉強しとけよ」
「あー…読むだけじゃなくて蜿々と御講義がある…」
 国王という立場にいわば格好・・をつけるために身につけなければならない予備知識は山のようにある。レオンがそれに辟易しているのは明らかであったが、そんなものやらなくていいとは思っても言えないのがルイの立場スタンスであった。
 レオンが深く吐息して椅子に座り直す。
「早く俺の出番を作ってくれよ、ルイ。このまま宮の中に閉じ込められてたら俺、身体が錆び付きそうだ」
「…努力するさ」
 天を仰いで慨嘆するレオンにルイは苦笑した。が、直後の台詞に思わず凍り付く。
「な、ルイ…俺、どうしてここにいるんだろうな…」
「レオン…」
「俺には分からないんだよ、ルイ…」
 天井を見つめたままのレオンの表情は、ルイですら今までに見たことの無いものであった。
「…何…を…一体何を言いだすんだよ!?」
 絡みつく寒気を振り払うように、ルイは言った。
「────神…海神、その子…。俺は一体どこから来たんだろう…俺は人間ではないのか?」
 ルイは絶句するよりなかった。
「正直言って…“俺”が分からないんだ、どうして海に起こる事象を予知できるのか。それが仮に生まれつき備わっていたとして…一体そんな力はどこから来たんだろう。俺を産んだのは、どこの誰なんだろう…ってさ…きりがないよな、実際」
 レオンが俯き、今度は明らかに自嘲するような笑い方をした。
「…どうしたんだよ…お前…何かあったのか…?」
 ルイの問いに、彼は否、と答えた。
「どうしてだか分からない…ただ、戦いが終わってみて…改めて自分が誰なのかって思うようになったんだ。あの頃はそんなこと考えてる暇なんかなかった…ってのもあるかも知れないけどな。
 不安…て言うのも何か変かも知れないけど…ま、玉座ってやつがあんまり座り心地好くないってのもあるか。
 そう、不安なんだ。俺は知りたい。自分が何なのか…。ああ、やっぱりやることがないってのはいけないな。変なことばっかり考えちまう。良くないな、うん」
 ルイは吐息した。
「そんなこと…お前、一度も口にしなかったのにな…」
 十年前、エルセーニュの海蝕洞。その最奥に遙か昔刻みつけられた一つの意志。それはかつて一度、アンリーをレオンとルイの前から去らせた。
 それは、国土回復のための戦への道を備えるためであった。
 準備が整い、再びアンリーが二人の前に姿を現した時。アンリーはながの不在を詫び、レオンとルイにそれぞれの果たすべき役割を説いた。レオンはもとより、ルイとて戸惑わなかったといえば嘘になる。だが、アンリーの覚悟を知り、共に戦うことを誓ったのだ。
 そして事は成った。シェノレスの悲願は成就されたのである。
 だがルイは、悲願成就という慶事が自分たちを結びつけていたものを緩やかにほどきつつあるような錯覚に襲われ、暗澹たる思いにとらわれる。
 そうだ、すべてはあの海蝕洞…海神窟で始まった。
 悪童共の遊び場所は、歴史の暗渠へ繋がっていたのだ。
 あたかも定められた道に誘い込まれるようにして、あの海蝕洞の中でルイとアンリーはレオンに出会った。

  1. 巻子【かんす】…帯状に裁断した紙や絹織物に文字や絵を書き、その巻末に円柱状の軸木(巻き芯)を取り付けて巻いたもの。いわゆる巻物。