南海の風神 Ⅲ

 大陸暦885年、シェノレス・シュテス島(シェノレス本島)。
「しまった!」
 ルイは蒼白になった。出口が塞がれようとしている。このままでは、生き埋めだ。だが洞穴の出口へ向かって走り出そうとするルイの肩を、アンリーが押さえた。
「アンリー!?」
「だめだ、今出ても岩で頭を割られる」
 アンリーは冷静にそう言った。正論だった。ルイは脱出を諦めたが、突発的行動の多いルイを案じてか、アンリーは肩にかけた手を放さない。ようやくそれを放したのは岩が崩れきって静寂が戻ったときのことだった。
 茫然とするルイをそのままにして、アンリーは出口を塞いでしまった岩塊に歩み寄り、手探りで調べた。
「…ここから出るのは無理だな。大きな岩盤が一枚や二枚じゃないし、取り除いたとしてもまた落ちてくる」
 至極冷静に、アンリーはそう結論した。
「落ち着き払うなよっっ!」
「騒いでも始まらない」
 ルイ…本名ルイ=シェランシア。だが今この時点では、ただルイである。同年代としては大神官家のアンリーとまともに渡り合える唯一の人間であり、親友でもある。だがそのルイですら、この血のような緋色の髪をした少年の言動にはついていけないと思うことがある。
 アンリーはルイよりたった一つ年上なだけのはずだ。それが、同じ大神官家の長男、アンリーの兄である十五歳のシャレンと同じくらい…下手をするとそれ以上に…大人びている。…というより、冷めている。
 それに大神官家特有の白皙の肌と、伝説の『緋の風神』もかくやという血の色の髪。良くも悪くも、どこか人間離れしているのだ。ルイの存在がなかったら、アンリーなど子供たちの輪の中から弾かれるどころか、そもそも縁がなかったであろう。
 だが、このアンリーの落ち着きようのおかげでルイもいたずらに騒ぎ立てる愚に気付き、ふうっと息を吐いて栗色の活動的な髪を掻き回した。
「ここから出られなきゃ、向こうだよな」
 さっきまで入口だった方向と逆方向を向いて ルイは言った。灯りがないから、真暗闇である。だがまだ方向を失ってはいない。
「ルイ、蝋燭は持ってるな?」
「ああ、持ってこいっていったのお前だろ」
「点けてくれ。こう暗いと、方向感覚までおかしくなりそうだ」
 ルイが手探りで火を起こし、蝋燭を点ける間に、アンリーは壁伝いにそっと歩きながら、闇のなかで何かを見ようとしていた。
 ぽっと、闇だけの空間に光が浮かび上がる。
「点いたぜー!」
 蝋燭を立てた手燭を持って注意深く立ち上がりながら、そう言ってアンリーを振り返る。
「ルイ…風がある」
「えっ…」
 ルイは手元の蝋燭を見た。揺れている。彼は静止しているのに、黄色い炎が揺れている。
「やっぱり、この洞もどっかに続いてたんだな」
「…うまく、外に出られるようなところに続いていればいいんだけれど」
「アンリー~!不吉なこと言うなよな」
「とにかく行ってみよう。みんなが町に知らせに行って、大人を連れてきたとしても、とても埒はあきやしない」
「風の岬だもんな…。多分神官府沙汰だぜェ…あー、後でどうなるか考えただけでもめんどくさい…」
 二人は奥へと歩き出した。アンリーは、道が分からなくなった時の用心に、十歩ごとに岩壁に印を付けながら。
 風の岬。…聖地と言うには余りにも屈辱的な、だがシェノレスの人間にとっては特別な場所であった。だがまだルイほどの子供はその意味を知らない。…知らないものの方が多い。

***

 シェノレスの本島であるシュテス島、その南側であるエルセーニュでも一番南に位置する…通称風の岬。無数の海蝕洞を擁しており、先端には海神窟と呼ばれるひときわ大きな洞があった。近辺は一応神域と定められている。しかしその地形から子供達はしばしば禁を冒して探検を試みた。
 アンリーが、この冒険に異を唱えなかったことはルイにとっても驚きであった。それは、この企みに参画した悪童たちにとっても同じであっただろう。
 神殿のアンリー。大神官リュドヴィックの子。兄リシャールを凌ぐ神童。もともとルイが無理矢理付き合わせていたところがあったが、そのうち子供達の悪巧みに欠かせない知恵袋になっていた。
 それでも神官府の禁に触れるようなたくらみには、流石に一言二言ふたことあるものと思っていたのである。それが、大人たちに見つからないように岬に近づく方法や、必要な道具などを積極的に提言をするものだから、終いには悪童どものほうが呑まれた格好だ。
 何か理由があって、アンリー自身が海神窟に興味を持っていたと考えるのが妥当だった。
 そういえば最近、神官府はすこしざわついている。ツァーリに輿入れしていた大神官家の娘が病を得てエルセーニュへ帰ってきているが、病状が思わしくないらしい。それと、娘がツァーリで産んだ子供はナステューカへ留め置かれ、しかもその傍にはほとんどシェノレスの者がはべることを許されなかったという。まるで人質だ、といきり立つ者もあったが、どうしようもないことは大人達が一番よく解っているのだ。ツァーリの総督府をおもんぱかってのひそひそ話が関の山である。
 それが今の、シェノレスの現状なのだ。
 神官府のざわつきを嫌ってか、ここのところアンリーはよく出てくるようになった。以前はルイが力づくで引っ張り出すようにして連れ出していたのが、自分から神官府を抜け出し、何をするでもなく海辺をふらついている。自然とルイ達と一緒に遊びに興じることも増えた。
 何があったのかは知らないが、ルイとしては悪い傾向ではないと思っていた。
 そして当然のように今日の探検にも積極的に関わったのだが…ルイと二人、洞窟の中へ閉じ込められてしまったのだった。

***

 遡ること150年余、ツァーリ大侵攻─────。
 時の王弟ヴォリス率いるツァーリ軍が、シルメナ、リーンを相次いで降伏させるのに、半年は要しなかった、そしてまた、最後の最後まで頑強に抵抗したシェノレスですら、最初の迎撃から神官府の降伏宣言まで凡そ七ヶ月である。同年、北方・ノーアはツァーリと攻守同盟を結び、ツァーリに歯向かう者はもはやないかと思われた。
 ところが翌年、建設中であったイェルタ湾の要塞が海賊の襲撃に見舞われる。
 この襲撃によって、後にカザル砦と名付けられたその要塞の完成は少なくとも半年遅れたと言われる。だがこれきりでは終わらず、むしろそれを皮切りにツァーリ南部の海辺にあった軍事拠点が次々と襲われたのである。
 当然ながら神官府は一切の関わりを否定した。だがそれは一面において真実ではあったのである。
 一連の襲撃の首謀者。それは、時の大神官の末子アレンであった。
 『風神アレン』『緋の風神』とも称され、神官の身でありながら武芸に優れ、《全面降伏》という神官府の決定に反発して神官府を離反、ある小島を拠点として志を同じくするものを糾合し、反ツァーリのゲリラ戦を展開したのである。
 確かにツァーリはこれに非常に手を焼いた。しかし、襲撃者達の正体の察しをつけた王弟ヴォリスは神官を大量に捕らえて処刑を仄めかしたため、ついにアレンは単身ツァーリに投降する。
 だが、決して仲間のことに関して口を割らず、さしものヴォリスもついには諦めざるを得なかったほどにその意志は硬かったという。
 ヴォリスはその知勇を惜しんで助命することを考えたとも言われるが、結局生き残りへの威嚇・牽制の意味で処刑されることが決まった。
 ─────時に、アレン24歳。
『覚えておけ。永続するものなどないのだ。シェノレスがツァーリによって踏みにじられたように、いつかツァーリもまた踏みにじられるだろう』
 凄絶な呪詛の言葉を吐き、アレンは処刑寸前にヴォリスの剣を奪い自決をはかった。だが結果としては死に切れずにかえってヴォリスの逆鱗に触れ、巨大な海蝕洞の一隅…そこに穿たれた岩牢へ幽閉された…と伝えられる。
 幽閉というよりは、生き埋めに近かったであろう。閉じ込められたその日から、一切食料、水は与えられない。勿論一筋の光も射さぬ岩の中に閉じ込められた────。

***

 細い通路はずっと続いている。
 単調な通路を黙々と進むのにも少し気詰まりだったから、ルイは思い切って訊いてみた。ここのところアンリーが神殿をよく抜け出してくる理由…思いあたるものはそう多くない。
「…アニエス様、だっけ?あんまり様子よくないのか?」
 アニエス、というのが宿下がりしている大神官家の娘の名前だったはずだ。
「…うん、そうらしい。聞いた話だと…身体のこともあるけど、置いてきた子供の事を気に病んで、それで気鬱がひどいらしいよ。まあ、心配なんだろうね。僕はよくわからないけど」
 アンリーの言葉はどこか他人事だった。…大神官家の娘というからにはアンリーともなんらかの繋がりはあるはずだが。
「叔母、に当たるのかな。だからナステューカに置いてきたというその子は、僕からすれば従兄弟ってことになるんだろうけど。流石に一度もあったことがないと…ね。ただまあ、そういうのって伝染するのかな。本殿にいると空気が重くて。
 一度、父上の見舞いに付き合わされた。確かに綺麗な女性ひとだけど…あまり、顔色は良くなかったな」
 ふっと、アンリーが小さく吐息する。
「…大変だな、おまえん家も」
 神官は相応の勉強と修練を積めば誰でもなれる。しかし、「大神官」は世襲だ。大神官にならなくても、大神官家の血を受けた者は例外なく神官となり、神官府に残る。それは、大神官家が特異な能力を持った者の裔と伝えられるからだという。
 ルイは、アンリーを見ているとまあそんなこともあるかも知れない、と思う。時々、自分たちには見えないものが見え、聞こえないものが聴こえているフシがあるからだ。だがいつもそれに怯えるでもなく、自然に受け容れて付き合っているようにみえるから、傍目には普段からひどく大人びて…ないしは浮世離れした雰囲気を纏う。
 だが、そんなアンリーでも重い空気に包まれた場所にいるのは苦しい。だから家を出る。そんなふうにひどくまっとう・・・・な反応を見ると、ルイはなにか安心するのだ。
「ま、何かしてやれるわけじゃないんなら、静かに寝かせといてやるのが病人の為ってもんさ。気にするなよ」
「ありがとう、ルイ」
 薄闇の中で、しかも自分が先に立って歩いているからアンリーの表情がみえたわけではないのだが、ルイにはアンリーが微かに笑ったように思えた。
 その時、不意にルイの顔を冷たい風が撫でた。思わず声にならない声を上げて、一歩後退する。
「…どうした?」
「下だ!」
 風が、下から吹いているのだ。
「まるきり迷宮だな。左右枝分かれだけじゃなくて、上下にまでつながってやがる。危ないとこだった、前ばっかり見てて…こんな処に穴があいてるなんて気が付かなかったよ。危うく落ちるとこだった」
「下りられそうか?」
「…さて、結構広そうだ…っていうより、こっちの道より広いんじゃないか。下りるよりないぜ。縦穴が広すぎてとてもじゃないが回り道できやしない。ちょい、待ってろ」
 ルイは小石を拾い、縦穴に放りこんだ。さして落下する間もなく、岩に当たる音が続く。この音からすると…。
「大丈夫、みたいだな」
 アンリーは頷いた。ルイはその濃い色の瞳を悪戯っぽく輝かせてアンリーに灯を託す。
「んじゃ、俺が先に下りてみるよ。照らしててくれ」
「分かった。気を付けて」
 かざした灯りに縦穴の輪郭がぼうっと浮かび上がった。
「…あ?」
 声をあげたのはルイだったが、二人ほぼ同時に気がついた。まるきりの縦穴ではない。かなり急ではあるし、造りも粗いが、はっきりときざはしが刻まれていた。
「そうか、ここは…」
 合点がいったように呟くアンリーに、ルイは驚いて振り向いた。
「知ってんのか?」
「この岬に、昔の神殿があると聞いたことがある」
「海神の神殿が、地下にあるのかよ?」
「海蝕洞の中らしい。もっともこの岬は海蝕洞だらけだから…まさかこの穴とつながっているとは思わなかった。僕達が入ってきたのは、脆い岩に用心した、抜け穴か何かだったんだろう」
「昔って…どれくらい昔なんだ?」
「ざっと五、六〇〇年ぐらい」
「それじゃ崩れもするよ!」
 下手をすると聖風王の御代より以前のシロモノではないか。ルイは苦々しげに言って頭を振った。
「完全な人工物ってわけじゃないし、年数はあまり関係ないと思う。まさか今になって崩れるとは思わなかったし…それに、興味があったんだ」
「アンリー、お前な」
 けろりとして言い放たれ、ルイは正直言って疲労を覚えた。常識の権化のような顔をしていながら、一番大切な辺りがごっそり抜け落ちていると感じるのは・・・何も今日に始まった事ではないが。
「…とにかく、降りてみよう」
 岩に刻まれた階段を注意深く降りる。
「…神殿に続いてんのかな」
「分からない。抜け穴の一つかも知れないけれど…」
 その時ざっと潮風が吹き、不意をつかれたルイは灯りを吹き消されてしまった。
「わ…しまった!」
 慌ててもう一度点けようとして、アンリーに引き止められる。暗闇の中で灯火が近くにあったものだからわからなかったが、前が仄明るい。
「…光?」
 出口は見えない。しかし、前方がぼんやりと明るかった。滑らないように気をつけながら、その明かりへ向かって進む。幾らも行かないうちに、もう一度潮風が吹いた。
「…あ…!」
 不意に、目の前が開ける。
「ここは…やはり繋がってたんだな」
 二人の眼前には、巨大な岩の絶壁があった…否、天井の崩れ落ちた巨大な海蝕洞と言うべきだろう。遙か上に空が見える。
─────海神窟。風の岬最大の海蝕洞…。
 その高さは大人の身長の20倍を軽く凌駕する。岬の突端へむけて開口し、その出口近くは天井が崩れて空が見える。奥に行けば行く程造りは複雑となり、潮が引いても水面下に没したままの部分も多く、正確な構造を把握しているものはいないとされる。
 薄暗く、静かな海蝕洞の中に、それは音もなく佇立していた。
「難破船だ!」
 竜骨がほとんど垂直になり、船首飾りを高々と天に向けている船。構造そのものは比較的保たれているようだが、波にもまれ、散々岩に打ちつけられて無惨なばかりの姿は、十日前彼らがここに来た時は確かになかった筈のものであった。
「一昨日の嵐だろう。調べてみようか」
「やらいでかっ!」
 そう言うのとほとんど同時に、ルイは急峻な岩場を滑り降りて勢いよく飛びこんでいた。
 今まで地の底を這いずり回っていただけに、海水の感覚は心地好い。沈むだけ沈みこんで、ルイは水を蹴った。
 水面に出ると、頭を振る。フジツボの密生した巨大な難破船の船腹沿いに甲板側にまわった。
「アンリー」
 ルイより後に飛び込んだ筈だが、アンリーはすでに綱を頼りに船室に入ろうとしていた。
「この船…ここらのものじゃない」
「…何だって?」
 アンリーにしては珍しく、すこし興奮したような声だったことに…ルイは少しだけ驚いていた。そのこともあって、綱から船室の入口に手をかけて覗き込みながら発したアンリーの言葉の意味を、ルイは取り損ねた。
「シェノレス、リーン、シルメナ…何処のものとも全然違うんだ…船の造りが!…こっちへきてくれ」
 ルイは言われるままに綱をつたってアンリーのいる船室の入口に登った。
「…あ、あれ?」
 装飾からして貴人の乗るものだったらしいが、それにしても見たことのないものばかり。
「アンリー、これ、何処の船だ?」
 いささか間の抜けた質問をルイが発したのも、無理のないことだった。しかし、アンリーも首を横に振るしかない。
「入ってみるか?」
 ルイは頷いた。元来わけのわからないものに出くわすと、畏怖より先に興味で居ても立ってもいられなくなるたちである。行かない訳がない。
 傾いた船室の床は腐って滑りやすく、脆くなっている。船室の入口に登るために使った帆綱をそのまま船室に引きこんで、ゆっくりと奥に進む。
 一歩ごとに、ひどく軋んだ。
「…壊れるかな?」
 ひどく現実感に富んだ、しかも不吉な予感をアンリーは気軽に呟いた。
「アンリーってば、何てこと言うんだよっっ!」
「壊れるかな、と思っただけだよ。何も本当に壊れるなんて言ってない」
「何もこんな時にそんなこと言わなくたってよさそうなもんだ。海の小妖精に聞きつけられたらどうすんのさ!?」
 アンリーは少し考えて、真顔で言った。
「…逃げ出すのが大変だ」
「あのな!」
 ルイの動作で、綱が軋んだ。…いや、綱ではない。それが結びつけてあった帆柱の根元が!
「…ほらみろっ、アンリーが変なこというから…!」
「ルイ、動くな…」
 アンリーの言葉は、間に合わなかった。軋んだ帆柱は根元ごと折れ、船室を直撃する。ルイとアンリーは船室の壁に叩きつけられた。
 ルイは一瞬、自分の息が停まるのを感じた。だがその直後、彼らが叩きつけられた壁が崩壊した。脆くなっていた木材が、帆柱が倒れた衝撃で連鎖的に崩壊していく。
 アンリーが咄嗟にルイを引き寄せて庇う。だが、船ひとつ分の木材から庇いきれる訳もなかった。