獅子帰還 Ⅳ

 ツァーリとノーアを隔てる大山脈ギルセンティア。それを縦断する街道上にあるカウールの関。ここでひとまず彼は足を止めた。情報収集をするためである。前もってリオライが放った部下からの情報が、使い鳥たちによって続々と集まってくるのだ。
 胸中におきを抱いているかのような感覚に灼かれながら、それでもリオライは待った。何もわからないままに王都ナステューカに飛び込んだところで、事態は好転し得ない。それをリオライは良く承知していた。
 何通目かの手紙を読み終えて、リオライはふと暖炉の炎に目を転じた。
 大体、現在の戦況はつかめた。およそ、二年前の予測の通りである。しかし肝心の、シェラから・・・・王都からの情報がまだだ。
 何よりもまずアリエルと連絡をとらねばならない。自分の生存を報せ、軽挙を制さねばならないというのに!
「…行くぞ、王都へ」
 しかし遂に、傍らの長剣を取って立ち上がる。部下達の間に改めて緊張が走った。
 彼の声は決して荒くはなかった。しかしその瞳の色彩は、風に揺れる藤の色ではない。
 気弱なものには正視し得ない、熾烈な紫水晶アメジストであった。

***

 一方、イェルタ湾岸、ツァーリ陣営。
 戦勝に酔って酔い潰れたていのツァーリ軍の中で、唯一早々と移動のための支度をする一隊があった。
 ―――衛兵隊第三隊。
「冗談じゃない、あんな連中と心中なんざ真っ平御免だ。急げよ、死にたくなけりゃな」
 そう隊士を叱咤するエルンストに、ディルが少しからかうように言った。
「いいんですか、総司令官殿にご注進しなくても」
「俺は警告したんだ。言ってきかなきゃ放っとけばいい」
「あ、やっぱり駄目でしたか。まあ無理もないけど」
 こらえかねたように、少し笑う。
「なんだディル、気味の悪い」
「いえ・・・・それにしたって便利ですね、隊長のカン・・は」
「これがいつも働くんならな・・・で、何なんだお前、やけに嬉しそうだな」
「いや、別に嬉しかないですけど・・・ただ、これから何かが大きく変わりそうだな、と思って」
「どう変わるかが問題だがな」
「いずれにしろ、我々のくびきが外れることくらい、期待したってばちは当たりませんよ」
「…軛…か。そうだなぁ…」
 エルンストはそう言って水平線の彼方を見やった。
 変わる。…そうだろう。もうすぐこの戦の決着はつく。少なくともあの王太子はそうするつもりだ。そのために彼はすべてを擲った。
 ・・・止められなかった。
『あとはあなたの判断で、あなたと仲間のために動いてください。
 私は私のやり方で、王太子としての職責を全うします』
 アリエルが王太子として宣した言葉には、衛兵隊第三隊に対して王族からの正式な命令としての効力が発生する。
 それは事態が最悪のシナリオへ転がった際、第三隊は軍を見限れということか。軍が秩序を失うほどの壊滅的打撃を受けてしまったら、隊長たるエルンストの独自判断で動けという指示に他ならなかった。
 エルンストは、捉えた不吉な予兆をあの王太子に伝えられなかった。
 かの王太子がツァーリの苦境を知ったのはリオライと行った綿密な調査の結果だ。だが、あの穏やかな微笑を思い出すにつけ、エルンストが捉えた予兆さえも承知した上で言ったのではないかとさえ思えてくる。
 冬の陽のごとき穏やかな微笑の下に、あれほど強靱な意志が潜んでいようとは・・・正直、思いもしなかった。リオライとの縁で剣を教えたりはしたが、自分があの王太子の表面しか見ていなかったことを初めて理解した。
 王太子アリエルの、おそらくは最後の命。だったら、エルンストは自分の力が及ぶ限りのことをするだけだ。
 不吉な朝焼けは折からの風が吹き払い、空は晴れ渡っている。エルンストは蒼天を仰いで嘆息した。
 一時はあの王太子が順当に登極し、リオライが宰相となるなら、この国はまだ生き延びるかも知れない。そんなことも思っていた。

 ―――――だが、それは既に叶わなくなった。

***

 そして、ナステューカ。
 ひとりの娘が、冷たい床に跪いてただひたすらに獅子の帰還の早いことを祈っていた。・・・・・身を切るような寒気さえも意識野に入らない程に。
 全てが、娘の手に届かない処で進行していた。自身の無力を呪いつつ、彼ならばこの現状を打開できると信じていた。
「どうか早く、兄様・・・・アリエルさまが・・・・・・!!」
 消え入りそうな声と一緒に、涙が零れ落ちた。
 この娘―――ミティア=ヴォリス。ヴォリス家の養女、リオライの妹である。

END AND BEGINNING