残照の日々 Ⅴ

 ─────エルセーニュ、神官府本殿の大神殿。
 神官府の東端に位置し、最初に朝日を受ける大伽藍である。
 その内陣で、大神官リシャールは神像を前にして瞑想を続けていた。高窓は無人の身廊に静謐な光を投げかけるが、内陣はいま薄闇に沈んでいる。
 遠くの喧噪。ややあって神官がひとり、あわてふためいて袖廊から駆け込んできた。内陣と身廊の境に立てられた燭台の炎が揺れる。
「…リシャール様…大神官リシャール様…今、本殿のほうに…」
 リシャールは眼を開いた。
「…構わない。お通ししなさい。私が話を伺おう」
「ですが、リシャール様、あの剣幕では…」
「構わないと言っただろう。退がっていなさい」
 神官は青くなりながらも、一礼して退がった。
 静寂の戻った神殿で、神像を振り仰いでリシャールは呟いた。
「ひょっとして…殺されるかな」
 その声音は、超然としていた。だが、どこか自嘲の翳りがあった。
 神殿中央の大扉が、音高く開け放たれる。
「…あんたがそう望むなら、そうしてやってもいいんだぞ」
 ルイの栗色の髪は汗で額にはりついていた。おそらく船を降りて一番に駆けつけたのだろう。息も荒い。だが何より、見る者を竦ませる強い眼光は怒りに染まっていた。神官達が萎縮したのも無理からぬ事であったろう。
 しかし、リシャールはいたって静かだった。
「どういうつもりだ。何を考えてる!?…リシャール、あんたレオンに…アンリーに何をしたんだ!!」
 身廊を内陣に向けて真っ直ぐに進むルイの左手は既に剣帯に掛かっており、その指はいまにも鍔を押し上げんばかりであった。
「…なにも」
「だったらこの状況に納得のいく説明をしろ。先代大神官リュドヴィックの崩御はいい。あの人はあの人でもう、やるべきことを成して大往生だったんだろうからな!……だが、何でアンリーまで死ぬ!?何でそこでレオンが消える!?…それと…この手紙は何のつもりだ!!」
 そのまま内陣にまで踏み込む勢いであったが、ルイは手前で足を止めた。その手の中にあった、神官府の封蝋を施された書簡を燭台の炎に近づけ、足下に叩きつける。
 数度にわたって握り潰され歪な灯心のように捩られた紙片は、燃えながら転がり、リシャールとルイの丁度中間点で止まると、最後の炎を上げながら燃え尽きた。
 それをリシャールは無感動に見遣った。
 顔を上げ、ルイをひたと見据える。その声は淡々としていた。
「アンリーは命数を使い果たし、命の火を消した。海神の御子はその役目を終えて海へ帰った。そのままだ」
「俺が訊いてるのは神官府の御託ゴタクじゃねえ!!」
 ルイの大音声だいおんじょうが広い伽藍に激しく反響した。
「…俺はアンリーのように思慮深くもなければ、レオンのように温順でもない。納得のいく説明を得られないとあれば、お前があいつらを殺したと見て、容赦なくお前を斬る」
 ルイがついに剣の鍔を押し上げた。
「…激しいな…さすがは、ラウールの血筋と言うべきか」
「リシャール!」
 リシャールの口許に浮かんだあえかな笑みに、ルイの中の何かが音立てて切れた。
 激しい音と共に、燭台の一つが鞘ごと剣帯から抜かれたルイの剣にはねとばされ、壁に叩きつけられた。燭台は砕け、炎も消える。焦げた匂いがひと筋の細い煙と共に流れた。
「…俺は、本気だ」
 剣を鞘から抜かなかったのはギリギリのところで自制したからだ。鍔を押し上げていた指は、寸前で剣帯の留め金を弾いていた。…仮にも大神殿である。
「…いいだろう」
 リシャールは、表情を消して再びまっすぐにルイを見た。
「…少なくとも、神官府はなにもしていない。全ては、アンリーが最後の最後で裏切ったために起こった」
「裏切りだと…」
「アンリーはその命数を使い果たして逝った。それは嘘ではない。…たまたま同じ頃、父リュドヴィックが危篤に陥っていたため、あれを看取ったのはソランジュ一人だった」
「……」
 リシャールは、傍らの手燭を取ると、内陣の最奥…更に奥の扉を指した。
「望み通り、すべてを話そう。どのみち、お前には話さねばならない。
 …こちらへ、ルイ」
「地下神殿へは、大神官の一族しか入れないはずだ」
 剣を帯に戻し、訝しむというより牽制するように、ルイが言った。リシャールが表情を変えぬままに応える。
「往古より、地下神殿へ入ることを許された一族が他にもいる」
 ルイは更に表情を険しくした。…だが、それ以上は何も言わず、指されたほうへ歩を進める。
 リシャールが扉を開くと、暗く、長い階段がずっと下へ降りていた。その先に光はない。リシャールが持つ手燭の頼りない灯だけが足下を照らしていた。
 術中に嵌められた気がして、一瞬だけ進むのを躊躇う。だが、リシャールの熱のない両眼が自分を見据えていた。臆したと思われるのは業腹。ルイはリシャールに続いてきざはしに足をかけた。

 真っ直ぐに降りるのはほんの短い間で、あとは太い柱をぐるぐると廻るように降りていく。どのくらい、下っただろうか。そのうち、その柱の中で音がしていることに気付いた。ゴトリ、ゴトリという重く連続的な音。そして水の音。
「神殿の風車だ。水源から引いた水を神殿まで汲み上げている」
 足を止めたルイに、リシャールは簡潔にそう言った。ルイとて神殿に風車があることは知っていたが、それがこれほど大がかりな仕組みに繋がっていたとは知らなかった。

 長い階段に窓は一切ないから、既に下降しているということ以外に自分が今どちらを向いているのか解らなくなっていた。

 背を屈めなければならないほど天井が低いわけでもないのに、ルイがそろそろ息苦しささえ感じ始めていた矢先、先に立っていたリシャールが立ち止まった。気がつくとそこはもう通路ではなく、前室と見える広い空間になっている。天井は本殿の側廊ほどの高さはあろうか。
 リシャールが行き止まりにある大扉を押し開けた。…月の光にも似た、蒼い光が流れこむ。
「……!」
 ルイは息を呑んだ。

 眼前に、海があった。

 海…海底。扉の向うは、海の底だった。だが、水は押し寄せてこない。数歩を進み、その身を翻してリシャールはおごそかに宣した。
「…入られよ。御身にはその資格がある」
 ルイは奥歯を噛み締め拳を固めることで、喉元まで出かかった何かを抑え込み…そのまま内部へ足を踏み入れた。
 そこは本殿に匹敵する大伽藍になっていた。その空間のむこうは、海の底だ。何か、透明な壁のようなもので海と大伽藍は仕切られていた。広大な空間は林立する装飾のかけらもない柱で支えられ、その天井は薄闇に呑まれて見えない。
「…昔…聖風王の御代よりも遥かな昔に建造された施設だ。すなわち、大陸暦以前の世界…」
「大陸暦…以前?」
「その時代…人は今よりもずっと少なかったが、人々に飢えはなく、争いもなかった。大きな力が、人々を統べていたからだ。
 しかし、ある時を境に世界は人々へ返却かえされた。世界は争いに満ちたが、それまで世界を守護した者達は、人々がそれによって前へ進むことをよみした。…それを棄てられたと思う者もいれば、慈しむがゆえの試練と考える者もいたが…後者をあかしする存在とされるのが、御使みつかいすえと呼ばれる者達。
 彼らは大陸に蒔かれ、人にじった。…ただ、見守るために。
 レオンは…まごうことなき水の御使みつかいすえだ。アンリーが…大神官の一族が、風の御使を祖に持つように…」
「…御使の、裔…?」
 あまりにも言葉は淡々としていて、ルイはその重大さを把握しかねた。聞いたこともない話というわけではない。古い、古いお伽噺だ。実在を信じる者がいるかどうか。だがそれがあることに結びついたとき、ルイの顔色が変わった。
「あんたらは…神官府は、それを知ってて、あえてレオンを海神の御子として祀り上げたのか!?」
「…そうだ」
 殴りかかろうと踏み込んだ一瞬、ルイはリシャールに気圧けおされて動作を止めた。そして、低く唸る。
「…リシャール…!!」
「大神官家だけが何故、唯一血統による神官であるか…お前は知っているだろう。『狂嵐』の後、この国に逢着し帰化したといわれる風の御使。その血を管理し残してゆくためだ。風の血統はそうして永くこの国と共に在った。そして160年前、風神と呼ばれたアレンに甦り…先頃アンリーの裡に目を覚ました。
 往古、聖風王に仕え…狂嵐を鎮めたといわれる風の御使は…風を呼び、操る力を持っていたという。しかしこの数代、大神官家に現れた風の血統にそこまでの力を行使した記録のある者はいない。ただ、端的に言ってしまえば…我々が必要としたのはそんなものではない。
 御使が持つ、歴史を動かしうる力・・・・・・・・・なのだ。
 人に雑じったとはいえ、かつて世界を統べた力の残滓なのかも知れないし…あるいは全くの幻想なのかも知れない。だが少なくとも父リュドヴィックはその可能性をアンリーに見た。そしてどんな巡り合わせだったのか知るよしもないが…水の御使の血を継ぐレオンがこの国に逢着した時、確信した」
 ルイは、再び息苦しさを感じた。凄まじい圧迫感。…リシャールが発しているというのか。あの、リシャールが。大神官の後継者という、お飾りだったリシャールが…?
「…力…ツァーリを、倒すための…」
「それが、シェノレスの悲願だったはずだ。違うか、ルイ=シェランシア・・・・・。御身はそう名乗った時から覚悟を決めたのだ。ラウールの後裔最後の一人たること…その名・・・を背負う覚悟とは、そういうことだろう」
やかましい!」
 ルイは怒鳴った。だがそれは、なかば息苦しさを振り払う為であった。

 ─────ルイ・ラウール=シェランシア。大侵攻に際し、シェノレス王族において最も激しくツァーリに抵抗した末に斬首された公子。シェノレスの王城が完膚なきまでに焼き砕かれたのはその威を徹底的に砕くためであったとも言われる。ルイ・ラウールの首級は灰燼に帰した王城あとに晒されたが、その妃――正確には妃ですらなかったひとりの娘が身重でありながら武器をとって風神アレンの砦に拠り、アレンが斃れた後はツァーリの追及を遁れて市井に紛れたという。
 娘は神官府とも距離を取り、ルイ・ラウールの血と誇りを伝えた。…そうして守り伝えられた結果が今、ここに在る。

「…認めるさ…確かにそれはシェノレスの悲願。継ぎたくもねェ名を継いだのは、俺なりの覚悟だ。だがな、リシャール。それはあくまでもツァーリとの戦に臨むための覚悟だ。王統がどうのって話じゃねえ!
 俺が気にくわないのは、おまえら神官府のやり口だよ。
 アンリーにしろ、レオンにしろ…お前たちは、あいつらを使い捨てたんだ。使って、使って、都合が悪くなったら捨てる。それが気に入らない。それと、今更黴の生えたような血統の話を持ち出して俺を操ろうとする根性がな!」
 ルイは、拳を固めた。
「…“海神の御子その務めを終えて海に還りき…その後を、シェノレスの旧き王統を以て継ぐべし”…だと…!?…レオンは自分の存在に疑問を感じはじめていた。それを知って、お前たちは慌ててレオンを王座から降ろしたんだ。違うか!」
「…レオンは自らの意志でシェノレスから姿を消した。…薄々わかっているのだろう?」
「…お前らが…お前らが殺したんだ!」
 叫びながら、既にルイは昂然と佇立するリシャールを正視できなかった。
「私たちはなにもしていない。アンリーが我々を裏切り、全てをレオンに明かした。…だから彼は姿を消したのだ。
 さて、我らの国王を王座から遂ったのは、誰だろうな?」
「裏切り…アンリーのしたことが裏切りというのか、お前らは!」
「アンリーは、何といって寄越してきた?…あれは、最後の手紙でお前になんと言った…?」
 ルイは、俯いたまま硬直した。
「…私も、もっと早く気がつくべきだった。あれの裡にそんな力が残っていたとはな。
 むごいものだった。お前がティーラへ発った後は特に。日に日に痩せ衰え…眼から光が失せていく。…そのアンリーが、死の手前で何を考えたのか、お前には理解っている。理解っているからこそ…」
「リシャール!」
 ついにルイが剣を抜いた。払った鞘が無機質な石組の床とぶつかって乾いた音を立て、その切っ先が唸りをあげて襲いかかっても、リシャールは動じない。
 硬い音がして、ルイの剣はリシャールの背後の柱に突き刺さった。アンリーの緋の髪とは似ても似つかない、金色の髪が数条すべり落ちる。
 耳朶を僅かに傷つけた剣には目もくれず、リシャールは真っ直ぐにルイを見据える。そして、揺るぎない口調で宣した。
「…誰かが継がねばならんのだ。そしてそれは、生き残ったものの役目。…私のように。そして、お前のようにな」
 その声音の中の、憐憫。それは明らかに、ルイに向けられていた。
 ルイの表情が、行き場のない憎悪と、苦悶に塗り潰される。ルイは知らず、片手を胸に当てていた。その下、上着サーコートの衣嚢におさめられているのは…さんざん開けることをためらった、アンリーの手紙。短い文章であった。惜別の辞。そして、謝罪。
 自分の行為の結果がどうなるか、アンリーはよく承知していた。神官府への裏切りであることも、ルイが置かれるであろう立場も。しかしそれらをおいてなお、アンリーはレオンに全てを語らねばならなかった。
 …アンリーが、アレンの生まれ変わりでも、リュドヴィックの憑代でもなく、アンリー自身としてその生を終焉おえるために。
 ルイは剣を引き抜くと唇を噛み締め、膝を折った。
 あの海神窟で、アレンの書き残した詩片を読み落涙したアンリー。人と、人ならざるものとの声を聴いてしまうがゆえに、アンリーは160年の歳月を経てなお息づくその想いを受け取ってしまったのだろう。アレンの想い、リュドヴィックの無念。そしてシェノレスの民の憤り。それら全てを背負い込んでしまった。
 アンリーが大神官家などに生を享けなければ、あるいはそこまで追い込まれることはなかったのかもしれない。だが周囲は、アンリーにそれを望んでいたのだ。
 それでも、アンリーは自身を人形ひとがたと為した。自らの意志を殺し、ただひたすら回復戦争の勝利に力を尽くした。そうすることで、自身のただひとつの望みを叶えることが出来ると信じたからだ。
 しかし、自らの望みが手に届くところまで来た時、アンリーにはもう、時間がなかった。

 暫時、敷石の冷たい床に膝をついたまま、ルイは肩を震わせていた。
 だが、ややあって割らんばかりに敷石に拳を押し当てると、うめくように言った。
「…あんたらの好きにするがいいさ。だが、覚えておくがいい。俺は何があっても、神官府に…大義のためと称して神の名を用い、人の心を踏みにじる輩に…気を許すことは絶対にない!」
 ゆっくりと、立ち上がる。その双眸の裡には、冷え切った光しかなかった。
 リシャールは穏やかに応えた。
「それが良かろう…」
「……っ!」
 ルイの双眸に一瞬だけ、激しい光が宿った。だが、それは本当に一瞬のことであった。何も言わずに剣を鞘におさめ、ルイは踵を返した。

 地上への階段へ足をかけるルイを見送らず、リシャールは透明な壁へ歩み寄った。
 海上に降りそそぐ陽光も、この深みではかろうじて海底のおぼろげなかたちが見えるほどの薄明かりでしかない。

 ――――――レオンはおそらく、自身が神の子などと毫も信じていなかったに違いない。

 それでも戦の陣頭に立ち、国王の冠を受けたのは…彼にとって大切な人々の想いを叶えるためだ。ひとつには、何も持たずシェノレスに漂着した彼が…この地で得た自身の居場所を守るためであったかもしれない。
 だがそれを、神官府も判っていて利用した。
 レオンが持つ力に気付いたリュドヴィックが、わずかでもレオンの身元に繋がりそうなものを敢えて処分させたことをリシャールは知っている。アンリーがそのことにかすかではあるが反撥を示していたことも。
 アンリーはおそらくレオンの出自に関わると思われる手がかりを手許に置いていたのだろう。あるいは、神官府に始末されることを危惧し、ネレイアとして活動していた頃の拠点の何処かに保存していたのかも。
 そうだとしたら、あの海蝕洞の一件のすぐ後から…アンリーはリュドヴィックの思惑をある程度察していたことになる。おなじ時、おなじ場所に居合わせながら、何という違いだろう。

 それでもアンリーがリュドヴィックの命に従ったのは…それが正しいことだと、制約されない海へ乗り出せる未来へ繋がるのだと信じたから。
 ただおそらく、アンリーはそれがレオンに居場所と共に重い枷を与えることまでは予測していなかった。

 だから、最期に出自に繋がるであろう手がかりをレオンに返した。

 レオンがそれを胸の奥に仕舞ってこの地に在ることを望むならそれも良し。だがもし南の海に可能性を求めるなら、アンリーは神官府がレオンに執着した本当の理由を話すことで、今度はレオンにかけられたシェノレスという軛を断ち切ろうとした…。

 ――――――しかし、レオンが結果として後者を択んだのは…おそらく。

 大伽藍の外壁に、一尾の魚が泳ぎ寄る。ひとしきりそこらを遊弋し、やがて沖へ泳ぎ去るのを、リシャールはひどく静かなまなざしで見送った。

***

 初冬の穏やかな陽光を照り返して、海は眩しいばかりの青さで広がっていた。
 ルイは岩の多い海岸沿いに歩いていた。紛争の決着した祝いで、港は大騒ぎだ。しかし、ここにはその華やかな喧噪はない。
 気がつくと、むこうの岩に、女が立っているのが見えた。ソランジュだ。
 女の周りには、かもめが群れていた。
 白く長い翼を羽撃かせる鴎の群れの中にあって、女は泣いているようにも、微笑んでいるようにも見える。鴎たちは何を彼女に囁くのか。
 海の上を風が渡る。
 ルイは立ちつくして、その光景を見ていた。
 ややあって、彼女を岩陰から見守っていたらしい影がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
「――――――クロエ」
 裾長の神官衣に脚衣といういつもの扮装いでたちだが、その足下は海辺ゆえか革鞋サンダルである。常は砂浜も岩角も、急峻な山野さえ頓着しない歩調が、今日はやや重かった。
「お帰り、ルイ。…あんたを待ってやるべきかとも思ったんだが…」
 そこまで言って、クロエは岩場に立つソランジュをわずかに振り返った。
「…今、アンリーを海に還してきた」
 ルイは思わず呼吸を呑んだ。両手を握りしめ、叫びにしてしまいそうだった何かを呑み下して波打ち際へ歩を進める。
 ルイの足下を波が洗った。
「クロエ…レオンは…レオンは何処へ行ったんだ?」
 ルイの問いに、クロエは暫く沈黙で応えた。だが、ややあって小さな嘆息ひとついて口を開く。
「――――知っているだろう?」
「莫迦な、南海航路はまだ未完成だって…っ…」
「だから行った。…それが、たったひとつのアンリーの望みだったから」
「…何をそんなに急いだんだ! もう、ツァーリの軛からは自由になった。ティーラの戦だって終わった。いつだって、航路開拓に乗り出せるのにっ…」
「…待てなかったんだよ、レオンは」
 クロエは静かにそう言い、神官衣の衣嚢から油紙の包みを取り出すと、ルイに手渡した。
 手に取った時の感触に思い当たるものがなく、不安に灼かれながら包みを開いたルイの顔が引き攣った。
 シェノレスの国王の地位を証する額飾りサークレット。それほど華美なものでないのは、レオンの即位に際して神官府が急遽こしらえたものだからだ。
「…海向こうにも大陸がある。その航路が見つかるまで、預かってくれと。ルイ、おまえの船で行く約束を忘れたわけじゃないが、もう…アンリーを待たせられないから…だそうだ。
 レオンが行った時、私もまだシャトー・サランで足止めくってたからね。ソランジュが伝言を受けた」
「あの…莫迦…そんなにすぐできることじゃ…」
「…〝幾ら急いだって、アンリーの命のあるうちにできることじゃない〟…?」
 クロエの補足はあまりにも精確で、ルイは思わず何度目かに呼吸を停めてしまった。
「もうこれ以上、アンリーを待たせられない。でも…レオンは信じていたよ。希望があるなら、アンリーはまだ待てる・・・・・とね」
 ルイは、ゆっくりとクロエを振り返った。
「…クロエの見解は?」
「待てないかも知れない。でも、待てるかも知れない。…奇跡なんて起こそうと思った者が起こすものさ。そんな例も、その逆も、私はいくつか見てきた。
 アンリーは秋まで保った。…だったら、次の春までだって保つかも知れない。事実、私たちの船が出てから帰るまでの一月ほどは…覚醒している時間が長くなっていたらしい。例の夢遊状態で海に降りている時以外にも、暫く姿を消したりするときもあったようだ。このときは、何事もなかったように牀へもどっていたらしいがな。
 今思えば、レオンに渡すための海図を準備していたんだ。
 時に、あるんだ。一時的に病者の体力が回復し、活動性が上がると、病勢も強くなる。だがそれに耐えうるだけの体力は、アンリーにはもう残っていなかった。結果論だがな」
 ルイは天を仰いだ。…信じ切れなかったのは、自分だけか。それだけではなく、アンリーの手紙を開くことにすら怯えて、逃げていた。
「…俺に…あがなすべはあるのか…?」
「贖い…?…ルイ、あんたは…自分が罪を犯したと思っているの?」
 訝しむようなクロエの問いに、ルイは幾分弱々しく応えた。
「少なくとも、俺には何も出来なかった。アンリーを信じてやることさえ。
 それは度し難い罪じゃないのか」
 クロエは大きく嘆息して、強くなってきた海風にあおられる髪を纏め直した。
「じゃあ、そこについては何も言わない。
 ルイ、希望はどんな時にだって残されているものだし、購えない罪はない。だったら、あんたがやるべきと思ったことに全力で立ち向かいなさい。
 レオンは預かってくれと言ったのよ。あんたのやるべきことは何?」

 ルイは、再び天を仰いで手の中の油紙の包みを握りしめた。

 大陸暦900年初頭─────
 シェノレス国王としてルイ=シュランシアが即位、ここに、シェノレス第二王朝が創始される。こうして王家と神官府というシェノレス本来の両輪体制が復活し、シェノレスは確実に国力を増幅させてゆくことになる。
 そして、後年。ノーアの南下に大陸諸国が震え上がる中、反ノーアの牙城として、シェノレスは大陸諸国のなかで重要な地位を占めることになる。