西方奇譚Ⅱ

西方奇譚

 サーティスと呼ばれたその少年が客間で待たされた時間は、そう長いものではなかった。
「お呼びだてして、申し訳ありませんでした」
 扉が開き、腰を覆うほどの艶やかな黒髪の、三十ばかりの女が姿を現した。
「イェンツォの“老”・サーティス様…初めてお目にかかりますわね。ツァンフェイの家内で、ユンファと申しますわ」
「…“老”がシェンロウであった時代には、不干渉を決め込んでおられたあなたがたが、いったいどういう風の吹き回しです?…私のような子供なら、御し易しと踏んだ訳ですか」
 その身体も、声も、いまだ少年の域を出てはいない。だが言うことは大人並みに容赦無く、可愛気が無かった。
「まあ、何でそのような…」
 サーティスはその鋭角的な若草色の眼光でユンファを突き刺した。ユンファの血のような唇が、一瞬だけ震える。
「たしかにツァンフェイは先の“老”・シェンロウ様には不干渉でしたが…それはあくまでツァンフェイのやり方ですわ」
「貴女は違う、とおっしゃりたいのですか」
「ツァンフェイが死んだのです」
 投げた石が起こす筈の波紋を看取できず、ユンファの表情が揺れる。だがそれを即座に打ち消した。
「ツァンフェイは死んだ…殺されました。今、全力を挙げて主人を殺した者を捜させていますが、いまだ杳としてその行方は知れません」
 そこまで言って言葉を切ると、ユンファは運んできた茶器に湯を注ぎ、真紅の爪紅つまくれないをほどこした手で少し強い香気を放つ茶を淹れた。
「…どうぞ」
 ユンファの暗い色の瞳は、ぎらついた光を放っていた。
「力を貸してください…私は何としてもツァンフェイの仇を取りたいのです」
「私に何をしろと…?」
 サーティスは茶碗を手にとって口に近づけ、まだ熱いと判断してか卓に戻した。
「…今度の一件…イェンツォ郷の者が雇った刺客のしたことに違いありません。ですが、貴方ならば誰がそんなものを雇ったのか分かる筈…おそらくは今も、雇った者の家に匿われているのに違いありませんわ。刺客は傷を負っています。今ならば容易く捕らえられるはずなのです!」
「……」
 サーティスは透き通っているくせに底の見えない瞳で三十がらみの未亡人を見た。そして静かに茶に口を付ける。
「ですが…どこにあなたがたに私が協力せねばならぬ理由がありますか?」
「ですから、こうしてお願いしているのです」
 サーティスの視線は冷たい。侮蔑、嫌悪…そこまではいかなくても、決して好感情たりえない何かを、ユンファは感じ取った。その金褐色の髪も、若草色の瞳も、優しい色調であるはずなのに何故か人をはねつけて近寄せない。万人に対してこうであるのか、それとも自分が自分であるからこうなのか。後者であるような気がして、ユンファは唇を噛んだ。
「無論…無償の協力を求めようとは思っていませんわ」
「物わかりが悪いヤツだな…」
 不意に、それまでの表面上の穏やかさを排した…低く唸るような悪態をついて、サーティスが席を蹴った。茶碗を床に叩きつける。
 若草色の瞳が、ユンファを射た。
「一服盛っておいて、何をする気だった?この私がお前なぞの手に負えるかどうか、よく考えてから行動を起こすがいい」
 ユンファの顔に血が昇った。
「今頃気がついても遅いわ…」
 ユンファは手元の呼び鈴を鳴らした。数人の使用人…というより、ツァンフェイの飼っていたやくざ者が手に手に武器を持って現れる。
「こういう趣向か…結局はツァンフェイと似たり寄ったりの人種だった訳だな。狙いは、“老”の“遺産”というわけか」
「何とでも。茶を最後まで飲まなかった貴方が悪いのよ。…そうすれば、こんな無粋な手段に出ることもなかったでしょうに。でも、あれの香りを嗅いだ後でどれだけがんばれるかしら?
 いっそ全部呷っておけば良かったと思うことになるでしょうね、きっと。…残念だわ、話によっては悪いようにはしなかったのに…」
 “老”の“遺産”。あるいは、単に“レガシィ”とも呼ばれる。正体すら明らかでなく、半ば伝説化したそれを、ツァンフェイはもう長い事狙っていた。ユンファが三十近く歳の違うツァンフェイと一緒になった理由もまた、そこにあったのである。
 長いこと“遺産”の管理者である“老”の名を持っていたシェンロウが死に、十五そこそこの少年がその名を継いだ。いよいよだ、と機会をてぐすねひいて待っていた矢先に、あの刺客である。ツァンフェイはユンファに大層な数の手下を残して死んだ。彼女としては笑いが止まらない。
 ユンファの長口舌を黙って聞いているサーティスの眼は、ひどく静かだった。ユンファはそれを諦観と取った。

***

 朦朧とした意識のなかで、優しいが、確かな強さを備えた腕が自分を支えてくれるのを感じていた。
『何ということを…自身のしたことが分かっているのか…』
『そこを退いてください、兄上!これも全てこの国のため。あなたには分からないのです!』
『分からないのはおまえだ、レリア!…頭を冷やせ、この方は…!』
『認めない…認められるものか!』
『レリア!』
 視界はとうに霞んでいる。そんな中で、その言い争いだけがガンガンと頭に響いた。
『マキ、早く手当てを…この場は私が引き受ける!』
 抱き上げられる、感触。自分を庇う声と、自分を殺そうとしている者の声。そして激しい物音とが錯綜し、それから後が聞き取れない。
『ライエン…!』
 そして鋭い・・・・だが悲痛な声。

***

「…ったく、大丈夫なのかね、あいつは」
 シェンロウの家の裏手にある山。その中腹にある岩穴の中に、エルンストはいた。
 指示された薬を飲み、岩壁に穿たれた穴に備蓄されていた保存食物を摂りながら命をつないでもう五日になる。貧血で余り動きが取れないということもあったが、言われた通りに素直にこの岩穴で時を過ごしている彼は、結構人を信じやすいたちであるのかも知れなかった。
 ツァンフェイの手の者も山狩りするほど暇ではないらしく、今のところ彼の身に危険が及んではいなかった。
 ただ心配なのは、『昼までに私が戻らなければ、裏手の山の岩穴で待て。決して、夜までここにいてはいけない』そう言い置いてツァンフェイの手の者に同行したサーティスである。自分の直感に多大な信頼を置いている彼は、サーティスの無事をそう疑っていなかった。だが、五日目ともなると、さすがに何かあったと思わざるを得なくなる。
「畜生、もう少し身体が動けばな」
 サーティスが「獣並み」と評したエルンストの回復力は、既に脇腹の傷を九分どおり塞いでいた。だが、彼の一生のうちでそう何度もない大失態の余波―極度の貧血―のおかげで、余り動けない。ここに隠れるだけでさえ、途中で何度座り込んだことか。
 それでも一昨日から、「一日動かないと三日分の鍛練が水泡に帰す」という些か強迫観念めいた信条に従い、動いて、それでも危険に身を晒さずに済む範囲を少しずつ歩いていた。
 そうして今日もその岩穴を奥へ奥へと進んでいた。迷わないように、左手を岩壁につけたまま離さず、少しずつ奥へ。
 もとより灯りなどある訳も無く、文字通り手探りである。しかし、もともと夜目は利く方だ。
「…もともとあったのに手を加えたっていうような代物じゃないな。誰かが、大きな岩をくり抜くようにして穿った穴だぜ、こりゃ」
 今までに見、そして触れた全てのものから推測して、エルンストはそう呟いた。だが、何処の誰が、どんな道具を使えばそんなことができるというのか。
「…っと!」
 そっと進めていた足を、慌てて引っ込める。顔を、下から撫でる風に気がついたからだった。
「…?」
 用心深く膝をつき、そっと手を伸ばす。案の定、二歩先にはもう道はなかった。思わず深く息を吐く。うっかり前へ進もうものなら地の底へ転がり落ちてそれっきりだ。
 その時、人の気配にエルンストは反射的に身構えた。
「エルンスト…?」
 いまだ少年の域を出ない声が、そう言った。
「“老”!?」
「そこに気がついたのか。大したものだ」
 手探りで火を点そうとしているのが聞こえた。心なしか、闇の向こうから聞こえてくる声は苦しげである。闇の中に炎が浮き上がり、壁に打ち込まれた燭台に移された。
「お…お前、その格好どうしたんだよ!?」
 エルンストの声がはねあがった。灯りに照らし出されたサーティスの姿は、凄惨を極めていたのである。
 朱に染まり、切り裂かれた衣服。数えきれない傷。金褐色の髪はどす黒い血で汚れきっていた。
「私の傷じゃない。ほとんどは返り血だ」
 サーティスはそう言って岩壁に凭れた。そうして深く息を吐くと、ふっと笑って言った。
「アースヴェルテのエルンスト?」
「エルンストでいい。いくら何でも長かろう」
「では…エルンスト。…天は…まだお前に生きよと命じているらしい。まだ死んではならないと、とんでもないものをつかわした」
「…何?…“老”、あんた何が言いたいんだ?」
「…いずれ…しばらくはここを出られない。とりあえずついてきてくれ」
 そう言うと先へ進んだ。
「わっ…おい待て、そこは…!」
 一瞬呆然とし、慌てて止めようとしたときには既にサーティスは先刻の落とし穴の位置まで進んでいた。
「…な…」
 サーティスは落ちてはいなかった。突如として、この暗闇に順応した眼には余りにも眩しすぎる光が溢れ出る。あの穴の中から…?
「こっちへ…大丈夫、落ちやしない」
「何なんだ!?」
「…“レガシィ”への通路さ。入口はここだけじゃないが。お前が仕事で葬ったツァンフェイが喉から手が出るほど欲しがっていた、太古の遺産レガシィ…。私はその何代目かの守護者…そして、初めての継承者・・・だ」
「“レガシィ”…継承者…」
 エルンストはにわかに頭痛に似たものに襲われた。頭痛ではない。あくまでもそれに似たもの…!
「『継承者サーティス…風の守護竜』」
 弱い雷に打たれたような感覚を覚えた一瞬。言葉は、口を突いて出てきた。
「…?」
 サーティスが訝しげに少し首を傾げた。エルンストがそれに気づき、少し頭を振って言葉をつぐ。
「悪い、なんでもない。…たまぁに、あるのさ。行こうじゃないか。もうこれ以上、何があったって驚かんぞ」
 そして、さっきまで穴だった場所へ足を踏み出した。よくよく聞いていると蜂の羽音のような低い音が続いており、光と岩壁の境目から温風が吹き出していた。
「…奇態けったいな通路だな」
 サーティスは笑って、胸元のペンダントに軽く手を触れた。
「…ここに来るべくして来たのかも知れないな、お前は」
「ん?…うわ」
 奇妙な感覚に、思わずエルンストはよろけた。しいて言えば、身体が宙に浮き上がるような感覚。サーティスのほうは平然としているが、これは慣れのためであるようだった。
「“老”…ええと」
「サーティスでいい。なんだ、先刻はちゃんと言ったくせに」
「あれはなぁ…まあいいや、サーティス。お前、本当にここの人間なのか?異界の者じゃないだろうな? …ってか、絶対見かけ通りの年齢じゃないだろう!?」
 サーティスは一瞬きょとんとし、その直後吹き出した。
「笑うなよ!」
「…済まない、つい…」
 こうしてみると、まだ少年だ。全く以て、訳がわからない。
 姿の見えない怪物が頭と肩の上に降り立ったような奇怪な感覚のあと、すうっと光は消えた。
 それと一緒に、サーティスが初めて見せた人間的な表情も、蝋燭の火が消えるように失せてしまった。