楽園の夢

 翌日。
「わーっ、愁ー♪」
 サーティスとマキが寄留していた房に愁柳が訪れると、その姿を見るなり、マキは勢いよく抱きついた。愁柳も笑って受けとめ、高く抱き上げる。
「大きくなりましたね」
「あのね、マキ、愁に貰った短剣の柄の長さくらい背が伸びたんだよ!」
「それはすごい」
 愁柳と、それにじゃれつくマキを見比べ、サーティスは典雅な文様を切り込まれた硝子の茶碗を茶托に戻しながら溜め息混じりに言った。
「…親子そのものだな、まったく」
 愁柳もマキも、漆黒といっていい見事な黒髪だ。瞳の色も愁柳のほうが少し深い程度である。顔立ちはさして似ているという訳ではないが、親子だといっても、まず誰も疑うまい。
「あのね、サティはお葬式と戴冠式に出るんだって。愁もなの?」
 マキの言葉に、愁柳は驚いた顔をしてサーティスを振り返った。
「いえ、私は留守番で。…って、サーティス、あなた大丈夫なんですか?」
「問題は無い。レアン・サーティスとしてではなく、伯父上の“風見”の身代わりだからな」
「“風見”…」
「それを引き受けてからだ。妙なことが起こりだしたのは」
「妙なこと…ね。やはり、即位式に絡むことでしょうか。起こるとすれば、月並みな線でレーダ公の暗殺だと思っていましたが…まさか幽鬼絡みとは」
 サーティスですらあえて口にしなかったことを、愁柳はさらりと言ってのけた。
「…あわてふためく重臣共をとりまとめるものはいない。大騒ぎだ。そこを、シードル卿がとりまとめ・・・・・、急遽即位する幼子の摂政位につく。…頃合を見計らって、譲位させる…か」
 頬杖のままそう呟き、サーティスが憂鬱げに額へ手を当てる。
「第三隊が噛むとしたら、とりまとめ・・・・・の圧力にするためでしょうね。たしかに暗殺向きの人材がいないところじゃありませんが、いくら何でもそこまで露骨に手を出すとは思えません」
「…誰が、手を下す?」
「…おそらくは、内部。それも、思いも寄らないほどに近く。余程の自信ですからね、こんな仕掛けでくるなどと」
「頼みの綱は、セレス、か」
 ツァーリと接触するシルメナの人間を調査していくしかあるまい。それはセレスにとってもあまり心愉しいことではないであろうが…。
「…で。連絡待ちのほうはさて置くとして」
 不意に軽くなった語気に、思わずぎょっとして愁柳を見た。
「心当たりはあると見ましたがね」
「…いやな奴」
「際限なくつきまとわれてもいいんですか?」
「…本当に、妙なもの・・だったらどうする気だ?」
「構いません。慣れてますから」
 至極あっさりと言われてかくりとサーティスの頬杖がはずれた。
「…なんだって?」
「慣れてますから」
「……愁柳」
「ああ、信じてませんね。…まあ、あなたのような現実主義者には信じがたいかも知れませんけど、私は小さい頃から割と異界と縁がありましてね。もっとも最近はそうでもないんですが。身内が他界する度に枕許に立つんですから、いい加減慣れますよ」
「そういう程度で事が済めば良いがな。俺の読みが当たっていたら、相手にするのは160年前の怨霊だぞ?」
「それ、脅かしてるつもりですか?」
「どうしてそう思う?」
「あなたが本気で『怨霊』なんて信じてるとは思えませんから」
「…とことんいやな奴だな」
 憮然として、頬杖を突きなおす。
「そう褒められると、困ってしまいますね、どうも」
 人間は歳をくうごとにしたたかになっていくものだが、ほんの数年でここまでしたたかになれる者はそう多くないだろう。それとも、これがもとなのか。
「…愁柳の言う通り、私は怨霊なぞ信じん。だが、ここ数日妙なものが私の周りに現れるのも事実。それも、160年前の死者の姿を装ってな。その真意をはっきりさせてやらないことには…気分が悪い!」
「『160年前の事情』を知っている者が、やはりそれを知っているあなたへ何事かを仕掛けようとしている…と?」
「あるいは、私に何かをさせようとしているか…だ」
「…その、『160年前の事情』からお聞きしたいですね。ああして禁帯出の歴史書まで引っ張り出してくるほどだ。おそらくあなたは、今一般に語られている歴史と事実に、隔たりがあると見ているのでしょう?」
 机の上に積み上げられている書籍に軽く視線をなげてから、愁柳がさらりとそう言ってのける。それをかるく睨んでから、ふうっと溜め息をついた。
「…笑うなよ?」

***

「…なぜ、女王リュシアートが死ぬ? 王統の存続を認めた王弟ヴォリスを殺して、シルメナに何の利益がある?」
 シルメナ側の歴史書に一通り目を通したサーティスがぶつかった疑問は、それだった。
 女王リュシアートがシルメナ王に嫁ぐことが、シルメナ王統存続の為の条件だった。せっかく停戦に持ちこみながら、なぜそれをふいにするような挙に出たのか?また、王弟ヴォリスが死ねばその停戦条約が破棄されかねないのに、なぜリュシアートがそんな遺言をするのか?
 仮にも「アリエル」の名を許されるような女王が、なぜそんな愚かな真似をしたのか。そこが解せなかった。
「名君で聞こえた女王リュシアートも女、という筋書きを期待する人が多いようですけどね、…特に吟遊詩人はそういう解釈をしたがるようですよ?」
「女王リュシアートがただの勝ち気な女なら、今頃この国は草も生えん砂漠に帰しているさ」
 リュシアートがソラリスを愛していたことは事実だろう。だが、それ以前にリュシアートは“女王”だった。おそらく、シルメナの民のため、本気で人身御供になるつもりだったのだろう。リュシアートは女王として、この国を生き残らせるために自らが女であることを最大限に利用したのだ。
「分からんのはそこから先さ」
 リュシアートは自ら出した条件をぶち壊すような挙に出て息絶えた。その上、ソラリスにヴォリスを暗殺させている。なのにどうしてこの国は生き残っているのか。
「…何か別の要素が絡んだ…と?」
「そのためにもツァーリ側の事情が知りたい。だが、ツァーリ側の事情といっても、その頃の文書なぞ、あるとしても王室の記録所か、ヴォリスの血筋の家にしかない」
 愁柳は暫時視線を窓の外に投げていたが、やおら向き直って言った。
「それでは、ヴォリスの血筋・・・・・・・の家でも調べてみましょうか」
「そんな簡単に…!」
「幸いにして『ヴォリスの血筋』に当たる人物に一人ばかり心当たりがありますから。うまい具合に今、はツァーリへ出向いていますしね。頼めば、見せてくれないこともないでしょう。
 心配しなくたって、私が行きますよ。ナステューカのユーディナ文書館は、前から一度入ってみたかったんです。いろいろ面白そうな資料もありそうでね。
 異存はないでしょう?」
「…ない」
 ギルセンティアの麓で出会った、瞳に紫水晶の強い光を湛えた少年をふっと思い出す。憮然としつつ、そう言うしかなかった。

***

 一方、セレスの捜査は難航していた。ツァーリの陣からそれらしい動きを見出せないのである。シードル卿の身辺にも、誰かが近づく様子はない。近づくと言えば、妓楼の女が呼ばれてくるぐらいである。
 葬儀と即位式は刻々と迫る。焦りはあったが、一応の報告はせねばならない。気が重かったが、行かない訳にもいかなかった。
 その為に王城に上がった時のことである。ルアセックが来るのをやわらかな陽の射す中庭で待っていると、ふと人の気配がした。
 アイビーを這わせた石柱のかげから出てきたのは、背を覆う程の色の淡い髪の、二十歳はたち前とみえる娘であった。
 瞳は淡い碧であった。少しマーキュリアに似ている、と思ったが、それはすなわち自分に似ているということだった。しかし、その娘の持つ雰囲気は彼女のそれと全く異質のものだった。
────今にも消えそうな、儚さ。
 年頃に比してやや所作もあどけない。彼女の身なりからするとやや造りの雑な護符アミュレットと思しき首飾りを手にしている。
「ルーセ…ではないの?」
 目が見えないらしい。不安がらせる理由もないから、おどかさないようにやわらかな口調で言った。
「殿下はもうじきここにいらっしゃいます。私は殿下の命にて動いている者で、エリュシオーネのケレス・カーラと申します」
「エリュシオーネ?」
 娘が見えない目を見開いたとき、後ろのほうで新たな人の気配がした。
「ラミーカ…? ああ、待たせたな、セレス」
「陛下」
「ルーセ!」
 声だけで、その娘はまっすぐにルアセックのところまで駆けていった。
「マーシァが捜していたぞ。だめだろう、こんな陽の強いときに外へ出て…早く中に入るんだ」
 宥める声が、ひどく優しい。娘は彼に何かを言ったらしかったが、それはセレスには聞こえなかった。しかし間もなくその後ろから侍女か乳母と思しき中年の女性が来て、娘を中へ連れて入る。
 セレスの報告を受けるルアセックの手には、先程の護符アミュレットがあった。娘が手渡したのであろう。
 ルアセックはセレスの労をねぎらったうえで、探索の続行を指示した。
「既に存外近くに手を伸ばしてきているのかも知れぬ。神殿、城中共、お前の指示には従うよう命を下してあるから、必要なものがあれば何なりと言え。
 私とて即位前に寝首をかかれるのは御免だからな。協力は惜しまぬ。頼むぞ」
「勿体ない仰せです。…時に、今の姫君は…?」
 一瞬、出過ぎたことを訊いたか、と思ったが、問われたルアセックの口許には僅かに笑みのようなものが閃いた。
「…ラエーナ・カティス。腹違いになるが、私の妹だ。今度、私の代の“風見”になる」
「そうですか、あの方が…」
 セレスも名前だけは知っていた。会ったのは今日が初めてであったが。
「あの通り、生まれつき目が見えなくてな。庶出とはいえ歴とした王女だし、それなりの家に嫁がせることも考えたが…。あまり身体が丈夫でないこともあって思いきって“風見”として立てることにした。
 …実を言えば、手放したくなかったんだがな」
 セレスの見間違いでなければ、ルアセックが浮かべたそれは紛れもない照れ笑いであった。
 しゃらりと、ルアセックの手の中で護符が小さな音を立てる。兄のために作った護符なのだろう。造りが荒いのは、誰か近侍の者にでも習いながら見えぬ目で探りつつ懸命に造った物だからに相違ない。
 片膝ついた控えの姿勢のまま俯いて何も言わないセレスへ、ルアセックが笑って問うた。
「…どうだ、セレス。お前から見て…こういうかたちで将来を縛るのは我儘と映るか。構わぬ、忌憚のないところを言うてみよ」
 暫時、間があった。だがそう促され頭を上げたセレスの言葉は、確固としていた。
「…エリュシオーネでは、女の身であろうと剣を取るか、紡錘つむ 1 を取るかは自分の身の程を知った上で…自分で決めよと教えられます。
 僭越を承知で申し上げるなら…聖風王の裔たる御方には、お立場というものがおありでしょう。畏れながら妹君とて、それはよくご存じなのでは」
「さすがに、きついな…」
 ルアセックが苦笑する。
「成程…剣か、紡錘つむか…とは、言い得て妙だ。そうしてお前は剣を取ったという訳だな。さすがはエリュシオーネ、というところか…いや、時間をとって悪かったな。下がって良い。探索の件、引き続き頼む」
「承知いたしました。それでは、これにて」
「…セレス」
 辞去しようと立ち上がりかけていたセレスは、ルアセックが喉奥で笑いながら口にした言葉に不意に均衡バランスを崩しそうになった。
「お前を愛し、お前が愛した男は、大陸一の幸せ者だな」

***

「セレス、どうしたんでしょうね。ずっと戻ってきてないですよ。…何か用でも頼んだんですか?」
 ディルが何気なく発した言葉に、エルンストは正直心臓が飛び上がる思いをした。
「…あ、ああ、そうなんだ。ナステューカに置いてきたやつらのことでちょいとな。…だが、一人で行かせるんじゃなかったかも知れん。最近シルメナとの国境辺りはギルセンティアから山賊が降りてきてるっていうし…」
「やだなあ、どうしたっていうんです、隊長。らしくない心配しちゃって」
「らしくない?」
「そうですよ」
 ディルが笑いながら言った。
「今まで、セレス一人で行かせて何かあったことありました?俺が危ないんじゃないかと思うようなところでも、結構平気で行かせたりしてたくせに」
「…そうだったかなあ…」
「そうですよ」
 何を不安がっているのかエルンスト自身見当がつかなかった。ただ、ひどく困難なことを頼んでしまったセレスのことが気に掛かった。セレスならば何とかしてくれると思ったのは確かだが、彼女を窮地に陥れてしまったのではないか、と考えもしたのだ。いくら父母の故郷とはいえ、最悪、かえって二重間諜ダブルスパイ扱いされる可能性だってあるではないか。
 だが結局、今は考えてもどうにもならぬという結論に落ち着いたのである。とりあえず、葬儀と即位式の日になれば分かることなのだ。
 今のエルンストにできることといったらただ、何も起こらぬよう祈ることしかなかった。セレスが首尾良く暗殺者を喰い止めることが出来れば、戴冠式は恙無つつがなく終わる。そうすれば第三隊も薄汚い陰謀クーデターの片棒など担がなくても済むのだ。

***

 暮れかけた樹園を、サーティスは独りやや視線を上に向けて歩いていた。
 ここはオアシスではあるが、陽が落ちるとかなり気温が下がる。忍び寄る闇と寒気を見透かして、サーティスはふと足を止めた。
「マキ…どうしたんだ?」
 暖色から寒色へ、地平から天空へ向けて緩やかな色の推移を見せる空を背景に、小さな影が樹上にあった。
 マキは幹に背を凭せ掛けたまま、余り長くもない前髪を弄っていたが、ふと呟くように言った。
「ねえ、サティ…」
「…?」
「…すごく…綺麗だったね、あのお姉さんの髪…いくら陽に透かしても、黒くて…綺麗に光ってて…」
 ひどく情けなさそうな顔をしていた。この子らしくもなく、少し塞ぎ込んだふうで…。
 今日の午後、マキをセレスに引き合わせたときのことを思い出す。
 この子らしくもなく、挨拶をしただけでサーティスの後ろに隠れてしまったのを、セレスは少し気にしていたようだった────
「…降りておいで、マキ。もうすぐ寒くなる。昼間と同じ格好じゃ、風邪をひくぞ」
 薄明るかった西の空も夜の色に染まる。
 マキが枝から飛び降りた。まるで舞い降りたかのような軽さで、サーティスの腕に受け止められる。
「サティ…マキも、大きくなったらあのお姉さんみたくなれるかなぁ」
 地上に降ろしてもらいながら、マキはサーティスをまっすぐに見上げた。
「ねえ、なれるかなぁ」
「…なるさ」
 サーティスは、微笑った。
「セレス…彼女はな、今でこそあれほど大人しげな風だが、とんでもないおてんばだったんだ。今のマキとどっこいぐらいにな」
「マキ、おてんばじゃないよっ!」
「わかったわかった…。帰ろう、もうそろそろ冷えこむぞ」
 元気が回復したところで、そう促す。天空が碧から群青へかわり、白い月が浮き上がって樹園を照らしはじめていた。
「わーっ!息が白いよ!?」
 激しい気温差の、厳しさよりも物珍しさを楽しんでしまう辺りがこの子のこの子たる所以かも知れない。サーティスは笑って自分の外套のなかにマキをいれてやりながら、ふと前方を見た。
「…?」
 誰か、いる。
「サティ…?」
 サーティスが不意に足を止めたので、マキは何だろうというようにサーティスを見上げ、次に前方を見た。
 淡い水色の長衣。肩にかかる金褐色の髪。
 知らず、マキの肩に掛けた手に力が入った。背筋を冷汗が伝い落ちる。
 闇の中から、その姿はいよいよはっきりと浮かび上がってきた。
 若草色の瞳。深い、深い愁いを秘めた…。
 ──────サーティス…
 マキが驚いたようにサーティスを見上げた。
 ──────…もういいの…帰ってきて…
 身体が、動かない。
 ──────もう…全ては終わっている…もうこれ以上血を流さないで…サーティス…!
 涙ながらの懇請であった。若草の双眸からは、涙が溢れている。サーティスにはそれが血の色であるようにさえ見えた。
 底知れぬ哀しみ。憐憫。そして愛しさ。それらが、サーティスを縛って動かさなかった。この女性を、彼は知らない。だが、知っている…。
「違う…俺は、貴女を知らない…!」
 それだけを絞り出すのがやっとだった。
 ──────サーティス…
 サーティスは、思わず耳を塞いでいた。

***

「セレス様、いくら何でもそれは…」
 セレスはリダスとレクシスの前で、自分の考えを披歴した。かえってきた反応は、かくの如しである。
「穿ち過ぎといわれても、反論はできない、確かに。だが、他の可能性を排除していくと、残るのはこれだけだ」
 セレスは冷静にこれまでの調査から得たことと総合して、諄々と説いた。
「…ありそうかどうか、というより、できるかどうか、という話だ。連中が考えているのが式典の最中で殿下を害することであれば、どれだけありそうになくても、これほど確実性の高い手段は他にない」
「それはそうですが…では、殿下には」
「…殿下に納得して頂くには、まだ証拠が弱い。だがもう、これ以上待てないだろう」
「…そう仰られても…」
「明日の晩からは殿下も潔斎に入られる。何としても今夜中に証拠を抑えねばなるまい…。私が付く。だから、二人は殿下の御身を護りまいらせよ。…もしも、ということがある」
「…セレス様に、ですか…」
「そうだ」
「そこまでの力があると、思っておいでですか?」
「…思い込みの力というものは、恐ろしいものだ。童女をして、刃の前に飛びこませることもある」
 そう言って、前髪をかきあげた。右眼の上を両断する傷を、二人は初めてはっきりと見、息を呑んだ。
「私がいかに修練を積んでいたとて、そういう手合いの想いには勝てないこともある。…万が一のときは、二人で取り押さえよ」
「…は、はい…」
「以上だ。すぐに行動に移る」
 そう言って、立ち上がった。リダスとレクシスも一瞬遅れて立ち上がる。
「…どうした?」
 二人の視線に気づいて、セレスは立ち止まった。
「…エリュシオーネの血筋とは伺っておりましたが…噂にたがいませんね」
 セレスは一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐにそれを微笑に換えた。
「…正直に言って、いまだにこの国でエリュシオーネの名が通じるとは思わなかった」
「…王室の血を引き、王室と神殿の守護者たるエリュシオーネ。アスレイア様をお護りするために一族でツァーリに赴かれた後も、神殿において最強の武人であり、『影』の総帥であられたケフェウス・エリュシオーネ様の御名は、いまだ我らの間では生きております。…一時とは言え、貴女の下に仕えることができたことを、私達は誇りに思います」
「…有り難う。だが、そういう言葉は無事に任務を終えてから聞きたかった」
 二人は赤面したが、セレスは優美に笑った。だがやがてその笑みを消した時、彼女は戦士の貌に戻っていた。
「…行動に移る」

***

 ─────サーティス…もういいの、帰ってきて…!
 起きあがろうにも身体が思うように動かず、声は喘ぎにしかならなかった。
 汗びっしょりになって、目を覚ます。身体は、動いた。
 しばらく肩で息をしていたが、汗が冷えて寒気を催してきたため、寝台を降りて服を替えた。
「…いい加減に、して欲しいな」
 水色の長衣の女はともかくとして、夢では太刀打ちできぬ。夜ごと強くなる夢に、眠るのが嫌になってきていた。
『帰ってこい…だと?…ソラリス・ディレン・サーティスは、もう黄泉に旅立っているだろうが!160年も後の人間を巻きこむな!』
 たしかに自分はサーティスだ。だが、自分はレアン・サーティスであって、ソラリス・ディレンではない。女王リュシアートから召喚を受ける謂れはなかった。
 一体、160年前、この神殿で何があったというのだ。そして誰がそれを知り、伝え、今自分に何をさせようとしているのか。シルメナで知れることはすべて調べ尽くした。後は、愁柳の調べを待つしかなかった。
 葬儀と即位式まで、あと三日。愁柳は、まだ戻らない。

***

 月夜であった。
 ラミーカこと、ラエーナ・カティスは庭園の中をゆっくりと歩いていた。目の見えない彼女には、夜も昼もない。かえって夜のほうが余計な雑音もなくて、周りが掴みやすいほどであった。
 この庭園をわたれば、ルアセックのいる宮だった。マーシァに断りなく出てきてしまったから、ひょっとしてまた心配しているかも知れない。だが、そんなことはどうでもいいことではあった。
「…ルーセ?」
 そこにいるなら、左から三番目の窓のところで、さばき残した書類の整理をしている筈だ。聞こえる、書類の擦れる音。灯火の芯の焦げる匂い。
「…ラミーカ? どうした」
 テラスに出た。こっちにくる。先日渡した護符に通した鈴。ああ、やはり着けていてくれた。
「ルーセ、ここ」
 ここにきて。もっと近くに。近く…この頼りのない腕でも届くくらい、近くに…。
「ラミーカ、昼間は倒れたと聞いているぞ。こんなところで一体何をしているんだ?」
「何も…」
 さし伸ばした腕が、触れる。触れた身体に、ラミーカは縋った。
「…ルーセ…「風見」になったら、結婚はできないのよね」
 決断力に富んだ兄の、わずかな間の逡巡を聴き取る。そして、優しい手が髪を、頬を撫でるのを感じた。
「…ラミーカの身体では、子供は産めない。産もうとすれば、お前の命が危ないだろうというのが典薬寮の薬師連中の診断みたてだ。嫁げば、子を産まない訳には行かない。それならば、王女として「風見」の役割を担うほうが…いや、済まぬ。これは元老どもの言い分だな。
 どうした、ラミーカ。お前に誰ぞ嫁ぎたいと思う男がいるなら、今からでも風見の件はなかったことにしても良いのだ。お前の望みとあらば何としても叶えてやるぞ。お前のためなら元老どもと事を構えるくらい…」
「ルーセ…」
 ルアセックの言葉を遮るように、ラミーカは言った。

「…ルーセ…ラミーカは、ルーセの子が産みたい。そのためなら、風神に命を召し上げられても構わない」

「ラミー…!」
 ルアセックの目が、見開かれる。それと同時に、鞘が払われる音がした。
「殿下!」
 セレスの声が空を裂き、鋭角的な音と共に短剣がラミーカの手許から弾かれて木の幹に刺さった。ラミーカが掠れた小さな悲鳴を上げる。
 そして、その場に倒れ…微かに痙攣して動かなくなる。
 姿を現したセレスが、ルアセックの足下で控えた。
「申しわけありません、殿下。まさか、もうひとつ・・・・・持っておいでとは…」
「…よい、セレス。あの二人を今夜に限って私の警護に回したのは、…この所為か」
「御意」
 セレスが一礼して立ちあがると、革手袋をはめた手で木の幹に突き刺さった短剣を引き抜いて、その刀身に顔を近づけた。その芳香から刀身に塗られたものに気がつき、セレスは目を伏せ、唇を噛み締める。少量でも即効性がある…やはり先程、セレスがラミーカの居室から見つけたのと同一の毒であった。
 セレスが倒れたラミーカの腕を取ると、ゆったりとした衣服の間から短剣の鞘が滑り落ちた。鞘の中からも同様の芳香を放つ液体が零れている。手に、僅かだが切り傷があった。短剣をはじかれたはずみに、切っ先で傷つけたのであろう。
 立ち尽くすルアセックの声は、ひどく枯れていた。
「…これほどまでに、追い詰めていたとはな…」
 地に伏した妹姫の傍に膝をつきかけたルアセックを、セレスの冷静な声が制する。
「御心の裡はお察しいたしますが、お手を触れられませんよう」
 ルアセックが動きを止めた。その襟元で、先日ラミーカに渡された護符が微かな音を立てる。

「…セレス、私はただ…ラミーカに心穏やかに生きていける場所を与えてやりたいと思ったのだ。一体、何処で間違えたのだろうな…」
 胸元の護符に手を触れながら立ちあがり、天を仰ぐ。

 セレスに返せる答えはなかった。おそらくは、問うた方もそれを求めていた訳ではないことを察していたから、セレスは沈黙を守る。オアシスの連合国家としての性格上、古来よりシルメナ王家は各部族の長である元老達と連携を図るために婚姻を有効に使ってきた。王女として、王家の一翼を担わせるのなら、ラミーカにもその道が示されたことだろう。
『実を言えば、手放したくなかったんだがな』
 盲目で、身体の弱い王女。…確かに、王女としての彼女を望むものは少なくあるまい。しかし、彼女自身を愛したのは、ルアセックただ一人ではなかったか。ただ、注がれる想いが彼女の望んだものと違っただけで。
『…ルーセ…ラミーカは、ルーセの子が産みたい』
 あらゆる範を越えた、彼女の真なる言葉であっただろう。
 ルアセックには、すでに妻子がある。そして、ルアセックと彼女は腹違いとはいえ兄妹。…成就しよう筈もない。
 叶わぬものならば、いっそ。そういう破滅的な成就を最初に望んだのは、彼女なのか。それとも、シードル卿の意を受けて占術師として彼女のもとに入りこみ、毒を準備しそそのかした女なのか。
「…セレス」
「…は」
「マルセアを…この子の乳母を呼んできてくれ。あれマルセアだけで良い。…それと、すまないが…お前に頼みがある」

 ルアセックの言葉に、一瞬セレスは息を停めた。だが、数瞬の間をおいて、それを受諾した。

  1. 紡錘…つむ、糸紡ぎの道具。糸紡ぎの名手はそれで自活できることからspinsterで未婚女性を指すとか。しかしこの場合は女として家を守るといった意味合い。