楽園の夢

上弦の月

 先王シール・リュクレスの葬儀と、ルアセック・アリエルⅤ世の即位式は、滞りなく終わった。即位式で起こるはずの惨劇は起こらず、ツァーリの目算も自動的に潰れた。
「…大団円を見逃しましたね」
 祭儀場を退出した、というより抜け出したサーティスの前にひょっこり姿を表したのは、いうまでもなく竜禅の薬師に身をやつしたノーア佐軍卿であった。
「…どこが大団円だ。何が大団円だ。まったく、ルーセはともかくセレスまで人を聾桟敷つんぼさじきにおきっぱなしにして・・・!」
「私の所為じゃありませんよ。人がせっかくツァーリくんだりまで行って埃と格闘してきたっていうのに、喜ばせ甲斐のない人ですね」
「…ついでにいうと、大団円でもなんでも無い。やはり死人なしに事がおさまらなかった」
「式は滞りなく行われたようですが」
「やっぱり式だけは見てたな。…身代わりが立ったからさ」
「…最初から話を聞きたいですね」
「聾桟敷にいた者としては、詳しくは知らん。分かっているのは、“風見”になるはずのルーセの妹が、人にいえない理由で死に、急遽セレスが身代わりになって式を済ませたということだ」
「…十分詳しいじゃないですか」
「…ラエーナ・『カティス』…。妾腹らしいが、ルーセは可愛がっていたようだ。…どうも、とんでもないことになったらしいな」
「『カティス』…ですか」
 『カティス』。『サーティス」の古い呼び方である。
「…王弟ヴォリスは、自殺ですよ」
 何の脈絡もなく、愁柳はそう切り出した。
「…契機きっかけは、やはりソラリス・ディレンか」
「おそらくは。ソラリス・ディレンと思われる人物による暗殺未遂から五日後ですよ。ちなみに、その処刑と同日ですね。
 …シェノレスの「風神アレン」の処刑以来、かなり参っていたようです。要するに、死にたがっていたんですね。…戦への疑問、殺した人間たちへの負目おいめ、罪の意識…そういったもので圧死寸前だったんです。武運なくソラリスは倒れたけれど、そのソラリスに冥土の土産として自分の命をくれてやる気になったとしても何の不思議も無いほどにね」
「…戦への疑問…か。瞬く間に周辺四国を制圧し、大陸を血に染めた男がな」
「…殺されないためには、殺すしかなかったんです」
 サーティスは愁柳を見た。愁柳の目は、深い憐憫を湛えていた。
「…時の国王にね。重宝がられてもいたが、同時に怖れられてもいた。粛清されないためには、国王のため、ただひたすら領土を広げて回るしかなかった。ある意味で、一番哀れだったのかも知れませんね。
 彼が残した記録を読みましたが……死の前の数ヶ月なぞ、ほとんど強迫観念の塊ですよ。…よくあれで政務に支障をきたさなかったものです」
「…となると、リュシアートが死んでも、王統保存の約束を履行したのは…」
「彼です。もとより彼が「大侵攻」に関して全権を委任されていましたから、当たり前だって話もあるんですけどね。…彼の押しがあったことは間違いないようですよ」
「…いよいよ、臭いのは…」
「…ソラリス・ディレンでしょうね」
 ──────おそらく、リュシアートは彼に後事を託すつもりでいた。だが、ソラリスは…。
「…いわゆる、無理心中」
 その言葉は、第三者から発せられた。
「セレス!」
 煩わしい装身具は一切取り払っていたが、白絹の神官衣のままのセレスが、そこにいた。
「陛下に、絶対事が済むまで黙っていろと口止めされていましたので…申し訳ありませんでした、殿下。それと…この度は、便宜をはかっていただき…ありがとうございました、藍…佐軍卿シュライ閣下」
 緑の木々の反射光で、白絹の衣装がうっすらと翠色に染まり、日頃男装ばかりを見慣れているサーティスを一瞬戸惑わせる。
「この御仁、随分と拗ねてましたよ。聾桟敷におかれたって」
「…愁柳!」
 実に邪気のない声で、実に都合の悪いことをあっさりとばらしてしまうから始末に悪い。
「…ルーセの命を聞けと行ったのは私だ。仕方あるまい」
 セレスはひたすら恐縮し、サーティスはあらぬ方を見遣っている。ひとり平静なのは愁柳、という構図であった。
 式が終わった時点で少なくともサーティスに対する箝口令は解かれたため、セレスは事のあらましを話した。…一応「風見」としてはラエーナ・カティスの名を記し、数年後に死亡と公式記録には残すこととしたことも。やがて、ルーセを送るときには、「ラエーナ・カティス」の代理として、王族の誰かが「風見」として立つことだろう。

「…あるいは、ソラリス・ディレンも同じ思いで、女王リュシアートを殺したのではないでしょうか」

 王国も、世の規範も関わりなきこと。いずれ、結ばれ得ぬものならば…我が手に入らないものなら、誰の手にも渡さない。
 シードル卿の手の者に唆された、あるいは操られた部分はあるにしても、そうしてラエーナ・カティスは自分自身を追い詰めて毒刃を手にした。あれが王宮の内苑であったからセレスが間に合ったが、シードル卿の当初の目論見通り戴冠式の最中であれば…どうすることもできなかっただろう。
 非力で身体の弱い、盲目の王女であったとて関係ない。戴冠式には風神殿の巫覡1 、その頂点たる「風見」から寿ことほぎの杯を受ける儀式が含まれるのだから。
 今考えてもセレスの背を冷汗が背を伝う。後宮のうちの誰か、という可能性は考えたが、まさか風見となる妹姫にその役目を担わせようなどとは。彼女がルアセックに献じたいびつな護符から怪しげな占術師にたどりついたのは、ほんの偶然だ。一歩間違えれば、取り返しのつかないことになっていた。
 一見儚げな王女の、劫火の如き想いの強さは、セレスにさえ一瞬呼吸が停まるほどの衝撃を与えた。
 ソラリス・ディレンもまた、リュシアートが守ろうとした王国よりも、自身の「風見」としての責務よりも、リュシアートを自分だけのものにすることを選んでしまったのではないか。
 今ならば、それが胸に痛みを感じるほどにわかる。
「…殺して、その人の想いが得られるなら、世の中今ごろ血の海ですよ」
 愁柳は、冷静にそう言った。
「殺そうが、脅そうが、すかそうが、人の心だけはどうにもならない。殊に、理屈で割り切れる部分ではないのだから当然のことですけどね」
「愁柳が言うと、さすがに説得力があるな」
 どうにも含むところがありそうなサーティスの指摘に、愁柳は一度あらぬ方を見遣り、話を変える。
「女王リュシアートは、おそらく待っているんでしょう。ソラリス・ディレンが戻ってくるのをね。…だが、ソラリスは戻れない。ソラリスはヴォリスを討ち取れなかったのだから。顔向けができない。だから、160年待って、まだ戻ってこない。
 そんなところへ、「サーティス」なんて「風見」がくるんだ。早く戻ってこいと矢の催促がきたって、仕方ありませんよ」
 やや、口調が意地悪い。
「冗談じゃない、ソラリス・ディレンじゃないぞ、私は」
「そういう事は、リュシアート自身におっしゃい。私もそこまで責任持てませんよ。あなたにとっては、物の怪じゃないんでしょう?それとも、少しはそういうものがいるということ、信じる気になりました?」
「──────!」
 サーティスが苦虫を噛み潰すのを実に愉しそうに見届けてから、愁柳は懐から掌より少し小さいほどの平たい箱を出した。
「…ヴォリスが保管させていたようです。身元もわからないというのにえらく丁寧に仕舞い込まれていました。…ヴォリスが自殺した日、暗殺未遂のとがで斬首された男の髪の毛ですよ。見ます?」
 蓋を取ると、納められていたのは…紛れもない、銀の髪。
「ヴォリスはその処刑を見届けた後、自邸に戻り毒を呷って自らの命を絶っています。表向きは病死として扱われていますが…これが、いつかヴォリスが実は暗殺されたのだという話にすり替わっていたんですね。…事実、暗殺未遂なんて日常茶飯事的に起こっていたようですし、この男の一件がヴォリスの精神に最後の一撃を与えてしまった可能性を考えれば、満更間違ってない気はしますが。
 ヴォリスがどんな意図をもってこれを保管させていたかは…今となってはわかりません。しかしまぁ、この丁寧なはこを見る限り…いつか故郷へ返還するつもりだったと考えるのが妥当でしょう。ただ、返還先がわからないものでユーディナの文書館としても扱いかねていたようですから、預かってきました。
 これを廟にでも納めたらどうです?無闇やたらに強がるよりは、御利益があると思いますよ」
「…いやな奴」
「他人事って、気楽でいいですねぇ、本当に」
「…食えない奴だとは思っていたが…」
「西方の一件の、ほんの御恩返しですよ。
 ああ、それから…セレス殿。隠密行動だったとはいえ、身分を偽ってしまってすみませんでしたね」
 セレスへ向け、そう言って一礼した。
「あ、いえ、こちらこそ…」
 不意を突かれたこともあって、セレスにしては今一つ冴えない返答をしてしまったが、愁柳は気にする風もなく丁寧な辞去の礼をした。
「それでは、また。暇があったらまた遊びにきてください」
 サーティスに箱を渡して身を翻す。
「誰が行くか!」
 樹園の木々の中にそのシルエットが消えるのを見送って、サーティスは軽く溜め息をついた。
「…あれがノーアの佐軍卿というんだから、世の中結構いい加減にできてるぞ、セレス」
「でも、良い方ですよ。ルアセック・アリエル陛下に連絡を取るのに助力してくださったのもあの方ですし」
「…それは知っている。悪い奴じゃないし、味方に付ければ心強い奴だが、ひとを揶揄からかって遊ぶ癖があるのがいただけん」
 サーティスがすこし拗ねたように顔を逸らすのを見て、セレスが涼やかに笑った。

***

 王家の廟は数ヶ所にあり、末の名によって入る廟は異なる。
 つまり、先王シール・リュクレスはリュクレス王の廟にはいるが、リュシアート・アリエルは聖風王と同じ廟に祭られている。
 いずれルアセックが入るアリエル王の廟と対を成すようにして、聖風王の妹姫の廟が基となっているサーティス(カティス)の廟がある。末の名によって分けられるのは、王となったものを除けばこの「サーティス」の名を持つものに限られ、後の王族は皆、一つの廟に合祀される。
 ルアセックの許可を取り、サーティスは自分と同じ名を持つ160年前の「風見」の遺髪をその廟に納めた。
 強く想うあまりに、全てを見失った男の墓所を前にして、サーティスは他人事でない重さを感じていた。
 シルメナを救うため、妃という名の人身御供となる覚悟はしていても、おそらく…リュシアートの心はソラリスのもとにあった。それでも、ソラリスはリュシアートを殺した。永劫に、自分のものにするために。
 目を閉じて、深く息を吐いた。

 ────几帳に囲まれた絨毯の上で寄り添う、どこか似通った顔立ちの男女。
 ────ソラリスの腕のなかで、愁いに満ちた表情で目を閉じているのは、リュシアート。
 ソラリスの唇が僅かに動いて、彼女の名を紡ぐ。
 金褐色の髪がゆらりと動き、ゆっくりと若草色の眼が開かれた。
 ソラリスの指先が、リュシアートの顎をとらえる。リュシアートはそのまま、身を委ねた。…ソラリスの左手に、彼女の護り刀が握られているのに気がついていたのか、どうか。
 リュシアートの身体が、震えた。
 重ねた唇から、あるいは血の味を感じたかも知れない。 くずおれる彼女の身体を受け止め、抱きしめる。
 時とともに、二人の衣服と絨毯に赤い染みが広がっていく。ソラリスはそれにも構わず、身動きもせずに冷えてゆくリュシアートの身体を抱き締めていた。
 遠い一点に、その視線を据えたまま…。
 最後に、弱々しく彼女はソラリスの名を呼んだ。…ソラリスは、それにいらえた──────

 ふと、目を開ける。廟のなかであった。…夢の続きか。あるいは、ソラリスの懺悔か。
 差し込む薄明かりが、香の煙に条となって浮かび上がる。
 リュシアートも、あるいは自分の命が永くないことを予感していたかも知れない。…しかし、よもや愛した男の手で殺されるとは思ってもみなかっただろう。
 それでもひたすらに、ソラリスが自分のもとに帰るのを待つリュシアート。彼女は恨んでなどいない。ただ、憐んだ。自らと他者の血を流し続けるソラリスを憐んだのだ。
 ─────故国の土に還ったソラリスは、リュシアートに逢えるだろうか。
 廟を出ると、乾いた岩肌をさらす廟の外に、セレスが待っていた。乾いた風に、白い神官衣がはためく。
「…セレス…」
 隊へ帰らなかったのか、という言葉を、サーティスは寸前で飲みこんだ。戴冠式は無事終わっても、付随する行事をこなさねば「ラエーナ・カティス」の不在が知れる。そのためになお数日の滞在を余儀無くされていることは。サーティスも知っていた。
「…マキちゃんが、捜していました」
 そう言われて、ここ数日マキを放ったままにしていたことに気づく。
「たぶんまだ、ここだろうと思いましたので」
「悪いことをしたな。捜させたか」
「最近、体調がすぐれないようだからといって、心配していましたよ」
 セレスとマキがあれからすっかり打ち解けて、互いに房を行き来していたとは聞いていた。幽霊騒ぎのこともセレスは概ねマキから聞いていたらしい。すっかり馴染んで、まるで姉妹のようであった。
 マキのほうは、サーティスが魘されるから眠らずにいて、結局睡眠不足なのを敏感に察していたのだろう。あれで、細かいところに気が回る。
 廟のある岩山から、樹園までそう距離はない。暮れかけた樹園にたどり着くのに、それほど時間は掛からなかった。
「…今夜、隊に帰ります。いい加減、言い訳に苦労しはじめている頃でしょうから」
 瞬間、息を停めた。だが、出てきた言葉はサーティス自身が意外に思うほどに平静だった。
「…似合うな。いっそ着て帰ったらどうだ?」
「いくら何でも、すぐにばれてしまいます。苦労が水の泡ですよ?」
 そう言って、微笑う。
「…それに…」
 セレスは、そこで一旦言葉を切った。
「これは女神官の装束です。…剣を選んだエリュシオーネの女に、女の装束はいりません。殿下も、姉が女の着物を着ているのを見たことはないでしょう?」
 たしかに、マーキュリアはサーティスの前に姿を表すときは男装を常としていた。…だが、ただ一度だけ、マーキュリアが淡い翠のドレスに身を包んでいるのを見たことがある。
 …その時、その前にはライエンがいた。
 ドレスの翠が、木々の緑とあいまってひどく眩しかったのを、はっきりと憶えている。
 わかっている。エリュシオーネの女は、たった一人の前でしか女に戻らない。マーキュリアがそうであったように、セレスも、また。
 ──────掛け金が外れた、としか、言い様がなかった。
 白い神官衣の肩を引き寄せて抱きすくめ、淡く紅をひいた唇を唇で塞いだ。
 神官衣の下の細い身体が硬く竦むのを感じても、重ねた唇の奥からあえかな呻きを聴き取っても、すぐには放さずかえって強く抱きすくめた。…あるいは、抵抗してくれることを望んだのか。
 しかし、抵抗はなかった。細い肩を硬く竦めたまま、小刻みに震えるだけだった。
「………」
 ようやく解放された唇が微かに動いて紡いだ言葉は余りにも頼りなく、サーティスの耳にすら届かなかった。
 緩んだサーティスの腕をすり抜けて木の幹に凭れると、そのまま膝を折ってしまう。
「…どうしても、理解っていただけないのですか…?」
「セレス…」
 俯き、自身の肩を抱いて細い声で言った。
「殿下は…私にとって大切な御方です。それは、いつも変わらない…十年、二十年前から、そしてこれからもずっと…! 
 でも、それではいけないのですか…?」
 肩を抱く指先が、小刻みに震えて白絹に食い込む。絞り出すような声と一緒に、涙が頬を伝って落ちた。あとは、嗚咽にしかならない。サーティスはただ、立ち尽くすしかなかった。
 その嗚咽が、やんだ。そしてセレスが口にした言葉は、サーティスの全身の力を奪うに十分だった。
「…この想いは、かえられません。もし殿下が、それをお許しにならないというなら…今ここで、私の命を絶ってください」
 神官衣は剣を吊るようにはなっていない。だが彼女が神官衣の下に剣帯で吊って持っていた懐剣を、剣帯ごと外してサーティスの前に差し出した。
 …彼女にしてみれば、いっそ殺されたほうがましなのかも知れない。彼が、今日のような行為を繰り返す限りは…
 あのときの再現になるかも知れない。いや、もっと酷くなるかも知れない。サーティスはその予感が的中したことを知った。
 彼女の苦しみを、その激しさを、理解したつもりで理解していなかった。
『自分が何者であるか、それを自分によく言い聞かせておくんですね…颯竜公レアン・サーティス』
 愁柳の、穏やかだが反論を許さない言葉。その意味を、改めて刻みつけられた気がする。
 ──────彼が「レアン・サーティス」でなかったなら。
 セレスは迷わず自らの身を守る行動に出ることができた。彼女はそれだけの力を持ち合わせているのだから。
 彼女の力をその名で封じて、想いを押しつけていた…。
 サーティスは懐剣を一度セレスの手から取り上げると、剣帯で柄と鞘とをしっかり巻いてセレスの手に戻した。
「生きていてくれ、セレス」
 座り込んだセレスの側に膝をつき、俯いた頭をそっと抱き寄せる。抱きすくめるのでなく、そっと、包むように。
「…生きていてくれ。俺を、一人にするな…」
 めぐりあっても、めぐりあっても、いつか離れていく不安。 ただ、自分を一人にしないで欲しい。それ以上は望まない。望むべきではない。本当に、もうこれ以上なにも失いたくないと思うなら…。

***

「…私が…十五のときでしたよ」
 愁柳は、照れるでもなくそうきりだした。
「私が高地の離宮で長いこと暮らしていた話は、たぶんエルンスト辺りから聞いてるでしょう。…その頃の話です。何といっても子供で、思慮分別もあったものじゃない。おまけに桂鷲…の母君から刺客が送られてくるなんて日常茶飯事で、周囲の人間の入れ替わりがかなりはげしかったんです。この意味、分かりますよね」
「…逃げたり…殺されたり?」
「お蔭でまあ…信用できる人間なんて少なくてね。十五にしてすっかり人間不信ですよ、嘆かわしいことに」
 そう言って吐息する愁柳の言葉にも、表情にも、翳りに属するものは感じられない。
「そういう時だったにもかかわらず…いやそういう時だったからこそ、かも知れませんね。…中層文官の娘だったと聞いてますが…彼女のほうは、ちなみに十九。行儀見習いということで、離宮に上がっていたということでした」
 ちょっと驚いたふうなサーティスを見て、愁柳は微笑った。
「のぼせ上がるっていうのは…ああいうのを言うんでしょうね。
 まあそれでも、黙ってればよかったんです。そうすれば誰も傷つかずにすんだ。最初の想いってのは、大体において麻疹みたいなものですから、そのうち…何が何だか分からないうちに、消えてしまう。それを待つべきだったんです。
 それをうっかり乳母の子…だから、乳兄弟になるんですか?…ま、私が離宮を出る前に、一服盛られて他界したんですが…彼に、感づかれるようなことを漏らしてしまったのが運のつき」
 安い酒場のことで、気のきいたグラスなどない。木をくり抜いた椀に満たされた濁酒を揺らす愁柳の表情に、はじめて自嘲めいたものがよぎった。
「えらい勢いで入内の話が進みましてね。彼女の父親も、高々中層文官ですから、大喜び。…娘の気も知らないで…」
「…その、ひとは」
「…入水しましたよ。惚れた男と二人でね。“申し訳ありません”を書き連ねた手紙を残していました。謝らなければならないのは、こっちなんですけどね」
「……」
「そんな激しい想いがあった訳じゃない。是が非でも結ばれたかった訳じゃない。それなのに、彼女を追い詰めてしまった。挙げ句の果てが、自死したむくろが三つですよ。…私としても、やってられない。二度と誰にも何も言うものか、と思ったとしても、他人にとやかく言われる筋合いはないと思いませんか?」
「…娘の父親か」
「娘の父親は報を受けた途端に泡吹いてひっくり返ってそれきりでしたよ。毒をあおったのは男の父親のほうです」
 憮然として、酒に口をつける。
「…差し出口とは思いましたけど、きついことを言った訳、理解ってもらえますか?」
 サーティスは、答えなかった。椀を揺らしながらそれを見つめ、何も言わない。…言えない、と言うほうが正しいようではあった。
 愁柳はいつも通りの穏やかな笑みをして、言った。
「…これで昔話はお終いです。何だか龍禅の時とまったく立場が逆ですね」
「…まったくな」
 今度はサーティスが、憮然とする番だった。
「あなたの場合はずいぶん根が深いようですし、忘れたほうがいいとは言いません。でも、あなたのことを心から慕って、命まるごとで案じている子のことは忘れちゃいけません。あなたがいつまでもずるずると悩み続けるようなら、あの子がなんと言おうと私がノーアに引き取りますよ。私だってあの子は可愛いんですから」
「…肝に銘じておこう」
 愁柳は立ち上がった。
「それでは、私はこれで」
「…愁柳」
「何でしょう」
「済まなかったな。…いやなことを話させた」
「お気遣いなく。あなたの弱音が聞けるなんて、長生きはしてみるものだと思いましたから」
 途端に、サーティスの表情が硬くなる。
「誰が弱音を吐いたって?」
「…何があったか、なんて追及はしませんけどね。まったく、見ていて飽きない人だ」
「…ぬかせ!」
 微笑って、愁柳は身を翻した。
 扉を開けると、射干玉ぬばたまの髪が吹き込んだ夜の風を従えて流れる。それを最後まで見送らず、サーティスも席を立った。

***

「隊長?なにそわそわしてんです」
 明日はツァーリへ帰るという夜である。こと事務に関しては、ディルは隊長並みに忙しい。当の隊長が事務がからきしなのだから無理もないが、それでも今日は二人して残務処理に追われていた。
「なんでも無い。…悪い、ディル、ちょっと、外へ出てくるよ」
「…はあ」
 そう言って出ていくエルンストを見送って、ディルは首を傾げた。
「ほんっとに、シルメナにきてからの隊長って、ヘンだよなあ…水が変わって、腹こわした訳じゃないと思うけど…」
 などと、至極平和な心配をされているなどとは思いもせずに、当人は陣の周囲をふらふら歩き回っていた。
 今夜辺り、帰ってきそうな気がしていた。
 鬱陶しい、でんと構えて待っていろと思われる向きもあろうが、そうも行かないのがこの男の性分である。
 足音に、エルンストは歩を止めた。

────振り返る。その向こうに、細いシルエット。

  1. 巫覡…かんなぎ、神職のこと。「巫」は女の、「覡」は男の神職を表す。