楽園の夢

 ─────シルメナ国王・アリエルⅤ世は、その日政務を早めに切り上げて自室に戻った。
 長椅子に身を預け、深く息を吐いて目を閉じる。即位前からかなりの量の仕事をこなしてきたつもりだが、それでもさすがに疲れの量は違うらしい。…尤も、それだけではないことも彼自身が十分承知していた。
 不意に、身を硬くする。
「────誰だ」
 ベランダに、誰かいる。
「…事を荒立てたくないなら出てくるがいい」
 その言葉に、ベランダの影が動いた。
「…このたびは、アリエルⅤ世陛下御即位のこと、祝着至極に存じます」
 薄手のカーテンの向こうで、血のような緋色の髪が風に舞った。
 その緋色の髪をヴェールのように纏った影は……少年というには大人びていたが、その暗い色の瞳が湛える光はとても歳相応とはいえない。それは、声変わり前の少年の声で発せられたそつのない祝辞同様、不均衡が一種異界の住人めいた雰囲気を醸し出していた。
「…妹君のことにつきましては、謹んで哀悼申し上げます」
「…なんのことだ」
「宰相ヴォリスの卑劣なる罠、退けられ無事御即位あそばされたのはめでたきことなれど、妹君ラエーナ・カティス様は落命された由…さぞや御無念のこととお察し申し上げます。謹んでお悔やみ申し上げるとともに、一日も早くこの呪われし枷を共に打ち砕かん…と、父よりの伝言にございます」
 ルアセックは表情を動かさなかった。
「…名を聞こうか」
 少年は、即答しなかった。だが、すっと身を屈め、最上礼をとって名乗る。
「…シェノレス大神官・ルドヴィックが二子…アンリー・ラ・ネレイア」
「“波の下の者ネレイア”…奉献されし者サクリフィス・ラ・メール……お前は、すでに死人という訳か。死人が悔やみを言いにくるとは、滑稽な話だな」
 少年は、その名に相応しい冷たい笑みをその口許に浮かべた。
「シェノレス大神官ルドヴィックがその子を海神に奉献した話…陛下なら、見抜いておられると思っておりました」
「…知っている」
 ルアセックは長椅子に身を沈めた。
「シェノレスに派遣されたツァーリの総督が手傷を負って寝込んだという話…それと前後していたな」
 思わぬところに話が行ったらしく、少年は動揺を見せないまでも返答を遅らせた。
「…さすがは“アリエル”の名を冠せられる陛下だけのことはありますね」
「…ふ…まさか、こんな子供とはな。…さてはかの“緋の風神”の生まれ変わりか?」
「…どうでしょうか」
 少年は、そう言って一旦話を切った。
「陛下…それではしばらくこのネレイアの話、お聞きいただけますか。…おそらく、陛下にとっても、このオアシスの国にも、決して悪い話ではないと存じます」
 ルアセックの語調は、決して乗り気とはいえなかった。
「…大神官殿におかれては、悪夢の如き時代をも、覆せる心算がおありか」
「その成否は、お聞きになってから陛下がお決めになること。…いかがでしょう」
「いい度胸だな。今ここで、お前を捕らえてツァーリに突き出せば、全てが終わるぞ」
「そうなさりたければ、御随意に。“アンリー”は既にこの世の人間ではございません。死体を根拠に、父を断罪することはいかなヴォリスでもできますまい。…それに、そうしたところでなんらこの国が益するところはないことはよくご承知のはず。無益なことに労力をお割きになる方ではありますまい…聖風王の末裔すえたるルアセック・アリエルⅤ世陛下」
 ルアセックが、微笑った。
「…言うことが一々あざといな。…まあいい、気に入った」
 そう言って、少年を室内に招じ入れた。
「…では、聞こうか。このオアシスを再び楽園たらしめる策か否か、じっくり吟味させてもらおう…」

 少年は一礼し、顔を上げた。

   ──────風が、吹こうとしている。

――――Fin