妖精の森

「ここからさき…何人と言えど許し無しに入ることまかりならん!」
 鋭い声に、俺は弾かれたように振り返った。
 巨大な月を背に、浮かぶシルエット。華奢というよりは、鋭さを感じさせる。夏の夜の微風に、わずかに煽られる鴉の濡れ羽色の髪。…距離があったからその時には分からなかったはずだ。しかし、何故だか俺は今でもその左眼の深い碧をはっきりと憶えている。

 ────深い碧。右は、その鴉羽色の髪で覆われて見えない。
 リチャード、お前の言葉は正しい。それは、妖精。…人の血を啜る、リャナンシー…。

***

 俺…エルンストがこのツァーリという国に辿り着き、衛兵隊で飯を食うようになって一年以上が経っていた。
 衛兵隊、というとやたら聞こえは良いが、俺がいるのはそのうちの第三隊。元は国王の食客集団だったらしいが、いつの間にか衛兵隊・第三隊という形にまとめられたということだ。
 そりゃあ、第一隊や二隊みたいな、それこそ国王親衛隊の木偶の坊どもに比べれば腕は立つ。立つが、何分もともと一匹狼とか、多くても数人で大陸街道を渡り歩いてたやつらの集団だから、まとまりが悪いのだ。だから、俺たちには外周りの役ばかりが回ってくる。第一隊や第二隊のやつらからは傭兵隊と莫迦にされる。まあ、それは別に構わない。弱い犬ほどよく吠えるものだから、吠えたい奴には吠えさせておけばいいのだ。
 安定した飯が食え、なおかつ宮仕えの苦労を味わうのは隊長ぐらい。結構な身分と言うべきだった。
 そんな訳で、俺は暫くこの国に腰をおちつける気になっていた。隊長はクラウス・ファルレーノというおおかた五十に手が届くおっさんだが、このならず者集団を見事まとめあげている傑物である。何だか気に入られたようで、何やかやと悪態をつきながらもいざというときには重く用いてくれていた。
 俺がカザル砦への使い走りで数日隊舎を空け、帰ってきた日のことだった。報告のためそのクラウスのおやっさんがいる隊長室へ行くと、いつになく難しい顔をしていた。
「どうしたんです、あんたともあろう御仁が眉根を寄せて」
「…その様子だと、まだお前聞いとらんな。例の騒ぎに、とうとう隊の人間が巻きこまれてしまったよ」
 例の騒ぎ。王城の森の一画にある廃墟に出るという、妖物ばけもの。入りこむ人間を片っ端からなぶり殺しにしているという。
「巻きこまれたって…誰です?」
「リチャードだ。ついさっき、虫の息で医者に担ぎ込まれたそうだ」
 頭から、すうっと血が引いた。だが、それは一瞬。次の瞬間には、逆に頭に血が上っていた。
「…何でそれを早く言ってくれないんですっ!!」
 退出の挨拶なんで、どこかへ忘れた。あんまりにも慌てていた俺は、リチャードがどこへ担ぎ込まれたのか聞くのすら忘れていた。そこらにいる隊の仲間を締め上げるようにしてそれを聞き出した俺は、ディル曰く、「本当に殺しちまうかと思った」ほど殺気立っていたそうだ。
 だが、俺にとってはそれほどの重大事だったのだ。リチャードは俺がツァーリに来て以来の友人で、俺がツァーリで右も左も分からなかった頃、何かと世話を焼いてくれたのは彼だった。
 なんでこんなやつが傭兵隊なんかにいるんだ、と思うほど穏やかな男で、詩人であり、楽士であり、ついでのように弓の名手だった。隊の一員というより、第三隊付きの楽士の間違いじゃないのか、と、隊に入ったばかりの俺は思ったものだ。
 そのリチャードが!と聞いたとたんに、俺は頭の中が真っ白になったといっていい。なんで廃墟になんか行ったのか、何ていう疑問を抱く余裕なんて、これっぽっちもなかったのだ。
「…リチャードッ!!」
 教えられた医者の家のドアを開けたとき、リチャードは幸いにしてまだ息があった。
「ばかもん、殺す気かぁっ!」
 山羊髭の爺さんに大喝されてようやく、俺は頭が冷えた。
「お前、衛兵隊のエルンストって奴を知ってるか」
「俺だが?」
「…そりゃよかった」
 爺さんは瀕死のリチャードに何かを囁いた。
「…話したいことがあるとよ。聞いてやんな」
 明らかに、もう助からないという言葉の言い換えだった。
「…リチャード…?」
 俺は半ば腹を括って、リチャードの枕許へ行って名を呼んだ。
「…エル…ンスト…」
 リチャードの顔は、苦しげだが何故か負の感情を含んでいなかった。むしろ…
「リャ…ナンシー…初めて見たよ…なんて…美しい…歌にしか聞いて…いなかったけれど…本当に…なんて…」
 話すリチャードは失血の為に真っ青になり、額には玉のような冷汗が浮かんでいる。…その時の俺には、それが全くの譫言としか聞こえなかった。夢を見ていたのだと思っていた。
 ────苦しげなのに、何故か幸せそうですらあったリチャードが息切こときれたのは、昼近く…雨が降りだした頃だった。

***

 この真夏にしては、よく雨が降るものだ。
『ここだけの話にしといてくれんか』
 俺は隊舎の部屋の蔀戸しとみどを持ち上げ、あの日以来、ずっと降り続いている雨の音を聴きながら山羊髭爺さんの話を思い出していた。
 その爺さんは第三隊舎のすぐ脇に診療所を構えている。周辺の自由民も診るが、第三隊で病人なり怪我人が出た場合は基本的にそこのお世話になるわけだ。来たばかりの時に一応聞いた気はするが、ツァーリに来てからこっち、医者と縁がなかったのでとんと忘れていた。
『こいつが例の化け物の仕業なら、化け物は複数おることになるぞ』
『…どういうことだい?』
『リチャードはな、一対一でやられたというより、複数のものに寄ってたかって刺し殺されとる』
『何だって!?』
『手首やなんかにあざがついとる。複数で押えつけ、また別の誰かが刺しとるんだな。それも一度じゃないから、複数のものが刺したのかもしれん…全く、酷い話だて』
 冷静になってみれば、何でリチャードが廃墟なんかへ行ったのか、そもそもそこから分からない。化け物が出るという話はもう知れ渡っていたし、妖物退治などと言いう妙な功名心を出すやつでもなかった。
 大体、妖物の正体は何なのだろう。出る、という話ばかりが広がって、それがどんな奴なのかほとんど分かっていない。時たまその廃墟の近くでとんでもないやられ方をしている死体が見つかるから、妖物が…という話になってしまったにすぎないのだ。
 そして、リチャードのあの幸せそうな死に顔。
『リャ…ナンシー…初めて見たよ…なんて…美しい…歌にしか聞いて…いなかったけれど…本当に…なんて…』
「リャナンシー…」
 その、謎のような言葉を反芻する。響きからして、リチャードの祖国の言葉であるようだった。俺はまだ行ったことがないが、リーンの北の方らしい。
 思考がこんがらかってきたのにイラついて、俺は頭をかきむしった。
「要するに、行ってみりゃいいんだよっっ!」
 俺は、立ち上がった。あんまり急だったものだから寝台の上段の端にしたたか頭をぶつけ、おおいに気勢をそがれる。…全く、幸先さいさきが悪いったらありゃしない。
「…どうしたんです?」
 頭を抱えてものもいえずにいる俺に、ちょうどその時入ってきたディルが声をかけてきた。
「…気にせんでくれ」
「クラウスのおやっさんが呼んでますよ」
「俺をか?」
「はい」
 何だろう、と思いつつ、今度はもう少し注意深く立ち上がった。そしてディルと入れ替わりに部屋を出ようとしたとき、呼び止められた。
「…ひょっとして、ここの角に頭かなんかぶつけました?」
「…なんで分かる」
「痕がついてます。寝台のほうに」
 …悪かったな、石頭で!!
 それはさて置き、俺が隊長室へ行ったとき、おやっさんは開口一番こう言った。
「やはり行くか、あの館へ」
 このおやっさん、心が読めるのかと一瞬ぎょっとしたが、何のこたぁない、俺のここんところの行動を見ていたら火を見るより明らかなことだったらしい。
 隊長室には隊のおもだったものが顔を揃えていた。
「…何事です?」
 俺は何となく身構えた。これだけの者が顔を揃えているとなると、尋常な事態ではない。
「話は簡単だ、エルンスト」
「……?」
「今度の…妖物の一件、お前が見事片付けたら、次の隊長職はお前に譲る」
「…はぁ!?」
 正直、耳を疑った。
「今度の一件をお前が片付けて見せたら、次の隊長はお前だといってるんだ。いい加減、年寄りに楽をさせてくれんか」
「…ば…ばか言っちゃいけませんよ!」
 俺は慌てた。リチャードの敵は討ちたい。でも、隊長職なんて御免だった。確かに俸給は一般隊士より遥かにいい。でも、隊のなかで唯一、宮仕えの窮屈さを味わわねばならんという、有難くもなんともない特典付きなのだ。俺は今のままで十分なのだ。隊長なんて御免だ。
「第一、俺なんかにそんな話持ちかけなくたってここにいる人達に言えばいいでしょうが!俺はまだここにきてそんなに経ってないのに…!」
「その、ここにおる人間皆の意見が一致してな」
「あんたらなぁ~!!」
 大金よりも自由を好む気風は結構だが、そのおかげでこっちにお鉢がまわっちゃたまらない。
「…とっ…とにかく、リチャードの仇は俺が取る。でもねおやっさん、この話とは別ですよ!」
 叩きつけるようにして言い放つと、俺は踵を返した。
 ─────逃げ、と取られたかも知れんなあ…。
 そんなことを思ったのは、俺が廃墟にきてしまってからのことだった。

***

 このツァーリという国は、森の中に王城を構えている。この国の暗喩として「緑砦」が用いられる所以だが、その王城の周囲、やはり森の中に数多くの館がある。
 王城の森に館と名のつくものを構えられるのは、余程の有力貴族か宰相家の人間、後は王族だけだ。
 だが造っては捨てられ、造っては捨てられという感じで数ばかり多く、廃墟となっているものも多いと聞く。ここも、そんな館の一つ。元は名前がついていたはずだが、知る人はもはやいない。
 夕闇が迫っていた。こんな得体の知れない場所を調べるにはあまりいい時間帯とは言えなかったが、俺はその廃墟に入っていった。
 破損は少なかった。ただ、手入れがされていないから建物の壁という壁、柱という柱に蔦が生い茂り、森の中なのか、それともちゃんと館のために造成された土地なのか、境界がつけづらい。
 今までその妖物、とやらに殺されたもの達の中に、女子供は含まれていない。男、それもあまりまともな職についてない…いわゆる、ごろつきどもがほとんどだ。ただ、第二隊のおぼっちゃまが何人か、興味本位で入りこみ、翌朝道端で冷たくなって転がっていたという話はあったが。
 ────自分の領域を侵犯されるのを忌むモノの仕業?
 疑問はまだある。死に瀕したリチャードの、あの幸せそうな表情は何を意味するのか。『リャナンシー』とは何なのか…。
「待てよ?」
 俺は、『リャナンシー』という言葉を初めて聞いた訳ではないことに気づいた。
 他ならぬリチャード自身から聞いたのだ。『リャナンシー』…それは…
「止まれ!」
 気配なぞ微塵も感じなかった。突然の鋭い声に、俺ははじかれたように声のした方を振り仰いだ。
「ここから先…何人といえど、許し無しに入ることまかりならぬ!」
 青から群青に色彩を変えつつある空。満月が近い月を背に、ひとつのシルエットが佇立していた。華奢というよりは、鋭さを感じさせる。夏の夜の微風に、わずかに煽られる鴉の濡れ羽色の髪。…距離があったからその時には分からなかったはずだ。しかし、何故だか俺は今でもその左眼の深い碧をはっきりと憶えている。
 ────深い碧。右は、その鴉羽色の髪で覆われて見えない。
 思い出した、『リャナンシー』。…美しいが、詩人にすばらしい霊感を与える代償として、その詩人の命を啜るという恐ろしい妖精…!
 リャナンシーに愛された詩人は、短いが、詩人としては輝かしい人生を送ることができる…という。リチャードの最期の言葉を思い出した。そうだろう、詩人として、リャナンシーに会うことができれば至上の幸福だろう。だけど、それに殺されたんじゃ何にもならない!
 「リャナンシー 」=「リチャードを殺した奴」という図式が余りにも短絡的に出来上がってしまったのは、何も俺の所為じゃない…と思いたい。だが、実際目があった途端に斬りかかられたらどうしてもこいつが悪いと思ってしまう。
「…よくも…っ!」
 俺が使いなれた剣を抜いた直後、俺は肩に痛みを感じた。
 投ぜられた細身の剣が、俺の左肩を掠めて背にしていた木に突き刺ささったのだ。
 速い。一瞬、声が出なかった。
 俺も俺なりに一応自分の剣技に自信を持っていた。だがその自信を、この黒髪のリャナンシーはいとも簡単に打ち砕いてくれたのだ。
「……!」
 侵入者の威嚇なんて生易しいもんじゃない。入ってきたものは有無を言わさず殺す気なのだ。冗談じゃない!
 だがリャナンシーの剣が木から離れてもう一度俺に向く前に、俺は右へ逃れていた。態勢を立て直しざま、左の手甲に仕込んだ刃を放つ。
 一つ残らずはじかれた。
 頭に血が上がってしまったら、実力の半分も出ない、というのは俺がガキの頃からの周囲の一致した見解である。運悪く、このときしっかり俺は頭に血が上っていた。
 ついでに言うと、はなから力押しで勝負のつく相手ではなかった。つっかかるだけでは軽くあしらわれるだけなのだと、気づくのが遅すぎた。
 どのくらい刃を交えていたか、記憶にない。長かったような気がするが、案外ほんの五、六合に過ぎなかったような気もする。…気がつくと、俺は後がなくなっていた。
「やっちまった…!」
 腰の高さほどの、塀。…少なくとも俺はその時、それを塀だと思っていた。いかに視野が狭くなっていたか分かろうというものだ。
 風が吹いた。鴉が裸足で逃げ出しそうな見事な黒髪が、さらりと流れる。初めてリャナンシーの顔の右半分が見えたとき、俺は息が停まった。
 ─────考えてみれば、それまであれだけのたちまわりを演じながらなぜ見えなかったのかが不思議なぐらいだ。
 右目を両断する傷痕。深い碧は、そこになかったのだ。剣の傷だ。それも、今日昨日という傷ではない。もっと小さかった頃に付けられたであろう、古い傷…
「酷い…誰がこんな…!」
 そんな場違いな台詞を吐いた俺も俺だったが、問答無用で剣を横に薙いだあれも悪い。
 避けようとして後ろへ反った俺は、皮一枚斬られた挙句…脆くなっていた井戸の石組ごと、真っ逆さまに落ちてしまった。

***

 本来、墜落の衝撃を吸収するだけの水位があったことを感謝すべきなんだろうが、いくら初夏ったって、古井戸の水は冷たい。
 おまけに俺のあとに降ってきた石に、先程斬りつけられた肩を直撃された。
「蔦が絡んで脆くなってやがったな、畜生」
 木が岩を砕く、という話はよく聞いた。木は岩に一瞬にして砕かれるが、木も岩を数年、数十年かけて脆くし、砕いていく。
 俺は頭を振った。自然界の力関係はさておき、今はこの状態をなんとかせねばならない。俺は一昼夜ぐらい水に浸かっていたからといってへでもないが、こいつはそうも行かないだろう。
 結い上げていた黒い髪が水面に広がり、たゆたう。深い碧は閉ざされたままで、かうじて呼吸はしているようだが、意識がない分体温が落ちるのが早い。
 降ってきた石のショックから立ち直った直後。気づいたら手に絡みついていた黒い髪を見たときには、はっきり言って一瞬背筋が冷えた。『先客』かと思ったのである。
 幸か不幸か、その黒髪の主はまだ生きており、しかもさっきまで命のやり取りをしていた『リャナンシー』であった。同じように石に当たったらしく、額から血を流して失神していたのである。
 なんでこいつまで落ちてるんだ。そう思った時、石組が崩れて俺が均衡バランスを失った瞬間に彼女が手を差し伸べていたことを思い出す。一体何なんだ。殺すつもりでかかってきたんじゃないのか。
 困惑のタネは尽きないが、生きており、放っておいて沈まれても困るから、俺はそれを支えながらここまで蔓を延ばしていた所悪の根源に掴まった。
「まったく、何の因果で…」
 そうは言ったものの、さっきまで敵としてしか見ていなかった所為か、俺が今更のように『リャナンシー』が妙齢の美女であることに気づいて妙に慌ててしまったのも事実である。
 蔦の強度を調べ、大の男の体重ならともかく、この『リャナンシー』ぐらいなら支えきれると見当をつけた。あれだけ身が軽ければ、これぐらいの伝い登りは容易かろう。
 …だがまだ、意識は回復しない。
 片腕で支えなければならない手前、「指一本触れてない」と明言できないのが苦しかったが、これは不可抗力というものである。だが早く目を覚まして欲しい、というのが正直なところだった。
 右眼を両断する傷。やはり、相当古い。だが傷は細く、明らかに剣のような…人を傷つけるための道具で付けられた傷だった。
「誰だよ、こんな…酷いことを…」
 先刻のことや、リチャードの一件を完全に忘れたわけじゃない。でも俺は、とりあえずこの傷を付けた人間に対して腹を立てていた。
 その時、遥か上で人の気配がした。誰か、さっきの石組が崩れる音を聞きつけてきたのだろうか。
「おおい、怪我人がいるんだ!」
 この際相手が妖物だろうが何だろうが構いやしない。俺は即座に叫んでいた。
 どのくらい、反応を待ったろうか。ばらばらと縄梯子が下りてきた。片腕でひと一人抱えて縄梯子を上るのは正直左腕にきつかったが、他に方法がある訳もない。
 かくて、井戸の上で待っていたのは一人の老人だった。
「誰か知らんが、有り難う。ここら辺の人かい?だったらすまないが、ここらで火を起こせるところはないか。この子、怪我してるぞ。手当てしないと…」
 その爺さんは、俺を何か探るような眼で見た。
「…あるよ。ここは館だ。暖炉もあれば湯も沸かせる」
 老人はそう言った。