第壱話 ”Ordinary but Happy Days” 


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 加持リョウジは、帰宅するとアパートの鍵が開いていることに気づいた。
 最初ぎょっとし、次にため息をつき、最後に苦笑してドアを開ける。雑然とした中にも一応の整頓がついている、奇妙な部屋。座卓用のパソコンデスクの前には銀髪の少年がいた。
「お帰りなさい。どうでした?」
「・・・使うのはいいんだが、あんまりアシのつくようなことはしてくれるなよ」
「わかってます」
 言葉面は丁寧だが、おそろしく素っ気ない。とても、不法侵入した上に他人様のパソコンを無断使用していて吐く台詞ではなかった。
 加持は荷物を玄関わきに積み、弁当ガラを流しに突っ込みながら問うた。
「・・・・で、どういう風の吹き回しかな。君の方から出向いてくるとは」
「多分、言いたい事があるんじゃないかと思って」
 回線を切り、電源を切って向き直る。加持は、しばらく反応をためらった後、クーラーボックスに残っていた清涼飲料水を取り出す。
「・・・・飲むかい?あんまり冷えてないけどな」
「いりません」
「あ、そう」
 行き場のなくなった缶を開ける。保冷材はとっくの昔に融けてしまっているから、どうも生温い。
「今日の件・・・・・君の差し金かい?」
「別に。誘ってくれたのはシンジ君だって、レイは喜んでましたけど」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 根負けしたのは、加持の方だった。吐息して、天を仰ぐ。
「・・・君達があまり危ない橋を渡る必要はないんだぞ?」
「レイに危険な真似をさせるつもりはありません。僕が協力する代わりに、僕とレイの自由を確保する。それが条件だったはずです」
「わかっているよ。だが・・・・」
「碇ゲンドウと研究所に感づかれるような真似はするな、でしょう。そんなへまはしませんよ」
「シンジ君にレイを接触させたことに他意はないと?」
「レイが碇シンジ君に興味を持ったのはレイの自由意志。それに外的な制限を加える権利はあなたにはない筈ですよ。無論、僕にもね」
「それにしたってな・・・・シンジ君は、そうとうキテたみたいだぞ」
「何故?」
「何故ってな、カヲル君・・・・」
 加持はばつが悪そうに視線をあらぬ方に放り投げ、頭をかき、ようやくのことで言った。
「レイちゃんは、似過ぎているよ。いくらシンジ君でも、遠からず何か気づくぞ」
「・・・・気づかせてあげたら?」
 カヲルは、あっさりと言いはなった。
「おいおい・・・・」
「自分の父親が何をしたか・・・・それぐらい、知ってしまったところでなにか不都合がありますか?」
「あのな、カヲル君・・・・」
「・・・・無論、進んでバラすような事はしませんよ。でも、要はこっちの仕事を気づかれなければいい。そうでしょう?」
 さしもの加持も白旗を挙げるしかなかった。なんとも、容赦がない。あの繊細過ぎる少年が全てを知り、精神的な崩壊の危機にさらされたら・・・・それでもこの辛辣なる銀の髪の天使は平然としているのだろうか?

***

アスカは、バスケットをダイニングテーブルに置くなり
「う~~~~~~」
 と唸ったまま、音がしそうな勢いで椅子に座り込んだ。
「なぁに、アスカ。帰ってくるなり不景気な顔して」
 惣流キョウコは夕食のフライを盛りつつ問うてみた。何せ、出ていくときは鼻歌でも歌い出しかねない勢いだったのだ。それがまたどうしたことか。
「ねえ、ママ。シンジのお母さんが入院して、どれくらいになるっけ」
「そうねえ、シンジ君やアスカが中学校へ上がるより前の話だったから、もう2年ぐらい前になるんじゃないの?」
「・・・・今まで、本人があんまり深刻ぶったりしなかったから、こっちもあんまり深く考えたことなかったけど・・・。大変なのよね、シンジん家って」
「そうね。碇さんも昔は結構くだけた人だったのに、ユイさんが入院するころから人が変わっちゃったみたいだし・・・・。あれじゃ、シンジ君がかわいそうよ。シンジ君はよく頑張ってるわ。だからあなたももうちょっと優しくしてあげなさいよ」
 いつもなら、ここで「ぬぁぁんでこの私が!!」と青筋を立てるところだが、さしものアスカも今日という今日は頬杖をついてため息をついただけだった。
 予定時間になって、待ち合わせ場所で合流したときのシンジときたら異様だった。
 一体何処を見ているのか分からない目。
 話しかけても、返ってくるのは生返事。
 そのくせ、ぼうっとして何もかもが分からなくなっているというのではなく、一行が動き出せばそれに従い、学校に帰り着いて解散するときも、大人達にはそつのない挨拶をして帰っていった。
 これと同じシンジを、アスカは前に一度見ている。
 ずいぶん前・・・そう、シンジの母親が入院した頃だ。
 元来が積極性という言葉と疎遠なシンジだが、あのときはさながら自動人形のようであった。何事もなかったように「日常」をこなす。ただ、そこには普通な会話が欠落していた。学校へ行き、授業を受け、何をすることもなく家へ帰る。その繰り返し。
「何よ、私じゃ力にならないってワケ!?」
 アスカは憤激したが、シンジはこう言っただけだった。
「ううん、そんなことないよ」
 だったらなんとか言ってよ!! ・・・そう言いたかった。しかし、目を合わせようとしないシンジにそれ以上の言葉をかけることはできなかった。
 ――――――時間がたつにつれ、シンジに言葉が戻ってきた。いつごろからだったか、明確な記憶はないのだが。何よりも笑うようになったし、誘えば学校以外の所へも出ていくようになった。中学校に入ってからは、さらに行動範囲を広げるようになった。
 立ち直ってくれたのだと、アスカは信じた。
 それなのに。
「どういうことよ。立ち直ってなんかいなかったっていうの!?」
 だん、と握りこぶしでダイニングテーブルを打つ。
 大体、シンジの母親の入院自体、謎が多すぎる。そして、先日転校してきた綾波レイ。・・・シンジの母親によく似た女の子。レイが碇ユイに似ていることを、アスカはシンジが気づくよりはるかに前から気づいていた。
 ――――――まさかね。
 突拍子もない考えに、アスカは頭を振った。
 ここは平和で平凡な街よ。それでもって、シンジも私も平凡な中学生。テストとか、いけすかない教師とか、それなりの悩みもあるけど・・・・一応は幸せな日を送ってる、ただの中学生よ。滅多なことがあってたまるもんですか――――――――。

***

レイが帰宅すると、フロアの真ん中に置かれたガラステーブルの上に、溶けた氷と薄い褐色の液体を湛えたグラスが置かれていた。
「カ~ヲ~ルぅ~~~~!! また留守事やらかしたわね!!」
 しかし、文句の相手はそこにはいない。気がつくと、バスルームの方から音がしていた。
 それにしてもカヲルにしては間の抜けた話だ。レイの帰宅時刻くらい知っていそうなものなのに、店を広げたままでおフロとは。レイも薄々カヲルの内緒ぐらい気づいていたが、あれでストレスを解消しているらしいので、実のところ、基本的には見て見ぬ振りをしているのだ。
 ただし、一般常識として、未成年の飲酒はご法度である。そんなわけで、荷物を片付けながらなんと言ってやろうかと思案していた時、水音が切れ、ややあってバスルームの扉が閉まる音と、カーテンが開く音がした。
「カヲルぅ! 留守事してたでしょ・・・」
 振り返りざま、言いかけた言葉は途中で呑み込まれた。
「・・・ああ、お帰り。レイ」
 今更バスローブ姿ぐらいで動じるレイではないが、その表情に思わず言葉を失ってしまった。
「・・・冷蔵庫に夕食は用意してあるから、温めて食べるといい。僕は要らないから・・・悪いけど、先に寝むよ。それと、明日は休むから・・・レイ、遅れないようにね」
 それだけ言うと、レイに一言も喋らせずにラタンスクリーンの向こうへ入ってしまった。
 レイは黙々とガラステーブルの上のグラスを片づけ、冷蔵庫の中でラップを被っていたグラタンをレンジに入れる。半ば、放り込むようにして。
 レンジの中で回転するグラタン皿を見るともなしに見つめながら、レイの表情もそのころのアスカに負けず劣らず不景気なものになっていく。
 温めた食事は、結局半分ほどしか食べられなかった。
 一人の食事なんて、美味しくもなんともないわよ。カヲルの莫迦!!
 レイも知っているのだ。カヲルが二人の自由を確保するためにあえて「仕事」を受けていることは。しかしレイにはそれが悲しい。カヲルがプライドにナイフを突き刺すような気持ちでそれを続けているのがわかるから。
 私たちは普通に暮らしたいだけなのに・・・・。
 大粒の涙が、レイの頬を転がり落ち、手の甲で音もなくはじけた。

***

 赤木リツコは、猫が飛び交うスクリーンセーバーの画面を放心したように見続けていた。
『あなたは誰も裏切ったりしてはいない。何も洩らしてはいないんだからね』
 中学生の癖に、低く、深い声。耳朶を啄むようにして紡がれた言葉は、麻薬のような響きを持っていた。
『あなたは研究所の駐車場で、猫を拾ったんだ。放っておくわけにも行かなくて、飼い主が現れるまで一晩だけ預かった。そうでしょう?』
 ええ、そうよ。猫を預かったの・・・小さな、猫よ。
『猫を部屋の中に置いて、あなたはいつも通り仕事をしてる。パスコード?気にすることはないよ。だって、ここにいるのは猫だけだ。猫がディスプレイやあなたの手許を見ていたって、何もわかるわけないじゃない。そうでしょう?』
 そうね、ここにいるのは猫だけですもの。紅い眼の猫。
『この猫はね、現金だからあなたが餌をくれる事を知ってるんだよ。だから、時々また寄ってくるんだ。でも、気にすることないよ。猫だもの。ああ、でもマンションの他の住人には気をつけないとね。ここ、そういうのうるさいんでしょ?』
 大丈夫よ。みんな、他人には興味ない人たちばかり。
『そう。それはよかった』
「そうよ。私は猫を連れて入っただけなのよ」
 リツコはしどけない格好のままベッドを降り、パソコンのスイッチを切った。
「だから、裏切ったりしてないわ。私がそんな事するわけがないじゃないの。裏切るというなら、あの人の方が先よ。きっとね」

***

 シンジは、暗闇の中にいた。
 長い時間をかけて作り上げた虚妄の平穏を、自らの手で打ち壊してしまったのだ。
 優しい母親は、彼を捨ててどこかへ行ってしまった。
 父親も、人が変わったようになって、仕事場から戻ってこなくなった。
 僕はいらない子供なの?
 ここにいちゃいけないの?
 誰か助けてよ。
 誰か、助けてよ。
 助けて・・・・・・・

 ダレカ ボクニ ヤサシク シテヨ・・・・・。

――――――第壱話 了――――――