Evangelion SS「All’s right with the world」
第弐話
雨の朝、優しい夜
「えぇっっ!? シンジの奴、まだ来てないの!?」
ケンスケもトウジも、その事実よりアスカの血相の変わりようにビビって凍りついた。
「だって、私出がけにあいつの家のインターフォン、鳴らしてきたのよ!? 居留守使ってたって言うの!?」
「ま、落ちつけや惣流・・・ホレ、なんや用があって、早く出たんかもしれんやないか」
「なぁに寝惚けたこと言ってんのよ、この唐変木の極楽蜻蛉!!それにしたってこの時間にも着いてないってのは、十分ヘンじゃないの!?」
惣流のやつ、悪口ばっかり日本語達者になりよる・・・・そう言いたげなトウジを完全に無視して、やおら携帯を持ち出すアスカ。
恐ろしい静けさの、数十秒。
「出ないっ!!」
その勢いに吹き飛ばされるようにして、トウジとケンスケが後ずさる。
「ね、ねえアスカ、ひょっとして急用で、学校も休むとか・・・・」
ヒカリがおそるおそる、控えめに提言する。
「それなら何で私に一言・・・!」
「それがね、こっちにも何の連絡もないんだわ、これが。まさかあのシンジ君が、無断欠席とはねぇ」
いつの間にやら教室に入ってきていたミサトがそう言って頭を抱えている。
「き、きりーっつ!」
あわててヒカリが号令をかける。礼が終わってがたがたと皆が座ったあと、ミサトは言った。
「とりあえず!シンジ君の件は加持にでも頼むから、皆は授業を受けなさい。時間を見て、私も探してみるわ」
太平楽、どんぶり勘定、ゴーイングマイウェイの権化・葛城ミサトの表情が、僅かに険しくなっている。
そして、綾波レイはただ声もなく青ざめていた。
***
――――――雨が、降っている。
夜来の雨は、今朝になってもいっこうに衰える気配すら見せない。空は薄暗く、心なし部屋の空気すら湿っぽい。
4限の授業が終わるまであと5分弱。頬杖をついて教科書に見入る振りをしながら目を閉じている渚カヲルは、教師の声を完全に聴覚領から閉め出していた。
校舎を、樹々を、水たまりを打つ雨声は、心地好いBGM・・・・。
「じゃ、今日のところはこれまでにしとくか」
古典の教師は、たまたま「起立、礼」を面倒くさがる青葉であった。だが、弁当持参組以外の生徒が購買に向かって走り出す騒がしさで、カヲルの指の間からシャープペンが落ちる。
『無駄口叩いて授業の妨害をしなければ、べつに寝ててもかまわない』と公言している手前、授業中は何も言わなかった青葉だが、ふと茶目っ気を出した。
「渚、おまえ夜のバイトでもしてるのか?今日なんか最初から最後まで見事に寝倒してたが」
だが、言われた相手がカヲルだと、周囲が冗談とは思わない。半分ほど残っていた教室の生徒が、一斉に耳ダンボになった。
―――――その時。
「カヲル!!」
物凄い勢いで教室の戸が開き、銀髪の女の子が飛び込んできた。
思わず周囲が一歩退いてしまうような勢いでカヲルの席に近づくと、やおらカヲルのシャツの襟元を引っ掴む。
「カヲル!カヲル!カヲルったら!! 大変なのよ!!」
ほとんど首を締めかねない勢いに、周囲は声もない。女の子が紅の瞳を潤ませていたものだから、余計に。だがカヲルのほうは至って泰然としていた。胸ぐらを掴み上げられた格好で、にっこりと笑う。
「やあ、おはよう。レイ」
「寝惚けてないで!!・・・ちょっとこっち来てよ!!」
さすがに人目を気にしたのか、カヲルを教室の外へ引きずっていこうとする。カヲルは慌てず騒がず鞄に荷物を放り込み、レイを制して青葉に一礼した。
「すみません、午後から、早退します」
これもまた、にっこり笑って言う。
「あ、ああ。担任の先生に伝えとくよ」
結局、青葉をして、反射的にそう言わせてしまったのである。
なんだ。何なんだ、一体。
―――――――かくて、教室の誰もが唖然とする中で、嵐は去る。
***
5限開始。
委員長であるヒカリの説得に、ついに根負けしたアスカは着席していた。しかし、トウジとケンスケの席は空っぽ。おまけに綾波レイの席までもが。
ミサトの眉が引きつる。
『気持ちは分からないではないけど・・・・あれほど言っといたのにィ~~~~』
***
人目が無くなると同時に、レイは堰が切ったように泣きじゃくった。
「レイの所為じゃないよ」
「でも・・・碇君の様子がおかしくなったのって、あの日曜日からだもの。私が変なこと言っちゃったから・・・・」
「たとえレイが知っていることを全て彼の前で喋ってしまったとしても、彼の失踪の責任はレイにはないよ。それより、彼を探しに行くんだろう?」
「うん・・・・でも、何処を探したらいいの!?」
カヲルを見上げるレイの顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。ひどく思い詰めた、紅い瞳。
「手がかりは探さなければ見つからないものさ。とにかく、自宅の方へ行ってみよう」
***
環状線のホーム。
シンジは、俯いたままベンチにかけていた。
俯いて、というより、背を丸めてといったほうがよい。
ホームも端の方で、屋根はあっても雨は容赦なく降りこんでくる。
何度目かにS-DATが反転リバースしたとき、シンジは立ち上がった。
「・・・帰らなくちゃ」
***
―――――――――苛々しつつ5限が終わり、休憩時間。
「バカシンジったら、一体何処ほっつき歩いてんのよ!!」
昼過ぎに自宅の様子を見に行った加持から、シンジが自宅にはいない旨の連絡を受け、アスカはLL教室隣の教諭控室をうろうろと歩き回った。手に握りしめた携帯がミシミシと音を立てかねない勢いである。
「落ち着きなさい、アスカ。檻ン中の熊じゃあるまいし。苛々してもシンジ君の居場所が分かるわけじゃないでしょ」
そう言いながらデスクの電話を凝視するミサトの顔も、まかり間違っても平穏とは言い難かった。
困るのは、こんなときに父兄である碇ゲンドウとの連絡が取れないことだ。正規の連絡のほかに、ツテを頼って所在を確認しようともしたが、これが埒があかない。これが他の生徒ならエスケープと片付けることも出来たが、他でもないシンジである。登校途中もしくは昨晩、事故ないし事件に巻き込まれた可能性だってありうる。
しかし、親権者との連絡が取れないままに警察に届け出るわけにもいかなかった。シンジが誘拐され、脅迫文が学校に送りつけられでもしたなら話は別だが。
『癪だけど、いまはあの男が頼りよね・・・・』
***
「・・・おや」
シンジの自宅。これ以上ここにいても行き先についての収穫はないと判断した加持がドアを閉めかけた時だった。
向こうも、こちらに気づく。
「授業はどうしたんだい、カヲル君」
「それどころじゃなくなって。行き先についての手がかりはありませんでしたか?」
「さっぱりだね。スペアキイを借りるついでにアスカ君も連れてくれば、何が無くなっているかくらいはわかったんだろうが・・・抜かったよ」
「閉める前に・・・いいですか?」
「ああ。何か、分かるかい?」
明かりをつける。親子四人はゆうに暮らせる、広いスペースだった。よく片付けられてはいたが、住人の生活範囲はこの広いマンションのごく一部に限定されていることが読み取れる。
カヲルは中へ進んだが、レイは玄関でそのまま待っていた。加持は、泣き腫らしたレイの目に気づく。
「どうしたの、レイちゃん。泣いたのかい?」
そう問われ、泣いた理由を思い出し、また涙ぐむ。返事どころではない。
「加持さん」
部屋の奥から、カヲルの声が飛んだ。振り向いたカヲルの紅瞳は、常になく厳しい。
「わ、悪かったよ」
謝らねばならないようなことは何もしていないのだが、つい反射的にそう言ってしまう。しかし、このやり取りで加持は大体の経過を了解した。
カヲルは大体の部屋を見て回るとリビングに戻った。そしてサイドボードの上、ラタンの籠に抛げ入れられたカスミ草に気づく。
「・・・彼は、『病院』がどこかは知らない筈ですね?」
「あ、ああ」
きれいに乾いた小さな花に、指先で触れる。乾いた音。
「第3新東京市が出来る前、一家は何処に?」
「シンジ君が生まれてから数年は、箱根近くの山荘にいたはずだが」
「場所が分かりますか」
「もう人手に渡っているよ。それに、車がなけりゃ行けるようなところじゃない」
「構いません。場所を教えてください」
「あ、ああ。確か・・・・」
加持はバッグから出した端末タブレットに地図画面を呼び出すと、数回の操作の後、第3新東京市にほど近い別荘地の地図を示した。
「電車だと、この辺りまで。あとはバスだな。でも、シーズンオフは本数が少なくなっている筈だ」
「・・・・・・」
カヲルはしばらく地図に見入っていたが、顔を上げて言った。
「ありがとうございます。おいで、レイ」
そそくさと出ていこうとするカヲルに、加持は慌てて声をかけた。
「おい、何か分かったのかい?教えてくれよ、皆心配してるんだ」
カヲルは立ち止まり、聞き返した。
「・・・・『皆』・・・?」
「そうだよ、アスカ君やアスカ君のお母さん、クラスの皆、葛城・・・父親の方はまだ連絡が取れないようだが」
彼が口を開くまでに、暫く間があった。しかしその割に、言葉は素っ気なかった。
「分かりました」
***
一時間後、二人は電車の中にいた。
一度帰り、自宅のパソコンからカード会社のデータを(無論ハッキングで)読んでカヲルは自分の推論を裏付けた。
まとまった金銭を用意する余裕はなかったはずだ。ならばおそらく、旅費にはカードを使った筈。カード会社はダイニングテーブルの上に放り出してあった利用明細の封筒で大体見当をつけていた。
「多分彼は、駅周辺のバスターミナルで足止めをくってる筈だよ。加持さんも言っていたけど、この時期は運行本数が少ないらしいんだ。それにおそらく彼は、交通機関を使ってそこに行ったことはない。午前中のバスには間に合わなかっただろうからね」
淡々と推論を進めるカヲルの横顔を見上げて、レイはすこし心配そうに言った。
「ひょっとしてカヲルは、碇君のこと、嫌いなの?」
思いもよらない質問だった。カヲルは思わずまじまじとレイを見つめかえしてしまう。
「そんなことはないよ。どうして?」
「どうしてって・・・ただそんな気がするだけ」
レイは目を伏せてしまう。しかし、カヲルもそうだがレイの「そんな気がする」はいわゆる気のせい、では片付けられない感覚なのだ。不意の指摘に、カヲルは―――珍しいことに―――狼狽えていた。
「レイみたいに面識があるわけじゃないし、会ったこともない人に好きも嫌いもないだろう」
会ったこともない、という表現は、必ずしも正確ではない。そのことを二人とも知ってはいたが、レイはカヲルの言葉に素直に頷いた。
「う、うん・・・」
そこで、ようやくすこし余裕を取り戻す。悪戯っぽい笑みをして、曰く。
「でも・・・・そうだな、レイがあんまりにも彼に夢中なんで、妬いてるのかもね」
「んもう、カヲル!!」
はぐらかされたことに気がつき、レイは持っていたデイパックで思い切りひっぱたく。
それを軽く躱して、笑う。
『そんなつもりはないんだよ、レイ。ただ、あの男の息子と思うと、無心じゃいられない。ただ、それだけなんだ』