第九話 眩惑の海から


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

すべて世はこともなし
第九話

 

眩惑のから


 深い…深い闇の中に、独り沈んでいくような絶望。
 消えてしまった光。
 多分、自分は随分長いこと…待っていた。
 望んだのは和解。だが、向けられたのは悪意。殺意…殲滅の意思。それが本意ではないと望みながら、長い時間を過ごしてきた。
 ―――――魂に、記憶は存在するのだろうか。
 『渚カヲル』には、当初何もなかった。置かれた環境をただ受容していた。
 希望はなかったから、絶望もしなかった。
 そうするうちに、同じような境遇にあるらしい少女の存在に気づいた。
 それまでに他者を見たことがない訳ではなかったが、言ってみれば動く無機物のようにしか感じられなかった。…それは後から知ったが、研究員、という種類の人間だった。
 だが、少女は生きていた・・・・・
 生きて、動き、感じ、反応をかえす。彼女は自分と同じだと、何に教えられなくとも理解できた。彼女も同じだったようで、部屋から連れ出される僅かな時間にすれ違う程度の接触ではあったが、こちらに微笑みかけてくるようになっていた。
 そしてカヲルも、その少女の姿が視界に入ったときに、微かな笑みを浮かべている自分に気づいて新鮮な驚きを感じていた。
 触れたい、という欲求に気づいたのは、知らず手を伸べて、ひんやりした硝子の感触に遮られた時だった。
 持てる感覚を研ぎ澄ますと、少女の存在を感じ取ることが出来るようになるまでそうかからなかった。それと同時に、少女もまたカヲルを探して感覚を澄ましているのも知った。
 お互いの姿を目にすることも稀で、触れるはおろか言葉を交わす機会もなかったが、お互いの存在をただ感じることで、胸奥が温かくなった。

***

 少女の存在を感じ取ろうとして感覚に集中するあまり、おそらくは外見的な活動量が少なくなったのだろう。それを異状と判断した研究員が部屋に計器を持ち込んで、カヲルに端子を取り付けた。
 それを厭わしく思う自身に気づいた。
 以前はそれが当たり前で、それに対して何ら感慨が湧くわけではなかったのだが。
 カヲルをとりまく環境に変化が起きたのは、その頃だった。
 実際には、カヲルが動かなくなってからある程度の時間が経過していたのかも知れないが、カヲルが関知するところではなかった。
 ある日、いくつもの壁の向こうにいる彼女の感情が大きく揺れ動くのを感じた。
 その時生まれて初めて、『不安』を感じたのだと思う。彼女に何があったのだろうと。だが、彼女の感情からは侵害刺激に類するものを感じ取れなかった。
 知らず、身体が動いた。取り付けられた計器の端子やカテーテルの類がその動きを妨げ、カヲルを苛立たせる。
「大丈夫よ」
 温かい腕が、起き上がろうとするカヲルをやんわりと制し、端子やカテーテルをひとつずつ取り除き始めた。
 重たい瞼をあげると、そこには研究員と同じ服装でありながら、全く違う種類の存在があった。そして、その傍らには、少女がいた。
「起きたいの?」
 その問いに、渇いた喉は答えを発することができなかった。起きたいのではない。ただ…
 少女に手を伸べる。その指先は、いつかのようにひんやりした硝子ではなく…温かく柔らかな感触で報われた。
 しろい…だが僅かに朱を刷いた頬。それに触れた自身のかさついた手が、やはり皓い…いとけない指先に覆われるのを見た。
「やっと、会えたね…?」
 少女は微笑んでいたが、その頬には水滴が伝っていた。水滴はカヲルの指先ではじけ、乾ききった皮膚を潤していく。少女の言葉に応えたかったが、思惟で応えるのが限界であることにようやく気づく。
「私がいない間にこんな非道いことになってるなんて…ごめんね、ほんとうにごめんなさい」
 声こそおろおろしていたが、その動作はきびきびとしたものだった。すっかり軽くなってしまったカヲルの身体を抱え起こし、湿らせたガーゼを軽く唇に当てる。喉が動くのを確認して、今度はごく小さな氷片を唇の間に滑らせた。氷片はすぐに溶け、咽せさせない程度の水分を喉に運ぶ。
「…碇、博士…」
 喉に広がった僅かな水のおかげで、なんとか声が出せる。そう、研究主任の立場にある人物だった。カヲルはこの女性を知っている。碇ユイ博士といった。
「…私が、わかるのね?」
 彼女の問いが、安堵と一緒に一抹の畏怖を含むのをカヲルは感じた。…当然の反応と言うべきだろう。最後に会ったのは、まだ意味のある言葉を発することの出来る月齢ではなかったのだから。
 問いに頷きで応えて、カヲルは両手で彼の掌を包んでいる少女へ顔を向けた。
「会えて、嬉しいよ。だから、泣かないで…」
 少女はもう一度零れた涙を隠すように、握りしめた手に額を寄せた。
「うん、わたしも、うれしい…」
 その日、カヲルは初めて銀の髪と紅瞳の少女が、レイ、という名で呼ばれることを知った。

***

 カヲルに緩やかながら感情の起伏が現れたのはこの頃からであった。外界に対する興味、ないし執着する対象が出現したことと決して無関係ではなかったであろう。ユイ博士はそれを是とし、一切の制約を課すことはなかった。
 殺風景な部屋には明るい色彩を持った家具や、本や、年齢相応の玩具が持ち込まれ、二人が離されることはなくなった。碇ユイ博士がセクション全体の統轄に戻ったらしく、ユイ博士自身は日に数度しか訪れることはなかったが、休日には自分の息子・シンジを連れてくることもあった。
 碇ユイ博士の不在は、産休のためであったようだ。だが、その間を託されたスタッフは概ね二人を実験体としか見ていなかった。…生命維持には尽力したようだが。
 やつれきったカヲルの姿にユイ博士は憤激したが、その一方で彼女自身が妊娠・出産を経験したことが二人に対する心情をある程度変化させたことを認めていた。
「知っているということと、理解するってことは別物なのよね」
 シンジとレイが遊ぶのを眺めながら、ユイ博士が溜息混じりにそんなことを呟くのを…カヲルは一再ならず耳にしている。
 カヲルとレイが感応系の能力を有しており、主にカヲルがその能力を知識の吸収に最大限利用している事実を、ユイ博士はおそらく報告に挙げていなかった。その一方で、複製したアダムの直接接触ダイレクトエントリー実験に踏み切っている。
  直接接触ダイレクトエントリー実験の結果と、レイ、そしてカヲルの生育状況から…ユイ博士は死海文書の無謬性に疑問を感じていた。死海文書の記述に固執する限り、行き着く先は破滅しかないと確信したユイ博士は、レイとカヲルを連れて研究所を出たのだった。
 だが、研究所の追及を振り切るために無理をしたのと…おそらくは直接接触実験の副作用であったのだろう。徐々に意識を覚醒レベルに維持することが難しくなり、ついには動けなくなった。カヲルからは精神感応である程度の疎通は出来ていたが、それも難しくなるに至り、カヲルは加持を介してゼーレを利用することになる。
 カヲルはレイの、レイはカヲルの傍にいれば安定しており、医学的管理を必要とするような状態に陥ることもなくなった。あなたたちはお互いが必要なのね、とユイ博士が笑いながら言ったこともある。
 レイの裡にはリリスと呼ばれる存在があったが、『綾波レイ』の精神発達は概ね平均的な水準で推移していた。それに比べてカヲルは、記憶こそ保持してはいなかったがその発達速度は明らかに常軌を逸していたらしい。テスト結果を見たユイ博士の裡にさざめく畏怖。それを感じ取る度に、なんとも言えない気分にさせられたことを憶えている。それでも、カヲルに正面から向き合ってくれたのはユイ博士だけだった。
 それが、カヲルを辛うじて人間の側に引き留めていたといえるかも知れない。
 レイを護る為に必要であるなら、彼等の期待・・する『使徒』の行状を現実のものにしてやっても構わない。…カヲルはある時期まで本当にそう思っていた。
 レイと二人でいられるなら、世界なぞ破滅してしまっても構わない。忍び寄る研究所の追手に神経を削られる日々で、そんなことを呟いてユイ博士の顔から血色をひかせたこともある。
 無論、冗談ですよと打ち消しはしたが、その時の笑みが韜晦以外の何物でも無いことは、ユイ博士に筒抜けていたに違いない。
 …そのユイ博士も、もういない…。
 もはやこの地上に存在するかどうかもわからない、アダムの眷属…それを屠るために生まれた者。そんな運命を享受せねばならないなら、カヲルは全てを原初の海に還すほうを択ぶ。

 そう思っていた筈だった。

 僅かな躊躇でその機会を逸した。そして、今こうして人間リリンの手に落ち、持てる力を封じられている。…無様というにもほどがあるではないか。

 暗く深い海の底で、愛惜と慚愧と後悔を抱き、不変の安寧を祈りながら瞼を閉じたヨハン=シュミットの沈黙とは違う。

 全てを終わらせるための変化を、カヲルは待っていた。

第九話 眩惑の海から