第拾壱話 神は天に在り…

上弦の月

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 床一面に広がっていたLCLは殆ど流れてしまったが、床はまだ濡れている。毛布に包まれたカヲルの身体はユキノが抱えていた。
 毛布は、状況を聞いたユキノがタケルとタカヒロを後送したついでに家から持ってきたものであった。ユキノとしては当然の配慮と思っていたのだが、それを見たイサナがやおら天を仰いだのには、思わず眉をしかめた。
『何よ? 何か問題?』
『いや、逆だ。ユキノ、おまえ看護師が天職だと思うぞ』
『…真意をはかりかねるけど、とりあえず褒められたと思っておいていいのよね?』
『無論だ』
 イサナが宣誓するように片手を上げた。
 …その後イサナからカヲルを託され、レイと共に待機していた。体温がかなり下がっているのが気がかりではあったが、マンションに逼塞していたレイの状況を鑑みると、代謝機能を落とした、低エネルギーでの自己保全モードと考えられなくもない。ただし、『魂不在』というタカミの判断からして、緩やかに機能停止へ向かっているという可能性も排除出来ないだろう。
 配管を背に蹲っていたタカミが、不意に 身動みじろぎしたのに気づいて振り返る。
「あら、おかえりなさい。レミとイサナにこってり絞られた後でしょうから何にも言わないけど…とりあえず、早いところこの悪趣味なチョーカーを外してあげて」
 だが、目を開けた彼はそれが聞こえたのかどうか…ぼんやりと天井を見つめ、そして自身の掌に視線を落とす。
「…誰?」
 ユキノはカヲルを抱えたまま、タカミの姿をした者から距離を取った。理屈ではなくわかる。その裡にいるのは、タカミではない。
「レイちゃん、私の後ろに」
 硬直するレイに、ユキノは低声こごえで指示した。蒼白になりながらも、レイが従う。
 だが、タカミの姿をしたその者は、ゆっくりとこうべを巡らせると…柔らかく笑んだ。
「…そこに、いたんだね」

***

「…どういうことだよ…?」
 カツミが気味悪げに後ずさる。
「どうした?」
「このおっさん只者じゃないぞ。俺の力をはじきやがる」
「一寸待って、それって…」
「…その可能性があったか」
 イサナが舌打ちしてタラップを駆け上がった。
「なに、どういうこと?」
お前レミはそこを動くな。カツミも離れろ」
 立ち上がりかけたレミを、イサナが制する。その意図を諒解したレミがその場で雷電を領巾のように纏う。
「…南極で拾い集めた組織片を、彼等は切り刻み、調べ尽くした。その挙句にあんな化物ができあがったようだが…一方で培養した組織片の一部を現生人類へ取り込ませることもしていた…17th-cellなどという不可解なモノを理解するためにな」
 イサナが作業用通路に駆け上がるのと入れ違いに、カツミが飛び降りる。
「えー!?まさかそれって」
「どこぞの研究者共と違って自分自身を実験台に使う根性は見上げたものだが…あるいは1st-cellを神の領域への鍵と考えたのか」
「なんかやだなー。そのおっさんは、俺達と同じになったってこと?」
「恐らく違う…ドイツの研究所でも結構な数の実験はされたようだが、成功例はなかった。体組織の融合が出来ても、俺達と同様の形質を獲得することはできなかったらしい。…で、彼等はそれを『なりそこない』呼んでいた」
「…『生命の実』が欠けていたからだ」
 ゲンドウがむくりと起き上がり、イサナに銃口を突きつける。イサナは無手であったが、防御姿勢をとるでなく佇立したまま見据えた。
「お前達の言う『生命の実』とやらが何を指しているのか想像がつかないわけではないが、そうまでして…お前達の敵と呼びならわされた存在を複製して、何がしたい」
「…神への道」
 それは答えであったのか。呻くような声とともにトリガーが引き絞られる。
 イサナが動いた。
 すっと身体を沈める。ほぼ一挙動で音もなく数メートルの距離を詰め、抜き去った。その瞬間でゲンドウの拳銃を叩き落とし、下げた姿勢から片手をついて踵でゲンドウの足を払う。体勢を崩したところで左手首を捉え、背中側へ捻り上げる。
 かつてネルフを掌握していた男は為す術もなく前のめりに倒れた。その左肩をイサナは容赦なく膝で抑え、左手の手袋を取り去る。糜爛びらんした掌に、奇怪な眼球と彎曲した小さな脊椎が浮き出ていた。
「レミ、斬り落とせ!」
 左手を捻りあげたイサナの表情はこの上なく苦々しげではあったが、指示は端的で、しかも揺るぎない。受けた方とて些かの逡巡もなかった。返答さえせずに、その場から跳躍する。タラップを昇るなどという手間は踏まずに作業用通路の手摺へ飛び上がり、雷電の領巾を一閃させる。
 雷電の領巾に打たれたゲンドウの左前腕は一瞬で切断される。焼灼された切断面は一滴の血を落とすこともなかった。
 切り離された前腕から先をレミに向かって投げると、イサナは倒れ伏すゲンドウの項部に肘で一撃を見舞った。再びゲンドウが動かなくなる。
「うっわ…本当に容赦ないなぁ」
 カツミがしみじみと呟いた。投げられたレミはといえば、雷電の領巾で受け取って中空に浮かせている。
「なに当然みたいにこんな気色悪いモノ投げてんのよ。灼いていいんでしょ?」
「そうしたいのはやまやまだが、片腕斬り落とした理由を説明するには証拠物件を残しておかなければ不味いだろう。…カツミ、出番だ」
「…なんかすっげえ不本意だけど、まあ言いたいことはわかる」
 カツミが片眉を捩曲げたが、次の瞬間には、奇怪な組織を浮き上がらせた手首は分厚い氷に覆われた。氷は成長し、一辺50センチほどの立方体を形成してから静かに床へ下ろされる。
「結局何がしたかったんだろう、このおっさん。…ってか、こいつらにとっての神様って一体何なんだろうな? 神様なんていやしないのに」
 それなりに集中力を要求される作業だったらしく、カツミが大きく息を吐いて座り込む。
「敢えて一般化するなら、『救いを与える者』か。だが、救いの在り方なぞ多様すぎて、求められる方もやってられんだろうさ。
 おまけに、彼等が神と呼ぶ存在リリスさえ…もう長いこと自身を救いあぐねておいでだ」
「そーなのか!?」
 イサナの呟きにも似た言葉に、カツミが驚いたように顔を上げた。
「今知ったみたいに言ってんじゃないわよ。何度か話してるでしょ」
 レミが渋面で応じる。
「だってさー、サキとかイサナの話ってチューショー的でよくわかんね」
「要は面倒くさいから途中で理解を諦めてるんでしょうが」
「そうとも言う?」
「ほんとにわかりやすいわねアンタは。そもそもは…」
 レミの講釈は、新たに開いた通路からナオキが降ってきたので中断された。
「あれ?どしたの」
「サキが、どうも面倒くさいコトになってるようだから応援に行けって。ミスズはヴィレの面々に撤退するよう説得しに行った。ユウキは例の坊ちゃんのお傅で残留」
「ヴィレも撤退させんの? じゃ、このお荷物はどーすんだ」
 カツミが氷の奇怪なオブジェを指し示す。
「俺が運んどく。碇ユイ博士のほうへ、早々に押し付けちゃえってことらしい。…んで、あっちは大丈夫なのか?なんか大変なコトになってるけど」
 ナオキが抜け殻の筈のコアユニットを指す。
「…何をしてる?」
 イサナの声が尖った。DSSチョーカーを外され、『タカミ』は本体に戻った筈。それが…微かに身動ぎしたかと思うと咳き込んだ。
「…つ…けた…」
 凍結止血されて動かない左腕を抱え、タカミが緩慢に身体を起こす。
「…まさかと思うが」
「多分、そのまさか…」
 身体を起こしてからも数度咳き込んだタカミが言った。
「彼を…見つけた…。一番近くて、『仮面』を形成してて…ああ、何で気づかなかったんだ、彼は自由になるすべを探してたんだから!
 イサナ、さっき実験場跡で見つけた1st-cell由来の復元体!あれが一時的な依代だったんだ。でも、僕らで何も感知出来なかったってことは、完璧な行き違いだ。僕らがあそこを離れて、カヲルくんがいた最深部まで降りるまでのことだった」
 タカミの言わんとすることに気づいたイサナが静かに青ざめる。
「…彼は、行動可能な依代として条件の合うものを捜していた。条件は、『仮面』を形成していること。例の復元体は一応の条件を満たしていたが、あれの『仮面』は形成不全、ないし機能不全だった。だからもう一度、ジオフロント内を検索した…その結果、ヒットしたのか。
 完全には合致しないにしろ、自身を復元するための情報にアクセス出来る、魂不在の個体ユニットが」
 まるで巧妙な罠にでもかけられたような、だがそれは怖ろしいまでの偶然。イサナがリエへの回線を開こうとヘッドセットを叩く。
「…間に合えばいいが」
 蒼白になりながら、タカミがよろよろと立ち上がる。今転倒でもしたら凍結された左腕が砕け散るのだが、全く頓着していない。
「何でこんな大事なことを見落としてたんだろう…例え遺伝子情報が酷似していたとしても、アカシックレコードへのアクセス機能の無いダミープラグのコアなんて、捜しても無意味だったんだ。
 彼は今、僕の本体にいる。最悪の場合、その意図はオリジナルの抹消だ。僕がAIとして存在していた時の選択がそうだった。自分を繋ぎ止めているものを消去することで、自由になろうとしているんだとしたら…!」