第拾弐話 すべて世は事もなし


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 繁華街とはいえ、通り一本引っ込めば比較的静かではあった。しかも2階にあって、やや時代がついてはいるが品の良い絨毯の敷かれた店内は、雪の中にあるかのような静謐を保っている。
 閑散としているというわけでもない。相応に客はいるのだが、客層がいいのか声高な会話が耳に飛び込むこともなく、低く流れるピアノの曲が十分に聞き取れる程だ。
 午後のお茶には丁度良い時間ではあった。彼等のテーブルには、既にケーキスタンドと人数分のお茶が並んでいたが、マンションでの雰囲気とは逆に、重い空気が座を支配していた。
「…で、状況は説明してもらえるのよね?」
 口火を切ったのはミサトであった。加持はマンションからこちらずっと重い沈黙を保っていたし、タカミは沈痛な面持ちで在らぬかたを双眸に映して言葉を探し続けている。自然、矢面に立つのはマサキとなる。
 有り体にいえば些か面倒臭そうに…マサキは頭を掻いた。
「…さて、どこから説明したものかな」
 昼のことである。(一部を除いて)和やかな談笑の最中。かちゃりというカップが静かに倒れる音に、ふと会話が途切れた。
 リビングテーブルから少し離れた位置で、ローソファに座を占めていたカヲルが、肘掛けに凭れたまま意識を失っていた。カップを置きかけたか、置いた直後に意識が途切れて指先が当たったのであろう。殆ど残りの無かった紅茶のカップが ソーサーのなかで倒れていた。
 レイが、声もなく青ざめた。
 すぐにタカミが傍に膝をついて脈と呼吸を確認し、マサキに目で問う。頷くことでそれに諾を与えて、マサキが小さく吐息した。
 カヲルを寝室に運んだタカミが戻ってくるのを待って、マサキが立ち上がる。
『とりあえず、場所を変えよう』
 そう言ってマンションを出てきたのが此処だったわけだが、レイはカヲルの傍についていると言って残った。
「とりあえず先刻の状況から説明しておくと、あいつはもう数週間、あの通りの覚醒と意識消失を繰り返している。スパンはてんでばらばらだ。数日間全く目を覚まさない時もあれば、朝起きて夜に寝むくらいの間覚醒を保っている時もある。そうかと思えば、さっきのように3時間も保たずにレベルダウンしてしまうこともある。まあ危なくて、迂闊に外に連れ出せん。
 それと、一回の意識消失から再覚醒までの間に、前回覚醒中の記憶が部分的に飛んでしまうらしくてな。何処まで憶えていて、何処からが飛んでいるのかがこれもまたまちまちだ」
「そりゃまあ、あれだけ非道い目に遭ってるんだから無理ないけど…むしろ、なますにされかかって十二時間もしないうちから平気でバタバタ動き回ってたあなたのほうが、私らとしては吃驚ビックリだわ」
 ミサトの遠慮会釈ない物言いに、さしものマサキが苦笑いする。
「いや、決して平気なわけじゃなかったんだが。…そうか、あなたはジオフロントであいつに会ってたな」
「アレを見ちゃったら、幾ら人類を守るためとか言っても信用できるわけないでしょ。
 まあそれより、なんでなの? まるで、ずっとああして暮らしてたみたいな雰囲気じゃない。まさか、以前のこと何も…憶えていないっていうの?」
「そこがややこしいところでね。まあ、今日のは実のところ、反応を見てみたってのもあるんだ。あいつ、あなたのことは憶えていただろう?」
「そうね、一瞬戸惑ったふうではあったけど」
「しかし、加持のほうは憶えてなかった。…微妙に既視感はあったんだろうが、固有名詞まであがってこなかった。めいっぱい不自然だ。一時期、協調…と言って悪ければ、利用し利用される間柄だったのにな? 俺ですら憶えられていたってのに」
「あーもう迂遠だわね。実際、なにがどーなってんのよ」
「…正常性バイアス、そう言って悪ければ、ある種の防衛機制」
 それまでずっと言葉を探すふうであったタカミが、ようやくそれだけ声に出した。
「かくありたいと思った平穏。静謐。かなり虫食いになった記憶の中で、それを補完するために彼は僕ら周囲から情報を読み込み続けているんだ。ただ、その過程で…平穏ならざる記憶を排除している。今のカヲルくんの記憶の中で、ゼーレやネルフとの戦いに関するものは徹底的に排除されているんだ。その矛盾を記憶の再構成というかたちで微妙に修正している。
 幸か不幸か、カヲルくん自身にその自覚はないんだけどね」
「…えーと…つまり、どゆこと?」
 ミサトが苦虫を噛み潰したような顔で問い返す。
「平たく言えば、あいつは目下ジオフロントで負った傷を癒やすために持てる能力をフル稼働させている。主に記憶についてだな。そして自身にとってどうでもいいこと、あるいは出来れば忘れたいことについては適当に辻褄を合わせて後回しにしてるんだ。
 今のあいつの頭の中では、自身は休学して自宅療養中、お嬢さんとこいつはずっと一緒に暮らしてた家族、ってところか。過去をすっぱり無くした上で状況をうまく説明するには過不足ないシナリオだな。怪我の原因についてはやはり若干規制ブレーキがかかるようだが、そんなもん安穏に日常生活を送るぶんには全く支障が無いからな。あの通り至極普通に見えるという訳さ。自分が記憶をなくしているという認識も、おそらく無い」
 マサキが補足する。ミサトがはたと手を拍った。
「うわ、直截。でも判りやすいわ」
 どうやら先刻の反応を見る限り『どうでもいいこと、あるいは出来れば忘れたいこと』にカテゴライズされたと思しき加持が、静かに落ち込んでいる様子を看て取り、やはり面倒臭そうにマサキが補足する。
「そう露骨に肩を落とすな、加持。『葛城先生』って心象イメージは学校という平穏な生活を形成するパーツだったが、『加持リョウジ』はゼーレ、あるいはネルフとと分かちがたく結びついた記憶だったってことだろう。俺にはよく分からんが、こいつが診る限り、あの坊やはお前さんを嫌ってるわけじゃないらしいから」
「判るの?そーいうの」
 ミサトの問いはタカミに向けられていた。タカミは少し困ったように首を傾けてから、ゆっくりと言葉を撰ぶ。
「他の皆と違って、僕はとんと無芸な身でね。出来るのは精神感応くらいで。
 サキが、フィジカル面は殆ど問題ないって言ってるのにカヲルくんが目を覚まさないから、僕が接触してみた。そういうのって言葉にはしにくいんだけど、少なくとも加持さんについて、碇司令と同じような意味で憎んだり嫌ったりしている訳じゃないんだ。
 …まあ、そうじゃなければ僕は絶対に反対したけどね。今日のことは」
 柔らかな物言いの中の微妙な棘。苦笑を浮かべて、ようやく加持が口を開いた。
「憎んでも嫌われても、文句は言えないと思ってるがね。…で?そんな俺に声を掛けたのはどういう意図があってのことなんだ?」
「まあ、これに関してはそう裏も表もあるわけじゃない。マンションでした話の通りさ。俺は暫く日本から居なくなるから、 坊や渚カヲル嬢ちゃん綾波レイの後見を頼みたい。ま、以前と役回りが変わるわけじゃないから、問題なかろう?」
「え、あれ本気なの」
「あのな、俺はこれでも今まで意図的な嘘をついたつもりはないんだが。
 あれだけのことが起こってしまった以上、俺達のことを嗅ぎ回る者がいないとも限らない。特に俺は、行きがかり上ネルフとまともに交戦した上に記録まで取られてる。ヴィレにも関わった。ヴィレだって目下は協力関係とは言え、この先はどうなるかわかったものじゃない。もっと言えば、ゼーレにもヴィレにも関係無く、死海文書の記述に拘る人間がこの先出てこないという保証は何処にもない。
 とりあえず、半世紀ぐらい日本からは離れてほとぼりを冷ましたいところでね。」
「半世紀って…」
「俺が本当は何歳いくつか、とか、今更訊くなよ。これも前に言ったが、俺にもわからんのだから」
 コメントに困って、ミサトが目を瞬かせる。
「あの子らも連れて行く、という選択肢もあった。一時はそのつもりで医院も畳んだんだが、記憶はそのうち戻る。なら、もうすこし此処で様子を見てもいいだろう。見知った景色、見知った人達との接触が必要なことだってある。碇ユイ博士が健在なうちは俄にそこまで事情が逼迫することもなかろうと思ってるんでね。なに、あの子らだけを置いていく訳じゃない」
「僕が、います」
 タカミが静かに、だが決然とそう宣した。
「…ま、そういうことなんだが、残念ながらこいつは見ての通りどうひっくり返しても大学生以上には見えなくてな」
 混ぜ返すようにマサキが横合いからタカミを小突く。
「戸籍なんてどうにでもなるが、社会的信用ってヤツはある程度 外面そとヅラを必要とする。概ねこいつに任せておいてもらっていいんだが、いわゆる法的手続きに『大人』の介在が必要な場合に、名前と顔を貸してもらえれば十分だ」
「社会的信用ねえ…本当にこいつでいいわけ?」
 ミサトが笑って加持の側頭部に鋭く肘を叩き込む。なかば呆然としていた加持になにがしかの発言を促したつもりだったが、幾分強すぎたか、加持は物も言わずに頭を抱えて突っ伏してしまった。
「いや、そりゃ勿論貴女あなた込みだよ。葛城さん?だから二人に声を掛けたんだが」
 何を今更、というふうにさらりと言い放つ。
「へ?私!? しかも何気に加持こいつとセット!?」
「何を今更。一応俺は、貴女の対処能力に結構期待しているんだがね。葛城作戦部長?」
「そんな肩書もん、とっくに返上したわよ。私、4月から第一中に復職すんだから!」
「尚更好都合。坊やには留年してもらう算段だが、まぁ状況を考えれば妥当だろう」
 マサキがあっさりとそう断言した。全て折り込み済み、といった話の展開にさすがのミサトが目をみはったまま硬直するが、長いことではなかった。ふっと息を吐いて、いつもの不敵な笑みを浮かべる。
「…いいわ。私としても、結局何も出来なかったのは口惜しいのよ。正直、このまま全てを忘れろっていわれても無理な話だしね。手伝えることがあるなら協力は惜しまない」
「ありがとう。ま、それほど構えなくてもいいさ。そりゃできれば、世間知らずのちびどもと世間を上手に橋渡ししてもらえれば更に有り難いがね」
「サキ。『世間知らずのちびども』…って、ひょっとして僕も入ってます?」
 タカミが穏やかな微笑の片端を微妙に引きつらせて聞きとがめる。とりあえず片方から諾をもらって肩の荷がおりたというふうに首の筋を揉みながら、マサキが言った。
「入ってないように聞こえたとしたら俺の言い方が悪かったんだろうな。年季の入った引き籠もりの癖にいっぱしの大人ヅラするなよ」
「…何気に非道いこと言ってますよね」
「反論できるもんならしてみろ。15秒で論破してやる」
「何ですかその細かい数字…」
 マサキが不毛な議論を打ち切るようにティーカップを手にする。香気を愉しんでから一口含むと、静かにカップを置いた。
「ゼーレは消えた。ネルフも解体される。それでも安全を考えるなら、一旦かかわりのありそうな場所から撤退するってのが最善だ。しかし、あの子達が本当に望むのは無音の静寂ではなく、平凡だけれど幸福な日々Ordinary but Happy Days、ってやつだからな。先行きはともかく、今はこの街で生きていくのも良かろうよ」
 それは、確かに見かけ通りの年齢の青年が口にする台詞ではなかった。
「…一つ、訊いていい?」
「俺で答えられることなら何なりと」
「いえ、ひとつ確認。…榊君?」
「…っはい!?」
 訊かれるならマサキだろう、と高を括っていたふうのタカミがティーカップを掴み損ねる。
「…タカミ君、なんでしょ?」
 腕組みしたミサトに覗き込まれるようにして問われ、タカミの顔から静かに血の気が引く。
「…えーと…」
「とうとう突っ込まれたな。…ってか、いままでよく突っ込まれなかったもんだ。そりゃ、言わないでくれというから俺も極力避けてたんだが」
「葛城、まさか…」
 加持のほうは、咄嗟にミサトの言わんとすることがうまく繋がらずにそれきり絶句する。
 授業の代返がバレて職員室に呼び出しをくった生徒のように、俯いて言葉を探し始めたタカミを横目にマサキが小さく嘆息する。
「誓って言うが、俺も夏の時点では知らなかったことなんだ。こいつがこの姿ナリでジオフロントに現れるまでな」
「夏…あのダミーシステムのベースになったAI…!?」
「そして、ネフィリムのひとりでもある」
 加持の狼狽を一顧だにせず、ミサトがたたみかける。もはや韜晦することもできなくて、タカミは幾分憔悴した笑みを浮かべた。
「お察しの通りですよ。この姿は、ダミーシステムのコア…有り体に言えばカヲルくんの複製体コピーに引きずられているんです。…多分、髪や虹彩の色は本来のものなんでしょうね。憶えてませんけど。
 …その節は、色々とご迷惑かけちゃって済みませんでした」
 タカミが笑おうとしてしくじる。
「いーのよ。そんな謝罪ことが聞きたい訳じゃないの。…一つだけ確認したいの。あなたがこの街に残るのは、あの子達のためだけじゃないわね?」
「…っ…」
 その表情が、ミサトにとっては十分な答えであった。それを示すように、勢いよく立ち上がる。そこには、得心に至った笑みがあった。
「いいわ、これ以上訊かない。訊かないほうがいいみたいだし」

***

「あー…なんだかいろんなこと詰め込みすぎてちょっとパンクしそーだわ。そゆわけで、加持!もう一件つきあいなさい!」
 ホテルのラウンジ並に上品な空間に些か肩が凝っていたらしいミサトが両腕を大きく振り上げて伸びをしたあと、そう宣言した。
「おい、まだ飲み食いするつもりか?」
「そーよ、呑むの! なぁに、何か予定でも入れてるの?」
 既にアルコールが入っているのではないかという詰め寄りかたに、加持がたじろぐ。ミサトは委細構わず、締めるというよりぶら下げている加持のネクタイを鷲掴みにして引き寄せる。
「『無音の静寂より、平凡だけれど幸福な日々』…十四、五の子供が敢えてそんなものを望まなきゃいけない状況って、どんなんだと思う?」
 幾分声を低めた言葉。加持が思わず答えに詰まる。
「正直、コトが大きすぎて私にも全部理解ったわけじゃない。とりあえず碇司令が大人しくなってくれて、当座の危機も回避されて万々歳だわ。でも、高階センセの話でいくと、これですっぱり大団円って訳じゃなさそうじゃない。
 私達にできることがあるなら、まだ間に合うなら。今私達が立っているこの場所を確かめるためにも、別れてオシマイってのは良くないと思わない?」
「…強いな、葛城は」
「強かないわよ。何もわからずに振り回されんのはもう御免ってだけ。アンタも含めて、ね」
 ミサトが不意にネクタイを離したので、バランスを崩した加持がよろける。
「…悪かった」
 コトの最初は加持がゼーレに協力せざるを得ない状況に陥ったところにあった。結局、加持がミサトを巻き込んだようなものだ。謝ったのは、そのことに対してであった。
「別にアンタだけの所為じゃないけど…そう思うんなら、トコトンつきあって頂戴」
「はいはい、お供つかまつりますとも」
 立ち止まっていては償えない。誰にも。何も。
 加持は、ミサトに手をひかれて歩き始めた。

***

「いいお月さんですねえ」
 冴えた夜空を見上げてタカミは呟いた。
「…ひとつだけ言っとくぞ」
「はい?」
「…エヴァのダミーシステムが完成してしまったのは、お前、自分の所為だと思ってないか?」
 既にマンションが見えるところまで来ていた。もう春も間近というのに、夜の寒さはまだ厳しい。吐く息の白さを双眸に映して、タカミは一度瞑目した。
「…否定はしません。エヴァのエントリーシステムは魂のないアダムの複製体コピーに、ATフィールドの行使を可能にするために必要不可欠だった。魂があると誤認させるための仕組みですから…擬似的な魂として、AIを利用しようとした彼等の方法は間違ってはいなかったと思いますよ」
「それはネルフの思惑であって、お前が責任を感じることじゃない」
 遮るような言葉に、タカミはゆっくりと両眼を開いて煌々と光る繊月を見る。…そして、幾分表情を硬くしたマサキを。
「お前は生きようとした。…それだけだ」
「何だ、そんなこと気に掛けてくれてたんですか。…大丈夫。そんなことを気に掛けるほど、僕は出来た人間じゃありませんよ。確かにあんまり気持ちのいい話ではありませんけどね。
 ただ、あのひとが目指したのはヒトに等しい人工知能だった。それを僕が、横合いから乗っ取ってしまった。…きっと、何らかのかたちでAIとしての在り方を歪めてしまったに違いないんだ。そのことだけが、悔いと言えば悔いですかね」
「だから、それは…!」
「だから、僕はあのひとの前に出るわけにはいかない。そんなことできない。あのひとの研究は完成された。その事実は必要なんだ」
「…莫迦か、おまえは」
 マサキが諦めたようにコートのポケットに手を入れたまま目を逸らす。
「…お前は何も理解っちゃいない」
「そうかもしれません。でも、僕にも理解ることがいくつかありますよ」
「…?」
 笑いを含んだ声に、マサキは逸らした視線を戻す。
「彼はもうシュミット大尉じゃない。カヲルくんです。いい加減、突っかかるのやめたらどうです。端から見てると、どうにも大人気ないですよ」
 揶揄うような微笑を隠しもしない。マサキが憮然として小さく吐息する。…全く、他人の傷を抉ってるのはどっちだ。そう毒づきたくなったが、口にしたのは別のことだった。
「…んなこたわかってる。お前があれを猫可愛がりするから、先行きが心配なだけだ。中身はどうあれ、十五やそこらの子供だぞ。甘やかせばいいってもんじゃないだろう」
「大丈夫ですって。とてもしっかりしたいい子たちですよ」
 そう言って、笑う。身を翻して、マンションのエントランスへ足を向けた。
「おやすみなさい、サキ」

***

 エレベーターの壁に身を凭せかけて、タカミは静かな駆動音を聞いていた。
 身体にかかる重力。背を預けている壁の感触。足下の床が伝えるかすかな振動。建物特有の匂い。すべてはこの世界を構成している。かつて自分が見ていた世界…データと視覚情報、センサの伝える数値で構成されたそれと同じものであるはずなのに、何もかもが新鮮だった。
 軽い音と共に、エレベーターが減速…停止する。目を開けると、扉が開くタイミングだった。
 歩き出す。高層建築のオープンな廊下は地上とはまた違う匂いを持っていた。
 玄関ドアを開けると、暗い中からヴァイオリンの旋律が聞こえた。この音は…
「カヲルくん?起きてたのか」
 答えはない。コートを掛けて、リビングへ向かう。音は、もっと奥からだった。
 細く聞こえる音色を頼りにその姿を探して、細く扉の開いた寝室に辿り着く。
「開けるよ?」
 旋律が途切れる。灯りはつけられていなかった。しかしカーテンは一杯に開かれ、繊月の朧な光が部屋の中に満ちていた。
 月…リリスを地上に残して衛星軌道上に浮上した母船。その機能は失われたのか、それとも休眠状態にあるだけなのか。今、それを確かめる術を持つ者は地上にいない。
 小さなテーブルを挟んでふたつ並んだベッドの片方に、昼の格好のままのレイが眠っている。
 そして反対側のベッドに、カヲルがヴァイオリンを手にしたまま腰掛けていた。
「…加持さんたち、帰ったんだ」
 俯いたままの、問い。タカミが反応するまでには僅かな間があった。
「今、送ってきたところだよ」
「…あの人は最初から、僕らが何者か知らされていた。その所為だったんだろうか。いつも、軽口を叩きながら…畏怖を隠した目で僕を見てた。葛城先生なんて、知った後でも全く態度が変わらなかったのにね」
「…いや、それに関しては…葛城さんが人類的規格外に肝が据わってるだけだと思うんだけど。
 加持さんか。あの人もきっと、葛城さんと同じくらい君たちのことを気に掛けていたと思うよ。ただ、手段を探しあぐねてたってだけで。だからこそ、償う機会を欲してる」
「そうなのかな…なら、これでいいのかも知れない」
 話をそこで打ち切るようにヴァイオリンを置き、ゆっくりと視線を巡らせる。そして、戸口に立つタカミをひたと見た。
「…ずっと、不思議だった」
 その表情は、 いはけないようであり…ひどく超然としているようでもあり。今朝起きた時とは明らかに違っていた。それに、加持のことも思い出している。
「その姿の記憶はひどく曖昧なのに…疑いのない事実として僕の中に残っていた。あなたは、ずっと僕の傍に居たんだ…ずっと前…きっと、『僕』渚カヲルが生まれた時から」
  仮初めの時間モラトリアムは去り、来るべき時が来た。安堵と、寂しさと、そして僅かな不安。それらが綯い交ぜになって胸を圧迫する。その苦しさを逃がすように、タカミは細く息を吐いた。
「…そうだよ」
 ようやくそれだけ言って、カヲルの傍らに座を占める。
「僕が、自身が何者かさえ判らない頃から、君たちを見てた。…僕にはそうすることしかできなかったから」
 新雪のような銀の髪に手を載せて、微笑う。
「だから、とても嬉しいよ。こうして、君たちに触れることができるのが」
「MAGIの中…に…どのくらいいたの」
「さて、僕にも判らない…赤木ナオコ博士がAIを構築し始めた、たぶんかなり初期だろうね。おそらくはMAGIが構築されるよりも前だったんだろう。膨大な情報入力があったけれど、僕はそれに何も感じることはなかったんだと思うよ。…君たちが、生まれるまでね」
「…『他者』の存在があって初めて、『自我』を認識する…」
「そうだね、誰の定義だったかな。でも、多分あの時初めて、僕は自分自身を認識したと思う。そして、思ったんだ。触れたい、話がしたいって」
「…でも僕は、あなたに気づくことが出来なかった」
 それはひどく、困ったような、申し訳なさそうな。しかし次の瞬間、タカミは俯いた銀色の髪を笑ってくしゃくしゃとかき回した。
「可愛いなぁ、こーんな表情かおも出来るんだ?」
「…タカミ!」
 さすがにカヲルがはねのけようとするのをするりと躱して、まだ笑う。
「はは、ごめんごめん。君ときたら、いつも表情に余裕がないんだから」
 その言葉に、カヲルの表情が急速に冷える。
「…余裕のある状況なんか、一度も無かった」
「そうだね、君はいつも、レイちゃんを守ることで一杯だった。あの頃多分…僕は多少浮かれていたんだよ。本当に、ごめん」
 笑いを納めて、タカミが殆ど無意識に自身の左腕に手を遣る。
 あの日、あの廃ビルの屋上で。カヲルはレイに近づいたタカミの腕に斬りつけた。カヲルにとって、その時レイ以外の全てが敵だったから。
 …そこには今、一筋の傷痕も残っている訳ではない。その時の『タカミ』は、今のこの身体ではなかったのだから。それでもカヲルは弦を傍らに措くと、そっとタカミの左腕に触れて…俯いたまま、か細い声でその言葉を口にした。
「…ごめん」
「君が気にすることじゃないよ。もう終わってる。…もう誰も、君たちを利用したり、狩り立てたりなんかしない」
 先刻とは違い、タカミがゆっくりといたわるようにカヲルの頭を撫でる。
「…もう、誰も…」
 カヲルはその言葉を反芻しながら、シーツの上に置かれたケースにヴァイオリンを戻してタカミの膝の上に頭を預ける。深い安寧に思わず眠りにひきこまれそうになるが、それを振り捨てるように紅瞳を見開き、タカミを見上げて言った。
「…いや、何も変わってない。ゼーレが滅んでも、ネルフが解体されても、死海文書の記述を知る者がいるかぎり…いつかまた、彼等は僕達を異質な存在として駆逐しにかかるだろう」
 だが、それを受け止めた緑瞳は笑っている。
「そこが、大尉と君の見解の相違なんだろうなぁ」
 タカミは膝の上に載ったままの白銀の髪を大事そうに梳きながら、苦笑に近いものを閃かせた。
「サキは君と同じ見解だからね。その為の準備はしてる。まあもし、そうだったとして…君一人が全てを背負って闘うことなんかないんだ。大尉がかつて、僕らを守ろうとしたように…今度は僕らが君たちを守る」
「…『ヨハン=シュミット大尉』…憶えてる…僕はあのとき、ここにいた」
 手を伸べて、タカミの胸に手を当てた。シャツの下に触れる瘢痕。仮面と呼ばれる特異器官。時間と空間を超越した認識を可能にし、彼等に自分たちが何者であるかを正確に把握させるための仕組み。非常に制御コントロールが難しく、タカミがアベルと呼ばれていた頃…この制御に失敗して危機的状況に陥った。
「…うん」
「…でも今はもういない」
「そうだね。…でもカヲルくんはここにいる」
「僕にはなにもわからない。『ヨハン=シュミット大尉』の悲哀も、苦しみも…希望も」
「必要ない、とあのひとは判断したんだと思うよ。…君は、カヲルくんだから」
「必要、ない?」
 紅瞳が見開かれる。
「君が見て、聞いて、感じて…そして思ったことがすべてでいい。あのひとはそう考えた。…僕もそう思う。
 今にして思えば、僕は余計なことをしたのかも知れない。…でも、知っていて欲しかったんだ。君がひとりじゃないことを。…白状すると、A-17文書アレを仕込んだ時は自分が何者か正確に知っていた訳じゃなかったんだけどね。ああ、知らなかったからこそ、だったのかな。あの時、僕が出来ることは他になかったから」
「…例の簡易端末タブレットのファイルのこと?」
 タカミが苦笑を閃かせる。
「君も研究所に居たんだから、A-17文書の存在を知ってる可能性はあったけど…やっぱりいらないお節介だったね。今なら理解るよ。君に必要なのは膨大な過去ではなく、まっさらな未来だから。
 君は、君が望むものへ手を伸ばせばいいんだ」
「僕の…望み…」
 カヲルはそう呟いて緩慢に身を起こし、淡い月光の下で眠るレイに歩み寄った。ベッドの傍にひざまずくと、健康な寝息を立てているレイの頬に触れ、髪をかきやって呟く。
「レイと…笑ってるレイと一緒に居られたら、他には何も望まない」
「じゃあ、君が幸せにならなきゃね」
 至極嬉しそうにそう断じられて、カヲルが面食らったようにタカミのほうを見遣る。
「哀しい顔とか、切羽詰まった顔の君じゃ、レイちゃんを悲しませるばっかりだよ」
「…普通、恥ずかしくて言えそうもないことを臆面も無く言うね、あなたは」
「そうかな?」
「そうだよ!」
 焦れたように声を高くするカヲルに、タカミが唇に指を当ててトーンダウンを促す。レイが起きる様子はなかった。
「さてと。もうおやすみ。明日はレイちゃんよりも早く起きて、安心させてあげてくれよ。今朝言ったのは掛け値なしの真実だからね。君が起きないと、レイちゃんは本気で十分おきくらいに呼吸してるか確かめに行くんだから」
 立ち上がって扉をそっと開けながら、タカミが殊更に声を小さくして言った。カヲルが目を丸くする。
「…喩えじゃなかったんだ」
「そのぐらい心配掛けたってコト。自覚しなきゃ駄目だよ」
「…うん」
 レイの傍らに掛けて、その寝顔に視線を落とし、カヲルは今度こそ素直に頷いた。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 タカミが静かに部屋から滑り出ると、扉を閉めた。その、いっそ神々しくさえある光景に目を細めながら。
 淡い月光がもたらす、水底を思わせる静謐な薄闇の中。
 ふたつの影がゆっくりと重なる。

第拾弐話 すべて世は事もなし