Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

すべて世はこともなし
第拾弐話

 

すべて世はこともなしAll’s right with the world!
Extra Part


 花の季節は終わり、キャンパスは新緑が燦めいていた。
 次の講義までにはまだ少し余裕があった所為でもあったが、榊タカミは研究棟のすぐ傍に聳える一本の木の下から、なんとなく離れ難くなっていた。
 有り体に言えば、困惑していた。
 木の上に、黒い仔猫。緑陰には見事な保護色になって、タカミも鳴き声を聞くまで気づかなかった。高さで言えば、三メートル程度の場所。張り出した太い枝の根元あたり、まあ取り付くならそこしかなかっただろうな、という場所に、その猫はいた。
  孔雀石マラカイトのような双眸を一杯に広げて、枝の上で四肢を突っ張っている。
 その双眸の声なき声に、先ほどから引き留められていた。
「…えーと、ひょっとして、降りられない、とか? いや、まさかね。一応猫だし、このくらいなんとかなるんじゃないの?」
 問いに答えが返るわけもないのだが、とりあえず言ってみる。案の定、返事はなく猫はもぞもぞと足を踏み換えるばかり。
 木の形状を見る。足がかりになりそうな場所がないでもない。少し登れば、猫の居る場所まで手が届くだろう。
 だが、正直なところ木登りなど経験は無い。…というより、自慢ではないが他人より運動神経は鈍い方だと認めている。木の上の猫に付き合っていた日には、助けるどころか自分のほうが先に落ちるのは自明だった。
 それに第一、猫が木の上に居たからと言って、好きで木に登っているという確率のほうが圧倒的に高いのではないか。…というか、普通そう考えるだろう。だったら、この場からあっさり立ち去る、というのが一番妥当なのではないか。
 しかし、何かが彼を引き留めていた。
「…やっぱり、あれかな」
 今、ここで観察できる限り、タカミの憂慮を説明出来そうな事象は何一つ見当たらない。…だとしたら、この漠然とした不安こそが、あの猫からのメッセージというのが一番妥当だった。
「イサナだって、サカナにも理解るヤツと理解らないヤツがいるっていうし、猫に何か訴えかけられたってそう不思議なことでもない…のかな」
 試しに、手を伸べてみた。届くわけではないのだが、差し出された手に猫が神経質に足を踏み換える。同時に、胸中に漠とした不安らしきものが、水が染み出すように現れる。
「…やっぱり。猫にさえ引っ張られるのか、僕は」
 手を一度引っ込めて、吐息する。接触するのが一番手っ取り早いのは判っている。問題は、そこまでのリスクを冒す必要があるかということだ。
「…どうしたもんかなー…」
 猫とにらめっこしながら無意識に口許に手を遣ると、頬のあたりに何かがついたのがわかった。指先についていた何か?  手の甲で拭ってから、慄然とする。禍々しい紅。鉄の匂い。
「怪我してる?」
 血液が滴り落ちるというと、相当の傷の筈だ。喧嘩でひっかかれたというレベルではあるまい。…あるいは、四肢のいずれかに結構なダメージをくって動けなくなっているか。だとしたら、上がったのではなく、上から落ちたという可能性もある。
 この木が立っているすぐ傍の研究棟は、5階建てだ。
 子細に観察すると、僅かに呼吸が浅い。身体を小刻みに震わせている。
「あーもう、やるしかないか」
 バッグを研究棟の張り出した窓枠に置き、幹に手を掛ける。
「君が、『理解るヤツ』であることを祈ってるよ」
 接触できればエンパシーの応用で大人しくさせることは出来るだろう。問題はそれまでに暴れられたら、こっちも危ないし傷を拗らせかねない。
 ゆっくりと近づく。
 敵ではない、逃げなくていい。猫相手にどれだけ伝わるものか判らないが、今はそう念じるしかなかった。膨れ上がる不安を感じる。もうパニック寸前だ。…頼むから動くな!
 ようやく、手の届く位置まで登って、改めてぎょっとする。後肢に折れた小枝が刺さっていた。やはり、この建物のどこかから落ちて木に引っかかっていたのだろう。
「…大丈夫、おいで」
 言葉では伝わらないと判っていたが、自然にそう口に出していた。猫のほうは、観念したか余力がなくなったか、それ以上動こうとしなかった。
 額に触れ、一時的に統制コントロール下に置く。猫はゆるゆると近づいて、タカミに身を委ねた。
「いい子だね」
 さて、ここからが問題だ。仔猫だから片手で十分支えられるが、ただでさえ一杯いっぱいなのに、片手塞いでこの木から降りられるだろうか?
 猫がすくんでいるだけだったら、適当なところで下ろしてやるという選択肢もありだ。だが、滴るほどの出血がある猫を空中で放り投げるほど、自分は度胸がよくない。
 まさにやるしかないので、注意しながら一足ずつ後退する。
 猫が大人しくしていてくれたのは幸いだった。なんとか、ここからだったら飛び降りても大丈夫かな、というあたりまで降りたとき、不意に手が滑った。
 …そういえば、古文のテキストにあったな。「徒然草」だったか。「あやまちは、やすき所に成りて、必ずつかまつる事に候ふ」か…。
 落ちる。もうそれは仕方ない。でも、この猫がまともに地表に叩きつけられる状況は避けたかった。
「…っ…!」
 背中から落ちたものだから、瞬間、呼吸が停まった。
 何だか脇腹あたりで鈍い音がしたような気がする。間違いなく、肋骨をやった。ようやく回復した呼吸から血臭はしないから、肺は傷つけてない。四肢も、多分大丈夫。でも面倒だな。よりによって肋骨か。暫く咳もクシャミもできやしない。
 胸に抱えていた仔猫がそのままタカミの胸の上で立ち上がり、か細い声を上げた。
「無事なのは何よりだけど、出来ればそこ、退いてくれないかな。君ぐらいの体重でも…そこそこ痛いんだけど」
 言葉が通じた訳でもあるまいが、黒い仔猫がゆっくりと降り立つ。木の枝が刺さっている後肢を引きずりながらではあったが。
 まずは一安心として、とりあえず動けない。腕の時計を見た。そろそろ移動しないと次の講義に間に合わない…。
「…捕まえた」
 声が、聞こえた。女の人。
「あの…その子、医者に診せてあげてもらえます?もしくは飼い主に連絡を…脚に枝、刺さってますよ。多分、そこの窓から落ちたんじゃないかな。木に引っかかってたらしいんだけど」
 痛みで軽く目を回していることを自覚しながら、ようやくそれだけ言った。誰だかわからないが、あんな痛々しい格好の猫を放っておける人はそう多くないだろう。
「有り難う。この子、うちの子よ。手当は出来るわ。…それより、あなたのほうが大変ね」
 その声に聞き覚えがある気がして、無理矢理 目を開ける。
「…え?」
 木漏れ日をはねる、脱色された髪。少しキツめの目許に黒子。
 それを目にした途端、急速に視界が回るのがわかった。耐えられず、目を閉じる。

 ―――――リテイクだ。絶対 やり直しリテイクを要求する。

 確かに、もう一度会いたいとは思った。イサナの言うとおり、出来るものなら全く別の誰かとして、もう一度出会いからやり直したいと。でもこれはあんまりだろう。別に、小説のような出会いを望んでた訳ではないけれど、叶うものならもうすこしマシな出会いかたを…。間が抜けているにも程があるというものではないか。
 五体を地に着けているにもかかわらず、凄まじい力で振り回されているような眩暈に、ああ、肋骨だけじゃなくて頭も打ったんだなと変な納得をして…意識が途切れた。

***

「CT上、頭部は特に問題なし。右の第7から第9肋骨で骨折あり。ただし、肺の損傷はなし。その他は擦過傷がいくつか…。まあ、肋骨に関してはバンドで固定する以上処置はないから、退院しても大丈夫よ」
 意識が戻ったのは夕刻近くになってからだった。
「はい、有り難くそうさせていただきます」
 タカミは即答した。カヲル達が帰宅する時刻よりも早かったのがせめてもの幸いだった。こんなこと、バレたら何を言われるか。
 医学部付属の病院。全く、実習より先にお世話になる羽目になるとは思わなかった。
 カルテの端末タブレットを繰りながら、淡々と説明をしていたリツコが初めて微かに悪戯っぽい笑みをする。
「理工学部じゃなくて、医学部とはね…榊君?まだ教養過程だったの」
「すみません、当年とって24ですがストレートで入った訳ではないので。サキ…高階院長に、『医者が足りないからお前が医師免許とれ』と言われてまして」
 24歳という年齢はサキが勝手に付け加えた偽造戸籍だが、理由は掛け値なしの真実だった。
「高階さんに連絡は?」
「勘弁してください。笑われるか叱り倒されるかどっちかなのが目に見えてます」
「それにしても勿体ないわね。あなたが組んだウィルスを解析したわ。情報科学科が今すぐ欲しがるでしょう」
「それこそ本当に勘弁してください。間違いなく、テロ容疑で拘束されますって」
 それに関しては貴女も同罪ですけど、と付け加えようとして、やめた。更に物騒なことを、彼女が先に付け加えたからだ。
「…っていうことは、口止め料が請求できそうね?」
「…は?」
 端末を置いて、彼女が微笑む。
「私ね、追放処分が解かれてからいくつかの学部から声を掛けられてるんだけれど…今、MAGIを越えるコンピュータを設計中なの。あなたが手伝ってくれれば心強いわ。その代わり、例のウィルスの解析結果については不問。どう?」
「えーと、僕まだ学生なんですが」
「あら、私にだってあるわよ?学籍番号。電気電子生命学科生命理工学専攻と、応用化学科。珍しくないわよ。講師だけじゃなくて准教授あたりも別の科で学籍とってることがあるし」
「何で貴女が今更応用化学?」
 MAGIに投入されていたテクノロジーを考えれば、まさに今更な感じだ。
「やりたいことがあるからに決まってるでしょう。私はジオフロントに埋まったMAGIを復活させたいんじゃない。越えたいんだから」

 その言葉に、なにかがすとんと腑に落ちた。

 …ああ、この女性ひとは…今まで「しなくちゃならないこと」を懸命にしてたんだ。だから、今からは「やりたいこと」に挑戦し続けるんだ、と。
 哀しい結末を、魂が摺り切れるほどに見てきた。よりましな結末を求めて、正気を失いかけるほどに観測を繰り返した。それでも結果が変わることはほぼなくて…いつしか、抗うことにも疲れ果ててしまった。
 そして、長いこと眠っていた。そうでなければ、狂いそうだったから。
 それでも夜は明ける。目覚めて、辿った道が正しかったのかどうか、今は判らない。『未来』を観測することの危険を理解した今、敢えてその愚を冒すつもりもなかった。

 …それに、もう逢えたから。

 もう二度と逢えなくても構わないと思っていた。逢うわけにもいかない理由もあった。
 彼女は生き残った。最悪の結果は回避したのだから、それでいい。…そう思っていた。
 ―――――なのに。
 観測でも、現実でも、こんなにいい顔をしているこの女性ひとを見たのは、初めてのような気がする。…ひどいな、また夢が見たくなってしまう。折角、諦められると思っていたのに。

「…――――――僕でよければ、喜んで」

 タカミはそう言って、手を伸べた。

――――――第拾弐話 了――――――
すべて世はこともなし 完