「…まだ、起きてたんだ?」
 仄暗いリビング。扉が開いたままの書斎には煌々と灯がついていたから、明かりが落とされているとはいっても闇というわけではない。だから、タカミが書斎から洩れる灯を背にソファに身を預けているのはカヲルにもすぐに判った。
「明日の口頭試問でラストって言ってなかったっけ?…こんな時間まで起きてて大丈夫なの」
「そーは思うんだけど…困ったことに目が冴えちゃったみたいでね」
 順調にことが進んでいるにしては、やや生気を欠いた微笑。無理矢理だな、というのがあからさまに判ってしまう。帰ってきたときに少し様子がおかしかったから、覗いてみたら案の定。
 カヲルが近づくと、タカミの前…リビングテーブルの上にマグカップがひとつ置いてあるのが判った。キッチンカウンターにはティーストレーナがそのままだったから、中身の想像はつく。
「眠れないのに紅茶なんて飲んでどうするのさ。余計目が冴えて…」
 言いかけて、カヲルは紅茶の香りの中に混じる違和感に気付いた。決して異臭というわけではなく、むしろ芳香と呼ばれる種類のものだ。
 キッチンの棚の中に一本だけ入っているボトルの中身。料理用にするには勿体ない値段のブランデー。以前マサキが持ってきて置いていたら、タカミは「下戸と子供しかいない処になんてモノを!」と文句を言っていたが、結局ブランデーケーキに化けることもなく死蔵されていた代物だ。そんなものを持ち出すなんて余程のことではあるまいか。
 カヲルはもう一度、カウンターに目を走らせる。ティーストレーナ以外の物は残っていなかった。ボトルはきちんと仕舞われている。…一杯だけ、本当に眠り薬のつもりらしい。まあ、まだ大丈夫というところか。
 だから、カヲルが口にしたのは別のことだった。
「何か、あった? …その、午後から出た時に」
「まあね」
 ソファの上で片膝を抱えて、さらりと肯定する。読ませないことにかけてはほぼ完璧だが、タカミ自身ではそうとは思っていないらしく…カヲルに対して敢えて隠し立てをすることは少ない。そのことが、カヲルにしてみればちくちくと良心をつつかれる感はあるのだが。
「今日、大学で…会ったんだ、リツコさんに」
「行ったの?研究室」
「まさか! …約束だからね。偶然だよ。ただでさえ会いたいときにいつも会えるわけじゃないから、幸運な偶然ってのは嬉しいよね。
 …リツコさん、研修棟の前を歩いてた」
 研修棟、と聞いて…カヲルは学内建物の位置関係を思い出す。彼女の研究室からは少し離れている。退勤か出勤の途中としてもすこし回り道だろう。あと、あの辺りには…。
「大学病院のすぐ裏手なんだよ。あそこ。覚えてる?春に僕が樹から落っこちて運ばれた所」
 先程より幾分温かみを取り戻した微笑で、タカミが言った。
「あの緑地って、入院患者の屋外歩行練習のコースに設定されてるんだ。…まあ、この寒い時期だと防寒対策も大変だからあまり使われてないけどね。そこで、秋頃って言ってたっけ…見かけたんだって。…誰だと思う?」
 カヲルは自分の顔から血の気が引くのを感じた。
「碇司令…いや、元司令というべきなのかな? 勿論ひとりって訳じゃなくて、療法士さんがついての歩行練習中だったから…別に何を話したわけでもないけど、確かにあのおじさんだったらしいんだ。
 …やだなカヲル君、そこまで顔色変えなくったって。そりゃ、君も大変な目に遭わされたんだから無理もないけど、今じゃちょっと身体の不自由なただのおじさんだよ」
「…そう、だね…」
 タカミらしいといえばタカミらしい、至って穏当な解釈でカヲルの顔色の変化を片付けてくれたのにはほっとしたが、『大変な目』に遭わされたのは何もカヲルだけではない筈だ。
 ジオフロントでタカミに重傷を負わせたのは、他ならぬ碇ゲンドウである。たまたまダミーを依代にしていたのでなければ、まず助からなかっただろう。
「まぁ、僕だって言えた義理じゃないけどね。多分、話を聞いた時にはきっとものすごい顔をしてたんじゃないかな。ちょっと、リツコさんに心配させちゃったみたいだし。
 で、まあ…リツコさんとしては、『積極的に何か話をしたいわけじゃないんだけど、様子ぐらいは見てもいい』…って、近くに用事があったら回り道してるんだって」
「そうなんだ…」
 存外残酷な女性ひとだな、とカヲルは思った。ジオフロントでの経緯は彼女リツコの知るところではなかったにしても、よりによって昔の男の話をこういうタイミングでしてしまうか。
 あるいは昔、ただ単に研究の方向性の違いから喧嘩別れした昔の上司、というつもりで話をしたのか? …それは決して嘘ではないが、事実のすべてを語ってもいないのだ。
 カヲルは、それを知っている。
 Serial-02と同調シンクロしていた時のタカミもまた、知っていた筈だ。そして、碇ゲンドウに些か子供っぽい程にストレートな憎悪を向けていた。そうでなければ、コテージでのSerial-02の言動は説明がつかない。
 本来の身体に戻る際に、忘れてしまったのか。それとも、外見的な成長はマサキが言うような見栄ではなく、AIとの同調・成長・分離を経る間に遂げた、実時間よりはるかに圧縮された内面の成長に伴うものだったのか?
 後者なら、今のタカミの穏やかな態度は理解できるが…。
 カヲルが掛ける言葉に詰まっていると、タカミはおもむろに抱えていた膝を下ろしてマグカップの残りを呷った。
「ごめん、カヲル君。やっぱり愚痴だね、これは」
「…愚痴?」
 一瞬、何のことを言っているのか判らなくて…カヲルは素直に訊き返した。タカミは立ち上がってキッチンカウンターの方へ歩き出す。
「そう、愚痴だよ。僕はね、あのおじさんのこと話してるリツコさんを見てて…何だかひどくもやもやしたんだ。どうなるものでもないのにね。それでもって、もやもやしてる自分自身になんだか嫌気がさしちゃって」
 マグカップとティーストレーナーを簡単に洗って伏せながら、言った。
「でも、喋っちゃったら何となく気が楽になったよ。ありがとう。何でも話せる相手がいるって、大切なことだよね。…あー、何とか眠れそうだ。明日も…あ、もう今日だね。頑張らなきゃ。
 おやすみ、カヲル君」
 そう言って振り返ったタカミは、いつもの人の好い笑みを湛えていた。

***

「…やっぱりタカミ、起きてた?」
 部屋に戻ると、さっきまで布団を被っていた筈のレイがベッドサイドランプを点けて半身を起こしていた。
「ごめんレイ、起こした?」
「ううん、実は起きてた。…だってタカミ、何かあった時ってものすごく分り易いんだもの。カヲル、戻ってこないから様子見に行ったのかなって」
 気付いていたのが自分だけ、と思うのは、とんだ傲慢だった訳だ。カヲルは苦笑して、ベッドの上に寝転がる。
「レイ、さすがだね。でもまあ、何とか眠れそうだって」
「よかった。で、何だったの?」
 レイがカヲルのベッドの端に腰掛けて、ひょいとカヲルを覗き込む。
「うーん…何だか説明しにくいな」
 普段なら自然な距離なのに、不意に近く思えて…カヲルは思わず前髪をかき上げる動作で目許を隠してしまう。
 ひょっとして、先刻のタカミの話にあてられたのだろうか?
 会いたいときにいつも会えるわけじゃないから、会えたときが嬉しい。そんな…普通なら恥ずかしくてとても言えない台詞を臆面もなく口にできる精神性メンタリティはいっそ羨望に値する。
 いつも傍にいることができるのを当たり前のように思っているカヲルなぞ、本来は度し難いのではないだろうか。幸か不幸か、あの底無しのお人好しはそんなことを毛筋も思わないらしいのだが…。
 そんなタカミでも、悋気1と無縁でいられるわけではないのだ。
 想いを寄せるその女性ひとが、自分ではない誰かのために心を揺らしている。ただそれが苦しい。おそらく彼女にとって、それは遠い過去のことなのだろう。少なくとも…人に話すことが出来る程度には。しかし、どうなるものでもないと言いながら、囚われずにいられない。

 …多分、それは自然なことなのだ。こればかりは論理ロジックではどうにもならない範疇なのだから。
 だからこそ、聞いてくれる相手は貴重。そういうところは相変わらず、至って論理的ロジカル。平常運転、明快、些か身も蓋もないくらい。しかしそれも、いっそ羨ましく思える。
「…まあ結論としては、『ちゃんと話そう』ってことかな」
 いきなり結論だけ出されて、レイが首を傾げて紅瞳をしばたたかせる。
 しかし、相応の納得があったものとみえて、レイが満腔の同意を込めて頷いた。
「そうね、話しちゃえば楽になることってあるもんね。私も、前はカヲルが何にも言ってくれなくて、悲しかったこともあったけど…今はちゃんと話してくれるから、嬉しいな」
 そう言って、レイがころんとカヲルの傍に寝転がる。
 十中八九赤くなっているであろう顔を見られたくなくて、カヲルはその胸にレイの額を着けるようにして抱き寄せた。

――――Fin

  1. 悋気…いわゆる嫉妬