第Ⅵ章 Libera Me

Libera Me

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」


わたしの神、わたしの神、

 

なぜあなたはわたしをお捨てになったのですか

なぜ わたしを救うことから

わたしが大声で叫ぶ言葉から

遠く離れておられるのですか


第Ⅵ章 Libera Me
B Part

 父なる方はご自身の初子としてアダムを創造つくられた。
 そしてリリスを創造られた。アダムに等しく、ご自身の後裔に相応しい器として。
 だがリリスは何故か父なる方に背き、地に降りた。
 リリスの背信・・・・それは、「知恵の実」を奪ったこと。それによって父なる方の力によらずして、命を生み出したこと。
 しかし父なる方の力によらぬ子らは、リリスのような生命の実を備えることはなかった。彼らには“死”が避け難いさだめとして課せられたのだ。
 その代わり、リリスが自ら奪いながらついに己がものとできなかった知恵の実を備え、一つの“種”として生き続けた―――――――。
 父なる方は、堕ちたるリリスに代わる子をアダムから造ろうとされた。
 アダムから最初に造られた子には、魂が与えられなかった。その名をエヴァという。・・・だがほどなく自壊し、以降、父なる方はアダムから造られる子に魂をお与えになった。
 サキエルから数えて14番目の子を造られた時、父なる方は地上に満ちあふれるリリスの子らをご覧になった。父なる方が決してその子らに与えまいとされた、知恵の実を我がものとした者達を。
 そして父なる方は最後の子をお造りになり、全ての子を地上におろしてお隠れになった。
 そして、時が満ちるのを待っておられた。・・・・ご自身の後裔に相応しい者が選択されるのを待っておられたのだ。

***

【はい、お疲れさま】
 その声に、カヲルは我に返る。
 技術一課の主任代理という、栗色の髪をした女性-たしか伊吹とか-の明朗を装うつもりで硬くなってしまう声。それに混じる畏怖に近いものを感じ取って、カヲルは内心で苦笑した。
【今日はもう上がっていいわ。ごめんなさいね、ひとりだけ・・・】
 カヲルはまだテストプラグの中にいる。シンジもレイもとっくに上がっているのだが、カヲル一人が延々とデータの取り直しをされていたのだった。
 むろん、原因はカヲルがマークした異常なデータにある。
 データ誤差はMAGIがチェックしたにもかかわらず認められない。それなのにありえないデータを目の前に突きつけられた技術一課の苦悩はいかばかりであろう。
 しかしカヲルは、それを理解った上で愉しんでいた。
 彼を見るとき、彼と接するときの遠巻きな雰囲気すら、可笑しくて堪らない。
 そう、かつてこんなふうにして遇されたことがある。いや、あのときはもっと直接的で・・・・畏怖は簡単に理性の升から溢れ出し、殺戮という奔流を形成したのだったが。
 知恵の実を得たリリスの子らは、アダムの子らを殲滅する術を持っていた。
 リリスは言った。 御身アダムの子らと私の子らの間には憎しみが置かれるだろう、と。
 ―――――何故?
 ―――――選ばれ、未来を与えられる存在ものはひとつしかないから。
 与えられる未来。それはすなわち神の後裔としての永劫の時、神の座。
 そして父なる方は、追放したリリスの子らにも等しく機会をお与えになった―――――。

【・・・渚君?】
「はい」
 この、血の匂いのする不快な液体の所為か、どうも昔のことばかり思い出してしまう。カヲルの沈黙を不安に思ったかのような問いかけに、カヲルは思わず失笑した。
 そしてその笑みを拭ったとき、ひとりの少年の面影、その黒い瞳が浮かんだ。
 畏れることもなく、ただ 純粋innocentな・・・。
 カヲルが何者かを知ったら、あの瞳は濁るだろうか?
 かつて彼を荒野で磔刑に処した大人達と同じように・・・・・。

 ――――――――服を着替え、与えられた部屋に帰ろうとしたカヲルは、本部ゲートで思わず立ち止まった。
 ベンチで、やや背を丸めて座っている少年。
 S-DATの音も聞いているのかいないのか。俯いた顔がゲートの音にふと上げられたとき、カヲルは生気の薄い双眸が幾許かの感情を揺らめかせるのを見た。
「僕を待っててくれたのかい?」
 笑って、問う。あるいはこの少年を困らせてみたかったのかも。
「・・・あ、いや・・・・そういうわけじゃ・・・・・ないけど・・・・・・」
「今日は?」
「・・・・定時試験も終わったし、あとはシャワーを浴びて帰るだけだけど・・・本当は、帰りたくないんだ。・・・このごろ・・・」
 そして、また伏せられる瞳。
 確かに、「家」で彼を待っているのは「上司」と同じ顔をした「家族」であり、あるじのない部屋。シンジがそれを帰るべき「家」だと・・・自分の存在を無条件に許諾する空間だと認識できないのは、あるいは無理もないことなのかも知れない。

 ―――――――だが、それとて家ではないか。

 カヲルの表情に、一瞬だけひどく辛辣なものが閃いた。・・・あくまでも、一瞬だけ。
「・・・・帰る家、ホームがあるという事実は幸福につながる。良いことだよ」
 待つ者もなく、いまやその形象かたちすら灰燼に帰したあの場所の記憶がカヲルの脳裏をかすめる。・・・それはもはや懐かしむことすら許されない記憶。
 カヲルの言葉の意味をとらえそこねた少年が、ひどく無防備な表情でカヲルを見る。そのときのカヲルの貌に、もはや先刻の翳りはなかった。
「僕は君ともっと話がしたいな。一緒にいっていいかい?」
「えっ?」
「シャワーだよ。これからなんだろう?」

 誰も愛さず、誰からも愛されることが無いと信じている、憐れな子。
 そのくせ一人では生きてゆけない魂。
 誰かに触れ、誰かに触れられることで己の存在を確かめるくせに、触れることも触れられることも怖い。
 ・・・ゼーレの思惑、そして碇ゲンドウの思惑。気になる事は山積していたが、今、カヲルの興味は碇シンジという少年に向けられていた。

***

 かすんだ水音は、血の匂いを連想させる。
 タイルの上を流れる水に混じる紅。
 施設の記憶?・・・・否、これは違う。
 リリンであることに執着した一人の同胞が、流した血。
 自分が、水面を揺らめく光に得体の知れない恐れを抱いていることを知ったのはあのときだ。・・・だが、今となってはもはやそれも意味のないものとなった。・・・恐れの正体は明らかになったからだ。
 そう、自分自身を知ることが怖かった・・・。
 『話がしたい』と言っておいて、何も喋ろうとしない自分を、シンジがいぶかしんでいる空気が感じられる。
 ―――――心を重ねてみようか。
 カヲル自身の興味とは別に、先刻の言葉はシンジが裡に溜めていた言葉をそのまま口にして返したもの。話したいことを胸一杯に溜込んで見つめる黒い瞳が、向けられる水を待っていた。
「・・・一次的接触を極端に避けるね、君は。怖いのかい?人と触れ合うのが。他人を知らなければ、裏切ることも、互いに傷つけあうこともない。でも、寂しさを忘れることもないよ」
 それはおそらく、カヲルの中にあった言葉ではない。彼が意識しているかどうかは別にしても、もともと彼の心にあった言葉。
 理解りたいが、理解ることが恐ろしい。本当のことは痛みを伴うから。それは人が人である限り、つきまとうディレンマか。・・・しかしこの痛みを痛みとして自覚しながら生きていくのは、とてもつらいことだ。だがその辛さに耐えながら、彼は生きてきたのだ・・・。
「人間は寂しさを永久になくすことはできない。人はひとりだからね。ただ、忘れることができるから、人は生きていけるのさ」
 手を重ねる。エンパシーの特異な感覚が、彼に伝わってしまうかもしれないが・・・・それでも構わない。
 不意に、照明が消える。いくらも触れないうちに、シンジが心をよろうのが分かった。
「・・・時間だ」
「もう、終わりなのかい?」
「うん・・・もう寝なきゃ」
 シンジという少年から感じる、心が触れることへの畏怖。それは、繋ぎかけた手を振り払われるのにも似ている。
 かつてあの「家」の、鍵のかかった部屋の中で、窓辺にうずくまる少女と心を重ねたときのことが、ふとカヲルの裡に浮かんだのかもしれない。カヲル自身、思いがけない科白が口をついて出ていた。
「君と?」
「え!? ・・・あ、いや、カヲル君には別の部屋が用意されていると思うよ。別の・・・」
 シンジの声がうわずる。
 カヲルの言葉を彼がどう理解したかに思い至り、自分でも意地が悪いと思うのだが、弁解もしないまま彼に聞こえないように笑った。・・・どうにも言葉というものは難しい。
「・・・そう」
 浴槽から立ち上がる。浮力に慣れた体が、僅かに重い。
「常に人間は心に痛みを感じている。心が痛がりだから、生きるのもつらいと感じる。・・・ガラスのように繊細だね。特に君の心は」
「・・・僕が・・・?」
「そう、好意に値するよ」
 今度こそ意味を取り損ねてか、シンジが呆気にとられたような表情でカヲルを見る。この感じは、リリンにはひどく理解しづらいものなのかもしれない。
 カヲルは、決して貧弱ではないが多彩とも言い難い語彙のうちから、一番近いと思われる言葉を探した。

「好き、ってことさ」

***

 ――――――――宵闇。
 電気もつけない部屋の中で、綾波レイは制服のままでベッドに伏せていた。
 「稼働状態」に入ってからまだ日が浅く、コンディションを整えるためとかで、相変わらず薬漬けだったが、それを厭うという感情は、彼女の裡にはまだなかった。
『私、なぜ、ここにいるの?』
 取り壊し寸前にしか見えないアパートは、住む人もほとんどなく、夜でも生活音などないに等しい。せいぜいが、冷蔵庫の低い唸り。彼女自身の部屋の、粗造りな水道管から漏れ落ちる間遠な水音くらいのものか。
『私、なぜ、まだ生きてるの?』
 帰宅してより、奇妙な感覚が彼女をとらえていた。常の彼女にない思考が生まれていた。
 それはきっと、昨日今日に生まれ出た疑問ではないはずだ。しかし、今日はなぜかそれが意識に上って、そして動こうとしない。
『何のために?』
 赤木博士は具体的な行動については指示しても、それがいかなる理由によるものか、それが何に繋がるのかを説明することはない。また、彼女も説明を必要とすることなどなかった。・・・・少なくともこれまでは。
『誰のために?』
 尚更わからない。とても大事なことだったような気がするのに。
『フィフスチルドレン、あの人・・・私と同じ感じがする。どうして・・・・?』
 思いを巡らせたとき、浮かぶのはあの不思議な少年の貌。
『君は僕と同じだね』
 秀麗な口許は笑っているのに、自分と同じ紅い眼は、彼女の語彙にない感情を湛えていた。・・・それに気づいたとき、確かに彼女の中に何かが生まれた。
 この感情の正体が分からない。
 そのことに、彼女はわずかながら苛立ちに似たものすら覚えていた。
 ややあって、身を起こす。冷蔵庫の上で、水の入ったビーカーが冷たい月の光をはねていた。窓に視線を移そうとして、その動線上にあった机、その上の壊れた眼鏡に目を留める。
 だが、留めただけだった。
 やおら立ち上がると、まっすぐに玄関へ。靴を履いて、鍵の壊れたドアを開いた。