幸せの温度 Ⅰ

幸せの温度を知りたいなら

それは体温にとても近くて

大事な人の頬に触れたとき

指に伝う愛しさに似てる

 短い悲鳴、それと物音。
「レイ!?」
 カヲルは荷物を放り出して、リビングへ走った。そして、リビングの光景を一目見て状況を察し、吐息する。
 リビングのローテーブルの上には作業用の滑り止めマットが広げられていた。幾許いくばくかの工具、そしてなくさないためにきちんとトレイに集められたビス。慎重に取り分けられた部品。その中に、レイの悲鳴の原因となったものが鎮座していた。
「あー…ごめん、吃驚した?」
 タカミが実に申し訳なさそうに頭を掻いた。
「こいつがアクチュエータ1の調子が悪いって云うから、ちょっと開けてみたんだ」
 テーブルの上に香箱座りするキジ猫。しかしその胴体の上には頭部がなく、頸部からは無機的な接続面だけが覗いている。そこにあるべきものは少し離れた場所に、一部はケーブルが繋がったまま横向きに置かれていた。電源を落としていないのか、その両眼はきちんと見開かれている。
 それが精巧にできた家庭用のエンターテイメントロボットであると判っていても、毛皮を着たままの頭部がリビングテーブルの上に置かれていたら…。
「吃驚するな、って言う方が無理だよね、これ。全く、リアルすぎなんだよ」
 カヲルが近づいて、ひょいと頭部を持ち上がる。
【不用意に動かさないでくれ。平衡デバイスも調整中だ】
「そりゃごめんよ」
 口を動かさないまま、キジ猫が声を発する。カヲルは素直に謝ってそっとそれを置いた。
 市販品は基本的に猫の鳴き声を模倣するだけだが、いろいろと規格外な改造チューンナップを施したこの猫を統御するのは…あのゼーレを崩壊に追い込んだAIである。可愛気もなにもあったものではない。
「どうでもいいけど、なんでこのタイミング?僕ら、集合時間だと思って急いで帰ってきたのに」
「ごめんごめん、こんなに時間かかると思わなくて。やっぱり専門家ナオキに診て貰うほうがよさそうだよ、イロウル。場合によってはデバイス総取っ替えかも。まあ、そもそもかなり無理に機能を載せてるからいろいろ不具合が…ね」
【了解した。とりあえず今日の処は諦めよう】
「…なに?ひょっとしてコンサート行きたかった?」
 リビングテーブルに転がった猫の生首、という光景にいっぺんは腰を抜かして座り込んでしまったレイが身を乗り出す。
「動けないんならつれていってあげようか?」
 真摯な申し出に、タカミの方が驚いたように問い返す。
「…え? そうなの?」
【まあ、興味はあったな】
「大丈夫、リュックの中に入れて行ったげるよ。席に着いたら顔だけ出したらいいじゃない。皆、ぬいぐるみだと思うって」
 瞬間、コンサートホールの座席でレイの膝の上に乗ったピンク色のリュックから顔だけ出しているイロウルを想像して…カヲルが思わず吹き出す。
「え、そこ笑うの?」
 レイが不満そうに振り返るから、カヲルは懸命に笑いを封じ込めてレイの頭を撫でた。
「いや、レイがそうしたいっていうなら止めやしないけど…」
 同じようなものを想像したのか、やはり笑いを噛み殺しながら…タカミが手早く猫の頭部を元に戻してビスで固定する。無粋な金属部品が毛皮フェイクファーに隠れてしまえば、確かにどう見ても猫のぬいぐるみに違いない。
「ありがと、レイちゃん。でもこいつ見かけより遙かに重いから。まあ、コンサートについてくるっていうなら僕の端末ウエアラブルに載せとくさ」
【他に選択肢はなさそうだな】
「はい、決まり。ごめんね二人とも、すぐ支度するから」
 そう言って、タカミが立ち上がった。

***

「そういえば箱根って、観光地なんだよね」
 CXー3のサイドウインドウから芦ノ湖と富士山を眺めながら、レイが感慨深げに言った。
「まあ、そうらしいね。住んでると忘れるけど。第3新東京についてはそれっぽいところほとんどないし」
 カヲルの相槌に、ハンドルを握るタカミが小さく笑った。
「そりゃ、その向きに造ってないもの。『使徒迎撃専用要塞都市』らしいからね。ま、それっぽい機能はリエさんが根こそぎひっくり返しちゃったから使えないけど」
『根こそぎひっくり返る』前にそのシステムをあらかた壊滅させた張本人がけろりとしたものである。カヲルはそこに突っ込むことは避け、ふと思い出して携帯を出した。
「この近く、ラリック2の美術館もあるんだっけ。明日、帰りに寄ってみる?」
「わ、いいの!?」
 レイが目をきらきらさせてカヲルの携帯を覗き込む、その仕草に思わず口許が綻んだ。
「大丈夫だよね?」
 一応運転手タカミに確認をとる。明日は休日とはいえ、研究室の方は曜日が関係ないこともあるからだ。しかし返事は明快だった。
「勿論。ホテルからのルート、検索できたら後で送っといてくれる?確か、ミュージアムショップもあったよね。お土産買うのに丁度いいかも…」
 一応運転手だからちゃんと前を向いているが、喜色に弾んだ声。誰への土産かはすぐ判る。
「了解…」
 マメだなぁ、と心の中でだけコメントして、カヲルは検索したルートを送信した。
 Angel`s Nestの面々からコンサートの誘いがあったのは、先週のことである。
『アマチュアの室内管弦楽団なんだけど、ユキノ姉が出てたチャリティコンサート聴いてたとかで、是非一緒にってくれってオファーがあったんだって。凄いよね』
 ミスズが我がことのようにはしゃぎながら渡してくれたチケットは実のところ4枚あったのだが、4人目の招待者は残念ながら先約があって参加は叶わなかった。遠方に独り住まいのお祖母ちゃんが相手じゃかなわないよね、とぼやいたタカミは早々に気分を切り替えて嬉しげにお土産の算段をしているのだから世話はないが。
 ついでのことで会場になるホテルのコンサートホールについて調べてみる。
「ふうん、こんなところにコンサートホール?って思ったら…ホテルの建て替えしたときに旧館を取り壊す代わりにイベントホールに作り変えちゃったのか…剛毅だな。まあ、郊外の景勝地ではあるし、イベントのあとの泊まり客を当て込んだってとこか」
「そう言っちゃうと身も蓋もないんだけどね。もともと結婚式場とチャペルがあった敷地ところを多目的ホールにしたらしいよ。昨今式場だけじゃやってられないんだってね。それでも出来たのは例の遷都計画がポシャる前だから、相応の需要は見込んでたんじゃないのかなぁ」
 タカミが更に身も蓋もないコトをさらりと付け加える。だが、それにかけてはさらに上手うわてがいた。
根拠データが必要か? 3分あったら準備できるが…】
 はからずもそれで自分たちの発言について幾許かの反省を強いられた二人がふと黙る。これから行く場所についていたってポジティヴな方向に想像の翼を広げていたレイが、不意に降りた沈黙を不審に思って車内へ視線を戻した。
「…どうしたの?」
「ううん、気にしないでレイ」
「そうだね、状況を素直に愉しむって大切だよ。…というわけでイロウル、ホテルの財務状況とか決算報告とか詮索しなくていいから」
【…そう判断する因子については多少解析の必要があると認識する。…が、とりあえずは了解した】

***

 ホテルの広壮なラウンジ。
「お、来た来たー!」
 ケーキスタンドに並んだスコーンやショートケーキ、ココットに盛られたディップの数々。由緒正しきアフタヌーンティーの真っ最中と思しきテーブルにいたのは、ナオキとミスズ、ユカリ、タカヒロとタケル、それにリエであった。
「あれ、集まるのこれだけ?」
 存外少ないなと思ったカヲルがそう問うと、ミスズが笑って手を振った。
「ユウキは勤務。ユキノ姉はゲネプロ3の真っ最中。レミ姉とカツミも来るはずだけどな。あ、そーいえばサキと連絡取れてないや」
「あれ、休みって言ってなかったっけ?」
 クロテッドクリームを載せたスコーンを今まさに頬張ろうとしたタカヒロが手を止めた。
「うーん、チケット渡した記憶はあるんだけどなー」
「…いいの、それ?」
 何かと多忙なのはわかっているが、誰も所在を知らないというのはそれはそれで大丈夫なのだろうか。
「ま、来れるもんなら来るでしょ。サキも忙しいしね」
 リエがシリアルのドロップクッキーをつまみながらあっさりとそう言ったので、それ以上問うのも憚られてカヲルはちらりとタカミの方を見た。こちらも軽く肩をすくめただけで、あまり気にしている様子がない。
「ほら、こっち来て食べなよ。コンサート夕方だし、静まりかえった中でお腹鳴っちゃったらはずかしーよ?」
 ユカリが席をつめて手招きするのへ、レイが素直に応じる。気がつくとタケルがカヲルとタカミの分の椅子を寄せてくれていた。がたいがよくて武骨なイメージがあるが、中々どうしてその気遣いは存外細やかである。
「ここのホテルね、芦ノ湖が見えるおっきなおフロもあるらしいよ。温泉引いてるんだって。舞台ハネたらユキノ姉も誘って行こーね♪」
 ミスズとユカリに挟まれて楽しげに談笑するレイ。その姿に目を細めていたカヲルは、不意にシプレ4系だがわずかにスパイシーな香りを纏う腕に頸部を極められて慌てる。
「はい残念、もう姫様掠われちゃった」
「リエさんってば、その癖どーにかしてくださいよ! カヲル君、吃驚してるじゃないですか」
 どうやらやられた経験があるらしいタカミがそう言ったから、カヲルはようやくその腕の所有者に気づく。椅子のたっぷりした背もたれごしに完璧に極まっていたものだから、振り向くこともできなかったのだ。
「うーん、タカミに比べると落ち着きすぎて、反応に面白味がないわね」
 リエが低く笑いながら腕を解き、立ち上がった。腰近くまである鴉羽色の髪を高く結い上げ、レミと張るほどの長身をワイドパンツのスーツに包んだ、ピンヒールの立ち姿は相応に迫力がある。超級ハッカーとしての異名ふたつな・『女教皇ザ・ハイ・プリーステス』には、その容姿に関係ないとはわかっていてもなお、十分な説得力があった。
「そういうところに面白味を求めないでください。どうせ僕は慌てすぎですよ。判ってやってるでしょ。あんまりラウンジで騒ぐと迷惑だし」
「だいぶ読みがれてきたわね。よしよし」
 よそに気を取られていたとはいえ、全く気配を感じられなかったことに…カヲルは少し驚いた。それなりに、気配には敏感な方だと思っていたからだ。
「凄いですね。気づいた時には喉をかき切られてそうだ」
「ふふ、そんなコワい技能は持ってないわよ。護身術・・・だから」
「…嘘吐き…」
 タカミが他所を向いてぼそりと言ったのは聞こえていたが、この際は聞き流した。
「何なら教えてあげるわよ。残念ながら体術に関してはイサナの方が上だけど、人にもの教えるってことに関してはあいつ、壊滅的だし」
 当人の不在をいいことに(?)何気に酷いことを言い放つリエ。
「あ、そーだ。到着早々姫様をさらわれちゃって暇してるなら、そこの芝生で組手5する?」
「パンツスタイルとはいってもかっちりイヴニング仕様の人が何言ってるんですか…」
 タカミが頭痛をこらえるようにこめかみを揉んでいると、リエが面白がるようにその横髪を摘まんでくいくいと引っ張る。
「冗談よ。なぁにタカミ、今日はやたらかみつくじゃない。やっぱりアレ?自分の方は掠われる以前に誘い損ねたんで拗ねてる訳?」
 タカミが呼吸を呑む音が、聞こえた気がした。
 あ…そこ、抉っちゃうんだ…。
 ラウンジのスプリングの効いたソファにもはや声もなく沈み込んでしまったタカミに何と声をかけてやればいいものか…カヲルが天井を眺めつつ思案を始めた時、リエがまた低く笑って言った。
「はいはい、気持ち切り替えて腹拵えとチェックイン済ましちゃいなさい。いい音楽おと聴いてしっかりココロを調律すればいいでしょ。
 ユキノ、相当気合い入ってたし…失神者が出なきゃいいけど」

  1. アクチュエータ…電気・空気圧・油圧などのエネルギーを機械的な動きに変換し、機器を正確に動かす駆動装置
  2. ルネ・ラリック…19世紀~20世紀のフランスのガラス工芸家。金細工師、宝飾デザイナーとしても成功をおさめた人らしいが、柳としてはその昔ハウステンボスで見たセイレーンのガラス皿が忘れられない。箱根には実際「箱根ラリック美術館」があるらしいので、是非行ってみたい…。
  3. ゲネプロ…generalprobe(ゲネラールプローベ)の略語。演劇、オペラ、コンサートなどの最後の仕上げ的な通し稽古のこと。
  4. シプレ…1917年にコティ社から発売された香水“シプレー”の香調で、その名前がそのまま香りの分類の一つとなったそうな。中性的なニュアンスがあり、女性用でもサバサバして爽やかな感じ、とか。つかみどころがなくてミステリアスな雰囲気も特徴的なのだそうで。ユキノさんはフローラル系だろうなぁ。ミスズちゃんとかユカリちゃんはフルーティ、ミサヲさんはオリエンタルで決まりですな。
  5. 組手…空手などの武術で互いに自由に技をかけ合って練習すること。柔道なら乱取り、中国武術なら散打。ただし散打というと競技としての正式名称にも使われるらしいので少し意味合いが異なるかも。