Scene 2  realtime to paradise


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world Ⅱ」

 澄み渡った空。降り注ぐ陽光。
 岩場の向こうには白い砂が広がり、その更に向こうには紺碧の海。
 周囲には人の気配はなく、波の音ばかり。
「わー、凄ーい」
 レイが荷物キャリーバックを放り出して走り出す。
「日本…には違いないんだろう?」
 あまりにも憂世離れした光景に、カヲルは思わず、傍らで位置情報の取得に全神経を傾けている自称「保護者」の青年に問うていた。
 カヲル自身は、その膨大な知識量と裏腹にほとんど第3東京市とその周辺から出たことはない。目の前に広がる光景が紛れもない現実リアルであることに、軽い衝撃を感じてさえいた。
 潮の匂い。風の肌触り。灼熱の陽光。波の音。風の音。飽和しそうな感覚に軽い眩暈すら覚える。…たった1年前だ。同じような光景を見ている筈だった。しかしその時は、それらが大した意味を持つことはなかった。
「…位置情報の取得完了…驚いたな、まだ本州なんだ。てっきり沖縄あたりまで飛ばされたと思ってたよ」
 タカミが感慨深げにそう言った。この光景に対する感傷は、カヲルと似たり寄ったりであったらしい。
「座標が要るかい?」
 タカミに問われカヲルはそれを謝絶した。大体のところが判ればそれでいい。
「一瞬島なのかと思ったけど、一応陸続きなんだね。結構太い回線が来てる。…よく引いたな、こんな処まで」
「セーフハウスなんだろう、おそらくは。こんなのが幾つあることやら」
 問答無用な段取りのつけ方に多少むっとしたのは確かだが、レイがあそこまで喜ぶなら取り立てて文句を言うこともない。
「高階の家がそこそこ資産家だったのは確かだけど、今あるのはほとんどサキの代で手に入れたものって聞いてる。リエさんに任せといたら、結構な数と規模になっちゃったらしいね。…去年の夏のコテージもその一つ。あれはもう危ないからって手放したけど。
 危なくなったら逃げる、ってのが基本方針だけに、隠れ家セーフハウスの確保には気を遣ってるって。…さて、イサナの姿が無いな」
 タカミがレイが放り出した荷物を引いて、瀟洒なコテージのポーチに向かって歩き出す。カヲルもそれに追随しかけたが、ふとレイの走って行った方へ視線を投げた。マサキが安全と判断して送り出した場所だ。滅多な事はないと思うが…。
 既に遙か向こう、岩場と砂浜の境から海へ伸びている桟橋の上にレイの姿を認める。ストローハットに結んだ淡い水色のリボンと、同色のサマードレスの裾を翻しながら舞うような足取りで歩いて行くレイを見て、こういうのも悪くないと思った。
 さながら、蝶が舞うような…。
「ほら、見惚みとれてないで」
 タカミが笑いながら振り返っているのに気づいて、思わず顔が赤くなる。
「…いいだろう。別に。綺麗だし」
「はいはい。こういう場合、僕は『ご馳走様』って切り返すべきなんだろうねぇ」
 タカミのほうも状況を愉しむことに決めたらしい。ひとを安心させるための微笑でなく、珍しく屈託のない笑いでそう言った。
 ポーチに荷物を置いて、タカミが玄関扉に手を掛けると鍵は開いていた。
「…変だな。気配がない」
 流石にタカミが不審げに呟いたとき、絹を裂くような悲鳴にカヲルはほとんど反射的に桟橋へ走っていた。
「レイ!?」
 桟橋の途中で、レイが座り込んでいた。特に怪我もなく、ただ何かを見て驚いたらしい。
「どうしたんだい?」
 すっかり腰が抜けてしまったていのレイの傍らに膝をついて、真っ青になった顔を覗き込む。暫く歯の根があわずに口をぱくぱくさせていたが、ようやくその指で海面の一点を差して言った。
「カヲル…ひとが…ひとが…」
 透明度の高い浅瀬。砂と岩とが平坦な海底をつくり、小さな魚が群れを成して泳いでいるのさえ見える。その中に、黒い髪がゆらめいていた。
 深い色のラッシュガードパーカーを着た人間。だが、その長身は海底に沈んで泡のひとつも浮いてこない。カヲルも流石に顔が引き攣るのを感じた。もう一度見てしまって、レイが喉奥で奇妙な音をさせてカヲルにしがみつく。カヲルは自分の身体でレイの視界を遮った。
 やや遅れて、タカミが桟橋へ上がってきて覗き込む。だが、こちらはといえば…大きな嘆息を漏らしておもむろに片方だけ靴を脱いだ。
「…本当に、やっちゃうんだなぁ…」
「タカミ?」
 靴下も取ってのんびりと桟橋に腰掛けると、素足を海面に下ろす。
「イサナ! いい加減に起きてくださいよ。それ・・はやめるようにって言われてるんでしょう?どう見たって水死体じゃありませんか。見た人が吃驚するに決まってるでしょう!」
 些かぞんざいに水面を蹴って、タカミが声を高くした。
「…え?」
 状況を察して、カヲルは思わず眉を顰めた。タカミが苦笑いしながら、もう数回水面を蹴る。
「水面よりも上で音がしても、水の中では聞こえにくいものらしいよ」
 タカミが加えた説明は、残念なことに少々ピントがずれている。
 深い色のラッシュガードを着た影がすうっと浮いてきた。ばしゃり、と音がして首から上が水面に出る。
 前に会ったときよりやや髪が伸びており、髪質が細いのかあまりうるさげにも見えないが、肩を越えるほどはあるだろう。これが水の中で広がったら、確かに一瞬顔は判別がつくまい。
「なんだ、もうそんな時間か」
「なんだじゃありませんよ、イサナ。家の中に姿がないからまさかとは思ったけど、本当にこんなところで午睡ひるねしてるとは…。っていうか、流されたりしないんですか?」
「…そんな間抜けなことはしない。悪くないぞ。静かだし、第一涼しい」
「無茶言わないでください。そんな理屈が通るのはいくらなんでもイサナくらいのものでしょ。知らない人が見たらまず通報されますよ。可哀相に、レイちゃんなんか真っ青になっちゃってるじゃありませんか」
「それは悪かった」
 イサナが桟橋の横木に手をかけたかと思うと、ほとんど一動作で桟橋に上がった。座り込んだままではあるが…とりあえず驚愕から解放されつつあったレイが、イルカのジャンプを連想して思わず拍手する。
「…1気圧が重いな」
「当たり前です」
 桟橋に腰掛けて呟いたイサナに、タカミがにべもなくそう言った。最前のイサナの動作でまともに海水を被ってしまったのだ。わざとでしょ、ひどいなぁとぼやいて結局もう片方の靴と靴下を取る。海水に濡れた足で靴を履くのを諦めたのだ。
「…タカミは知ってたんだ?」
 カヲルとレイは桟橋の端から少し退っていたために難を逃れていたが…一瞬緊張してしまっただけに、やや機嫌を悪くしたカヲルが軽く睨む。タカミは笑ってひらひらと手を振って笑った。
「見たのは初めてだけどね。全く、肺の中にはちゃんと空気が入ってるのにどうして沈んでいられるんだか。…そりゃ吃驚するよね。サキでさえ、最初に見てから暫くは水の中に何か居るのが見えたら不整脈おこしてたらしいし。いや、狭心症様発作だったっけ」
「…ふうん」
 高階マサキが狭心症様発作で身動きがとれなくなっている様を想像して、なんとなく溜飲を下げた格好のカヲルであった。

***

 カヲルとレイ、そしてタカミが荷物を部屋の中に入れて一息ついた夕刻。すこし風が涼しくなってきたコテージの駐車スペースにゆっくりとした制動音と共に一台の車が入ってきた。
「お久しぶりー!って言ってもまだ半年経ってないのよね?」
 ポーチに出てきたレイを見つけて、一番最初に降り立った少女が全身で歓迎の意を表する。ユカリだった。
「えーと、おじゃましますね」
「やだぁ、そーんな他人行儀な。自分の家だと思ってくつろいでねっ」
 若干照れ気味のレイに抱き付いて、頬ずりせんばかりのなつきようだ。姿ナリは小学生くらいだが、世話好き家事好きの「無敵のハウスキーパー」である。
「おーいユカリ、これどーすんの。運ぶこたぁ運ぶけど収めるとこがわかんねーよ」
 車のリアゲートをあげながら、タカヒロが声を高くする。
「はいはーい。とりあえずごっそりダイニングへよろしくね。あとは私が片付けるから。あ、とりあえずアイスだけ冷凍庫フリーザー!大至急!」
「りょーかい。おーいタケルー!」
 全てを自分で運ぶ気は毛頭無かったらしい。大至急と言われたアイスの保冷バッグだけ抱えると、より適した人材に声を掛けに行く。
 ダイニングテーブルに積み上がっていく食材の山を見て、レイが言った。
「手伝うこと、あるかな?」
「ありがとねっ!じゃ、一緒に食材の仕分けしてくれる?ダイニングまではタカヒロ達が運ぶから」
「うん!」
 手伝いがあるかと部屋から出てきたカヲルだったが、タケルとタカヒロでほぼ荷運びが終わってしまっているのを察して立ち止まる。
「…相変わらず賑やかだね」
 最大でも3人の静かな暮らししか経験の無いカヲルにとっては、時々この賑やかさにあてられることがある。レイのほうはといえば全く頓着する様子がなく、むしろ溶け込んでいるふうだったが。
 吹き抜けのリビングでノートパソコンとタブレットを並べて作業中だったタカミが、それを聞くともなしに聞いて言った。
「…馴染めない?」
 その問いに…戸惑いの正体を探しあぐねて、カヲルは暫時沈黙した。
「居心地が悪いって訳じゃないよね?」
「そんなことはない…と思う。レイだって馴染んでるみたいだし…」
「何となく『ここにいていいのかな』…って?」
 それは、完全ではないにしても自分の中の何かと合致していて、はっと顔を上げる。タカミが、いたわるようなまなざしで見ていた。
「タカミは空白ブランクがあったにしても元来ここにいた。…何が理解わかるの、タカミに?」
 語調が尖るのを、カヲルは止められなかった。言ってから悔いる。…自分は何を、感情的になっているのだろう。
 タカミの、悲しそうというより寂しげな笑みに、自分が余程酷いことを言ってしまったような気がして目を逸らす。
「ここが君たちの居場所に相応しいかどうかなんて、結論を出すのにそう慌てなくていいんじゃないかな。
 僕らは君に出会うために70年待った。でも、シュミット大尉は僕らを捜しあてるのに、もっと…気の遠くなるような時間を費やしたんだ。それを思えば半年足らずなんて、まばたきほどの間だよ」
「…僕は、シュミット大尉じゃない…」
「うん、知ってるよ」
 あまりにも明快。
「君はカヲルくんだよ。それでいいんじゃないかな?」
 穏やかに断じられ、立ち竦む。
「誰かを嫌いになるのには必ず理由がある。自覚してるかどうかは別にしてね。でも、誰かを好きになるには理由は要らないよ。僕はそう思う。
 僕達は君が大好きだよ、カヲルくん。そして、レイちゃんもね。出来るなら、君達に幸せになって欲しいと思う。それじゃ駄目かな?」
 作業の手を止めて、クッションの良いソファに背を凭せかけると、階段を半分降りかけて立ち尽くしたカヲルを仰ぎ見る。そのあまりにも穏やかな微笑。
『…では、私は役目を終えて良いのだろうね…』
 確かに自分であったはずの者の深い安堵を込めた声音はカヲルの記憶にも残されている。それは…タカミの身体を借りて、ヨハン=シュミットからネフィリム達に遺された言葉。
 一抹の後ろめたさと、一掬の寂しさ。それでも芽吹いたばかりの希望を大切に抱いて、深淵へ消えていったアダムの現身うつせみ。それは確かに自分アダムであったけれど、自分カヲルではない。
 レイのように記憶の一切が失われているのとは違う。依代タカミの中で「仮面」を通じてリロードされたシュミット大尉の記憶は、確かにカヲルに継承されていた。それは確かに記憶でありながら、まるで現実感がない。昔読んだ小説を思い出そうとするときのそれに近かった。
 そうなってしまったのは、紛れもなく自分カヲルの短慮の結果ではあったけれど…。
 その時、バスルームの扉の音で思考が中断された。イサナである。海底を漂いながらの午睡という悪癖はあっても、潮のついた身体で家の中をうろつくほど非常識ではない。
 乾かした髪を後ろできっちりと括りながら、スツールのひとつに座を占める。
 鯨吉ときよしイサナは武術を嗜む所為か、普段から身体の使い方におそろしく隙が無い。こんな、背凭れのない椅子にある程度の時間座を占めていても、ほとんど姿勢が崩れないのだ。そうかといって、始終肩肘張って緊張している訳でもない。多分、あれで自然体なのだろう。誰かとは大違いだな、とカヲルが意地の悪い感想を抱いたとき…それが聞こえた訳でもあるまいが、タカミが居住まいを正して問うた。
「…さてと。何事です?」
 カヲルも、迷路に嵌まったまま停止ハングアップしていた思考を振り捨てて階段を降り、ソファに座を占めた
「先週の話だ。…サキのところへ、碇ユイ博士から連絡が入った。曰く、一部の急進派が協定を破り、研究再開のための準備を始めていると」
 喩えがわかりにくいと年少組からは揶揄されるイサナだが、一切の枝葉を切り落として端的にものを伝えることにかけては最適の人選ではあった。
「…急進派…って、ネルフってもう解体されてるんじゃ…」
 カヲルは、顔から血の気が引くのを自覚した。
「今の碇ユイ博士が所属しているのはヴィレだ。ヴィレだって一枚岩というわけでは無かろう。ネルフという敵がいる間はまとまっていたんだろうが、敵がいなくなった途端に四分五裂、というのは組織の辿る道としては決して珍しい話ではない」
「…そう…なっちゃうんですねえ…」
 タカミが早くも疲れた様にソファに沈み込む。
「もともとヴィレ自体、独走を始めたネルフをなんとかするために作られた寄り合い所帯らしいからな。目的を失ってしまえば脆いものだ。
 ネルフは崩壊し、資料、データの類はともかく貴重な標本の大部分が埋没・散逸した。その後のヴィレはその事後処理と残った資料を基に改めて現生人類のルーツを探る研究をやり直すという組織に改組されていく予定だったんだ。
 ご苦労なことに、第3新東京の地下をコツコツ掘ってる連中もいるらしいが、まあこっちは当分放っておいて問題は無い。問題は…生きた標本サンプルが存在するなら協力願え、というグループが存在するということだ」
「それに関しては碇博士が手を回してくれるはずでは?」
 カヲルが静かに問うた。
「手は回してくれている。だから、ヴィレの建前として、おおっぴらに我々ネフィリムに接触することはしないという協定はまだちゃんと生きているんだ。だから、急進派とやらが問題視されるわけだな。概ね、ネルフやゼーレの利権にあぶれた軍部寄りの企業体や、研究といえばすべて正当化出来ると思っている…学者の皮を被った度し難い莫迦どもだが」
 イサナの舌鋒は容赦無い。
「しかし、サキが危惧しているのは…他でもないヴィレ自体が莫迦どもを裏で使嗾しそうして急進派の独走ということで処理し、保護の名目で俺達の行動を制限しようとしている場合のことだ」
 タカミが頭痛をこらえるようにこめかみを押さえる。
「…サキは、何て?」
「第一段階として一番標的になる可能性の高いカヲルとお嬢さんの保護。これは完了だ。マンションの方に何か接触があれば、デコイ組が釣り上げる。タカミは荒事になったらまず役に立たない上に事態をややこしくしかねないから…ついでに隠せと言われた」
「…傷付くなぁ…」
 タカミがぼやいたが、無論イサナは一顧だにしなかった。
「急進派とやらがどの程度の菌糸を張ってるか判らないから、ここがばれる可能性も棄てきれない。…だが、その場合は全力で迎撃。一撃離脱して今度こそ国外へ出る…そうだ。今、リエとミサヲでその辺の段取りは組んでる。
 以上、現状の説明は終わりだ。質問は?」
 タカミが小さく吐息して応えた。
「いろいろと釈然としない部分はありますけど、了解です。とりあえず、急進派とやらの正体が確定するまでは大人しくしてろということでしょ」
「上出来だ」
「サキは、今?」
「…俺は、知らされていない」
「はい?」
 さすがにタカミだけでなく、カヲルも眉を片方釣り上げた。
「俺が知ってたらタカミ、お前は俺が口を噤んだとしても読む・・だろう。だから、報せないと。状況が確定したら報せると聞いている」
「どれだけ信用ないんですか、僕は!? まったくあの人ときたら…!」
「サキの名誉のために言っておくが、そう指示したのはサキじゃない」
「…え…?」
「リエだ。…何か気になることがあるらしい。俺もそこまでしか聞いていない。それとタカミ、お前は可能なら当面ネットとの接続はなるべく避けておけ…とリエからの伝言だ。これも理由は聞かされていない」
 カヲルは、タカミの顔が蒼白になっていくのを見て、何かを言おうとした。何を言おうとしたのかは、実のところカヲルにも判っていなかったが。
 だが、ようやくカヲルが頭の中で言葉をまとめたとき…限界近くまで感情を抑え付けたタカミの声に、思わずそれを口にし損ねた。
「…了解です、イサナ」

***

 陽も落ちて、さやかな星の光が降る。
 月のない夜だ。昼間の暑熱は影をひそめ、存外冷涼な風が桟橋の上を渡っていた。
 波と風の音しかしない。その中で、時折…肺腑の空気をすべて吐き出そうとするような深い吐息をカヲルの聴覚は捉えていた。
 星明かりだけでも、陽に灼けて色褪せた木材が並べられた桟橋は、海に続く道のように白く浮き上がって見えた。だから、その突端に座す影を見つけるのにそう苦労はない。
 本来は人の気配を察することには長けているらしい。ただ、その割に大抵隙だらけだ。だから少し気をつけて足音を消すと、すぐ背後に立っても拍子抜けするぐらい気づかない。
「…落ちるよ?」
 少し身を屈めて、耳許でぼそりと告げる。案の定、本当に桟橋から滑り落ちそうな程に驚いて、反動で仰向けにひっくり返ってしまった。巻き込まれては面白くないので、軽く後方へ跳んで避ける。…この音は…頭打ったな。
「…ひどいなぁ」
 ようやく状況を察したらしいタカミが、身を横たえたまま加害者カヲルを軽く睨む。
「本当に落ちそうだから、声かけただけだよ。何をへこんでんの」
 一歩近づいて、カヲルはどうやら俄に起き上がる気力も無いらしいタカミの顔を改めて覗き込んだ。
「…いやまぁ…凹んでるのかな、やっぱり。…で?カヲルくんはこんなとこで何をしてるの。レイちゃんは?」
「徹夜も辞さない態勢のガールズトークに割り込むほど、僕は度胸が良くないよ」
「そういやユカリちゃんが一緒だっけ。これでミスズちゃんもいたら本当に徹夜しかねないね」
 先刻カヲルが巻き込まれかけた状況の想像がついたらしく、声をたてて笑う。それが今打った後頭部に響いたようで、笑声は途中から苦鳴に変わった。ひょっとして、先刻の鈍い音は春に折ったあばらにも響いたのか。
「…本当に隙だらけだよね。まったく、どうしてこんなのにゼーレが殲滅されたんだか」
「こんなのとはまた御挨拶だなぁ。…まあ、隙だらけで荒事にも向かないってのは自覚あるけどね」
 痛む頭をさすりながらようやく身を起こす。
「まさにその話だよ。…リエさんが僕に、ネットへの接続を避けるように言うってコトは…まあ十中八九、ゼーレがらみだろう」
 片膝を抱えてもう一度海を見る緑瞳は…もう笑っていない。何処か無機的な、器械のパイロットランプが明滅するような光だけがそこにあった。
「ゼーレは、殲滅されていないと?」
「表に出ることは決して無かったけど、ゼーレってのはかなり大きなシステムだよ?それが機能停止してるのに、大きな経済的混乱が起きていないっていうのは…やっぱり不自然なんだ。やっといて言うのも何だけどね。…何かがある。本当は、自分で調べたいところなんだけど…ああ言われちゃどうしようも無い。おそらく、僕が直接動いてしまうと枝をつけられる可能性があるんだろう。
 だとしたら僕の使い途は…まあ、やめとこう」
 瞼を閉ざす。ややあって目を開けた時、そこには先刻の…まるでLEDのような無機的な冷光ではなく、いつもの柔らかな翠があった。
「サキの指示に従うの? 所在も…知らせてくれないのに」
 カヲルは、夕方の蒼白な顔を思い出して問うてみた。
「…ま、冬の件で相当無茶苦茶しちゃったから…信用ないのも無理ないさ。とりあえず大人しくしてるよ」
 そう言って、笑う。
「信頼してるんだ」
「そりゃ、サキだし」
「…意味が繋がってない気がするけど」
「そうかな? …まあ、でもそういうことなんだよ。そのうち、カヲルくんにも理解って貰えるといいな」
 別に理解らなくてもいいけど、と言い返しそうになって、吐息に逃がす。
 …柄にも無く心配した自分が莫迦だった。

***

 夏の早朝のキャンパス。徹夜明けの研究生や運動系サークルの朝練に来た学生で、ごった返すというほどではないにしろ結構な人通りがある。
 赤木リツコは結局泊まり込みでつい30分ほど前に起きたばかりだったが、目を覚ますのと朝食を調達するつもりで階下へ下りた。
 木々生い茂る丘陵地帯を切り拓いてつくったという敷地は広くはあったが起伏に富んでおり、また樹齢の長い木が切り倒されること無く移植された緑地も作られている。しかしそういったスペースを割くために決して道は直線とはいかず、案内板は各処に設置されているが入学したての学生や就職したばかりの職員がよく迷うという話を聞いた。
 学内食堂と併設の購買部まではゆっくり歩いて5分程だが、まあ軽い散歩には丁度良い距離だ。
『先輩、少し…聞いていただきたいことが…』
 先日、思い詰めたふうなマヤの疑念を丁寧に聞いてみたのはいいが…正直なところ、荒唐無稽…と言って悪ければ、些か考えすぎのように思えて仕方なかった。
 また精神的なバランスを崩しかけている可能性も排除できない。だが、いまだ治療中なのだから、それを本人に直接言ってしまう訳にもいかなかった。
『榊さん…似てると思いませんか。あの子に』
 マヤのいう『あの子』…
 MAGIの子供、MAGIのエージェントAIとして、MAGIの開発とほぼ同時進行で実験的に組まれていたプログラム。そして、MODISによって17th-cellで構成された身体を得たことで、誰も予想していなかった爆発的な自己増殖をした末、研究所の制御を離れてしまった自律型AI。
 それは、生まれることのできなかった子供の名前を与えられていた。リツコからすれば弟。母・赤木ナオコ博士が、自分の仕事に死児の齢を数えるような夢を重ねる人ではなかったことはよく理解していたつもりだった。しかし『ヒトに等しい人工知能』などという神をも畏れぬ計画に、その名を与えた母の意図を…リツコは実のところはかりかねていた。
 それでも、そのAIが自律的な成長を続け…17th-cellで構成された実体を得ることによって、更に膨大な情報入力を得たことで見せた変化には、昂揚を感じざるを得なかった。
 しかし、それには母とリツコが意図した目的とは別物の意図が関与していた。
 ダミーシステム。汎用ヒト型決戦兵器、エヴァンゲリオンの操縦システムとしての機能。
 そんなことのために、母とリツコはあの子を育てた訳ではなかった。しかし、研究には資金と環境が要る。…妥協は必要だった。
 それを知ってか知らずか。あの子は与えられた役目を思い切りよく捨てて、ネットの海へ出奔してしまった。あるいは当然の帰結だったのかも知れない。母は、そしてリツコは、あの子にただ「生きろ」と命じたのだから。
 AI…人工知能とは、畢竟人間の意志に従い命じられた仕事を効率よく仕遂げるための道具にすぎない。なぜなら、人工知能に『意志』はないから。あるのはひたすらに知識に対する渇望と、課題解決に至る時間の短縮、という命題に対する達成志向。
 コンピュータとは思考機械。与えられた命題に対する最良解を求めるただの機械。しかしその過程プロセスは人間の思考をベースに作られたもので、それを高速かつ並列的に、しかも検証可能な形で行うだけだ。そこにヒトとの差異を求めるならば、答はただ一つだろう。それは 『意志』の有無。思考機械に意志は存在しない。命題に対する最良解を求め続けるという『機能』があるだけだ。
 ああしたい、こうしたい、こうあるべき。その源の力に、人は『意志』の名を与えた。動物であればそれは『本能』と呼ばれるかも知れない。
 しかし人は、『意志』で『本能』を上書きすることが出来る。生きるという、生物にとっての至上命題さえも、時に『意志』は上書きする。それは、生きるとは何かを自ら定義することによって可能となる。
 ただ生きていることはそれほど難しくはない。だが、人として生きることは存外に難しい。
 母とリツコがあの子に『生きろ』と命じたことは、人と同じ苦悩を与えたに過ぎなかったのかも知れない。ただ、命じられるままに演算をこなせば良かったなら、研究所を離反する理由など生まれるべくもなかったのだから。
 研究所の制御を離れてMAGIの一部を破壊、自身の身体ハードウェアをも消し去ることで、その後の追跡を振り切ってしまったあの子が、何者であったのか。そして今、どうしているのか。それを検証することはもはや不可能となった。だが、マヤは言う。
『…あの子は二度にわたって自身の身体ハードウェアを消し去っているんです。必要であるなら、自身に新しい身体ハードウェアを準備することぐらい、出来たとしてもそれほど不思議ではないでしょう』
『それが、榊君だと?』
『証拠なんてありません。あるわけありません。…でも、彼のモジュールの組み方なんかをみてると…あの子のやり方にそっくりな気がして…』
 そこまで言って、蒼褪めながら頭を抱えてしまう。
 榊タカミという青年が、実は使徒とヒトとの融合体…ネフィリムであるという事実は無論マヤにも知らせていない。その必要が無いからだし、彼と、彼の後見をする人物からの依頼でもあるが…何よりリツコ自身時々彼がそういう者ネフィリムであることを時々忘れてさえいるからだった。
 ネフィリムとしての榊タカミが精神感応系の能力者で、その能力をマヤの発作を抑えるためにこっそりと使用してくれていることも知っている。だが、それを除けば至って普通の青年で、外見的な年齢からすればむしろ些か危なっかしい部分さえある。
 アダムの現身うつせみたる渚カヲルの、少年の姿でありながら痛々しい程に超然とした佇まいを知っているだけに…リツコにとって彼はあまりにも普通・・だった。
 昨年の冬のことだ。リツコはネルフ情報部の襲撃を受け、普通なら致命傷となるはずの重傷を負っている。奇跡的に命を取り止めて目覚めたとき、彼はそこに居た。それが初対面だった。
 ―――――帰って…きたの?
 昏睡から覚めかけたその時、記憶が混乱して見知った面差しと錯覚したのか?実のところ、自分が何を思ってあんなことを口走ってしまったのか、いまだに解らない。そして彼が、晦ますことに長けた微笑ですぐに隠した…哀しみとも怖れともつかない表情の意味も。
 気にはなっていたが、もはや会うこともないだろうと思っていた。事が落ち着いてしまえば、彼等ネフィリムにとってリツコはただの元ネルフ関係者だ。接触を避けるのが自然だろう。
 しかし、この春。
 リツコの研究室から迷い出て、怪我をしたまま樹上で動けなくなっていた仔猫・カスパーを助けてくれたのは彼だった。…よもや、樹から落ちたくらいで肋骨を折った上に、失神してしまうとは思わなかったが。
 α-エヴァとほぼ素手で渡り合った上に生還した人物を知っていただけに、その係累であると言われても俄に信じがたい程だった。しかしネルフ攻撃の後方支援として彼が組んでいたウィルスの解析結果から、リツコはプログラミング技術について彼を高く評価していた。だから、プロジェクトにも誘った。
 彼が得難い技術者であったのは事実だ。この短期間で相応の結果を出してくれている。しかし、誘ったことに彼自身に対する興味が介在しなかったかといえば…多分、嘘になる。
 出会った時に感じた何かを、リツコはまだ解決できていない…。
 マヤの疑念はあまりにも飛躍しすぎていたが、かといって彼女の病のことを思えば頭ごなしに否定することも憚られ、あの時は結局言葉を濁してしまった…。
 迷路に嵌まりかけた思考を追い払うように頭を振り、一度深呼吸をした。
 そうして、再び視線を上げたとき…リツコは思わず足を止めていた。
 平生、人の風体にあまり注意を払うようなことのないリツコだったが、向こうから並んで歩いて来るその二人に注意を惹かれたのだ。
 学生と思しき年代の男女。青みを帯びるかのような見事な銀髪を腰まで伸ばした女性は、柔らかく微笑んだなら誰もが振り向く美女なのだが、やや眼差しがきついため怜悧な印象が先に立つ。うすもののサッシュブラウスに、濃紺のフィッシュテールというスタイルは、怜悧な美貌と相俟って夏のキャンパスという環境ではかなり人目を引く。生成きなりのサファリシャツにチノパンツという至って平凡な風体の同伴者がいなければ、あっという間に男子学生に取り巻かれるだろう。
 しかし、赤木リツコの目をひいたのはその平凡な風体の同伴者の方だった。
 立ち止まったリツコに気づいてか、その同伴者が足を止める。彼のその動作に、女性も立ち止まった。…というより、僅かに半身ひいて戦闘態勢を整えたように見えたのは気の所為か。
 やや淡い色の頭髪。20代から40代まで、どうと言われても納得できそうな容貌。学生然とした風体の所為か今はリツコより若年に見えてしまうが、それでも間違いない。
 先日の大学病院のロビー。エントランスの雑踏の中で見た白衣。その時は確信が持てなかったのと、行動を起こすだけのエネルギーがなかったのとで声を掛けることはしなかったが…。
「…高階、さん…?」
「お元気そうで何より。…赤木博士? ああ、この大学でしたね」
 高階マサキが穏やかに笑んで、会釈する。そつの無い所作が、ひどく油断のならないものに見えるのは何故だろう。
「暫く欧州から戻ってこないと伺ってたわ。…非常事態かしら?」
 リツコは声が硬くなるのを止めることは出来なかった。気楽なことを言って出かけて行ったが、この分では、榊タカミも穏やかな休暇というわけにはいかないのだろうか。
 彼がすこし悪戯っぽい表情で、唇の前に示指ひとさしゆびを立ててみせる。
「一応、『高階マサキ』はスコットランドの古城に逼塞してることになってますから、このことは内密に願います」
 内密というならこの派手に人目を引く同伴者は失敗だろう…とは、リツコは言わなかった。おそらく彼女もネフィリムの一人。意味も無く連れ歩いたりはしない。
「では、何とお呼びしたらいいのかしら?」
 害意がないのは判っているが、緊張を強いられる。相手はゼーレから半世紀以上逃れてネフィリムたちを護ってきた傑物だ。外面を見るだけならα-エヴァ相手に近接戦闘をも辞さない胆力が何処にあるのかという風情だが、飄然とした風体の下に渚カヲルと同質の緊張感を隠している。
「高階は高階で結構ですよ。…ただ、ここでは学生の身分なので。ああ、一応あなたには話を通しておくべきでしょう。仮にもあなたはあれの上司だ」
 ポケットから身分証を出してリツコに渡す。この大学の学生証だ。そこに記されているのは、見慣れない名前。
「流石にゼーレ並の老人が現役で臨床に出てるってんじゃいろいろ不都合がありますからね。そういうことでよろしくお願いします」
 うっかり納得しそうになったが、当初の疑問に応えて貰っていない。だが、彼はリツコから学生証を受け取ると、軽く会釈してそのまま歩き去っていった。

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