Scene 3  Stormy Heaven


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world Ⅱ」

【システム、Serial-Ex.からの信号受信。フィードバック良好。排水開始】
 スピーカー越しにも判る、畏怖を懸命に押し隠す声を、彼は無感動に聞いていた。
 水槽の中、橙赤色の…血臭のする液体が徐々に水位を下げていく。呼吸形式の変更に伴う呼吸困難感は一過性のものだ。肺サーファクタントおよび酸素の気管内直接投与によって、速やかな移行を援助する。あてがわれていた酸素マスクを自ら外し、上気道に滞留していた液体を小さな咳で喀出。彼は室内気Room Airでの呼吸を開始した。
【バイタル正常】
 水槽の中でおもむろに上半身を起こす。立てた片膝に左腕を預け、その掌を…何か、重要な書類でも閲覧するようなまなざしで見る。軽く指を屈伸させ、その動きもまた検分するかのようであった。

「酸素カット。…モニタも終了。デバイスの正常な起動を確認した」
【了解、酸素カット、モニタを終了します】
「Sure…」
 律儀な復唱に確認チェックバックを返した。銀色の髪から滴り落ちる橙赤色の雫を、紅瞳が凝視みつめる。
【キール議長…そう、お呼びしてよいのでしょうか?】
 慇懃な問いかけに、彼は最初に沈黙でいらえたが、ややあって静かにうべなった。
「それは答のすべてTRUEではない。だが間違いFALSEでも無い。当面の活動においての呼称、記号としては特に問題無いと判断する」
【…了解、ではそのように】
 スピーカーからは困惑を音声化したかのような声が返ってきた。
 彼はそれを些かも気に留めることなく、首筋の端子に接続されていたコードを無造作に引き抜いた。その動作は端子に不快な感覚を与えたらしく、その表情が僅かに歪む。
【議長、元来が試験体プロトタイプなので外部通信素子が旧型で…接点がかなり脆弱です。それに、保存期間のこともありますが…回収までに受けた損傷の影響を考慮すると、いつ使用不能になってもおかしくありません。ご注意ください】
「わかった。基本のインストールは完了しているし、それほど機能追加が必要な訳ではない…当面の稼働に問題無ければ良い」
 銀髪紅瞳…十五、六の少年の姿。外見的な年齢に不相応なほどに錆びたその声に不機嫌の粒子はまとわりついていない。むしろ、他人事のように冷静だった。用意された衣服を纏い、その部屋を出て行く。
 かつてその名で呼ばれた者は、スピーカーの向こうに居る者達の記憶では老人の姿をしていた。もとより身体が活動限界に近かったのは周知の事実とはいえ、思い切った手段と言うべきだった。
 昨夏より人工進化研究所の不手際からゼーレと呼ばれた組織全体に大きな齟齬が生じ、活動が一時停滞していたが、ようやく具体的な指示が降りてくるようになった。昨冬にネルフ…離反者・碇ゲンドウが膨大な研究資料を道連れに破滅した事と何か関係があるのかも知れないが、そこまでは彼等の預かり知る処ではなかった。
 すべてが再び遅滞なく動き出したとは言えないのかも知れない。ただ、ともかくも指示は降りてきた。彼等はそれに従うだけだった。

***

 昏い海。
 嵐の海。
 昼の澄んだ蒼は何処にも無く、ただ闇。
 高い波が砕けて、もうほとんど感覚のない身体を更に晦冥の底へ押し込もうとしていた。不意に、水面の遙か上にかすかな光源が現れる。…ああ、月だ。そんなことを思った。一面に空を覆っていたはずの雲の隙間から、清かな月の光が落ちてくる。
 多分ここは、嵐の中心。雲が切れた、束の間の静寂。
 白い泡に包まれ、酸素に見放されてもう久しい。だが、浮かび上がろうという努力は最初から放棄していた。…望んで海底そこに居た。優しい水が息の根を止めてくれるのをただ待っていたのだから。
 薄れていく意識の中で、とても大事なものが意味を喪っていく。それはとても哀しいことだけれど…他に、方法がなくて。
 僕はあなたに望まれた者ではなかった。
 でも、生きねばならない。あなたは僕に、「生きろ」と教えたのだから。
 僕はそれを肯定した。そうするための最善を、僕は択んだ。「生きる」ための、これは過程プロセス。苦しくても、哀しくても。
 慟哭は声にならず、僅かな泡沫となって波濤が生む大量の泡に呑み込まれた…。

***

「…おい!」
 声と、衝撃と、どっちが先だったのか判然としない。
「…イサナ?」
 眼を開けたときに見えた…いつもただ深く、色の判然としないイサナの虹彩が、やや紫を帯びていることに初めて気づいた。タカミがそれを口にしかけたとき…急激に流れ込んだ酸素に盛大に咽せる。
 その時初めて、両手で自身の喉を掻きむしっていたことに気づいた。先の衝撃の正体は、結構な勢いで頬をひっぱたかれた所為だということにも。
 咳がおさまっても、しばらく呼吸は荒れていた。
「…あまり吃驚させるな」
 そういうイサナの声は―いつものことと言えばそれまでだが―あまりにも淡々としている。何に吃驚したというのか。…そもそも彼が吃驚するなどということがあったのか?
 今は夜ではないし、ここは海の底ではない。コテージの部屋で、ベッドの上だ。外は明るい。それでも俄に状況の整理がつかなくて、ひりひりとした痛みを伝えてくる頬に手を遣って控えめに問うてみた。
「…えーと、何が起こったんでしょうか…?」
 開いた窓から夕刻の微風が入ってきて、部屋は快適な温度を保っていたが、全身にべっとりと嫌な汗をかいていたのに気づく。微風が1秒ごとに汗を退かせてゆくが、服は替えたいところだった。
 読みかけのペーパーバックはベッドの下に落としてしまったらしい。身を起こしてそれを拾ったが、微妙に身体が軋む。挟んだ筈の栞は飛んでいた。
 …そう、やるべきことはやってしまって、時間を余してしまった。だから、書棚にあったミステリのペーパーバックを流し読みしていて…つい寝入ったのだった。
 イサナが部屋の反対側のベッドに掛け、憮然として答える。
「午睡しながら自分を絞め殺しかけてる莫迦がいたから、とりあえずひっぱたいてみた」
「…生理学的に、自分の手で自分を絞め殺すのは不可能かと思うんですが」
「訂正しよう。絞め殺すくらいの勢いで喉を掻きむしっていた。襟元、酷いことになってるぞ。目は覚めたか。処置に手伝いは要るか?…一体、何に引っ張られたんだ」
 自分の指先の違和感に気づいて、タカミは思わず一瞬呼吸を呑んだ。
 キーボードを叩くのに支障ない程度に手入れしている爪に、緋色がまとわりついていた。喉に手を遣ると、嫌な手触りがした。
 鏡に映してみるまでも無く、その惨状は推察できる。
 魘されている人間を起こすには少々思い切りの良すぎる手段に控えめな抗議をしてみるつもりだったが、とりあえず諦めた。これは、ひっぱたいてでも起こさなければならないだろう。立場が逆ならそうする。
「…お手数をかけてしまってすみませんでした。これ以上無いというくらい目は覚めましたけど…さて、何がどうなったのか」
「覚えてないのか」
 やれやれ、というようにイサナが眉をひそめる。
「イヤな夢を見ていたのは確かですけどね…」
 見当がつかないといえば嘘になる。…潮の匂いとかすかな海鳴りの所為だろうか。自分の選択の結果とはいえ、海のイメージに抜きがたい恐怖がこびり付いていたとしても然程不思議はない。
 だが、何故、今になって。
 胸中に不快な靄をかかえたまま、タカミはとりあえず立ち上がった。
「さしあたって一度浴びてきますよ。どうにも、べたついていけない。ああ、夕食の当番って僕らでしたよね。大丈夫、算段はついてますから」
 ついでのことで頭も冷やしたい。イサナが露骨に不審そうなまなざしを向けているのはわかっていたが、タカミはそう言ってするりと部屋を出た。
 階段を幾分ふらふらしながら降りつつ、大きく吐息する。
 『小人閑居して不善を為す』。往古の賢人曰く、凡人が暇になるとろくな事を考えないという。至言というべきだった。多少、忙しくしているくらいのほうが、余計なコトを考えなくていいのかも知れない。
 自分で出来ることはすべてやった。あとは、向こう・・・の出方を待つしか無い。だが、ただ待つというのもなかなかに忍耐の要ることではあった。
 このコテージに来て数日、穏やかな休日が続いている。言ってみれば暇を持て余しているのが却って良くないのか。

 ―――かといって、不穏な客人に大挙して押しかけられても困るのだが…

***

「退屈ーーーっ!」
 ミスズがレミントンM700 1 を抱えて地団駄を踏むに至り、カツミは装弾されていないとわかってはいるがそそくさと物陰に隠れた。
「いーじゃないか退屈なくらいで。こんな、リエ姉の援護がなかったら退路もないような空中楼閣マンションで籠城なんて、本来は御免だぞ、俺」
「だって、やることないんだもの。カツミもユウキもあんまりおやつ食べてくれないから作り甲斐がないし…せめてタカヒロかタケル、どっちかがいれば捌けるのにぃ…」
「そりゃ単にミスズの作る量が半端ないんだって。皆一緒に居たときと訳がちがうんだから。ミスズのおやつは美味しいけど、流石に三日連続プラムのタルトタタンってのは勘弁…」
「何言ってんの。この季節、リンゴは高価いのよ!一個二百円近くするんだから!やっぱり使うなら旬の果物ってのが王道っ!」
「えーと、そういう問題なんだ…?」
 もはやどうでもよくなって、カツミはベランダへ退避したまま腰を下ろして何処までも青い空を見上げる。
「あー…いっそ、ヴィレの跳ねっ返りでもゼーレの幽霊でもいいから、ミスズが無差別発砲事件でも起こさないうちにちょっかい出してこないかなー…」
 カツミが不穏なぼやきを零す。その時、それまでリビングの寝椅子カウチソファに身を横たえたまま静かに両眼を閉じていたユウキが不意に口を開いた。
「…カツミのリクエストに応えられそうだ」
 カツミが飛び上がってベランダからリビングへ転がり込んだ。
「うわ、冗談」
「そんなところで慌てるな、気取られる」
 少し眠たげな両眼を開き、イージス艦も顔色を失う長距離ロングレンジレーダー…ユウキがかすかに頭を動かした。このマンションへはいってからこっち、文字通り寝る間も惜しんで翔んでいたのだ。
 カツミとしては安全装置ナオキがいない状態で長時間のフライトをさせるのは少々不安ではあったが、その為に此処へ来たのだから止め立てもできない。…まあ、ユウキの場合、ミスズのようにいきなりレミントンを振りかざすということは有り得ないのが救いだ。
…まあ、ライフルで事が収まらないようなら、そもそも撤退だろう。
「まあ待て、まだ確証がないんだ…とにかく注意が始終こっちに向いている。明確な害意というところまで行かないからいまひとつ決め手に欠ける。まあ、俺達が何者か知ってるのは確かだろうな」
「みせてっ!」
 身体を起こしたユウキにミスズが飛びついた。ユウキの肩に触れ、眼を閉じる。
 ミスズはユウキの感覚と記憶を読み、場合によっては翔んでいる時の感覚をリンクすることによって遮蔽された場所でも狙撃することが可能だった。…ただし、使用するのはある程度改造チューンナップをされているとはいえ普通のスナイパーライフルだから、その性能を越える壁抜きは不可能だ。その場合、レミあたりが磁力砲レールガンで撃ち抜く訳だが、そうなるともはや話はデコイ猟で済まない。狙撃・・というよりは砲撃・・になるのは目に見えている。
「こいつらか! よーし成敗っ!」
 次にその眼を見開いたとき、早速レミントンを担ぎ上げようとしてユウキに止められる。
「だから待てと」
「大丈夫、一寸遠いけど十分射程距離だし、民間用の強化ガラスなんか徹甲弾使えば…」
 リビングに転がり込んだあと、よく育ったテーブルヤシの鉢を背にするかたちで外から見えない位置に座り込んでから、カツミがやれやれといった風に吐息する。
「既に発想が臨戦態勢コンディション・レッドだよなー…ミスズ、撃ち倒してもいいけど釣り上げた魚に情報吐いてもらってからじゃないと、俺達がここで籠城してた意味ないじゃん。ところで、ミスズのレミントンで徹甲弾って撃てるの?あれって本来銃弾ってより砲弾…まいっか、とりあえず連絡な」
 埒もないツッコミだったと思い直して、カツミがポケットの携帯電話を探る。
「…あぁ、カツミも待て。必要なさそうだ」
 ユウキが言ったのと、部屋の中央にふわりとユキノの幻身が現れるのがほぼ同時だった。ユキノの二カ所同時存在バイロケーション能力は、同胞の居る場所という制限はあるが自らの幻身を出現させることができる。
「えー?ユキノ姉もいたの」
 淡い色のセミロングが、ふわりと広がって着地と共に落ち着く。
【当たり前でしょ。リエだってずっと待機できないし、私が代わりにモニタしてたの。大丈夫、サキには連絡入れたわ。そうそう、リエから通常回線は聞かれる可能性があるから、指示あるまでなるべく使うなって】
「リエ姉の通信制御に割り込む強者ツワモノって…誰?」
【それについてはまだ何とも。…あ、来るわね。うまくやって頂戴。皆、怪我しないのよ】
 ユキノの幻身がユウキの肩に軽く触れてから消える。接触し思惟で伝達することで、一度に大量の情報を受け渡すことができるのだ。
「…状況了解」
 ユウキがすっと立ち上がった。

***

「客が来る」
 ややレトロな受話器を置いて、イサナが言った。
「…はい?」
 コテージのリビング。ネット接続を禁じられている関係で、することと言えばもう本を読むしかないタカミが、読みかけの本をテーブルに伏せながら些か間の抜けた声で応えた。
「3人、いや4人か。まあ、部屋なぞ有り余ってるから何も問題無いんだが…何と、流石というか…」
 あとは聞き取れなかったが、イサナが当惑していることだけはよくわかった。
「…ユカリ達は外だったな。声を掛けてくる」
 それ以上を訊き損ねている間に、イサナはリビングを出て行ってしまう。何か仕事が回ってくるかな、とは思ったのだが、タカミ一人ではどうしようもない。
 さしあたっては、栞を挟むと部屋の片面を占める重厚な本棚へ読んでいた文庫本を戻す。
 リビングには本棚の他、一隅には古ぼけたアップライト・ピアノが一台置いてある。昨日だったかカヲルが弾いていたが、音が狂っているとすぐにやめてしまったようだ。今度調律師ユキノ姉に連絡つけとくから、とユカリが言っていた。
「今、電話が鳴った?」
 場所こそ違え、タカミと同様に手持ち無沙汰であったらしいカヲルが吹き抜けの2階廊下から問うてきた。
「うん、お客さんが来るらしいよ。今、イサナがユカリ達を呼びに行った。あのイサナが面食らってたみたいだし、一体誰だろうね。部屋の心配してるくらいだから、別に招かれざる客って訳じゃなさそうだ…けど…」
 途端にカヲルの表情が硬くなるのを見て、少なくともカヲルが何を想像したかに思い至る。
「…まさかね」

***

「えーと、おじゃまします」
 カヲルが扉を開けたとき、照れくさそうに玄関に立っているのは、碇シンジであった。
 その隣に、家屋の造りを検分するような視線で周囲を眺め回しているアスカ。その後にいつもとまったく風体の変わらない加持と、すっかりリゾートスタイルのミサトと続く。
「いらっしゃい、シンジ君。惣流さんも。部屋の準備は出来てるみたいだから、とりあえず荷物を置いておいでよ。夏期講習、無事に終わったんだ?」
「あ、うん、おかげさまで」
 カヲルの風の如く爽やかな微笑で迎えられ、シンジが例によって顔を赤くして頭を掻いた。
「私はイレギュラーなんだろうけど、コイツひとりでふらふらさせるとろくなことがないから。暫く世話になるわね」
 アスカのやや眦をつり上げた…言ってみれば挑みかかるような視線を、カヲルはさらりと受け流した。
「とんでもない。愉しんでいってもらえば嬉しいね」
「あ、いらっしゃーい!!」
 レイが吹き抜けの欄干から身を乗り出して手を振る。ユカリと一緒に部屋の準備をしていたらしい。
「こっちこっちー! あ、荷物持とうか?」
 はしゃぐレイに招かれて少年少女が二階に上がってしまった後、速やかにカヲルの微笑はかき消えた。
「…どういうことなのか、説明は貰えるんですよね?」
 後に残った大人ふたりに静かに詰め寄る。
「あれー?高階君から連絡来てない?」
「…貰ってません」
 刻一刻と険しくなっていくカヲルの表情に、流石のミサトが冷汗を垂らした。
「おっかしーな。こっちの依頼だともう話通ってる筈なんだけど」
「依頼って葛城先生。あなた仮にも教職でしょ。バイトなんかしていいんですか。大体、依頼って何です。今の状況は知ってて来てるんですよね。なんでシンジ君が一緒なんです」
 畳みかけるカヲルを押しとどめながら、それでも口許から笑みの消えないあたりがミサトというべきか。
「いやだから、とぉーっても上のほうからの特命なんだってば。おばさまから『書類上のコトは何とでもしてあげるから、シンちゃん達のこと、お願いね』って言われたんだもの」
「…ユイ博士?」
 流石に、カヲルが凍り付く。そうだ、今回の件はそもそもが碇ユイ博士経由の話の筈。その時、後ろでもう一度ドアが開いて、迎えに出たイサナが入ってきた。客をポーチで下ろしたあと、ガレージまで車を回してきたのだ。
「まったく…怖ろしい御仁だ、碇博士は。すまん、連絡は俺が受けてる。とりあえず情報共有だ。
 …カヲル、怖い顔で立ちふさがってないで彼等も通してやれ。気持ちは理解るが彼等に詰め寄るのは筋が違う」

  1. レミントンM700…アメリカの名門銃器メーカー、レミントン・アームズ社が開発した、ボルトアクション方式のライフル。ボルトアクションライフルの利点である高い命中精度、単純で堅牢な構造、信頼性などにより、警察他の法執行機関、軍隊で狙撃銃としても多数採用されている…そうな。衛宮切嗣さんあたりもお使いのようです。
Scene 3  Stormy Heaven