このまま、氷の海の下で眠ってしまえれば良いのだ。
 そう、声でない声で呟きながら…ヨハン=シュミットは瞼を閉じた。
 あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。途方もなく長い時間を眠ってしまったような気もするし、一時間ばかりうとうととしていただけのような感じもする。
 氷海の下の静謐だけに抱かれている筈だった。今、周囲から感じられるのは…ひっきりなしの振動と艦体を打つ音。脆くなった艦体が軋み、さながら苦鳴をあげているかのようだ。
 時が移り、海底火山の爆発にでも巻き込まれたというのか。
 違う――!
 艦を覆っていた筈の氷を一時に軍服の背に流し込まれたかのような感覚に慄然とする。
 何ということだろう。彼ら・・はあの海の底から、この潜水艦を見つけ出し…陸上へ引き揚げたのだ。そして今、着底の衝撃によるものか開かなくなってしまったハッチを、こともあろうに艦の装甲を灼き切ってこじ開けようとしている。
 身を起こし、僅かに開いた輸送ケースに手を掛けた。おさめられた珠の深い紅を一瞬だけ眼に映し、手にしたままだった一つをポケットに収めると、ケースを閉じて胸に抱いた。
 まだ十分身体に力が入らない。立ち上がろうとして果たせず、壁に背を預けて座したまま、ケースを抱く腕に力を込める。
 やめろ、開けるな。静穏たるべき墓所に手を掛けようとしているのは誰だ。赦しがたい非礼。冒涜。
 ――――今更、寛恕を乞うことすら不遜。
 頭の奥が熱くなり…何も、わからなくなる。

***

 目の前に広がるのは、焼けただれた瓦礫。
 艦体と呼べるような体裁をなすものは何一つ残っていない。溶け崩れた鉄塊が散乱する視界を覆うのは、焼け焦げる匂い。そして無数の…苦鳴。
 そこは、巨大な建物の中だった。引き揚げた潜水艦を囲うように立てられた施設…あるいは潜水艦を収容するために造られた中へ艦体を引き込んだのか。しかし潜水艦一つまるごと収容する巨大な建屋は、外壁も屋根も粗方吹き飛び…無様な骨格だけを晒している。
 其処彼処そこかしこで火の手が上がり、資材に引火でもしているのか、連鎖的に小爆発が起きていた。
 ああ、また。
 どのくらい前になるだろう。深い森の中の研究所を地上から消した時と同じ。でも、あの時は望んでそうした。そうしなければならなかった。どれだけの血と苦鳴を押し潰してでも。
 すべてを消し去らなければならなかったのだ。子供達の痕跡を隠すために。
 ――――子供達を旅立たせるために。
 孤独に倦んだ自分が犯した罪。卵の安寧から引きずり出し、荒野ノドへ放擲した自分を…彼らは恨むだろうか?
 無様に折れ曲がり、溶け崩れた建屋の骨格の隙間から見える空は…蒼い。
 赤と黒で覆われた地表とは対照的に…
 どのくらい経ったのだろう。どうしているだろう。この広い世界のどこかにいるはずなのだ。しかし生き延びているはず。彼らはそういう存在ものだから。
 ――――だから、今自分に出来るのはただ一つ。
 すべてを消し去る。海の下に埋葬してしまうことさえ赦さぬというなら、この地表から洗いざらい消し去ってやろう。それが地上の人間達の望みならそうしてやる。
 この身諸共、この大陸ごと。
 無償とは言わぬ。それなりの対価は払って貰う。
 どうしてそっとして置いてくれないのだろう。この美しい地上を分け合うことは、それほどに難しいのか…?
 だがその時、その決心を揺るがすものが視界に入った。
 何故、こんな処に子供がいる?

*◇*◇*

 子供の行くところではない、と一蹴させないために、訓練を積んだ。
 正規の手続きを踏み、正式な調査隊員として登録された。…保安部だから、部署は違うが。それでも決定通知を手に父の書斎をノックしたとき、有頂天とは言わないまでも…それなりに舞い上がってはいたと思う。
 少なくとも、父を驚かすことには成功した。例によって顔も上げずに論文に目を通しながら話を聞いていた父が、手を止めて自分を見たからだ。
『そうか』
 ややあって発せられた短い言葉に、ささやかな勝利を噛みしめた。それは、ひどくささやかな。なぜなら、父はそのまま再び論文に目を落としたからだ。
『迷惑をかけんようにしろ』
 もはや自分を見ることなくそう言った。そうだ、わかっている。こういう人だ。
 身体能力で言えば、初老で足も傷めている父がとても極地のフィールドワークに耐えられるとは思えない。屋内でさえ、杖を必要とするのだから。極地での活動で『迷惑をかける』のが父の方であることは自明だった。
 ――――それなのに。
 その日…
『調査』は緒に就いたばかりで、自分は任務のために施設内を巡回していた。廊下の向こうから来たのが父であることは、足を引きずる歩き方ですぐにわかった。
『大丈夫ですか、剣崎教授』
 自分は少し、笑っていたかも知れない。殊更に他人行儀に…そう訊ねた自分を見た父の、少し驚いたような顔が面白かった。こんな処で『父さん』などと呼ぼうものなら、極めつけの渋面を作るに違いないのに。
 その時、地鳴りとともに施設内に警報が鳴った。地鳴りと警報音は数秒に渡って続いたが、状況を知らせるアナウンスはない。そのまま、押し寄せた轟音と爆風に叩き伏せられ…意識は暗闇に押し込められた。
 何が起こったのか、わからなかった。

***

 寒い。
 極地の外気温はここへ到着したときにたっぷり堪能した。もう十分だ…そんなことをぼんやり考えている自分にふと気づく。
 そして今、地べたを引き摺られていることにも。
 ものが焦げる匂い。遠いが、連鎖的な爆発音。…苦鳴。
 痛い。決して平坦とは言えない地面を無理矢理引き摺られている所為というより、胸か腹部に何か怪我をしたのかも知れない。…凶悪なまでの寒さの中で、傷だけがひどく熱い。
 投げ落とされるような衝撃で、さすがに目を開けた。
 溶け崩れた鉄骨と、残酷なまでの蒼い空が視界に入る。そしてその視界が、黒い四角に区切られていることに気づく。
 視界を区切る四角が、閉じられる前の救命艇のハッチであることを認識する。力を振り絞って身を起こし、焼灼された石でも抱かされたような痛みに縁に手を掛けて身体を折った。
 その手が、何かに触れた。…焼けただれた手袋に覆われた手。
 手の先に、腕。そして、その先。
 声を上げかけたが、掠れた息しか呼出できなかった。
 救命艇のすぐ傍…自分を救命艇に押し込んだあとで救命艇に縋るようにして倒れた者の姿が、そこにあった。
 ――剣崎教授。父。
 引き摺るしかなかっただろう。父は元々足を傷めていたし、傷も負っているらしく防寒着は血と煤と泥で汚れていた。
 どうして。
 研究にしか興味がなかったんだろう。母も、自分も、立場上必要だったから置いていただけだろう。
 何を今更。
 言いかけた文句は、血で堰かれる。ハッチの縁に縋ったまま血塊を吐き出した時、何かが瓦礫を踏む音に顔を上げた。
 信じられないもの・・が、そこにいた。
 煤に汚れ、いたんだ軍服を纏った熾天使セラフィム。母がいつも描くような、穏やかなものとは違う。…今まさに地上へ裁定を下さんとする、断罪の天使。
 透き通るような白皙の頬も煤で汚れていたが、背筋に寒気を奔らせるようなその美貌は些かも損なわれていない。
 目に映るものを憎み、哀しみ、蔑み、そして悼む…鋼玉コランダムのような輝きが、双眼にあった。

*◇*◇*

 救命艇に子供を押し込んだところで力尽きたか。
 救命艇の横腹に紅い痕を残して倒れ伏す老人。救命艇のハッチを閉めるところまで保たなかったというところだろう。
 何故、こんな処に子供が居る。
 ハッチの中から、倒れ伏した老人―師か、親か―に手を伸べているのは、制服を着込んではいるが、まだ子供。傷を負っている。浅くはない。…多分、もう助からない。
 彼らの身体は、ひどく脆い。寿命は短く、損傷を回復する力も弱い。
 なのに何故、こうも粗末に扱うか。
 的外れな怒りを、ヨハン=シュミットは嗤う。
 たった今、己が仕出しでかしたことなのに。
 救命艇に歩み寄り、憎悪とも、畏怖とも知れぬ眼差しで自分を見上げる子供を見た。
 もう助からない。胸部から腹部にかけて、破損した建材に抉られでもしたのか酷い傷になっている。だが、その双眼の存外に強い光に一瞬呼吸を停める。
 〝――どうして〟
 既視感のある眼差しであった。
 あの深い森の中に置き去りにしてきた子供。
 〝――どうして、起こした〟
 〝――何故、置き去りにした〟
 〝――何故、裏切った〟
 彼は決してそんな台詞を口にしたりはしなかった。従容として命令には服しながら、いつも注意深く、こちらの出方を窺い…生き延びるための算段をしている。いつでもこの手を振りきって出て行く準備はできている、という眼。
 裏切りではないのだ。彼らにとって、自分は敵のひとりでしかなかったのだから。最後まで、その立ち位置スタンスは変わることはなかった。
 与える知識は砂が水を吸うように取り込みながら、決して心許すことはなかったから。
 あの夜、ただ一度の、あれが心からの言葉だったのだろう。
『あんた、俺たちを一体どうしたいんですか。知っているんでしょう。…俺たちが何者で、何処へ行くべきなのか!?』
 心が、ちぎれそうだった。
 時間が足りなかった。もう少し、待ちたかった。せめて、彼らが自然に道標みちしるべを獲得できるまで。そうすれば、自分ヨハン=シュミットが何者かはすぐにわかった筈だから。
 そんなことを考えて、また嗤う。
 わかったら?わかったらどうだというのだ? 自分は孤独に倦み、十分な環境も整えないままに彼らを卵の安寧から引きずり出したのだ。挙げ句、荒野ノドへ放擲したのではないか。
 不意に泣きたくなって、天を仰ぐ。
 たとえ憎まれていても構わない。もう一度会いたい。
 …だから今は、その時のためにこの身を消し去ろう。死ぬことの叶わぬ身だが。
 ポケットに入れていたために、自身の熱が移った紅珠を掌に載せる。
 『コア』。星を渡る生命が、過酷な環境を乗り越えるために取り得る最終防御形態を模したものだ。無論、今はこの中には誰も居ない。
 だが、危機に瀕した生命の方舟にはなり得る。無論、その魂にそれだけの力があればだが。
 意識を失って頽れた子供を救命艇の中へ押し戻し、てのひらの紅珠をその上に落とす。
 そして、ハッチを閉めるためのレバーを引いた。この老人が仕遂げられなかった、最後の仕事を。
「…Auf Wiedersehenさよなら.  Bis baldまた会おう.」
 そうして、歩き始めた。老人の仕事が無駄にならないために、すこしくらいは距離を取ってやるべきだろう。そんなことにどれほどの意味がある訳でもないが。
 強いて言えば、見苦しいほどの言い訳エクスキューズ
 歩きながら、汚れた軍服の襟をくつろげる。胸骨直上、嘴を備えた髑髏にも似た瘢痕をまさぐった。
 この身体ヨハン=シュミットを構成する遺伝子は、自分本来のものとは違う。この地上で生きていくために、この地上で生きるものに似せた形質を発現出来るように組み替えたものだ。
 本来・・の遺伝子を持った組織は、休眠させた状態で圧縮している。
 持てる力すべてを行使するには、この身体では無理だ。本来の遺伝子を持った身体を再生しなければならない。
 あまり時間もないから、再生させる身体がひどく無様な格好になるのは仕方ない…しかし、すぐに粉々に吹き飛ばすものに格好を言っても始まらないだろう。
 嗤いながら、その指先に力を込める。
 ――――鳥の髑髏にも似たその瘢痕が、血飛沫とともにあっけなく砕けた。
 膨れ上がる光に身を委ねながら、ヨハン=シュミットは囁いた。誰にともなく。
 ――――Auf Wiedersehenさよなら.  Bis baldまた会おう.