キョウヤがユカリと呼ばれていた少女に二階のカフェへ案内されたとき、そこには数人が思い思いの場所に座を占めていた。
 中程の一番大きなテーブル席に、高階がいる。
 そのすぐ後方、プランター台を兼ねたパーテーションに軽く肘をつくようにして、先刻の黒髪の男が立っていた。その佇まいは至って静かであったが、こちらを明確に敵と捉え、不審な挙動があれば即座に取り押さえるといった圧迫感を持続させている。
 一座の中ではユカリが最年少と見えたが、高階にしたところで20代から40代までどうとでも見えてしまうのだ。キョウヤは早々に年齢の詮索を諦めてしまった。
 それよりも。
 襲来することのなかった使徒。壊滅したネルフ本部。「高階」の名。荒唐無稽でありながら無責任な噂話とも違う…ある情報が脳裏にちらつく。
 曰く、死海文書が警告した「使徒」は確かに存在するが、我々リリンに近い形質を獲得し、この第3新東京で生活している…と。「高階」はその使徒に深く関わった人物で、先代マサキはスコットランドの古城に隠棲したものの、その係累が第3新東京で碇ユイの形而上生物学部に寄留し、ヴィレの協定違反を監視している…。
 何処までが真実で、どこからが詐術インチキか。キョウヤにはわからない。
 ただ、かつての同僚に消音器つきの銃で狙われたとあっては…当面、先方の言うことを諾いておくしか選択肢はなかった。
「少しは落ち着いたか?」
 アーネスト・高階と名乗った人物が、静かに問う。
 カウンターの中に、少し似通った容姿の青年が二人。中学生ほどの銀髪の少女が一人。人数分の飲み物と軽食をてきぱきと準備する様子から、本来このカフェのスタッフであるらしい。カウンター席の白いシャツの女はエスプレッソカップを手元に置いたまま興味深そうにこちらを眺めている。少し離れた小さなテーブル席で、こちらを窺う様子さえなく早めの夕食ではないかというボリュームのメニューを並べ嬉々としてぱくついている少年と青年がひとりずつ。暫くしてから、それが美術館で一戦交えた相手だと気づいた。
 ユカリが、高階と対面の席の椅子を引いて穏やかに促した。対面とは言っても通常のテーブルを二つ合わせたほどの一番大きなテーブル席だから、相応の距離がある。
 温かいココアのカップをキョウヤの前に置くと、ユカリが自分もカウンター席にちょこんと座を占めて少し心配そうにこちらを見ている。
「落ち着いた、といえるかどうか。あまり居心地が佳くないのは確かだな。…というか、この状況で落ち着ける奴がいたら見てみたい」
 どうにも憎まれ口に近い物言いになってしまうのは仕方ない。だが、高階は然程気分を害した様子もなく笑った。
「それはそうだろうな」
「俺はこれからどうなる」
「…お前次第だな。とりあえずお前が知る権利のある事実を知った上で、何を選択するかによる」
「知る権利のある事実…?」
 思わず身構える。それは、おそらく。
「まあ、何も聞かないという選択肢もないことはない。…俺だったら御免だがな。そこは自由だ。何も聞かず、ただ碇博士の庇護下に入る。その場合、行動の制約に関する条件が少し厳しくはなるだろう。それを選択するなら、話はここまでだ。直ちに移動にかかって貰う」
「…米国支部からひたすら逃げ続ける、ということか」
「米国支部だけではなくなる。米国支部の連中、お前さんの身に起こったことを先日…美術館の一件まで秘匿していたんだが、今回のことでヴィレ全体にバレたからな。身辺が多少騒がしくなるのは仕方ないだろう。少々窮屈な思いはしなけりゃなるまいが、行方をくらましてひたすらに逼塞するというのも穏やかに暮らすための一つの選択肢だ」
「一つ、ということは…他にもあるのか。選択肢が」
「…すべてを知った上で、自分自身の置かれた境遇に向き合う。その場合も、親許へ帰ることは難しいだろうが、ある程度能動的に自身の居場所を択ぶことはできる。ただし…次から次へとトラブルが降ってくるのは必至」
 高階が少し悪戯っぽい微笑を浮かべる。
「どっちにしてもろくな事はないように聞こえるな」
「平穏無事な人生、というやつに憧れなくはないが、生きていることに倦みたくはないものだな。それが長ければ、余計に」
 それだけ言うと、高階は今度ばかりは笑みすらも消して…キョウヤを見た。
「…お前はどうする、剣崎キョウヤ」

***

「どうしてそうしたのか、といわれれば…明確な答えを今、あなたにお返しすることは出来ません。でも、僕はその時そうしたいと思った。そうすべきと思った。
 …彼は、生きたいと願っていると…僕は思ったから」
「あなたはあなたに出来る最善を選んだ。その是非を問うのは、私ではありませんわ」
 剣崎夫人は柔らかく笑み、そして告げた。
「私はただ、嬉しかった。あの子がまた、私の許に戻ってきてくれたことが。それが、ほんの束の間でも構いません。いずれ子供は、親の許から離れていくものなのだから。だから、私はただ…あの子の命を繋いでくれた方にお礼が言いたかっただけなの」
「彼の行く手に広がるのが…ひたすらに荒野ノド1であったとしても?」
「荒野であれ、沃野であれ…海原であれ、砂漠であれ…ひとはこの惑星に根を下ろしてきました。あの子が生きていこうとする限り、楽園エデンは何処かにあるでしょう。でもそれは、多分私の許ではないのでしょうね…」
「彼が帰ってこなかったとしても、構わないと…?」
「構わない…訳ではないわね。それはとても寂しいことだけれど、それであの子がこの星で生きていけるなら」
 それは決して強い調子というわけではなかった。むしろ淡々として、ひどく静かな言葉であったにもかかわらず…カヲルの裡に強く響いた。
「…あなたには敵わないな」
「あら、どうして?…私はただの、夫を理解しようとしなかった我儘な女で、出来の悪い母親ですよ」
 そういいながら、夫人は少女のように笑った。
「それを言うなら、僕は…」
 カヲルは何かを言おうとして、言いたいことが霧消してしまったことに気づいて口を閉ざした。少し冷めかけてしまった紅茶で喉を潤してから、顔を上げる。
「僕は、現生人類あなたがた使徒Angelと…その出現がヒトの破滅をもたらすと語り伝えてきた者です」
 カヲルの言葉を、剣崎夫人はただ穏やかに聞いていた。
「でも僕らは天使じゃない。神様の使いなんかじゃない。あなた方のおやと同じようにこの惑星に逢着し、ここで生きていこうとする隣人です。…ただ少し、在り方が異なるだけで」
「…星を渡ることも出来る命…」
「ええ」
 カヲルは嗤う。こころもち、俯いてしまうことを止められなかった。
「でも、僕らだって泣きもすれば笑いもするのですよ。永い孤独に倦んで罪をおかすこともある。…僕は、ただその罪の重さに耐えきれなくて、更に罪を重ねただけなのかも知れない。あなたのご夫君が亡くなったのも、あなたの息子が命の灯を消しかけたのも…紛れもなく僕のしたことの結果だから」
「あなたは後悔していらっしゃるの?キョウヤを助けたことを?」
 剣崎夫人が穏やかに問うた。
「助けたことにならないのではないかと、畏れるだけです。生命としての在り方を変えてしまったのかも知れないと」
「あなたはひょっとして、ご自身の生命の在り方を…呪いか何かのように思っていらっしゃる?」
 はっと胸を突かれた気がして、カヲルは呼吸を停めた。そうか、僕は…
 いつの間にか俯いていた顔を上げると、剣崎夫人のいたわるような微笑があった。
つらい…辛くて長い道程を、歩んでいらしたのね」
「…時には、僕が生きているのか、死んでいるのか、わからなくなる程に。
 生きながら死んでいるのではないだろうかと…思ったこともあります」
 地上の誰ひとりとして、理解してくれる者は居ないだろうと思っていた。だから、夫人の穏やかな言葉に我知らず、ひどく素直な述懐が滑り出す。いっそ不思議なくらいだった。
 傍らで、レイが息を呑むのがわかった。重ねていた手が一瞬震えたのだ。ああ、こんなこと…レイにも言ったことがなかったな、と思う。でも今それをレイの前で口にしてしまったことに後悔はなかった。むしろ、聞いて貰えてよかったのだと思った。
「でも、もう…あなたはひとりではないのでしょう?」
 剣崎夫人が、そう言ってから温かなまなざしをゆっくりとレイに向けた。
「…はい」
 揺るぎのない声は、レイの口から発せられた。
「カヲルはもう、ひとりになることはありません」
「そう…」
 少し目を細めながら、剣崎夫人が口許に浮かべたのは…佳いものを見た、というふうな…満足そうな微笑。
「では、あなたも…ご自身の命の在り方について…もう少し認識が変えられるのではないかしら?」
「そうかも…知れません」
「では、助けたことになるかどうかを決めるのは…あなたでも、私でもなさそうね?」
「あなたは、それでよいのですか? …あなたの子供が、もう帰ってくることがなくても」
「あら、先程も申しましたわ。子供はいつか、巣立ってゆくのですよ」
 剣崎夫人はゆっくりと立ち上がり、四阿から数歩を出ると、今咲かなんとする原種のバラワイルドローズの蕾に目を落とした。
「それにここは、あの子には少し窮屈かもしれません。スミレさんはとてもよい方なのだけれど…ここにはお仕事でいらしてるのですしね」
 その言葉に、カヲルは先程ここをテーブルセッティングしていった浅黒い膚の女性の…ただのメイド、ないし秘書にしては隙のない動きに思い至る。彼女は、米国支部が剣崎母子につけた監視なのだ。
つらいことに、哀しいことに出会わないように…世界中の時間を止めてでも閉じ込めておきたい…そんな想いは、親のエゴイズムなのですよ。自分の足で歩くことを覚えたなら、翼を得たなら、その先が荒野と判っていても遮ってはならない。
 …私はそう思うのです。
 だから、踏み出した先が荒野ノド沃野フロンティアか決めるのは…」
 そこまで言って、剣崎夫人は静かに瞑目した。
 カヲルは立ち上がって、深く一礼した。
「…ありがとうございます」

***

「…訳もわからず、ただ行動を制限されるのは御免だ」
 キョウヤは言った。恐怖がなかった訳ではない。しかし、逃げようのない事実なら、受け止めるしかないではないか。
「知る権利のある事実とやらを聞かせて貰おう。すべてはそれからだ」
「いい返事だ…」
 高階が穏やかに笑んだ。
「では、お前さんがどの程度覚えているかわからんから一応訊くが。お前さん、美術館で何を見た?」
「俺にこれを与えた者を」
 胸に埋まった紅珠を、シャツの上から抑える。
「…やっぱりそうか」
 高階が片手でこめかみを抑えた。微妙に頭痛をこらえるような表情になる。
「…とりあえず、そこから訂正しておく。お前が見たのは、結論から言って全くの別人だ」
「…は?」
「お前が南極で出会った人物は、既にこの世界の何処にもいない。お前と会ったほぼ直後、我と我が身を粉々に消し飛ばしたからだ」
 キョウヤが思わず立ち上がりかけ、一瞬硬直してから緩々と腰を下ろす。…話は最後まで聞くべきだ。
「…何故」
「お前が出会ったのは、まさにゼーレがアダムと呼んだ存在ものだった、と言えば…ある程度理解できるか」
「…〝第1使徒、アダム〟…!」
 考えないようにしていたが、想像もできなかったといえば嘘になる。他に説明がつかないからだ。しかし、それをこうまで断定的に言われてしまうと…血が引く音さえ聞こえそうなほど自分の顔が青ざめていくのがわかった。
「…紅珠これは何だ。俺は何なんだ。何になってしまったんだ」
「〝第1使徒、アダム〟は存在した。それなのに…死海文書が予言した〝使徒〟の襲来がなかったのは、何故だと思う」
「それを調べるのは、俺の仕事じゃない」
 話が回り諄いのに焦れて、思わず声が鋭角的になる。だが、高階はまったく動じることなく同じ調子トーンで話を続けた。
「死海文書が予言した〝使徒〟とやらが…とっくの昔に人類殲滅なんて疲れるコトは放り出して、この世界で現生人類リリンに混じってのんびり生活してたからさ」
「そんなことが…」
「お前さん、南極で出会った者がどんなふうに見えた」
 問われて、答えに詰まる。熾天使セラフィム。それ以外に言葉で表現することができなかった。…だから、画布に手をのばしてきたのだ。
「…あんた達も、母の作品を見たんだろう。…ほぼ、あんなものさ。あれのもとになったクロッキーは、俺が描いたモノだからな」
「ほう、それはそれは。お前さん、画業でも食っていけたんじゃないか。まあ、そこはおいておくとして…少なくとも人類と人類が造った文明を悉く灰燼に帰せるような怪物には見えなかったろう」
「人間にも見えなかったが」
「そこは否定せんがね」
 高階が笑う。
「では、アレがそんな人外に見えたか?美術館…今日、大学でも見たんだろう」
 再び、キョウヤは答えに詰まらざるをえなかった。
「…普通の、学生に見えた。だが…」
 辛抱強く老練な教師のように、答えを無理なく導こうとする。だが、キョウヤは一線を踏み越えられない。そこを察したか、高階が少し天を仰いでから…ゆっくりと言った。
「長い時間をかけて…ゼーレは使徒の卵を見つけ出し、使徒をコントロールする研究をしていた。破局を避けるためにな。連中はそうして生まれた存在にNephilimという暗号名コードを振った。『天から落ちてきた者達』の意味だそうだ。
 計画は失敗に終わった…とゼーレの記録には残されているが、実際には違う。
 連中が〝使徒〟と呼んだ存在は、現生人類とほぼ同様の形質を獲得し、現生人類に混じってこの世界に根を下ろそうと…まあ、四苦八苦してる最中というところだ。
 ――――俺達は、ネフィリムさ」
 キョウヤは、声を失った。
「お前さんの胸に埋まってるそれは、ゼーレの連中が『核』と呼び倣わすものだ。本来は、俺達が活動状態に入った時点で消滅した筈の『使徒の卵』を…まだ存在するようにゼーレに見せかけるためにアダムが造った模造品フェイク
 ただ、それには「生命の保全」という機能がある。発動条件は結構厳しいようだが、それでもお前さんが生き延びたってコトは、そいつが機能しているってことだ。それがどういうことか…多少細かいことに眼をつぶって一言でいうなら。
 …お前さんも、ネフィリムなのさ。まぎれもなく」
 訪れた沈黙を、その時…携帯の着信音が裂いた。
 高階がテーブルの上に置いていたそれが鳴動している。画面を一瞥した高階は、キョウヤに一言断ってから手に取った。
「込み入った話の最中に悪いな。…どうした」
 通話はスピーカーモードだ。
【サキ、緊急事態エマージェンシー。いますぐユウキに家の周りをサーチしてもらって。「Angel’s Nest」じゃなくて、医院のほう】
 高階がカウンターの中にいた青年のひとり…アッシュベージュの髪をした方へ目をやった。青年はただ頷いて、カウンターの内側の椅子に掛けて眼を閉じる。
「この立て込んでるときに客か。やれやれだな」
【全くです。住宅街のど真ん中でなにしてくれるんだか。報復じゃないかな。あれだけのことやっちゃったら、向こうだって誰の仕業か気がつくでしょ。
 …まあ、いきなり自宅の地下に放火されたり大空洞つくられたら…怒るなって方が無理かも】
「え、何、俺が悪いの?」
 たった今チキンドリアを片付けたばかりの金褐色の髪の少年が、慌てたように腰を浮かせる。
「…サキ、捕捉した。20人ほどいる」
 アッシュベージュの髪をした青年が眼を開けて言った。
「それはまた豪勢だな…日本国内にいる米国支部の派遣員ごっそり繰り出した格好か…まて、タカミお前…リエのオフィスでひっくり返ってたんじゃなかったか?」
【そうだけど…もの凄く変な感じがして目が覚めて、もしかと思って市内全域の防犯カメラにサーチかけたんだ。そしたら大当たり。…車出してしてる時間なかったし、出来るかなと思って転移やってみたら、成功したけどちょっと大変な目に遭った。いま、地下室だよ】
 通話に被ってばしゃりという大きな水音がした。それだけで状況を察したのか、高階が苦虫を噛みつぶしたような表情をした。
「またお前は…」
【で、どうしようか。幸いレイちゃんは出かけた後だったし。とりあえずレミさんとカツミ、それから僕でやれるとこまでやってみるけど】
「…お前はこれ以上怪我をふやしたくなけりゃ大人しくしてろ。レミにも応援を待てと言え。レミが単品で暴れたら、周 囲一帯で何件火の手が上がるか判ったもんじゃない」
【ちょっとそれ、どーいう意味!?】
 女の声が割り込む。
【この私が折角留守居を引き受けたのに何、随分じゃない】
「近所迷惑だって言ってるんだ。向こう三軒両隣、ご近所さんは大切にするもんだぞ。下手に外で撃退しようとするな。…敷地の中へいれて、ひとりずつ潰せ」
【了解よ】
 その時、バチンという音がして通話が切れた。
「あーあ…タカミの奴、携帯潰されたな…昂ぶってるレミ姉に渡すから」
 カウンターの中にいたもうひとり…バイオレットアッシュの髪をしたほうが気の毒そうに呟いた。ユウキと呼ばれた方が律儀に訂正する。
「奪われた、の間違いだと思うがな。で、こっちはどうする?」
「イサナ、タケルとタカヒロを連れて行け。リエ、すまんが道を開けてやってくれるか。ユカリとリエはここで待機。ナオキ、ミスズとユウキを連れて支援ポイントへ移動。ユウキはそのままサーチ継続。一人も逃がすな」
「りょーかいっ♪」
「Sure!」
「Copy!」
「Roger!」
「俺は碇博士に話をつけてくる。…どうやら予想してた中でも一番荒事になりそうだ。
 そういうわけで、すまんな、剣崎。招待しておいて悪いが、ちょっと取り込みだ。しばらくここで待っていてくれ。話はその後で」
「取り込みじゃなくてカチコミ2ってかー♪」
 金褐色の髪の少年が実に楽しそうに柔軟体操を始めたが、いくらもやらないうちに黒髪長身の男に連れられて出て行った。…明らかに扉ではないところから姿が消えてしまった気がするのだが。
 ふと気がつくと、店内には自分と、ユカリという少女、それから白いシャツの女だけが残っていた。
 少女が冷たくなったカップを下げながら笑いかける。
「えーと、とりあえず…ココアのおかわりはいかが?」
 何と言ってよいものかわからず、キョウヤは暫くテーブルを見つめたまま沈黙してしまう。
「ユカリー、何か軽いもの頂戴。それと、エスプレッソもう一杯、もらっていい?」
「はーい。スコーンが焼けてるから持ってくるね。エスプレッソマシンの扱い、わかる?」
「ああ、大丈夫よ」
 白いシャツの女――先程の話からいくと、リエという名であるらしい――の声に、少女が軽やかに身を翻して階下へ降りていく。
 残っているのが先程から品定めするような視線でこちらを見ていた人物だから、やや居心地が悪い。そんなこちらの様子を知ってか知らずか…女は軽い動作で立ち上がってカウンターの内側へ入った。
 話流れから行くと、常にこの店にいる訳ではなさそうだが…慣れた手つきでエスプレッソマシンに豆を入れて始動させる。
「…何者なんだ?」
 キョウヤの問いに、女は嫣然と笑ってカウンターに肘をつく。
「それは、私たちってこと?それとも高階のことを言ってるのかしら?」
「両方だ」
「高階が言ったでしょ。私たちは『天から落ちてきた者達ネフィリム』だと」
「それは聞いた…」
「そう言われてもねェ…」
「じゃあ、アーネスト・高階は何者なんだ。碇博士のところの研究生、医者だとはいったが…とてもそれだけとは思えない。まるで熟練の指揮官コマンダーのような手際だ。…軍人なのか」
「昔は軍属だったこともあるみたいだけどね…本人は軍人とか大嫌いみたいよ?」
「わからないな」
 女が面白がるような微笑を浮かべる。
「…私たちのボスよ。まあ、それだけね。あんまり難しく考えないほうがいいと思うわ。あんたにもそのうち、わかるわよ」

***

「ひどいなレミさん、僕の携帯!」
「ごめーんタカミ、ちょっとリキはいっちゃった。でも、いっぺん水没させちゃったんでしょ?きっとどのみち長い命でもなかったって。不具合抱えた端末を後生大事に使うより、さっくり火でも噴いてくれたほうが諦めがつくってもんよ」
 黒煙とともに火を噴いてしまった携帯電話を返されても、タカミとしてはどうしようもない。
「妙な理屈で正当化しないでくださいって!
 それにしても、まだ座標の取り方が甘かったか…まさかここに転移しちゃうとは思わなかったなぁ…ひどい目に遭った」
「ま、そりゃ…あんたがいた時間が一番長いの、ここなんだから」
 高階邸の地下フロア。厳密には半地下で、明かり取りの窓もついている。壁際はずらりと大小様々な水槽アクアリウムに占領されており、奥まったところにひときわ大きな水槽が設置されている。これだけは循環システムごとこの部屋に造り付けられたものであった。まだその名を得る前のタカミが、長い眠りについていた場所でもある。
 その水槽の前に座り込んで、タカミは嘆息した。たった今ようやく水槽から這い出したばかりで、身体はずぶ濡れだ。
「まー結果オーライでしょ。水槽がカラだったら、転移した直後に確実に水槽の底に叩きつけられてたんだから。まあ、落ちても3mくらいのもんだけど、あんた受け身取れそうにないし」
「そこんとこを否定出来ないのが口惜しいんですが」
 タカミが苦笑したとき、地下室の扉が勢いよく開いた。タカヒロ達だ。
「やほー!今回踏んだり蹴ったりのタカミ、大丈夫かー?」
「そのうち一つは確実にタカヒロの所為だよね!?」
「え、そーだっけ?」
「そうだよ! それとイサナ…例のケイブフィッシュ3の稚魚、よりによってここで飼ってたんですか!?」
「遮光する必要がなくて管理もしやすかったからな。問題があったか?」
「問題は…特にないですけど…はい。聞き流してください」
 確かに本来危険性のある生物ではないし、体長も20センチ程度。地下にいたという1m強の群れを思えば通常のケイブフィッシュの2倍程度までには戻っていたから、イサナの言うことに何も間違いはない。
 ただ、タカミが出現ポイントを誤って水槽に落ちた直後…水から上がろうとして手を水槽の縁にかけたところ、いきなり件のケイブフィッシュにぺたりと張り付かれたものだから肝を潰して手を滑らせ、もう一度沈んでしまったのだ。…だが、そんな間抜けな事情など…イサナに話したところで「別に噛みついたりはしないぞ。何を驚く」くらいのリアクションで流されるのがオチだろう。
 また扉が開く。今度はカツミだった。
「おー、オフェンス組到着か。あーよかった。このメンバーなら俺、とりあえず午睡ひるねしてても大丈夫だよな」
「あ、カツミってばラクするつもりだ!」
 タカヒロの指弾に、カツミがやや意地悪い調子で切り返す。
「サキのプランだと、基本的に敷地ん中へ入れてからの勝負なんだろ? いーのかタカヒロ、俺が今、ここの庭で能力解放すると…折角実を付けてるプラムが冷凍プラムになっちまうが」
「ううっ、そこは気づかなかった…そーだよなーせっかく実り始めたのに…」
 のんびりしたやりとりをイサナが至って事務的に遮って言った。
「莫迦やってないで散開しろ。タカミはそこを動くな。ユウキからの位置情報を俺達へ転送。いいな?」
「了解…。シャワー浴びさせてくれとは言いませんが、着替える間くらい…ありますかねえ」
 濡れた服を引っ張りながら、タカミが些か情けなさそうにぼやいた。

  1. ノド(Nod)…神に追放されたカインが住んだとされる地で、「彷徨する者」「放浪者」「逃亡者」「流浪」の意味がある言葉。だから、ノドの住人というと定住できない者、放浪者という意味にもなる。
  2. カチコミ…昭和のヤクザ用語で殴り込みのこと。
  3. ケイブフィッシュ…洞窟魚。「地下迷宮奇譚」で凍らせたまま持ち帰ってしまったのを、イサナが見つけて飼っていた。