陽光消ゆ Ⅱ

陽光消ゆ

「リオライ様ぁ――――――っ!!」
 薄明の王都北面。王都守備隊の検問を通過したリオライの一行は、不吉な茜色の朝焼けの空の下、王城の方向に騎影を見た。
「ユアスか!」
 リオライが手綱を引く。果たしてその騎手は彼が王都へ先発させた部下の一人、ユアスであった。
「ご報告します」
 手綱を引き、荒れる息をようやくのことで抑える。
「ツァーリの軍がシェノレスの攻勢の前に既にイェルタ湾まで押し込まれていることはご承知かと。しかし、先日また大規模な海戦があり、シェノレスのレオンが捕縛されたよし
「何だと?」
 シェノレスのレオンといえば神官府が「海神の御子」として陣頭に押し立てた男だ。いわば旗印である。使いようによっては戦況をひっくり返せるだろう。
王都ナステューカへ引っ張ってきて審問にかけたまではいいんですが、陛下はレオンの態度にいたくご立腹で…危うく殺しかけたと。宰相が止めたらしいですが」
「まあ、そんなところだろうな」
「問題はその後で。レオンはミオラトの地下牢に放り込まれたんですが、今朝処刑されるらしいという噂が流れました」
「・・・処刑?」
 リオライが怪訝な顔をした。折角大将を生け捕りにしたというのに、そんな莫迦な使い方があるものか。
「審問が裏目に出たのかも知れません。レオンという男、審問の場でもまったく怯む様子がなく…得体の知れない迫力に圧された廷臣のなかには、何かを起こす前に殺してしまえという一派もいたようです」
「莫迦なことを…」
「完全に軟禁を解かれた訳ではなさそうですが、審問にサーレスク大公殿下が出席しておられたとのこと。この時、陛下が正式な宣下ではないにしても、次のいくさは殿下にと…
 かなり動揺が広がったらしいです」
「…まあ、宰相は黙っちゃいまい。それで…アリエルは」
 ユアスが返答を躊躇った。・・・それが答えとなった。
「会えなかったか・・・」
 項垂れるユアス。
「私が着いたときにはもう日が落ちていて…殿下はもう館においでになりませんでした。…申し訳ありません…」
「仕方ない。で、シェラは」
「その事ですが・・・今、ユーディナの文書館が衛兵隊第二隊に囲まれています。アレクセイは…軟禁されているようなんです。シェラが近づいてみましたが、接触はできませんでした。エルウに窓を叩かせてはみたんですが、気付いたかどうかわからないと。
 …それと、ミティア様が本邸に幽閉されておいででした」
「何!?」
 リオライの声がつり上がった。
「ミティア様はある事を殿下に知らせようとなさって…それが露見してのことらしいのです。ただ、文書館ユーディナほど監視が厳しくなく、邸内の者に悟られずにリオライ様のご帰還をお報せすることだけはなんとか叶いました。そうしましたら、ミティア様はご不自由な中でこれを、リオライ様にと」
 ユアスが差し出した手紙…というより、引き裂いたリラの楽譜の余白に小さな字で書き込まれた走り書きに目を通す。リオライの顔から僅かに血が引いた。
 ――――処刑の噂はレオンを畏れる一部の廷臣の動きを抑え、王太子アリエルに行動を起こさせるための偽り。宰相は最短距離であり王太子領であるサーレスク大公領に騎兵を伏せ、アリエルがレオン逃亡を画策し自領の通過を試みたら、レオン共々捕らえる心算。それをアリエルに伝えたかったが、アレクセイを経由して渡そうとした手紙は宰相に押さえられた。アレクセイにも危険が及ぶ可能性がある。云々。
 ミティアは宰相が王妃候補として育ててきただけのことはあり、決してひけらかすことはないがその知識量は深く広い。その上、鳥籠の鳥のような環境に置かれながら驚くほど状況を見ている聡い娘だ。本邸の人の出入りをそれとなく観察していて、宰相の意図に気づいたのであろう。
「シェラは残って状況把握に奔走しています。エルンスト隊長に接触できれば良かったんですが、第三隊もイェルタに駐留していて…」
 リオライは苦り切った表情で、手紙をすぐ後ろにいたカイに渡した。
「読んでおけ。・・・おそらく、ミティアの危惧は正しい」
 つやのよい黒髪を無造作にかき上げてリオライが唸る。
 衛兵隊の隊長というエルンストの立場を慮って、何も言わずに北へ発ったことが、今となっては裏目に出た。おそらく、あの大雑把に見えて生真面目な衛兵隊長は動けない。保身にはとんと無頓着な男だが、自身が動くことで、アリエルをより不利な立場に置いてしまうことを危惧するだろう。
 ユアスの報告は続く。
「シェノレスはおそらく既にレオンを奪還している筈ですが、まだは表立った動きを見せていません。イェルタに展開するツァーリ軍にもレオン逃亡の報はまだ届いていないものと。それどころか、ナステューカでもまだ周知されていないのかも…」
 瞬間、リオライの双眸の紫が曇る。
「全部…全部俺の所為だ…!」
 その声はあまりにも低く、ユアスにすら聞こえなかった。また、それは鋭い鷹の啼き声と重なったからでもあった。
「エルウ!」
 ユアスは舞い降りた鷹の脚に付けられた通信文をほどくとそのままリオライへ差し出した。
「なんてことを…!!」
 通信文に目を走らせたリオライが呻く。
「…ユアス」
「はっ!」
「カイとユーディナへ。アレクセイを助けてやってくれ。第二隊と揉めても構わん。何か云われたら、リオライ=ヴォリス・・・・が戻ったと。以後、アレクセイの指示で動け」
「承知!」
「レインはイェルタ湾へ。手紙と通信文はおまえに預ける。第三隊の陣を探してエルンストに会ってくれ。以降は別命あるまで彼の指示に。エルウを使うことがあるかも知れないからそのつもりでいろ」
「は!」
 ユアス、カイの二人が王都に向かう。エルウがそれに倣った。そしてレインは単騎イェルタ湾へ。
「あとの者は俺に続け。こうなったら少々荒っぽいことになってでも、あの石頭を黙らせてやる。 …行くぞ!」
 彼の意識に忍び込もうとする鈍色の霧を払うかのように、軽く頭を振る。
くな、アリエル!!』
 つやのよい黒髪が風に煽られる。王都はもはや目前であった。

***

 どうしてこんなことになってしまったものか。
 アレクセイ=ハリコフはユーディナ文書館の居室で茶を啜りながら嘆息した。壁のほとんどは書架に占領され、窓といえば天窓がひとつ。
 居室の中はいつもと何も変わることはない。至って安閑としたものである。しかし、文書館の外には武装した兵士が立っている。文書館の司書長たる彼が、今は自宅へ帰るのさえ、制限を受ける身の上であった。
 つい昨日のことだ。審問の帰りだという王太子アリエルの来訪を受けてアレクセイは飛び上がった。
『軟禁は解かれたのですね。それは重畳』
『…とりあえずはね。でもすみませんがアレクセイ、また厄介をかけることになりそうなんですよ。少し机を借りていいですか』
 いつもの、穏やかな笑みでそう請われたアレクセイに、断る理由はなかった。だが、アリエルがさらさらとしたためる文書を目にして、思わず凍り付く。
『殿下、これは…!』
『今日、海神の御子と謳われる男を見てきました。私と同じくらいかな。いや、少し若いか。巨漢でも偉丈夫でもありませんでしたが…古謡にある風神アレンもかくあったろうかという風格でしたよ。凄かったな、居並ぶ者達すべてが気圧けおされていた。しかしそれが、彼にとって凶事となりそうだ…』
 そのおもての穏やかな笑みはそのままに、詔書としての体裁をととのえる。最後に王太子としての印章を捺そうとするアリエルの手をとどめて、アレクセイは声を低めた。
『殿下、あの方はきっと戻ってきます。…ご短気はなりません』
『うん、私もそう信じている。きっと帰ってくる。…だから、私にできることだけはやっておきたいのですよ』
『無茶です。いくらあなたでも今度こそ…!』
 アリエルが顔を上げ、穏やかな若草色の双眸でその先を制する。アレクセイが呼吸を呑んだ。
『私にできることはこのくらいだから…後を頼みます。願わくば私が、これを紙屑にしないように…振る舞えるといいのだけれど』
『…勘弁してください、殿下。こんなもの、はいはいと受け取ってたら、私は帰ってきたあの方に絞め殺されてしまいますよ。私を助けると思って思いとどまってください。何か他に方法があるはずです』
 もはや哀訴に近いアレクセイの懇請に、アリエルは寂しげに苦笑した。
『そうだと…よかったな』
 そして、視線を落として丁寧に印章を捺す。
『この2年程の間に…酷いことになったものです。このままでは、緋の風神が放った火は王都の森を灰燼と帰すまで消えることはない。
 だから、これは最後の機会だと思います。かなり綱渡りにはなりますが、シェノレスの伯父上リュドヴィックが私の考えているような御仁であるなら、まだ望みはある』
『そうだとしても、陛下と宰相閣下を説得できなければすべては水の泡…!』
『嫌な話ですが、リーンあたりはもう待ちきれないようですからね。却ってあの国が一騒動おこしてくれれば、父上や宰相が最良の判断を下す材料になり得るかもしれないのですが…しかし、実際には事が起きてからでは遅いんです。その前に決着をつけてしまわなければ』
 そう言って再び顔を上げた王太子の、木洩れ日のように穏やかでありながら凄絶な何かを湛えた笑みに…アレクセイはもう何も言えなくなって立ち尽くした。
『そうそう、忘れ物を取りに来たのでした。長いこと置きっぱなしにしていて申し訳なかったですね』
 いくつかの手紙と、その詔書をアレクセイに託して、アリエルは文書館を辞した。代わりに、書庫の奥にあった木箱から、〝忘れ物〟とやらを持って行った。
 その木箱は、司書たるアレクセイが全く気づかない内に置かれていた。そんなことをする人物には、一人しか思いあたらない。本邸に広壮な部屋を与えられていながら、少年の頃からこの文書館をツァーリでの居室代わりに利用していたリオライに違いない。
 木箱の中身に気がついたのは、兵士が文書館を包囲した夜半のことであった。自宅が先に抑えられたらしいが、例によってアレクセイが文書館に泊まり込んでいたのでこちらが包囲されたという次第だったらしい。
『何のいいあっての狼藉ですかね。ここは一応、陛下の管掌なさる文書館ですが』
『ユーディナ文書館司書長、アレクセイ=ハリコフ。王命によって御身を拘束する。職責もあることだから書簡を書かれても良いが、外部へ出す時には我々が検閲させてもらうことになる』
 何ですか、そりゃ。そう言いたくなるのをぐっと呑み込んで、アレクセイは包囲した兵士に逆らわない旨を告げた。そして、書庫へ入って件の木箱をそっと開けてみる。
 …息を呑んだ。
 荒事には向かぬ身であることは自身が一番よく理解っているから、アレクセイは無駄なあがきをしないつもりでいた。むしろ、自身が下手に動くことで、託されたものをふいにしてしまうことさえあり得ることを思えば、軟禁の身に甘んじてでも主の帰りを待つしかないと肚を括っていたのだ。
 リオライはきっと戻ってくる。
 証拠に基づいた推論というより、願い、祈りに近いものであることはアレクセイ自身がよくわかっている。だのに、なぜか強固な確信があった。確信させるものが、あの紫瞳の黒獅子には備わっている。
 それでも。
 リオライが唯一人の主君と決めた、あの王太子の木洩れ日のような穏やかな微笑が去来する。あれが喪われたとき、ツァーリは次代王だけでなく、宰相の後継をも喪うことになるだろう。
 自室へ戻り、冷めかけた茶で焦慮を喉奥に押し込んむ。アレクセイは卓上に置いた手を握りしめ…机を抑え付けた。
 ――――ええい!私は荒事には向いてないんですよ。殿下、お願いですから早まらないでください。
 その時、天井でコツコツというかすかな音がした。書架に占領されたこの部屋にあるただひとつの窓。そこに、大きな鳥が止まっていた。当初、シルエットでしか見えなかったから…鴉にしては随分大きいなと暢気な感想さえ持った。
 だが、とても鴉が飛び回る時間ではないことに気付いた瞬間、アレクセイは椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。

***

「カザルだ!」
 レオンが心底嬉しそうに声を上げた。大陸でも有数の規模を誇り、シェノレスが占領するまではツァーリの南方防衛の要であった大要塞・カザル。岬の巨岩の上にそそり立つ堅固な城塞は、それに応えるかのように眩しく映えた。
 生還を喜んだのは無論当人ばかりではない。カザル砦全体が、この吉報に生き返った。
 イェルタ海戦はシェノレスにとってほぼ初の敗北であった。そのうえ海神の加護の象徴たる海神の御子・レオンをツァーリに捕らわれ、無残なありさまを晒していたのである。
 レオンの生還は、そんな状況を覆して釣りがきた。
 熱狂的な歓呼に迎えられ、レオン達は入城を果たす。
「レオン!我らが海神の御子!」
「レオン!我らが王!!」
 この時点で、レオンはいまだ神官府が擁立した戦の旗印でしかない。だが、従う者達の間では、来たるべき時代、過去に鏖殺された王統に代わるシェノレスの新王として認められつつあった。
 今また、前日には敵陣で審問に引き据えられながら生還を果たしたという、新たな奇跡がもう一つ付け加えられたことによって…それは誰も疑うことのない既定の事実となったのである。
 それゆえの歓呼であった。
 ひとしきり熱狂の渦に揉まれた後、ようやく解放されたレオンは、薄情にもその渦の中に彼を置き去りにした友人ルイを探し出した。
「まあそう腐るな。おかげでカザル全体が生き返ったことだし、万事めでたくおさまったじゃないか」
 ひどく消耗しているであろうことはわかっていたし、済まないと思いつつも必要があってそう・・したのだから、ルイはひたすら下手に出る。そうすると、実に素直なのがレオンという青年であった。
「…まぁいいか。済んだことだし」
 予想はしていたもののあまりにもあっさりしているから、ルイは肩透かしを食ったように体勢を崩しかけた。
「ところで、準備は?」
「心配するな、アンリーがもう動いてる。どこまでやれるか判らんが、混乱のないように糧食と武器の類をなるべく確保すると。
 他ならぬお前の予言だ、疑う者などないさ」
「ありがとう…」
 レオンはかるく安堵の吐息をして、背後の壁へもたれかかった。
「しっかし…今度って今度は本当にダメかと…っ…!!」
 途中で凍りついた声に、ルイの顔色が変わる。
「レオン!?」
 右肩を押さえたまま壁伝いにへたりこんでしまったレオンの口から、僅かに呻きがもれる。
「…あの矢傷か。とりあえず見せろ」
 レオンはイェルタ海戦でツァーリに捕らわれた際、矢傷を負っていた。
 捕らわれている間はともかく、ツァーリ騎兵と一戦交えた脱出行の間は本人さえもさっぱりと忘れていたのだが、生還を果たし気がゆるんだ処へもってきて、もたれかかった拍子に傷をぶつけてしまったのだ。確かに、意識から外れていただけに一瞬声がでないほどの痛みであったに違いない。
 それでもルイは流石に一瞬、胸中を氷塊が滑り落ちたような感触を味わった。手当さえされていなかったからいまだに血の色を滲ませてはいたが、やはりそれほど深手ではない。それにしても傷を受けた後すぐに海に落ちたのに、よく膿んだりしなかったものだ。
「とりあえずこのまま座ってろ。アンリー…は今無理だな。誰か、医術神官を呼んでくる」
「あー…頼む」
 胸壁に凭れたまま空を仰いで、レオンが言った。