西方夜話Ⅰ

西方夜話

 大陸暦八九一年。大陸の西端、龍禅の国。
 銀の月が、冴えた光を皇宮の静かな一郭の露台にも投げ掛けていた。
 麗妙な胡弓の音が響いてくる。露台で籐椅子にその身を預けた、漆黒の髪の青年が奏でる調べであった。
 眼病でも患っているのか、その両眼には白い布が巻かれている。
 春の宵、桜花の散る様を思わせる物憂げな曲が終わると、彼は静かに弓を置いた。
 夜気の中を巡る風が何を知らせたのだろうか。ふと、ものを見ること叶わぬ視線がすっと動いた。

***

「…迷ったわね、これは」
 その娘は簡潔な、そして正しい判断を下した。ただでさえ見知らぬ国。そしてこの横に広い皇宮。迷わないほうがどうかしている。昇龍殿―今上の御座所―から退出し、与えられた館へ戻ろうとしたまではよかったが、送りましょうという親王の申し出を蹴ったところがこの始末である。
 冴えた月が既にその姿を深碧の中空に現している。
 歳の頃は十六、七。背が高く、美しさもさることながら凛々しさの際立つ顔立ちである。表向き父ノーア大公の名代・親善使節として…実の所人質として、彼女がこの龍禅の国にやってきたのはほんの三日前の事である。三日あれば自分の宿舎ぐらい…と思ったのは全く浅慮であった。
 もうどれだけ歩いたろうか。風に吹かれて流れる銀の髪をかき上げたとき、ふとどこかで見たような景色に行き当たり、思わず回廊を渡る足を速めた。
「…!」
 …違ったらしい。つい溜息が出る。今気がついたが、ここは殆ど使われぬ回廊のようだった。要するに、これから先は人がいないということ…。
「…どうしよう…」
 めったに弱音など吐かぬこの姫君が、辺りに人がいないことも手伝ってか、思わず消え入りそうな声で呟いた。…が。
「誰かいますか?」
 降ってわいたような人の気配に娘は涙を引っ込めた。回廊の突き当たり…とても人など居まいと思われた離れ館の扉が開かれ、彼女より少し歳上の人物がこちらを見ていた。
「…エルンスト…違う、どなたです?」
 月のある夜だ。この距離で、知己かどうかも分からぬ筈はない。
「…あなた、眼が…?」
 そう言いかけて、はっとして姿勢を正した。
「失礼致しました。道に迷ったもので…。申し訳ありませんが、飛蝶殿へはどう行ったら…」
「…飛蝶殿?」
「…あの、何か…」
 相手が驚いた様子なので、思わず尋き返す。…が、彼は優しい微笑を浮かべて言った。
「いえ、飛蝶殿というと国賓級の方でいらっしゃいますね。こちらは東宮です。飛蝶殿は西宮…皇宮のちょうど反対側になります」
「反…対側…」
 どうやら皇宮を出た時点で左右を取り違えたらしい。分からぬ訳だ。それにしても、いくら慣れぬところとはいえ、何とも間抜けな事をやらかしたものである。
「…どうも有難うございました」
 娘が丁寧な、それでもちょっと疲れ気味な礼をして踵を返そうとした時、彼が呼び止めた。
「…こちらの庭園を通って行かれてはどうですか?一々皇宮まで引き返していては大変ですよ」
「近いのですか?」
「樹園を横切るだけですから。ご案内しましょう」
 まばたき一つの間に娘は決断した。
「…お願い致します」

***

「……!」
 娘は感嘆に声にならない声をもらした。十六夜月の光を受け、深碧の空に舞い散って行く桜花に思わず目を奪われたのである。
「綺麗でしょう?」
「…ええ、とても…あ、ごめんなさい」
 彼女の謝罪は、包帯に巻かれた彼の両眼を意識してのことであった。
「構いません」
 もうすこしはやく包帯が取れていれば、私も見ることができたのですが…と彼は苦笑まじりに言った。
 烏羽色の髪が桜花と同じように煽られ、風に舞う。その歩調は杖があるだけにしては妙に危なさがなかった。実に貴公子然とした人物で、あの感じの悪い親王に比べれは正に雲泥の差である。
 眼は、病なのだそうだ。だが、じきに良くなるそうだから心配はしていないとも言った。
「…龍禅は、いかがですか」
「もう少し気楽な用で来たのなら、もう少し楽しかったのですが。ここにいる理由が理由、おまけに皇宮に出れば出たで妙な人に迫られるし…」
「…皇宮には手の早いのが多いから、気を付けてください」
「…たしかに手が早いです。皇宮でなければもう少し別の対応の仕方もあったのですけれど」
 抑えた笑いを耳にしてついまた地が出る。
「笑い事じゃありません」
「失礼しました。お許しください」
 ────彼は即座に表情を改めて真摯に謝ってくれたのだが、彼女は内心ふて腐れた。
 普通の「姫君」と呼ばれる人種は、十六歳で初陣し、血刀を振り回して戦場を駆け回ったりしないものだ。…と、乳母からは耳にたこができるほど聞かされたが、父の命とはいえ彼女を男児のように育てたのはその乳母であり、説得力の欠片もない。
 だが、龍禅へきてようやくその意味が飲みこめた。…どうやら「姫君」というのは家に籠もって琴や手芸をやってさえいれば良いという存在らしい。
『…冗談でしょう?』
 ノーア大公ミザン=ラフェルトの血を継ぐ唯一の子―それが彼女、ナルフィリアス=ラフェルトであった。
 彼女が十歳のとき、母の死により彼女は自動的に次期ノーア大公という身になった。彼女がノーアを継がねば、ノーアは滅ぶのであり、彼女は一国を支えられる能力を持つと、彼女以外のすべてのノーアの民が信じていた。
 …そんな重圧にも負けず、懸命に父を助けようとするナルフィにとって、龍禅の姫君方は歯痒さの対象でしかなかった。
「…お気に障りましたか」
「あ、いいえ、そんなことはありません」
 ナルフィは咄嗟にそう言った。しかしこれは本心である。
 彼に罪はない。あまつさえこの人騒がせな迷い子を館まで送り届けてくれようというのだ。文句など言っては罰が当たる。向こうもおそらく不気味な沈黙を作るまいと気を遣ってくれているのだろう。
「…そろそろ飛蝶殿が見える頃だと思いますが…」
「見えます。あの高楼が、確か…」
「揚羽楼、でしょう」
「ええ、確かそういう名前だったと…」
 彼は足を止めた。
「此処まで来ればもう大丈夫ですね」
 その口調は穏やかであったが、何故かそこから先へ行くことを忌避しているようにも見えた。
「…お世話になりました。最後にお名前を伺ってよろしいですか?」
 一瞬の、躊躇い。
「…愁柳シュウリュウ。愁う柳、と書きます」
「では愁柳様、有難うございました。…眼の病、早い御快癒をお祈りします」
「…有難う…」
 愁柳は何気なく眼の上の包帯に白い指先を遣った。

***

「殿下」
 その帰途。突然樹上から降ってきた声に、愁柳はさして驚かなかった。
「…エルンスト」
 むろん龍禅の人間ではない。どこからかこの国に流れ着き、愁柳のもとに食客として身を寄せている人物である。がっしりとした体格の割におそろしく身が軽く、腕も立つ。周囲は概ね愁柳が護衛として雇っているのだと理解していた。
「殿下もスミに置けませんね。きれいなお姫様じゃないですか」
「…何を考えているんです。飛蝶殿へ帰れなくなっていた国賓をお送りしただけですよ」
 エルンストはさも可笑しそうに笑って言った。
「全く揶揄からかい甲斐のあるお人だ」
「…ひとで遊ばないように」
 ややきまり悪げに言う貴公子に、彼は表情を改めた。
「ただ、彼女には気をつけなさいよ」
「…?」
「余り近付かない方がいい…ということです。彼女自身は佳い人だ。だが、あなたが近付きすぎると、とんでもない運命が待ち受けてる」
 愁柳はこの食客を見えぬ眼で見た。
 エルンストは、極めて優れた勘の持ち主であった。何せ、未だかつてはずしたことがない。理由も理屈もなく、ただ判るのだという。むしろ予知とか予言に近いものとさえ思えるが、本人は至って無造作に勘と言い切る。
 確かに、どう見ても予言者というがらには見えなかったが。
「…送っただけです。もう会うこともないでしょう」
 そういう台詞で決着をつけ、彼はもと来た道を戻り始めた。エルンストがそれに倣う。
「…それから。あんまり夜中に出歩いちゃ危ない…命が惜しくないんですか、あなたは」
「…死んで誰が悲しむ訳で無し…」
 いっそ優美な調子で言う。エルンストと呼ばれた人物はやれやれといった感じで吐息した。
「そんなことだから治るものも治らんのでしょうが。もうちょっと抵抗という事をしたらどうです。あなたがおとなしいもんだから、つけあがって…終いにゃ毒…」
「…エルンスト!!」
 はじめてこの貴公子が声を高くした。黙りこむエルンスト。
 愁柳は少しうつむき、唇を噛んだ。そのまま、次の言葉を紡ぎ出さぬままに再び歩き出した。…綺翔殿へ。
 綺翔殿。通常、龍禅皇太子の居殿である。

***

  ────翌朝。
「…ま、何にしろちゃんと戻れてよかったですよ」
「ごめんなさいね。でもあの親王の案内なんて、どうも嫌だったのよ」
 いささか疲れた態でナルフィと話しているのは、彼女付きの衛士で、ラース。彼もまたノーア人である。昨日のことは彼を先に飛蝶殿へ帰してからのことだったので、なかなか帰ってこない彼女を案じて東奔西走していたのだった。
「それで正解ですよ。宮女達の間でも、あまり評判は良くありません。…ですから、もうちょっと私を使ってください。何だか、今の所まったく衛士として用をなしてませんよ。…それは、姫様にしてみれば、私なんか昼行灯でしょうけど…」
 ナルフィは笑って言った。
「ごめんなさいね。気を付けるわ」
 このラースという人物、早くに親を亡くしたうえ、レインという幼い弟をかかえてたいへんに苦労した人であり、真面目なことでもノーアでは定評があった。だからこそノーア公は彼を異国へ旅立つ息女につけたのであろう。
 …ただ一つ、ノーア公の誤算と言えば、護衛される側の剣や弓の技量というものを全く忘れていたことにあったのである。