西方夜話Ⅱ

 ────一年前、綺翔殿。桜花が月光を受け、照り映える夜。
「………っ!」
 隣室からだ。絶息寸前のような咳を耳にしたエルンストは、文字通り跳ね起きた。
「殿下ッ!!」
 隣室の扉を破りかねない勢いで開けた時、愁柳は酷い咳の発作に苛まれ床に倒れていた。
「…こ…う…香を…」
 枕許から少し離れた卓の上の香炉、それから立ち上るものに気がついたとき、エルンストは扉を開けて露台から走り出ると、香炉を庭に叩きつけた。
『…くそっ、薬をすり替えられたか…!』
 喉が切れるのではないかというような咳が収斂した後、エルンストは愁柳を露台の長椅子に横たえさせて香炉の中身を調べた。
「…いつの間にか薬がすり替えられたんだな。心当たりは?」
「………」
 まだ少し息が荒い。烏羽色の髪が汗ばんだ頬に張りついている。
「…気がついていたら、点けたりしない…」
「そりゃそうだ…」
 彼はその時少し患う所があって、薬香を焚く習慣があった。それを逆用されたのだ。早く気がついたから良かったが、知らぬままに眠り込んでいたら明日の朝日にまみえることはなかった。
 エルンストは扉を大きく開け、廊下に至るまで窓という窓全てを開けて廻って風を通す。香が全て風に流された頃、エルンストがようやく口を開いた。
「…大丈夫ですか、殿下」
 愁柳は僅かに頷いた。
「…なぜ、反撃しないんです!? あなたはそうしたって当然なだけの仕打ちを受けている。忍耐は美徳かもしれん…ですがね殿下!限度を過ぎたら何にもならない。生きててこそ意味があるんですよ!?」
「………」
 愁柳は答えない。憂いを含んだ、少し気怠(けだる)げな視線を宙に彷わせたまま、何も言わない。
「…殿下!」
「…私に、弟を討てと言うんですか…?」
 ようやく絞り出した愁柳の声音に、エルンストは心臓を突き刺されたような気がした。
「弟です、彼は…。生まれがどうあれ…」
 エルンストは何も言えなかった。言いたいことは山程あったが、この状況ではとても言えたものではない。
「…エルンスト、灯りを…。こう暗くては何も見えない」
 彼は燭台に灯りを灯そうとして愕然とした。灯りが要る程の暗さではない。煌々と照る月で、露台は結構明るいのだ。
「…殿下…?」
 言い知れぬ不安に駆られ、点けた灯りを持って愁柳に近付いた。
「…殿下…見えますか、何か」
 愁柳は身体を強張らせた。目は開けているが、何も見えない。その頬は確かに炎の熱を感じるのに、その嗅覚は蝋の匂いを感知しているのに、炎の姿だけが、彼の感覚器官から運ばれて来ない。
『何てこった…』
 エルンストは罪もない壁をその拳で殴りつけた。薬香にしこまれた毒は、愁柳の視力を奪っていたのである。

***

 以来彼は昇龍殿にも上がらず、頑なに異母弟との衝突を避け、静かな療養を続けていた。
 異母弟…現皇妃の子、『親王』の称号を賜わる桂鷲ケイシュウ。愁柳より二歳年下である。一連の暗殺未遂は彼の手の者の仕業と、エルンストは睨んでいた。だが彼にとって歯痒いのは、肝心の愁柳が余りにも無抵抗なことであったのだ。
『この人は、皇族という人種であるには甘い。優しすぎる』
 いかにも駆け引きの上手い宮廷人の桂鷲に比べ、そういう事にほとんと関心を示さない愁柳。彼は皇太子に立てられていたが、彼は義弟に対し何故か異様なほど遠慮していたのだ。
 彼は先皇妃の死と引き換えに生まれ、それでも払い切れぬ負債は彼自身の身体にくいこんだ。湿潤というより多湿な皇宮を離れ、高地の離宮でその幼年~少年時代を過ごさねばならなかったのだ。しかし体が良くなってもすぐには皇宮には戻らず、龍禅軍の宿将達のもとで連年の外征や辺境の防衛戦に参加し実戦経験を積んでいった。
 それは一見して皇太子としての責務に忠実たらんとする姿のようにも、宮廷へ戻ることの拒否とも見えたが、ともかくも十年近く経って彼がようやく皇宮に戻ってきた時、そこには新しい皇妃と異母弟がいたのである。
『先皇妃を死なせた事を、負債に思ってるんだな』
 …だからと言って、エルンストの見たところ今上帝が彼を憎んでいる訳ではない。それどころか先皇妃の忘れ形見として愛している。拘っているのは愁柳のほうなのだ。そして、桂鷲はその間着々と皇位を手に入れるために策動している。
『複雑だな…』
 ここら辺で、エルンストの思考は永遠の迷宮に迷い込んでしまうのである。
『何かが殿下のなかで変わらなければ、このまま最悪の終局を迎えてしまう』
 予感というよりは、火を見るより明らかな現実と言うべきであった。

***

 月のない夜であった。
 何となく寝つかれず、ナルフィはそっと寝所を抜け出すと馬を連れ出して樹園に出た。
 たとえ皇宮に出るときでも、特に重要な式があるときでもなければ男装を常としている彼女である。当然、このときもノーア風の青い、野駆けなどのときによく着る男物の服を着ていた。
 空から降るのは星々の光だけであったが、桜の花明りで心なしか辺り全体が闇の中に浮かび上がっているように感じられた。
 今更のように、ナルフィはかの貴公子の素姓を聞き損ねたことを思い出していた。だがよくよく考えてみると、自分も結局名乗ってすらいなかったのである。
 花明りの中、ナルフィはゆっくり馬を進めながらその向こう…東宮にあるあの館を透かし見ていた。
 何か、聞こえる。馬をとめて、耳を澄ました。
「胡弓…そう、胡弓だ」
 昇龍殿での儀式のときに聴いたことがある。あれは、この国に楽器で、胡弓と言った…。
 だが、哀しげな音色だった。哀しげ、というのが言い過ぎであるとしても、どこか愁いの翳りがあった。
『愁…愁柳。愁う柳、と書きます』
 答えるまでの一瞬の間隙は、躊躇いであったのだろうか。だとしたら、何故。
 そんなことを考えながら、どのくらいその場に佇んでいただろう。気がつくと、東の空が薄明るくなっていた。

***

「…西宮から、あの曲が聞こえてくる…?」
 その翌晩、愁柳は世界にただ一人、自分しか譜面を知らぬ筈のその曲にひどくよく似た旋律が、樹園を越え、風に乗って幽かに流れてくるのを聴いて、露台に立ちつくした。
『…まさか、そんなことが…?』
 途切れ途切れに聞こえてくるその曲に誘われるようにして、愁柳は館を出た。またエルンストあたりが心配するかな、とは思ったが、風に乗ってくる旋律に対する興味に勝てずにそのまま樹園の中へ入ってゆく。
 愁柳は顔を西宮に向け、耳を澄ませた。まだ、聞こえてくる。胡弓の音ではなかった。笛…だろうか。ここらの楽器の音色ではないようだった。
 歌好きの風神か、それともこの地を去り行く桜の精か。…何か、異界へ足を踏み入れるような気分だった。
 霧と、微風に流れる桜花が成す白い靄が混じり合い、異界への入口めいた雰囲気を醸し出す。構わず、愁柳は歩を進めた。異界に迷い込むなら、それもまた良かろう─────。
 やがて彼の聴覚が確かな方向をとらえ、ふと、曲の主題だけが何度も繰り返されているのに気付いた。
 主題を終えると、何か考えるような間が置かれ、やがてまた主題が始まる。何度か聴いているうちに、どんどん先夜、自分が弾いていた曲と似てくるのだ。
 しかし、不思議だった。楽器が違うだけで同じ旋律なのに、どうしてこの曲はこうまで光に溢れているのだろうか…?
 何度目かの、その旋律の半ばほどで、突然曲が途切れた。愁柳も意識を現実に引き戻される。
「……愁柳様?」
 桜の大樹の幹に背を凭せ掛け、ノーアの造りの笛を携えた銀の髪の娘は、身を起こしてそう問うた。
「貴女は…先夜の…」
「やはり、愁柳様のつくられた曲でしたか?」
「…聴いておられたのですか…。それにしても、よく聴いただけで…」
「愁いを秘めておられる音色でしたね」
 返す言葉がなくて立ちつくしていると、ナルフィが言葉を続けた。
「貴方の御素姓を尋ねはいたしません。ただ、先夜貴方に御名をお尋ねしておきながら、私自身名を申し上げてはおりませんでした。もう一度お会いできれば…その非礼をお詫びしたいと思っておりました」
 彼女はその夜も着慣れた狩装束であったが、盛装したときの長衣を纏っているのと全く変わり無い優雅な動作で一礼した。
「ナルフィと申します。…ナルフィリアス、という名もございますが…」
 台詞の後半は微笑を含んでいた。実際、彼女の公式の名は男名であるナルフィリアスである。だが、ごく彼女に近しいものは彼女をナルフィと呼び、彼女にしてもこれが本来の名だった。
 愁柳は穏やかに笑むとこれもやはり優雅に答礼した。
「お気になさらずとも良かったのですが…。時に、その曲はお気に召しましたか?」
「とても綺麗な曲ですね」
「よろしければ、譜面を書いて差し上げましょう。龍禅の譜面は、お読みになるのでしょう?」
「一応は。是非お願いいたします」
「書き下すのに少し時間がかかりますから、お届けするのは明後日以降になりますが」
「では明後日夕刻、ここでお待ちしています」
 ナルフィの表情が喜色に華やぐのを、愁柳の包帯に覆われた眼は見ることができなかった。しかしその時、遠くからの負の感情を含んだ視線が、その表情を捉えている。
 『親王』桂鷲であった。