西方夜話Ⅲ

西方夜話

 皇宮。
「我が国と貴女の国との関係を知っていますか」
「…私も、ノーア公女ですから」
 ナルフィは、桂鷲に殆どあからさまに非好意的な視線を向けた。
「このたびの北方民族サマンの南下で、貴女の国は危機に立たされている。貴女の国を救いうるのは、我が龍禅のみ」
「…だから?」
 ナルフィはその時剣を佩いていなかったが、その瞳には危険な彩が閃き、反射的に剣の位置に手が伸びた。
 不躾にも伸びてきた桂鷲の手をするりと躱す。だが桂鷲はと言うと、彼女の反射神経が普通でないのに気付いていない。
『────何なの!!』
「貴方のおっしゃりようは今一つ要領を得ておられませんわ。御顔を洗って出直してくださいません?」
 ナルフィはそう言い放つとすっと桂鷲の側をすり抜けた。
「公女ナルフィ殿」
「私はノーアから派遣された親善使節です。お間違え無き様」
 半ば言い捨てると、皇宮を出た。
 皇宮を下がってから、ナルフィは飛蝶殿で不愉快の粒子をまとわりつかせたまま、剣の手入れをしていた。
「…ナルフィ様…」
 ラースが控えめに主人を気遣った。
「ごめんなさい、ちょっと苛々していたの。…あの親王の事でね。何なのかしら。あれではまるで…」
「桂鷲親王には血筋から言って皇位継承順位は現皇太子にかないません。彼が皇位を手に入れるためには、それが決定的に負けているのです。おそらくそのためでしょう…彼にしてみればナルフィ様は、皇位を手に入れるにあたって大きな新領土の入手という切札となりうるのでしょう」
「冗談ではないわ…」
 気丈なノーア公女が怒りに青ざめた。

***

 月が改まった頃から、この生真面目だが少々おっとりしたところのある従者は、ようやく主人が夜更けに彼に一言もなく外出してしまうことがあるのに気が付いた。
 しかし、気が付いたからと言って血相変えて何か事を起こすということもしなかった。丁寧に気配を消してから抜け出しているのがわかっていたからだ。
「ナルフィ様のことだ、よくよく訳があるのだろう」
 ラースの、昼行灯たる所以はここにもある。だが、だからと言ってこの行灯が夜には消えてしまうという訳ではないから、殊の外ノーア公の信頼が篤いのである。
 ともかく、心配しつつも一応知らないふりを装っているいうのが、この真面目な従者の現在の姿勢であった。
 そして幾日かが過ぎた、ある夜。
 雲が月を覆い隠していたが、桜花は散り際のあざやかさを闇の中燦然と輝かせていた。さながら春の雪のような桜花の中、佇む影がある。愁柳であった。
「愁柳様!」
 年相応の無邪気な声に、見えぬ眼ははっきりと声の主を捉えた。
「ナルフィ殿…良いのですか、こう毎夜…」
「構いません」
 ラースにしてみれば大いに構うのだが、この際それは意に介していないらしい。
「今宵は桃園のほうへ連れて行ってくださる約束です」
「…そうでしたね」
 愁柳は優しく笑んで、そう言った。
 ───月光に照らされた穏やかな緑が、桃園を満たしていた。
 もう春も半ば…桃などとうに散りきっている。だがそのなかで一ヶ所だけ、けぶるような白が浮いていた。
「…う…わ…っ…でも、どうして…」
「誰も知りません。何故か、この一本だけ花が遅いのですよ。毎年…」
「毎年…この樹だけが…」
 闇のなかで夢幻的な白がきらめくのを、ナルフィはやや憂えるような眼差しで見ていた。
 彼女の意識のなかでその白が広がり、やがてそれは意識を包む。その向こうから、芯のしっかりした、それでもまだややあどけなさの残る声が聞こえた。
『姉上、姉上…きっと、戻ってきてみせるよ、自分の力で…!』
 ナルフィは意識を現実に戻した。
「私には弟が一人います…血は繋がっておりませんけれど」
 季節を忘れた桃の木の下で、ナルフィは少しずつ話し始めた。
「その子は、私の国が最も敵視する者の息子でした。送られてきたのはまだ生まれて一年と経たない頃で、いわば…いえ、明らかに人質だったのです」
「…生まれながらの人質ですか…」
「その男には既に嗣子となる男児があったのです。あの子は、その男にとって捨て駒でしかなかった。…どうやら母親の方に不義の疑いがかかっていたらしいのです。それでもその男は、ふとしたことでその嗣子を失うと当然のように国に呼び戻しました、あの子の意志などお構いなしに…」
 王侯貴族と呼ばれる者達に課せられる、特権の代償なのかも知れない。だが、それに抗う権利もまた、与えられてよい筈であった。
「今は、どうなさって…?」
「一応…国に戻されたままです。でも、さすがのあの男もリオライには手を焼いているらしくて。…ああ、リオライというのは弟の名です。負けん気が強くて意地っ張り。それでも不思議と、人を魅きつける力を持っています。
 …本当に、あの子がギルセンティアのこちら側に生まれてきてくれればよかったのに…そうしたら私も…私も…」
 ふいに言葉が途切れ、代わりに涙が零れ落ちた。
「…ナル…!」
 彼女自身泣くつもりなどなかったのに、零れ始めたらもう止まらなかった。本人もかなり慌てたのだが、さらに慌てたのは愁柳である。今までの悠然たる様子はどこへやら、すっかり慌ててしまった。
「…触れてはならないところまでお話させてしまいましたか…非礼、お許し下さい…」
「…ごめんなさい…私…泣くつもりなんて…あなたのせいではないんです…本当にごめんなさい…」
 無意識に、彼から離れた。彼だったからではなく、弱さを絶対に悟られないための、身に染みついた癖だった。
「…苦しくはないのですか?」
 愁柳の言葉に、ナルフィは自分の肩が震えたのが分かった。愁柳は目を覆っているものに手をやった。包帯がほどけて深い緑がその瞼の下から現れ、ナルフィを見つめる。
「…苦しい…けれど…私はそれを堪えなければならないんです。そうしなければ、私の故郷が危険に晒される…」
 愁柳の眼は完治してはいない。だが、涙に濡れても変わることのない強い輝きは、はっきりと捉えることができた。
 深い緑が、揺れる。
「…張りすぎた弦は、やがて切れます」
 優しい腕が、差し伸べられる。ナルフィはひどく緩慢な動作でその腕に縋った。
 ────嗚咽が風の音にまじって、低く流れた。

***

「…殿下。『送っただけです。もう会うこともないでしょう』ってんじゃなかったんですか?」
「………」
 返す言葉もなく、愁柳は憮然として籐椅子に身を沈めていた。エルンストの勘の良いのも時に良し悪しである。あまりにも見事に図星をさされて、愁柳としてはそらとぼける気にもなれなかった。
「言いたかなかったけど、この際だから言わせてもらいますよ。『余り近付かない方がいい…彼女自身は佳い人だ。だが、あなたが近付きすぎると、とんでもない運命が待ち受けてる』…って俺は言いました。
 何故だかわかりますか。俺だって気になってた。何でだろう…とね。今の飛蝶殿の客人は誰か、調べてみました。
 …彼女…例のノーア公女ですよ。ノーア公女・ナルフィリアス=ラフェルト!」
 エルンストの視線を遮るように掲げていた片手が思わす下がる。
「…ノーア公女?…ノーア?…今、北方民族サマンの来襲に晒されている…?」
「事実上の人質で来てる、ノーアのお姫様ですよ!! …気持ちは分かりますがね、あんたちったあ出仕なさいよ!だから言わんこっちゃない、そんなに世間知らずになるでしょうが」
 エルンストが心底疲れたというていで手近な籐椅子に腰を落とす。
「皇宮にだって腐るほど女性はいるでしょうに、何だって一番厄介な人に惚れこんだんです」
「エ…ルンスト、私は何も…!」
「はいはい、分かってます。惚れた訳じゃないってんでしょ。か───っ!全く鈍いんだからこの御仁は」
 エルンストは愁柳の抗弁をさらっと聞き流して吐息した。
『…もうちょっといい予感ってのは浮かばないのかねェ…俺のは』
 いつだってこうだ。この力のおかげで今まで命をつないできたとは言え、時々恨めしくなる。そしてさらに腹立たしいのは、一度たりとて人を救えた例がないということだ。
「済まない、エルンスト…」
「何であんたが俺に謝るんです」
 愁柳が沈黙した。実際謝られるいわれはないし、愁柳とてよくよく考えればこの的外しな台詞の可笑しさに気付く筈なのだ。
 エルンストにしてみれは、どっちかと言えば自分が謝りたい程だ。彼があのノーア公女に魅かれる事があの夜に既に分かっていたなどと、今更口が裂けたって言えるものではない。
『…さて、どうなるんだ、これから…』
 『ノーア公女』ナルフィは『龍禅皇太子』愁柳とは結ばれ得ない。彼女がノーアを思うが故に…。愁柳もそれが分かるから、先刻のような無防備な反応を晒してしまったのだ。
 いっそ愁柳が皇太子でなければ、ナルフィがノーア公女でなければ、何の問題も起こらなかったのに…!
『お互いの立場を認識した途端に、最大の障壁にぶつかるなんて…な…』
 晴れ渡った空に、細い月が輝いている。それですら、何か憂色に曇ってみえるようで、エルンストの意識野の一隅は風雲急を告げていた。
 ───かくて、愁柳は綺翔殿に閉じ籠もったまま、ナルフィと逢うことを避けはじめた……

***

『…最悪だ、こりゃ』
 自分のとんでもないお人好しに気付いていない、ややおめでたい御仁はこの状況を見て吐息した。
『このままじゃあんただけじゃ無く、あのお姫様まで…』
 何も知らないまま、一方的に連絡を切られたらどういう気持ちになるかという繊細なところまで、今の愁柳の神経はまわらない。

***

「どうなさいました、ナルフィ様…?」
「…何でもないわ…」
 うかない顔の主人を案じてじてラースが問うが、この際無力であった。
 律儀なこの従者も、うら若い主人の微妙な変化に気付いていない訳ではない。ただ、その理由を思いつかないだけだった。
 彼の直接の主君たるノーア公女の美貌はことさら彼が吹聴して回らずとも周知の事実である。
 だがこの所、その美しさの僅かな変化が感じられるのだ。憂いを含んだ吐息を漏らすことも彼が確認しえただけでも日に何度かあり、それがまた何かやけに艶かしくて、慌てて頭を振ったことも一再ではない。
 彼としては、一体何が『銀姫将軍』ナルフィの突然な変化をもたらしたのだろうかとひたすら疑問符を頭の上に舞わせている次第であった。
 見事に穴を開けてしまった心のまま、それでもあの桂鷲親王のことだけは思い出さずに済む日々が暫く続く。

***

 ───白蓮殿、親王桂鷲の居館。
 桂鷲は昼間から夜光杯を持ち出して側近達と飲んでいた。
 彼も愁柳とノーア公女が近づきつつあるのを察知している一人であるが、その受け取り方はエルンストの対極にあった。
 …要するに、たいへん面白くないのである。
『彼奴め、女には興味はないという顔をしておきながら…』
 罪のない杯を床に叩きつける。
 愁柳にしてみればかなり不当な言われようである。だが、桂鷲はいたって真面目であった。何といっても、ノーア公女は皇位継承の為の重大な切札となりうる。それに気づいてから何度か近づいてはみたものの、かんばしい反応が得られない。
 このことを帝が気づけば喜んで二人を娶せ、勢いで譲位もしかねない。…帝の耳に入るまでに、何とかこの状況を変えてしまわねば、彼に未来はなかった。
「…何としても…!」
 彼には力があった。力あるものが帝となって何が悪い、世の理ではないか…。それが彼の言い分であった。それだけなら、愁柳とて喜んで太子の位など彼に譲ってしまったであろう。
 だが不幸にも、彼はその可能性に気づかず、ただ力を以て兄を廃す事ばかりを考えていたのだった。

***

 国都郊外の古びた一軒家。
「それで…?」
「…要するに俺は助力を依頼してるんだが」
「その前にその一手を待ってくれんか」
 人が真剣に話をしているというのに、金褐色の髪をした青年は盤の上で囲まれかけているキングの駒に、さも名残惜しそうな視線を注いでいる。エルンストは心底疲れたように言った。
「一手でも二手でも待ってやるから、少しまともに話を聞け」
「聞いてるよ。だが…やけに肩入れするじゃないか。ま、お前としちゃいつものことか。お節介も度が過ぎると身を滅ぼすぞ?」
 盤から一瞬も目を離さずに、エルンストの話したことを一言半句聞きもらしていないことを示す。
「そんなんじゃない。たまにははずれて欲しい予感ってな、あるもんでな。運命とやらに振り回されたくないから、人間の力でどうにかしてみたくなった」
「ふうん…」
 結局エルンストに一手待ってもらってキングの囲みを解くと、初めてその若草色の瞳でエルンストの眼を射た。…その真意を探るかのように。
 得体が知れないという点ではエルンストも人のことは言えないが、この青年もはっきり言って背に何を負うているやら。
「…で、俺にその贅沢な条件を満たす方程式を立てろと」
「まあ、そんなところだ」
 若い家主は軋む椅子に身体を沈めて吐息した。
「無茶苦茶を言う…そんな調子のいい事、できる訳が…」
「…あるだろ、お前さんなら」
 金褐色の頭をもたげてエルンストを見る。悪戯っぽい笑みがその若草の色の奥にあった。
「お前なあ…」
 麗らかな陽が差しこみ、小鳥が歌って長閑さに素朴な彩を添える。暫時、漫然とそれらを見ていたが、ふと身を起こして問うた。
「その御仁、強いか」
「剣の腕は逸品だな」
「今度会わせてくれ。結論はその時に出す」

***

「…物好きと言えば物好き、変人といえば変人だよなあ」
 数日後、皇宮。新緑が風に揺れる中、額に汗を光らせて修練用の剣を振い続ける二人を見ながら、エルンストが独りごちる。…が、この言葉は、どうやら客人のほうへ向けてのものらしかった。
 鋭く打ちこまれて、愁柳の体勢がわずかに揺らいだ。
「…っ!」
 だが、間髪入れず後方に飛んですぐに立て直し、次の斬撃を完璧に躱す。
「あれさえなきゃ、只の…いや、かなり上等な医者で通るんだがなあ。人間誰にも欠点はある」
 エルンストが一人で納得している間に彼の《結論》は出たらしく、いきなり剣を引いた。
「相当鍛えておいでのようですな」
「戦場で培ったものですから、剣術などと言えるものではありません」
「剣の使い方なぞ、それが最上だと思いますがね。…いや、お騒がせしました。お蔭で修行になった。眼病が治ったばかりとは知らず、御無理を言って申し訳ない」
「…いえ」
「失礼ですが、その目は熱でも出されたので…?」
「はい。詳しいことはよく分かりませんでしたが、もう治ったことですし…」
「放っておくのはよくありませんな。良かったら少しせて頂けませんか。こう見えても医者のはしくれ、自分で言うのは些か口はばったい気もしますが、そこらの典医よりは腕は確かなつもりですよ」
 愁柳は一瞬戸惑った。万が一、薬によるものだということが外部に漏れると面倒な事になりはしないか。…だが、変に断わればかえって余計な疑惑を招く。ばれたらその時のことだ。
「……では、お願いしましょう」

***

 館に入り、ひととおり汗を拭ってから彼は愁柳の目を診た。
「病というのは、いつ頃に?」
「去年の春先でした。…もう良く覚えていませんが…」
 彼はもう暫く無言で診察していたが、用意された盥の水で手を洗って言った。
「やはり眼病のようですね。目に塵が入ったか何か…そのせいでしょう。…時に、他に薬を使っておられませんでしたか?」
「…特に…思い当たりませんが…」
 彼にしては結構上手く嘘がつけたほうであろう。だが、この得体の知れない人物に対する効用となると、かなり怪しいものがあった。だが彼はそうですか、と軽く言っただけだった。
 そして帰途、エルンストの側を通りすぎざま、ぎりぎりエルンストに聞こえるだけの声で言ったのである。
「────承知」

***

「帰られてから言うのは悪いような気もするけれど、変わった人だね」
「まあ、いろいろと複雑なやつですからな、あれも」
 つい今朝包帯が取れたばかりなのだが、危なげのない剣さばきを見せた愁柳。流石と言うべきか。
 旧友なのかという愁柳の問いに対しては、
「…まあ、似たようなもんですな」
 ────とやや曖昧な返事をして、エルンストは最終的に彼の訪問の理由をぼやかしてしまった。
 都ではわりに名の通った医者であるが、あの通りの変わり者で、まだ若い。
 底辺の民に慕われ、その代金の安さにかかわらず割と暮しには不自由していないらしい。食料と薬以外に金を使わないからだとか、否、家の地下に宝石をごっそり隠し持っているからだとか、いろいろと嘘とも本当ともつかない噂に飾られた人物であった。

 ────名を、サーティスという。