西方夜話Ⅳ

 一方、ナルフィもまた、閉じ籠もり気味な毎日を過ごしていた。ラースはこれを案じたが、理由もわからないではどうしようもない。何とはなしに裏手の樹園に出て、吐息しながら漫然と緑を眼に映していた。
 ノーアからの知らせによれば、どうやらサマン撃退には成功したらしい。…だが、問題はこれからだった。今回の支援の代償としてノーア公女ナルフィを要求された日には、ノーアは龍禅に併呑されてしまう。そのうえ、この状況下では拒絶もできなかった。
「…?」
 木々の向こうに、佇む影があった。
 烏羽色の流れるような髪をしているが、どうやら男らしい。ラースに気づいてはおらず、涙を流していないのがいっそ不思議な程、悲しげな目をしていた。
 ────この時点で、ラースは愁柳を知らない。
 一体誰なのだろう…そう思ううちに、ふとその人物が自分が見つめられているのに気づいて、ラースを見た。ラースは自分の非礼を詫びようと口を開きかけたが、彼はすぐに身を翻して木々の間に消えてしまった。
「…この向こうに、館なぞあったかな?」
 暫く佇んで考えていたが、意を決したらしく歩き出す。
 新緑の中、ふいに道を失いそうになりながらも何とか綺翔殿の近くまでたどり着いた。
「…ここは…?」
「綺翔殿さ。龍禅皇太子愁柳殿下の居館だ」
 突然の背後からの声に、咄嗟に剣を抜き損ねた。声に明確な害意が感じられなかったせいかも知れなかったが。
 明らかに異国の、だがこの地に妙に溶けこんだ男がそこにいた。
「ノーア公女ナルフィリアス殿下付きの衛士、ラース殿…ですな」
「…そうですが、どなたです、あなたは」
「あなたほど立派な肩書きがついてないので省きますが、エルンストという名がついてますよ、一応」
「龍禅の方ではありませんね」
「…生まれついてのここの国の人間でないことは確かですが」
 今一つ、屈折した物言いにラースは多少困惑した。
「何の御用です?」
「…何の故あって殿下の後をつけておいでなのか、その辺の理由をお伺いしたく」
「…何も、私は…!」
 数秒間ラースの慌てぶりを笑って、気さくに言った。
「冗談です。何も怪しい意図のないことぐらい、見りゃ分かりますよ。帰ったらお姫様に言ってやんなさい、桜月夜の案内人は、故あって暫く会えないだけだそうだ…と」
「…まさか、あなたは、ナルフィ様がここ暫く外出されていた理由を…」
「…ちょっと待て、慌てんでくださいよ。何で俺が…」
「…御存じありませんか」
「知らないと言えば嘘になりますがね…俺のせいにされちゃかなわん」
「……?」
 エルンストはやれやれというふうに髪をかきまわして吐息した。
「とにかく!伝える事は伝えましたよ。…それから、桂鷲親王にはお気を付けなさい。奴は何をやるか分からん。奴が変な手段に出ない内にあなた方が龍禅を出られるようにはしたいと思ってますがね…こっちも非力な身で」
「…あなたは…?」
「では」
 呆気に取られる実直な衛士を放っておいて、自分はさっさと姿を消した。取り残されたラースは暫く狐につままれたような表情でその場に立ちつくしていたが、少し考えるように俯きがちに頭を掻くと踵を返した。
「……」
 桜の木の上に座を占めて、衛士を見送るエルンスト。
『しかし、俺は何をやってるんだ?』
 ふいに頭をもたげる疑問。
『決まっている、あの不吉な予感を的中させないためだ。…もうあんな思いはたくさんだろう?』
『それだけか、エルンスト』
『…他に何があるって言うんだ?』
『相変わらず自分を騙すのが上手だ、お前は…』
 エルンストは激しく頭を振った。
「あの不吉な予感を的中させないためだ。…もうあんな思いはたくさんだろう?」

***

 飛蝶殿。昼をまわると、嵐の気配が漂ってきた。
「あの方…愁柳様が…龍禅の皇太子!?」
 ナルフィは思わず手の中の茶器を取り落とした。
「ナルフィ様…」
 そのまま椅子の中に倒れ込んでしまった公女に、何か掛けるべき言葉はないかと必死に探すが、何も実り無いままに口を閉ざさなければならなかった。
「…そう、だから…だから…」
 側卓に肘をついて目を覆う。
「…ごめんなさ…い…ラース…独りにしておいて…」
 ラースは弾かれるようにして部屋を出た。自室に戻って何かに追われているかのように扉を閉めると、文字通り一息つく。
 彼女に何が起こっているのかを、ラースはようやく朧げながら感じ取った。
『何ということだ…。よりによって…龍禅の皇太子とは…』
 ナルフィはお世辞にも女の子らしい育ち方をしたとは言えない。編物や縫物をするより弟・リオライ相手に剣術の稽古をする方が好きであったし、何よりノーア公女という地位が、彼女に誰も近寄せずにいた。
『それなのに…何という…』
 ラースはこの時、心底『運命』とかいう御大層な名で呼ばれる存在を憎んだ。
『幸せになって良い方の筈ではないか…何の故あってあの方をこうまでして苛むのか…!!』

***

  ─────なぜいきなり会ってくれなくなったのか、これで全て納得がいく。
『私は…ノーア公女でなければならない…!』
 ナルフィは唇を噛み締めた。だが涙だけが勝手に溢れ出て頬を濡らす。
 頭の中で渦巻く事柄を必死で言語化して、感情に流されそうな自分を叱りつける。
『私は…っ!!』
 側卓に突っ伏して、低い嗚咽を漏らす。これだけでも、最大限の努力を必要とした。それにつれて、眩いばかりの銀色が小刻みに揺れる。
『忘れなさい!!それ以外に途はない』
 何時しか唇の端が切れ、緋色が流れだしている。雷が轟き、降りだした雨は昼というのに夕方のような薄暗さをもたらしていた。

***

「────暫くここをあける。一寸出かけてこなきゃならん」
「どこへ」
「お前の依頼の一件だ。どうやら式が立った」
 サーティスの家。彼の言葉にエルンストの眼がにわかに光を帯びた。
「…入り用な物はあるか」
「とりあえずは無い…二月程で戻る」
 淡い紅のグラスの中の琥珀色を揺らしながら、サーティスは一度言葉を切った。
「…桂鷲親王が、よからん連中とつるんで何やら企んでいるらしい。…あくまで噂だが」
「…やはりそうか」
 エルンストが舌打ちした。
「間に合いそうか?」
「分からんが…ま、他ならぬお前さんの頼みだからな。最善は尽くすさ」
「…恩にきるよ」
 エルンストがそう言ったとき、この正体不明の医者は解析不能な微笑をした。だがエルンストはサーティスの行動にいちいち理由を求めているときりがないと知っていたから、そのまま見過ごしてそろそろ辞去する旨、告げた。
 席を立つエルンストに一瞥を投げ、再び琥珀色を瞳に映すサーティス。
「エルンスト」
「…何だ」
「余り不健康なことはせんが良いいぞ。…もう少し素直になってみろ」
「何のことだ?」
「…いや、別に…」
 エルンストが館を辞し、ドアの閉める音と一緒に、サーティスの瞼がゆっくりとその若草色の瞳を覆った。
『どいつもこいつも、不器用なことだ』
 …グラスの中で、琥珀色が揺れた。

***

 新緑の季節が過ぎれば、すぐに夏の神カミルトの月となる。だがここ…龍禅では、伝統にのっとってカミルトの月と呼ばす、朱雀の月と呼ぶ。朱雀とは火の鳥、そう聞くだけでも暑くなるが、ただでさえ龍禅の国都の夏はしのぎづらい。
 暑いというより、蒸し暑いのである。身体が弱かった頃の愁柳がここで生活できず、高地の離宮に移されたというのも無理のない話であった。
 しかし十年もの辛抱強い努力で人並みの体力をつけ、さらに戦場で鍛えた今の愁柳の身体はこれぐらいの暑さにはびくともしない…筈だった。
 鬼の霍乱の譬えもある。この夏、愁柳は皇宮に戻ってこのかたおよそ初めて、暑気あたりで床に就く破目に陥っていた。
「…一体どーしたって言うんです…ってのはこの際、尋くだけ野暮ですかねェ」
 順応性にかけては天下一品のエルンストが笑いながら愁柳の額を冷やす手巾を取った。
「………」
 減らず口を叩く元気も、反論する気力もないに等しい状態の愁柳は、僅かに唇を動かしただけだった。
 暑気あたりなどというものは、多くは一過性である。余程の年寄りでもない限りは命に差し障ることはない。だからこそエルンストも愁柳が倒れても軽口を叩いていられたのであるが、このときの愁柳に対しては深刻な一撃を与えた。
 治りかけていた眼が、再び悪化したのである。
 慌てて呼びにやった医者は桂鷲の息が掛かっていた。また毒を盛られかけ、間一髪エルンストが気付いて文字通り叩き出したが、そうでなければ失明どころか落命していた。
「…締め上げれば桂鷲親王の尻尾がつかめたでしょうに」
 そう言うエルンストに、愁柳は静かに首を横に振った。
「とりあえず命はあったのだから…そう事を荒立てることはないでしょう」
「…もう十分荒立ってるような気がするんですがね、俺は」
 愁柳の目を覆う包帯を見て、吐息半分といった態でエルンストが言う。愁柳は、少し力無い笑みを返すだけだった。
 かくて、サーティスの言う二月が過ぎようとしていた。

***

 秋の月が、出ていた。
 包帯が取れたとはいえ、まだ暗闇は程良く見えず、半日以上包帯を取ったままにすることを禁じられている愁柳は、風の音に合わせながら胡弓を弾いていた。
 館の周囲を囲む非好意的な意志に気づいて、愁柳はエルンストを呼んだ。…だが、返事がない。まだ帰っていないようだ。
「………」
 包帯を外して刀を取る。闇を見るが、程良くは見えず、時として全体に霞んだ。
 何者かが部屋に入ってくる気配。愁柳は呼吸を整えながら刀の柄に手を掛けた。
「皇太子愁柳殿下、ですな」
「…そうだ、と言ったら、どうするつもりですか?」
「殿下、我々に同行していただく!」
 ほぼ同時に、少なくとも五本の刀が鞘から抜き放たれる音を聞いた。
 最初うちかかってきた刀を撥ね上げ、腕の付け根を狙って切り下げる。確かな手応えと一緒に、ごとりという音を耳にした。
『…一人!』
 闇をつんざく悲鳴と、斬りかかってくる者の足音を明確に聞き分け、右斜め後方からの刃を躱す。前のめりになった所で、喉を狙った。
『二人』
 踏み出した足下で水音がする。一瞬足を取られそうになりながらも、たてなおして次の斬撃を受け流した。…その時。
「……っ…!」
 首筋に細い針がつき刺さる。同時にまるで立ち眩みでも起こしたかのような感覚に襲われた。愁柳は抵抗を試みた。…が、それは無駄に終わった。
 愁柳はその場に崩折れた。この時既に、彼の意識はない。