西方夜話Ⅴ

「殿下!」
 妙な不快感―俗に言う、嫌な予感―に、エルンストはやや乱暴に綺翔殿の扉を開けた。
「………!」
 荒れた室内に、エルンストは血の気が引くのを感じた。
 今日に限ってやたら変なのにからまれた理由が分かった。人影はない。ただ、盛大な血の池がそこに残されていた。
「…だが、殺された訳じゃないな…」
 殺害が目的なら、遺体を運び出したりはすまい。何らかの目的があって、愁柳を力づくで連れ出したのだ。この血の池は、連中の暴挙の代償として愁柳が払わせたもの…そう考えるのが妥当だ。
「…となると…!」
 エルンストはやおら窓を開け放って綺翔殿の裏手…樹園の方へ出た。
『今頃、飛蝶殿は…!』

***

「ナルフィ様、外へ!」
 剣を振いながらラースが声を限りに叫んだ。侵入者はやはり十人を出なかったが、それでも分が悪いのは目に見えている。ナルフィもここ暫く磨いてばかりだった剣を抜いて立ち向かうが、数の差というのは往々にして覆い難い。
壁に追い詰められたと見せて、窓から身を躍らせる。
「外だ!」
 身軽に着地したナルフィを追って何人かが飛び降りた。…が、ここで一人脱落する。所詮、鵜の真似をする烏にろくな事は起こらない。
 走った時の速力では、ノーアの原野を駆け回って育ったナルフィを凌駕する者はこの龍禅ではそう多くない。ラースの指示の意味はこれであった。
 しかし、およそ追手を引き離した頃になって、また一難が彼女を待っていた。馬に乗った人物が、樹園のなかで待ち構えていたのだ。
「…桂鷲殿下…」
 一応敬称は付けたものの、まさに一応といった感じだった。…敬意よりも嫌悪、軽蔑の念を隠せない。
「何故そう拒まれるのです?」
「…貴方が嫌いだからですわ、親王殿下」
 ナルフィは剣を抜いた。
「貴方のそういうやり方が大嫌いですわ。…いつも、力だけで人を動かせると思っていらっしゃる」
「…そうではありませんか?」
 桂鷲も剣を抜いた。余裕たっぷりに剣をナルフィへ向ける。
「貴女に何の不利益がありますか?龍禅帝の皇妃…女性としてこれ以上の幸福はないでしょう」
「私はナルフィリアス=ラフェルト…次の世にノーア大公たるべき者だ。我が国ノーアを護り育てる事こそ私の至上の幸福!それ以外の何物でもありえない!!」
 それは、凄烈な美しさとでも言うべきものであった。圧倒された桂鷲の剣がこころもち下がる。
「…それに、龍禅の帝位はあなたのものではない筈」
 気丈な調子の影に潜むものに気づいて、桂鷲はかっとなった。
「何故、彼奴ばかり…!!」
 感情任せの激しい一撃を、ナルフィは避け損ねた。
「……っ!」
 桜の幹に叩きつけられ、一瞬呼吸が止まる。
「何故貴女も彼奴なのだ!…何故、彼奴ばかりが…!彼奴に比べて私が何か劣っているとでも言うのか!?」
 桂鷲の仮面が破れたことにたじろいで、ナルフィは反撃の機会を失っていた。剣を向けたまま歩み寄ってくる桂鷲。…動けない!
「…っ…!」
 剣の切っ先は彼女が背にしている桜の樹に突き刺さった。
「私の何が劣っている!ノーアの公女…何が不足だ!?」
「……!」
 ようやく、反撃の余地を見出す。だが、剣を握る手に力を込めたとき、桂鷲に気取られた。
「往生際が悪いぞ!」
 桜の幹に突き刺さった剣が抜かれ、ナルフィの剣を払った。
「…くっ!」
 金属音と共に剣は撥ね飛ばされ、刃が喉元に冷たく触れる。ナルフィは息を詰めた。先の衝撃で右手は完全に痺れたままだ。このままでは…。
「…そこまでにしていただこうか。貴族だろうが皇族だろうが、俺は容赦しませんぜ」
 桂鷲の頸に鋭利な短剣が当たっていた。切っ先に触れる辺りでは、既に緋色が薄い線を引いている。エルンストの眼は軽口とは裏腹に危険な程真剣だった。
「愁柳のところの風来坊か。余計な所に…」
「たとえあんたがその剣に力を込めた所で、同時に俺もこの短剣をあんたの喉にぶち込む。…さて、どっちの切れがよいかな。俺の剣はあんたのと違って、手入れも行き届いているんだが」
 ナルフィの喉元から剣が離れる。ナルフィは咄嗟に桂鷲の手を押さえて剣を奪った。
「上出来ですよ、お姫様」
 エルンストの眼から一触即発の危険さは消えた。
「…さて、教えていただきましょうか。愁柳殿下は何処です」
 この言葉に驚いたのはナルフィの方だった。
「愁柳様に…何か!?」
「拉致されたようです…おそらくは、否、確実に主犯はあんただ、桂鷲親王」
「…それがどうした」
 桂鷲は桂鷲で居直った。エルンストは怒りに任せて短剣を振り上げかけたが、近づく多数の足音に気付いてはっとした。
「…全く、こいつは…!」
 代名詞がこいつまで転落したところで、エルンストは桂鷲を突き飛ばして短剣を投げ、襟を桜の樹に繋ぎ止めた。
「逃げますよ、お姫様!」

***

「ナルフィ様─────!」
 とりあえず綺翔殿までたどり着いたとき、ラースが馬で追いついた。
「無事で良かったわ、ラース」
「ナルフィ様も御無事で何より。…ところで…」
 彼を認めて何か言おうとしたが、エルンストは機先を制した。
「貴女はこのまま綺翔殿にいてください。まさかもう何も来やせんとは思いますが、内から鍵を掛けて。俺は白蓮殿へ行って来ます…あの人はまだあまりまともには目が見えないんだ」
「私も行きます。…足手纏いにはなりません」
 エルンストは一瞬息を飲み、そして吐息した。…余りにもありきたりな反応だが、このノーア公女に限っては内実が伴っているから説き伏せにくい。エルンストの鳶色の瞳に、何かせつなげなものがよぎった。
「それより、先にこの衛士殿の手当てをしてやったほうがよいのでは?」
「わ、私は何も…」
「立ってるのもつらい人が生意気を言わない。…ほら」
 とん、と軽く叩いた程度だったが、ラースがその場にへたり込んだ。
「ラース!?」
「…そういう訳です、じゃ、後はよろしく! あぁ、馬、借りるよっ」
 軽く言い置いて馬に飛び乗る。先刻の、切なげな彩はきれいに姿を消していた。
『…死なんでくれよ…』
 白蓮殿は西宮だ。このまま樹園を突っ切ったほうが早い。

***

 ―――――――――白蓮殿。
「…桂鷲…」
「ほう、見えずとも分かるか」
 捕えた者でも床に転がさないのは、曲がりなりにも皇族としての血を重んじたのか。愁柳は長椅子から身を起こした。
「…桂鷲、この仕打ちは…!」
「兄上、あなたは欲張りだ…すでに皇位が手の届くところにあるというのに、何故この上ノーア公女を望まれる…?」
 声の調子を変えて、意図的に言葉が丁寧になる。だがそれも、愁柳の言葉にあっさりと素が出た。
「…何故そこまで皇位を望む…?…何が得られるというのか」
「兄上には分からぬ!!」
 桂鷲に殴られた机が悲鳴を上げた。
「兄上のように貴なる家柄の血を引く訳でもなく、父陛下の寵愛がある訳でもない…だが、私とて皇族…皇帝の血を受けた龍禅の皇子だ!皇位を狙って何が悪い!?」
「…皇位が欲しければその手で奪えば良い。この場で私を殺せば良い。…そのつもりだったのだろう。…だが、彼女を…ノーア公女を利用することは…っ!」
 桂鷲の指が愁柳の喉にくいこむ。しかし、顔を苦痛にゆがめても桂鷲の手をはずそうとはしなかった。その無抵抗さが、桂鷲の怒気を煽る。
「可愛気のない!」
 吐き捨てるように言って、桂鷲はその手を放した。激しく咳き込む愁柳。だが、それがおさまったとき口にしたのは、彼にしてはこの上なく挑発的な台詞だった。
「殺すが…良い…だが、かのひとに指一本でも触れてみよ…その時は私が冥府の底からでも腕を伸ばし、お前の喉をかき切って見せよう…」
 深い緑が、桂鷲を射抜く。この穏やかな兄の眼が、その時確かに殺気を含んでいた。
「……!!」
 三歳の幼児ですら殺人に駆り立てる、原始的な感情―嫉妬―に駆られ、桂鷲は剣を抜いた。
 愁柳は動かなかった。ただ、異母弟の振りかざす刃を一種狂的な静けさで見据えていた。
「殿下ッ!!」
 派手な音と共に扉が開いて、エルンストが飛びこんだ。…が、ほとんど同時に桂鷲は剣を降り下ろしている。
「…この…っ!」
 鉄拵えの鞘が桂鷲の横っ面を張った。桂鷲はひとたまりもなく撥ね飛ばされて柱に激突する。
「殿下、殿下っ!」
 長椅子は血で染め変えられていた。愁柳の右袖は切り裂かれ、緋色が溢れて右半身を染めていた。
「…何てこった…」
 エルンストは舌打ちして卓に掛けられていた布を引ったくると、引き裂いて愁柳の腕にあてた。杯と瓶がいくつか床に激突し派手な音を立てて壊れたが、この際エルンストの意識の埒外である。
「う…」
 ようやく頭を振って起き上がったとき、桂鷲は冷ややかな刃が首に当たるのを感じた。動けず、目だけで床を探すと、ここに至るまでに殴り倒してきた者達の血で染まり、ガタガタに傷んだ鞘がうち捨てられているのが目に入った。
「…まったく…やることなすこと人の神経に障る…。夜明けまでに何かおかしいことをしてみろ、今度こそ本気でその頭を叩き落としてやる」
 失血で意識を失った愁柳を肩に担いだエルンストは片手が塞がっているが、桂鷲の首を叩き落とすぐらいは楽にやってのけるだろう。このときの桂鷲の汗は、先刻樹園で同様に剣を突きつけられたときの比ではなかった。
 エルンストの剣の柄が、桂鷲の首の後ろを一撃した。

***

 綺翔殿。
「…申し訳ありません、ナルフィ様…」
「あなたはよく頑張ってくれているわ」
 ナルフィは笑ってみせた。だが、あくまでも笑って〈みせた〉のでしかないことは、いかんせん隠し難かった。曇っているのだ。…ここにいない誰かを案じて。
「…行ってみますか。白蓮殿へ」
「いいえ」
 答えは、意外に明快だった。
「彼は愁柳様の腹心と聞いています。任せておいて不安はありません。それに、土地不案内な私が行ったのでは、いくら剣が使えても足手まといに変わりはありません」
 ふいにノーア公女の瞳が鋭角的な光を放った。
「…何者!」
 扉がキ…と音を立てる。内から鍵が掛かっていた筈なのに!
 機敏な動作で卓上の小瓶をつかみ、開きつつあった扉に向かって投げつける。
「……っと」
 小瓶は器用に受け止められる。闇の中で秋の陽光に似た金褐色が揺れ、開いた扉の向こうの闇から声がした。
「…ノーアの姫は聞きしに勝る武芸者ですな。ところでエルンストか愁柳殿下を御存知ありませんか」
旅姿をした、金褐色の髪の青年であった。
いかにピリピリしていたとはいえ、敵か味方か判別も付けぬままに攻撃を仕掛けてしまったことに今更恥じ入りながら、ナルフィはそれでも用心深く尋ねた。
「…その前に貴公のお名前を承りましょう」
 彼は一国の公女に対するに相応しい礼を取って、名乗った。
「失礼しました、銀姫将軍閣下シアラ・センティアー。私はサーティスと申します。綺翔殿の愁柳殿下に、エルンストを通して知己を頂いておりました。今日、ちょっとした約束があってお訪ねしたのですが、どうやらいつもと違う御方がいらっしゃるようなので…」
 ナルフィは頷いて言った。
「…愁柳様も、エルンスト殿も、今ここにはいらっしゃいません…。愁柳様は桂鷲親王に拉致され、エルンスト殿がそれを助け出しに、白蓮殿へ…」
「…! あの莫迦が焦って行動に出ましたか…」
 サーティスもこの国の住人であるからには、桂鷲に対しては然るべき言葉遣いがある筈だが、平然とそう言い放った。
「…では、あなた方にここで待っているように指示したのは、エルンストですか」
「ええ、そうです」
 サーティスは一瞬何か考えるように若草色の目を伏せたが、ラースに向き直って言った。
「そこの従者殿、動けるか」
「あ、はいっ」
「ノーア公女殿下、すぐにここを出て私の家へおいでなさい。エルンストにはすぐ分かるように合図を残します。…私を、御信用頂けますか」
 ラースは、はっとしてナルフィを見た。…彼が桂鷲の手先でないと示すものは、今の時点では皆無なのである。
「…信じましょう」
 サーティスはその答えに優美な笑みをして、護身用の剣の柄に手をかけると言った。
「それでは、何やらうるさいのが表で待ち構えているようなので、樹園から北門へ出て西を目指してください。…すぐに追いつきますから」
 気配に気づいたラースが慌てて剣を抜きかけたが、サーティスの一言で抑えられた。
「従者が離れてどうするんです。…さ、お早く!」
 ナルフィらが樹園に出たのを確かめて灯明を点すと、サーティスは表戸を開いた。居並ぶ面々を見渡し、余裕以外の何物でも無い笑みを閃かせる。
「…なんとも命を無駄遣いする奴等だ。無益な生涯で終えたくなければ先に退け。見れば、桂鷲配下とはいえ名のある豪族の末裔だろう。家名に恥を上塗りすることもなかろうに」
「ノーアの公女をどこへやった!」
「…そのうち、こんな事をしている暇はなくなるぞ。いいのか」
 明らかに挑発だった。…だが、彼らはそれに気付かない。
 先に抜きかけたのは襲撃者達だったが、抜き終えたのはサーティスのほうが先だった。…否、斬ったのは、と言うべきか。
 数種の悲鳴が上がる。数本の剣と、新たな血の飛沫が綺翔殿の床に散った。
 西方で言う、『居合い』…抜きざまに相手の手首の内側、首筋などを斬る。このときサーティスは殺す気がなかったから、手首を、それも前に出ていた数人を一気に斬った。サーティスの思惑通り、見苦しいまでに慌ててくれる。
 傍らの灯明に、サーティスが何か、手の中の物を近付けた。
「…せっかくの来訪だ。土産を進呈しよう」
 それはサーティスの手を離れ、ころころっと彼らのほうへ転がった。それに、視線が集中する。
「……?」
 綺翔殿が僅かに揺らいだのは、その直後だった。
 恐れ入った素早さと言うべきであろう。サーティスは既にその時館を離れている。
「黒鉛と硫黄の比率はあれでよさそうだな…なかなか派手に炸裂する。あれで不発だったら目も当てられなかったが…」
 綺翔殿の裏手に繋いでおいた馬を駆りながら、サーティスはとんでもないことを呟いた。どうやらこの男、この場を試験に利用したらしい…。