西方夜話Ⅵ

 サーティスは結局樹園を出たあたりで追いつき、街はずれの彼の家へ案内した。森を抜けたところで、全くの一軒家である。古ぼけた家であったが、造りはしっかりしているようであった。
「…ああ、その辺のものに触られんように。結構物騒なものも混じっていますから」
 僅かな旅の荷を長持の中へ納めながら、サーティスは振り返って言った。
「私はちょっとそこまで出てきます。…一本道までですから、まず行き違いにはなりませんよ」
 そう言うと、その風変わりな家主は剣だけを携えて家を出た。
『只者ではない』
 だが、少なくとも敵ではないことは確信できた。それでともかく気を落ち着けようと勧められた椅子に腰を下ろしたとたん、ナルフィの視線は風変わりな壁に釘付けにされた。…何と、壁は見事に造り付けの棚に占領されていたのだ。
「……?」
 棚の上に、所狭しと並べられた瓶。それに張りつけられた紙片の一つにふと目を止める。
「ナルフィ様、あまり触られないほうが…」
 その瓶に手を伸ばしかけたナルフィに気づいてラースが声をかけた。
「ええ、触りはしないから…」
 そこには、ナルフィにも親しい植物の名が記されていた。ここらに自生はしない…もっと東のほうでなければ見られない筈である。おまけに、記された文字が。
「…ツァーリ文字…?」
 基本的に、ノーアもツァーリも大して言葉は変わらない。文字は一見して違うが、文字を対応させれば容易に読めるのである。
「他にも、ある…?」
 ツァーリ文字ばかりではない。龍禅のものはもとより、シルメナ、ノーア、リーン、果てはシェノレスのものまである。この家の主は、少なくとも周辺十ヵ国の言語に通じているらしい。
「一体、彼は…」
 その名からして、少なくとも龍禅の人間ではあるまい。だが聞くものが聞けばノーアの言葉の抜けきっていないナルフィの龍禅語と違って、サーティスの言葉は余りにも自然だった。
「…ナルフィ様…私の思い違いかも知れませんが、前に一度、何処かであの御仁に会ったことがありませんか…?」
「私も今、そんな気がしていたところよ…」
 あの金褐色の髪と、若草色の瞳。かなり溯った記憶のような気がする。ノーア…あそこにいてもかなりの人間と会わねばならないのは事実であった。ノーア公女…ノーア大公の後継者として父が謁見を行う時は殆ど同席したからだ。
「…そんな時だったかしら…?」
 思い出せない。額に落ちかかる銀の髪をかきあげて、吐息した。
「…だめね…今夜はいろいろな事かありすぎて、頭が混乱してるわ…」

***

 サーティスは樹園の中にいた。
「……?」
 風の中に何か不吉なものを嗅ぎ取ったのか、ふいに馬を止める。闇の中、短めだが柔らかな金褐色が風に躍った。
 遥か向こうに、人影。
「…エルンスト!」
 腕に、誰か抱えている。…余りにも不吉な香り。サーティスは反射的に馬をに鞭をあてた。エルンストの表情は、苦渋に満ちている。
「サーティス、頼む。…間に合わなかった」
「…桂鷲に、斬られたか」
 サーティスはエルンストの抱えていた人物を降ろさせた。手際良く腕の止血をやり直す。エルンストとて何処までも手が回らないから、ほんの応急的な処置しか出来なかったのだ。
「ここで出来る処置なぞ知れている。家へ運ぶぞ。…綺翔殿は危ない。さっきうるさい奴らが来たから、お姫様と従者殿は一足先に移しておいた」
 愁柳の顔は失血が祟ってか蒼白になっている。エルンストは頷いた。

***

「………っ!!」
 帰ってきたサーティスの気配に気づいて表まで出てきたナルフィが、血相を変えて膝を折ってしまったのも無理の無いことであった。
「…エルンスト、手伝ってくれ。とりあえず縫い合わせん事には…」
 サーティスの表情は厳しい。抜きん出た医術を有する彼の目には、傷の酷さ、深刻さが現実性をもって映るのだ。
 失血はほぼおさまっている。だが、傷が余りにも深い。サーティスは無痛手術の方法を心得ていたが、もはやそんな暇はないのは明らかだった。
 ナルフィは別室で、自分の肩を抱き締めて小刻みに震えていた。彼女は戦場に出たこともある。比較にならぬ流血沙汰もくぐり抜けてきた。…そんな彼女でも、今ばかりはただ、後から後から溢れる涙を抑えることすら出来ずに震えるだけであった。
 ラースはラースで手術の場にも、ナルフィの側にもいたたまれずに外へ出ていた。
「…助かるのだろうか…」
 誰もが心の底には持っていただろうと思われる問いを言語化できたのは彼だけであった。
 月は高く、冷たい。
 龍禅に来てから…と言うより、あの龍禅の皇太子に会ってよりこっち、ラースの見るノーア公女はいっこうに彼女らしくなかった。初対面のサーティスの言ったように、『銀姫将軍』というのが十六で初陣した、ノーア公女ナルフィリアス=ラフェルトの通り名であったのだ。
 彼女の中で何かが変わっていく。…それを、ラースは朧気ながら感じていた。
「…銀姫将軍が…ノーアの女神シアルナに変わるのだろうか…」

***

「…エルンスト、大丈夫か」
 手術用具を片付けながら、サーティスが尋ねた。盥の水が手を染めていた鮮紅色を吸っていくのを見て、少し頭を振る。
「血なんぞ見慣れてると思ったのは、とんだ思い違いだったな。さすがに少し…」
「正常だ。普通はその筈なんだからな。…っと、済まんが血を洗ったらあのお姫様に終わったと知らせてくれ。少々疲れたんでな…暫く寝る」
 愁柳を客用寝台を兼ねている長椅子に横たえると、サーティスはさっさと寝室に引っ込んでしまった。疲れているのはエルンストも同じだったのだが、とりあえずナルフィを安心させてやりたくて、彼女の待っている部屋に続くドアを開けた。
 自分が何と言ったのか、彼自身は記憶していない。だが、彼女が立ち上がってエルンストの側を駆け抜けた速さは、彼に一陣の風と、一抹の苦さを残した。
「………」
 エルンストは息を一つ吐いてから後ろを見ずに表へ出た。この寒空に表で黙然と立っていたラースに手術の終わった旨を告げ、ラースが中へ入るのを見送って、朝日の差し始めた庭の、おそらくは家主の手製であろうベンチに腰を下ろす。

***

  何となく寒気がして、エルンストは目を覚ました。
「家が街外れで良かったな。街の中だったらいい晒しものだ」
 身を起こしかけて気づいたが、いつの間にか毛布が掛けられていた。掛けてくれたらしい家主の姿は、沈みかけた陽のシルエットになっている。
「…昼日中…一日中寝てたのか、俺は」
「まあ、そうらしいな。お前も丸一日食ってないんだろう。…食うか」
 旅行食らしい、パンが固くなったようなものを酒の入った革袋と一緒に放ってよこす。エルンストは遠慮なく受け取って口に放り込んだ。
「…喉が渇いて酒無しでは食えん代物だが、かさばらんし保存が効く」
「相変わらずあれこれと器用な奴だな」
 ゆっくりと陽が落ちる。東の空は、だんだんと青みを濃くしていた。
「…彼の腕だがな」
 庭木の一つに身を凭せ掛け、没し行く陽をその若草の色に映しながら、やや重たげにきりだした。
「おそらく、もうあの剣技は望めない。…あの腕では」
「…そうか…」
「神経が完全に切れていた。血管は癒着すれば済むことだが、神経は接合しても完璧な再生というのは望めん。…残酷なようだが、こればかりは俺にもどうしようもない。
 まあ、あの力で右腕ではなく、左側を斬られていたら・・・お前さんが割って入るのが一瞬でも遅れていたら、今頃は墓穴を掘らねばならなかったところだ。腕一本ならまだ安いと思わねばなるまいよ」
 エルンストは目を伏せた。空の色が急速に冷えてゆき、星が光り始める。
「…だが、別な活路はある」
「治るのか!?」
「別な活路と言っただろうが。…右腕も全く駄目という訳じゃないが、以前のような剣技を発揮することは難しいし、時間がかかりすぎる」
「時間?」
「…あの莫迦親王は、父帝の弑逆を考えているらしい」
「何だって!?」
「そうでなければ、突然皇太子とノーア公女、同時に手を出す説明がつかん」
「それじゃ、今頃…!」
「心配するな、今のところ大した騒ぎは起こっていない。ただ、皇太子とノーア公女が消えたことで、少々騒がしくはあるな。…大将、何くわん顔で心配するふりだ。いっぺん厚さを計ってみたいような面の皮だな」
「……」
「お前さんに殴られたのが余程こたえたようだな。もっとも、そのおかげで自分も被害者のふりができたようだが。…で、どうする。あと一月もすれば動き出すぞ」
「動き出す…?」
「お前の依頼だ。…これでノーア公女は、少なくともあの莫迦に嫁がなくで済む。…それからどうするかは彼らの決めることだがな」
「…サーティス…参考までに聞きたい。一体どんな細工をしたんだ…?」
「調子が戻ったな。…結構結構」
「サーティス!」
「…龍禅の西に…ジャルフって国があっただろう」
「滅びた筈だがな。十年ばかり前、龍禅に攻められて…」
「国は滅んでも、人間は生き残るさ。…ジャルフの親王と、内親王が二人程生き残っていた。親王は今年で二十二…丁度血気盛んな年頃だ。何とも若さってのはいいねェ。挑発に軽々と乗ってくれる」
「…あんた、年幾つだよ」
「もともとあの辺の土地では今でも龍禅に対する反発が根強い。核があれば雪だるま式だ」
「旧ジャルフ領の一斉蜂起か…。いくら龍禅でもこれはつらいな」
「あと一月…一月だ。事が起こるのを見計らってお姫様は龍禅を脱出するんだな」
「…そうだな…」
 気のない返事という訳ではないにしても、今一つエルンストの声には熱がなかった。サーティスが人の悪い笑みをする。
「…無理はするものじゃなかろう? お人好しで極めつけに不器用なエルンスト君」
「なっ…!」
 弾かれたように立ち上がると、ついに吹き出した友人の横顔を睨みつけた。だがふと笑みが消え、その横顔が重たい表情に変わる。
「…お前が〈見た〉のはあの皇太子が斬られる場面だろう。そうでなければ《間に合わなかった》なんて台詞は出て来まい。…いつ、〈見た〉んだ?」
「…春…殿下が初めてあの人にあった日だ」
 エルンストは大きく息を吐き出して再び座り込んだ。
「…その時はあのひとが誰だか知らなかった。だが、あのひとの絡むことで殿下が桂鷲に右腕を奪われることだけは、〈見え〉たんだ。殿下は親王にばかばかしい程気兼ねしてるから…そのままおとなしく斬られかねん。だから言った。彼女に近付かない方がいい…ってな。
 だがな、わかってたさ。殿下があのひとに魅かれていくことも、あのひとが殿下に思いを寄せるようになることも…分かってて、言ったんだ」
 エルンストはベンチの背もたれに背を預け、伸びをするようにぐっと反らせてから軽く眼を閉じた。
「彼女に惚れたのは、その後か」
「…誰がそんな事言ってる?」
 目を開けて、軽く睨む。
「お前の行動を見ていたら、莫迦ばかしい程よく分かる事だ」
「ああ、莫迦ばかしいから早く忘れちまえ。一体、俺がいつ…」
 サーティスはくすくす笑って不毛な話を打ち切った。
「自棄酒ぐらい付き合ってやるぞ。…街へ出ないか。丁度今夜からは収穫祭だ。朝まででも飲ませてくれる」
「誰が自棄酒だ」
「…飲まんのか?」
「誰も飲まんとは言ってない」
「理屈の多い男だ」
 エルンストは立ち上がりかけて、ふと言った。
「あの気苦労の多そうな従者殿も誘うか」
「それが良かろう」
 星明かりだけでなく、街の方角は人々の焚く篝火でうっすらと明るかった。