西方夜話Ⅸ

 数年前のあの夜、エルンストはある国の司令官から龍禅軍総司令官の暗殺を請け負って、龍禅軍の司令部に潜り込んだのだ。
 ────陣屋の警備は、エルンストにとっては余りにも手薄だった。総司令官の陣屋の側まで来ると、エルンストは陣屋の中の気配を探り、一人しかいないことを確認した。
『…仮にも総司令官の陣屋だぞ?何だってこんなに警備が薄いんだ?』
 何か妙だとは思ったものの、そんなことまで考えていても仕方無い。何はともあれ仕事を早いところ済ませてしまうにかぎる…だが、そう思ったエルンストが行動に移りかけた時、ふいに標的は立ち上がった。
『…こっちにくる…!』
 思わす息を飲んだ。向こうは灯火を背にしている。つまりこちらからは相手の姿ははっきりと天幕に映って見えるが、逆にこっちの姿は向こうへは見えないはずだ。…なのに、何故!?
『…ち…!』
 エルンストはここで、一時撤退を図るべきだったのだ。だがよせばいいのに踏みとどまり、普段の彼からすれば余りにも拙劣な剣さばきで幕に映る総司令官の首を狙った…が。
「…動くな」
 まさに、氷のような語調だった。
 しかし、エルンストはすでに静止せざるを得ない状況に追いこまれていた。総司令官の刀の切っ先が、天幕越しにエルンストの喉を正確に捉えていたのだ。うっかり身動きすると、確実に首にぐさりである。おまけに自分の剣は天幕に刺さって動きが取れない。
 向こうが少しでも刀に力をこめれば、幕は容易に切り裂かれ刃がエルンストの喉を貫くだろう。気配だけて、侵入者の喉をこれだけ正確に狙えるなどと…尋常な鋭さではない。
「声を立てるな。死にたくなければな」
 その言葉に、エルンストは激昂した。
『…なめやがって!』
 エルンストはすっと後ろへ倒れ、一回転して起き上がるとすかさず手甲に仕込んでいた刃を放つ。
 鋭い音に、エルンストはそれがはじかれたのを知った。だが次の瞬間天幕が切り裂かれて舞い、視界を遮る。エルンストがようやく視界を回復したとき、エルンストの喉にはもう一度切っ先が、今度は直に当たっていた。
 星明かりに、総司令官の顔が見える。
『えっ…』
 漆黒の髪と深緑の瞳。どちらかというと線の細い、上品な顔立ちをしている。冗談じゃないが、とても『竜神』とまで評される龍禅随一の勇将とは見えなかった。
 むしろ、一振りの研ぎ澄まされた長大な刀…。
「…龍禅軍総司令官・龍禅皇太子愁柳殿か」
「いかにも」
「…参ったよ…あんたほど鋭い御仁は初めて見た。煮るなり焼くなり好きにしろ」
 エルンストは吐息し、刃を仕込んだ手甲を外して投げた。
「…殺しはせぬ。だから帰って桂鷲に言うが良い。私を消したいならば、戦場以外のところにせよ…戦場にいるときの  私は何万という将兵の命を預かっているのだ。山荘に閑居していた頃の私を狙うのならまだ良い。だが今、将として戦場にある私を狙うことは父帝への裏切りであると知れ…とな」
 この愁柳の言葉に、エルンストは驚いた。
「ちょっと…待ってくれ、俺が受けたのは、桂鷲とやらの依頼じゃないぜ」
「…何?」
「…こうなりゃ全部ぶちまけるさ…俺にあんたの暗殺を命じたのは、あんたが今対戦してる国の宰相だよ。…あんたが生きているかぎり、勝ち目がないとみたらしいな」
 この言葉を聞いて、愁柳はひどく疲労したように見えた。数年来の疲れが一気に顔に表れたような、急激な変化だった。
 全てがどうでも良くなってしまったかのように、すっとエルンストの喉元から切っ先をはずすと、天幕の中の椅子に戻ってそこに身を沈めた。
「…おい…?」
 すっかり立場がなくなってしまったエルンストは、暫くの茫然の後、ようやくのことで声をかけた。
「…俺の覚え違いじゃなけりゃ…桂鷲ってのは、あんたの国の『親王』…あんたの弟だったと思ったが…」
「覚え違いでもなんでもない…事実だ」
 椅子に身を預け、目を閉じたまま天を仰いでいた愁柳は、そう言った。
「…その弟も…あんたの命を狙ってるってか?」
「……」
「その所為か…親王なんぞが親玉なら、護衛兵の中に刺客を混ぜておくぐらいやりかねない…だからわざわざ護衛の数を減らして…!」
 愁柳は、答えなかった。ただ、深く吐息してけりをつけるように短く言った。
「…行け。殊更にお前自身の罪は問わぬ」
 明らかに、これ以上はもう関わりのないこと、という口調だった。
「……」
 エルンストは、暫時その場に佇んでいた。佇んで、暫く何か考えていたが、ふと口を開いた。
「俺はな、皇太子殿下」
 拾った剣を鞘におさめ、手甲をはめ直すとその場に座り込んで言葉を続ける。
「…俺は、皇族だとか王族だとかにかかわらず、いろんな人間から金を受けとって言われた仕事をこなして自分を養ってきた」
「…主に、暗殺か」
「まあな…今まで一度も失敗したことはなかった。今までは…な。ここまで見事にしてやられたのは初めてだ」
「…それで」
「でも、俺にはあんたの立場ではできないことができる」
「……!」
 愁柳はやおら身を起こし、冷然と言った。
「私は、桂鷲を刺客を放ってまで殺そうとは思わぬ」
 エルンストほどの者が、背を滑降する氷塊を感じたほどの気迫だった。
「…そーかい」
 ようやくそれだけ言って、エルンストは立ち上がった。
「邪魔したな。御厚意にあまえて俺は逃げさせてもらうぜ…だがな、覚えとくといい…あんた甘いよ。俺の経験からいわせてもらうと、皇族だの王族だのの血を引いた者が、大甘な奴だったとき…そいつらの十人に九人は、早死にするんだよ!」
「…覚えておこう…」
 少しも動じず、愁柳はそう言った。エルンストはかっとなって勢いよく身を翻すと、足速にそこを立ち去ったのだった。
 ───そしてその翌日、戦のどさくさを狙うつもりで龍禅軍の中に入りこんで隙を窺っている内に、本物の桂鷲の刺客をどういうはずみかエルンストが討ってしまう。結局それが縁で、彼は愁柳の食客という身分におさまってしまった。
 いまだに何でそうなったのかよく分からないが、今更どうでもよいことでもあった。
「…助かったな。話が簡単に済む」
「何が?」
 不意に意識を現実に引き戻され、エルンストはやや間の抜けた問いを発した。
 皇宮、昇龍殿。皇宮はいわば愁柳の家であるから、この迷路のような造りにも、宵闇にも迷う心配はなかった。衛士たちの配置もよく心得ているから、忍びこむのにさして苦労はない。
「ちょっと待ってくれよ、ここは…」
 愁柳が立ち止まっているのは、衛士隊の隊長の間に面した庭である。格子の窓を通して、中の様子が僅かながら窺えた。髪はもう見事に白くなっているが、かくしゃくたる初老の武人が机に向かっている。
 エルンストが口を挟む暇もなく、愁柳は行動をおこした。
「行きます」
 そう言うが早いか、やおら歩き出し、窓へ歩み寄ると格子を軽く叩いたのである。
『おい待てよ、こらっっ!』
 だがその武人は気がつくやいなやその場に平伏した。
「…で…殿下!! 御無事でごさいましたか!」
「顔を上げてくれませんか、頼西ライサイ先生。それと、余り大きな声は…」
「まだこの爺を師と呼んで下さるか。勿体のう存じます…一体全体いかがなされました、帝はたいそう心配なされて…」
「そのことで…父上に大事なお話があって、今夜ここまで参上したのです。何分複雑な事情があって、堂々と昼間に参上することができなかったので…。父上に会わせてはいただけませんか…?」
 その武人は言うまでもない、というふうに何度も頷いた。
「どうぞ、そのようなところにおいでにならずにお入りください。今すぐ、ご案内いたしましょう」
「できるだけ、人目につかぬように願います」
「御案じなさいますな。爺にお任せください」
 武人はその言葉を裏切らなかった。さして待たされることなく、愁柳たちは今上帝の居室の前まで通される。
「夜分遅く、非礼の段お許し下さい」
 愁柳が皆まで言い切らないうちに、老人の声が返ってきた。
「愁柳?…愁柳か!? はよう入れ、何をしておる?」
 僅かに愁柳の眉が曇った。扉の向こうの父帝の声に、著しい衰弱の影を感じ取ったのである。

***

 明け方、龍禅国境地帯・韓嵐山脈の間道。
「…ここまでくれば、龍禅の手は届かない。ですが、用心には用心を重ね、道中事故のないように。戦の騒ぎで少々治安が悪くなっていますからな」
 サーティスはそう言って、戦の波が押し寄せるであろう北の方角を遠く見遣った。
「何から何まで、お世話になりっぱなしですね」
「なに、行きがけの駄賃というやつですから、お気になさらぬように」
 ナルフィはこのときのサーティス言葉の意味をはかりかねた。だから、次に彼女が口にしたのは、まったく別のことだった。
「…サーティス殿…私は、あなたに出会ったのはこれが初めてではないような気がします。…どこかで、以前お会いしませんでしたかしら?」
「…気のせいでしょう…」
 サーティスがそう言うと、ナルフィはそれ以上追及せず、一礼した。
 間道の奥へ消える二つの騎影を見送りながら、サーティスは吐息混じりに呟いた。
「…さても…鋭い御仁だ。まさか憶えられているとは思わなかったな。全く、あの姫君は、一度会ったことのある全ての人間の顔を憶えているんじゃないだろうな」
 はるか南方に視線を転じる。その彼方にある何かを見定めようとするかのように、彼は目を細めた。
 サーティスは風が吹いていることを感じ取っていた。
 遠くで吹く風だった。そして、それはまだ塵一つ舞い上げることのない微風に過ぎぬ。だがそれは、一つの変革をもたらす風だと感じていた。
 ───最終幕があがる前に、国都へ帰り着かねばならない。
 サーティスは騎首を返した。
 この龍禅でもまた、一陣の風が吹く。
 愁柳は桂鷲を殺せない。…少なくとも、現時点で殺す気はないだろう。かの雪女神シアルナの為には何事も厭わぬであろう彼も、弟を殺せるほど冷酷にはなれまい。サーティスはそう判断をつけていた。
 同じように血を流す才に長けながら、血を流すことを忌む。サーティスにしてみればいっそ羨ましいほど真っ当であった。
『俺が歪んでいるだけの話か…』
 しかし、桂鷲がそれをすんなりと受け容れるとはとうてい思えないのだ。
「さて、どうなることやら…」
 東の空は、もうすっかり明るくなって太陽を迎えるだけの明るさを湛えていた。

***

「…何と…申した…?」
 老いた帝が、声を震わせた。
「私…愁柳シュウリュウは、皇太子の任には堪えませぬ。…よって、皇太子の位は桂鷲に譲ることをお許し願いたいのです」
「…何故じゃ…訳は…」
「…今日この刻より、愁柳は死んだものとお思い下さい。私はもはや、龍禅の皇族ではございません」
 静かな、だが確固とした口調だった。人の良い今上が落涙し肩を落とす。
「理由も聴かせてはくれぬのか…?」
「不孝の至り、申し訳ありません。ただ、大切なものを見つけました。護っていきたいと思います。ただ、そうするためには…私は竜禅の皇族たることを棄てねばなりません」
 言葉は、淡々としていた。だが、それが抱えるものは重い。
 ずっと後方、扉に背を凭せ掛けたエルンストは、皇帝を観察しつつ内心吐息していた。
『…この爺さん、このままにしといたら気落ちで落命しかねんな…』
 おそらくは愁柳も薄々気づいていることであろうが、エルンストは今上の余命があと幾ばくもないことを直感していた。
 …ならば、いたずらに兄弟間の争いを知らせることもないであろう。桂鷲の正体を、この老人は知らないのだ。
 この分では、おそらく先の頼西とかいう衛兵隊長は兄弟の確執を全て分かっていて、あえて今上に何も知らせていないのだ。
『ある意味で、お幸せというか…』
 結局、今上は文字通り泣く泣く愁柳の申し出を受け入れた。
「思えば、血であるかも知れぬ…」
「父上…?」
「…その昔、遠い国からたった独り、この龍禅へたどり着いた剣客がいた。
曰く『風の導きによりて、風の如く至り、風の如くにまた去りなん』・・・いつまで居られるかはわからないが、居られる間はこの国を護ろうと・・・後に諸侯として雪鹿邦の王に封ぜられておる…」
 愁柳の表情が、僅かに揺れる。雪鹿邦。後継者が絶えて今は領主が変わっているが、かつて愁柳の母の一族が統治していた。
 愁柳は、黙礼した。
「父上…お身体は、大事になさって下さい…」
 直接的な別れの言葉は口に出さないまま、愁柳は扉に足を向けた。
 エルンストがそれに応じて凭れ掛かっていた壁から背を離し、愁柳に続く。一応、この国の今上帝に黙礼をして。
 扉が閉ざされる。今上帝は、力なく椅子に寄りかかり、深い吐息をついて再び落涙した。

***

 翌朝、皇太子愁柳の病没が公にされ…親王桂鷲立太子の布告が出される。
 だが、本人は必ずしも心中快々としていたわけではないらしい。むしろ何か鬱積したものの水位が急上昇したようですらあったのだ。しかしそれを表面には出すことなく、謹んでそれを受けた翌々日、桂鷲率いる龍禅軍は国都を出発した。
 サーティスの家。龍禅北東部を中心とし、旧ジャルフ、ノーア西部、シルメナ北部などを含む広範囲な地図を広げた卓の上で、愁柳が言った。
「これで一応父上の命は保証される筈。…ですが、万が一ということもあります」
「万が一、と言うより、万に九千九百九十九ぐらいはそうなり得る、と見ているのだろう?…実のところは」
 サーティスは冷静にそう指摘した。その通りであった。「万が一」とは、愁柳にとって「万に一にも起こって欲しくない」事柄と言ったほうが、より正確であったのだ。桂鷲が皇太子の位を貰ったからといって、今更おとなしくなるとは思えなかった。
 愁柳自身、それをよく分かっていたのだ。
 愁柳はそれには何も言わなかった。ただ、軽く頭を振って少し俯きがちに言葉をついだ。
「桂鷲が変な気を起こさずにいるならそれで良し、万が一そうでない場合は…私も父の子として、桂鷲の兄として、然るべき手段に出ます」
 硬い声であった。エルンストはさすがに一瞬息を飲んで愁柳を凝視したが、サーティスの眼差しははまるで成り行きをただ傍観するように、どこか真剣味を欠いている。
 この五日後、桂鷲軍はジャルフ王党派軍と衝突。だがその戦闘というのも形ばかり、その日のうちに停戦、桂鷲軍は反転して国都へ向かって進軍を始めた。
 これをサーティスの情報網からいち早くつかんだ愁柳は、顔面蒼白となった。他でもない、激しい怒りのためである。簡素な卓の上で、愁柳の左の拳は白くなる程に握りしめられた。もともと感情を表に出すことの少ない彼であっ  たが、それだけに水面下の激しさは想像するだに恐ろしいものがある。
 だが、サーティスは、さすがに冷静だった。使い鳥の運んできた紙片に視線を落としたまま、ただじっと考えこんでいる。
 その時、慌ただしい足音がそれぞれの思考を中断させた。皇宮の方を探っていたエルンストが息を切らせて走りこんで来たのだ。
「…何があった?」
 サーティスがそう尋ねても、エルンストはしばらく何も喋れなかった。それほどに息が荒れていたのだ。
「…えらいこった…」
 家主が何も言わずに椀に水を汲んで置く。エルンストはほとんど一息にそれを飲み干した。

 ─────報告を聞いた愁柳は、深く吐息して椅子に身を沈ませた。

***

 桂鷲軍は国都の目前に迫っていた。
 明日は、この国をこの手で手に入れる…そんな気の昂りのせいか、桂鷲は陣屋のなかで寝つかれずにうとうとしていた。
「殿下、殿下、起きておられましょうか?」
「何事だ、このような夜更けに」
 桂鷲は身を起こしてそう返事をし、手早く服装を調えた。
「殿下、実は妙なことを申す者が軍中に紛れこんでおりまして…言っている事が事ですので、どう扱ったものか…」
側近は困惑の色を湛えて恐縮している。
「何が紛れこんでおったと申すのだ。要領を得んな」
「はあ…それが…女でございまして」
「それがどうした、何があったというのだ?」
 一向に進まない話に桂鷲が焦れ始めたのを見て、その側近は慌てて言葉を継いだ。
「それが…先頃行方知れずになったままの、ノーア公女の使いだと申しておりまして…」
 桂鷲の顔色が変わった。
「…殿下、いかがいたしましょう…」
「何故それを早く言わんかっ、早くここへ連れてこいっ!」
 山猫に狙われた鶏もかくやという勢いで、側近が退がる。その女が連れてこられるまでに、いくらもかからなかった。
 金というよりは銀に近い髪の、二十歳ばかりの女である。
「ノーア公女の使いと申したとな?」
「はい。…この短剣を、おあらため下さい」
 そう言ってその女が差し出した短剣には、確かにノーアの紋章が刻まれていた。
「…ついては、お人払いをお願いいたします」
 この言葉に側近達はざわめいたが、桂鷲は頷いて側近に退がるよう命じた。
「何を案ずることがあるか。女ひとり、何もできはせん」
 それ以上何か言えば雷は頭上に落ちると心得ていたから、側近達は何も言わずに退出した。
「…それで。ノーア公女が今更私に何の用だ。やはり龍禅の皇妃の位が欲しくなったか。それとも愁柳の命乞いか?」
 女は表情を動かさなかった。
「公女様には、桂鷲殿下にぜひお一人でおいで頂きたいと。…この陣の近くでお待ちです」
「…ほう?」
 桂鷲はさも面白げにその使者をじろじろと眺めまわした。
「…おいで頂けますでしょうか」
「良かろう」
 桂鷲は立ち上がった。女の表情に、安堵の色が広がる。
「ご案内いたします」
 桂鷲はその使者に伴われて陣を出た。外はだだっ広いだけが取り柄の、荒れ野である。時々思い出したように樹が生え、林らしきものがなくはないが、後は背の低い叢が半分以上を覆っていた。先刻から、時期的には少し早い雪が降っている。
「こちらへ、桂鷲殿下」
 女は桂鷲をすっかり葉を落とした林の中へ導いた。
「ノーア公女はどこだ」
「どうぞ、何もお聞きならずに…」
「…愁柳は生きているのか。どうせ一緒なのだろう。それとも一緒なのは、奴の骸か?」
 痺れをきらした桂鷲が、女の腕を乱暴に掴み上げた。
「………!」
 その時、木立の陰から細身の短剣が飛び、桂鷲の二の腕をかすめて背後の樹に突き刺さった。その隙に女は腕を振り払って樹々の間に消える。
「ち…」
 桂鷲はその短剣を引き抜いて、忌ま忌ましげに薄く積もった雪の中へ叩きつけた。
「誰だ…!」
 そうわめいた直後、桂鷲の声が凍りつく。
 木立ちのなかで、桂鷲は見事な漆黒の糸が揺れるのを見た。
「…愁柳…!」
 木立の間から姿を現したその人物の名を口にする。その声は唸りに近かった。
「…父上は次の帝の位をお約束なさったではないか。殊更に何故、弑逆者の汚名を被る?」
 それは静かだが、冷え切った声だった。この異母兄でもこのような声が出せたのか、と桂鷲がわずかに驚いたほどに。だが、その狼狽の後にはふつふつと怒りがこみ上げた。
「…いずれ、お前の差し金であろうが。皇位を…皇位を譲られて何が嬉しいものか!」
「桂鷲!」
「俺の気持ちなど、お前には分かるまい。同じように今上帝の正嫡として生まれながら、わずかに生まれが遅かったばかりにいずれ臣下に下される身の無念など!…それを…皇位など要らぬだと…? 俺を愚弄するのも程々にしろ!!」
 愁柳は左腕で剣を抜いた。桂鷲が斬り掛かってきたからである。
 説得は無駄だと、愁柳は悟った。
「…ふん…よくも生きていたものだ!」
 剣を振いつつ、桂鷲が毒づいた。
「おかげで私は右腕を失った」
「今ここでその左腕も叩き斬ってやる!」
 愁柳の声は、低く凍てついていた。
「…やれるものならやってみるがいい」

***

 桂鷲の腕を逃れて木立に駆け込んだ彼女は、不意に伸びてきた腕に抱きすくめられた。
澪蘭レイラン、怪我は?」
「サティ!」
 澪蘭と呼ばれたその娘は深く息をついてその腕に縋った。
「済まなかったな、こういう予定じゃなかったんだが」
「あら、一応心配してくれたのー?」
 さっきまでの顔色はどこへやら、澪蘭は悪戯っぽい笑みを浮かべてサーティスの若草色の瞳を覗き込んだ。
「おい、澪蘭…」
「嘘よ。さっきの短剣、サティでしょ。知ってるわよ」
 笑うと、少女の顔になる。サーティスは苦笑して澪蘭の銀の髪を撫でた。
「怪我がなくてよかった。…今更という気もするが、悪かったな、こんな妙なことを頼んで」
「いやね、ひっぱり出す役を買って出たのは私なのよ?それに、サティの頼みなら何だって聞くわよ。サティが悪いようにするなんて事、なかったもの」
「光栄だな、そこまで信用してもらえると」
「…あ、でも一度だけあった」
「…?」
「あたしから離れていったこと」
 旗色が悪くなったサーティスは、右手首にしていた硝子の腕輪をはずして握らせると些か白々しく話題を変えた。
「そういう事で、約束通り」
 澪蘭は再びあの小悪魔的な笑みをして、腕輪をサーティスの手首に戻すとその首に腕を回した。
「いいわよ。もうあれだけお金銭かね貰ってるんだもの。…あ、でもどうしてもって言うんだったら、一晩つきあって」
「君さえ良ければな…と言いたいところだが、少々今さわがしくてな。またの楽しみということにしておこう」
「あら、残念」
 その答えを予期していたかのように、澪蘭の口調はあっさりしていた。
「まったくだ」
 サーティスは微笑って、かつての愛人の肩を抱いて歩き始めた。
「多分、今日明日に都へ戦火が回ることはあるまいが、きな臭くなったら早めに店をたたんでシルメナへ行くといい。ツァーリの支配下にあるとはいえ、ツァーリより治安は良いし商業保護の手も厚い」
「…そうね…」
 澪蘭の答えは、些かおざなりだった。
 眠る市街まで戻ってきたとき、ふいに澪蘭はすっとサーティスから離れた。
「ここまででいいわ。サティもうっかり近づいて、うちの宿六に見つかりたかないでしょ?」
 見つかったら見つかったで、怪我をするのは澪蘭の亭主であるのは明白だったが。
「…そうだな」
 澪蘭は、明日も会えることを確信しているかのような、そんな気軽さで手を振った。
「…再見…」
 サーティスとは、彼が龍禅に現れたほんの最初の頃、約半年ばかりの仲であったに過ぎない。だが実はこれでも(サーティスにしては)長続きしたほうだ。彼女自身が気づいているかどうかはともかく、サーティスの逢った女性達の中で一番彼をよく理解っていたのは彼女だった。
 澪蘭はサーティスが不敵ではあるが向こう見ずではないことを知っていた。皇太子を罠にはめるような手段に訴えるということは、もうこの国に用がなくなってしまったことを意味する。
「…元気でね、サティ…」
 家へ帰り、扉を閉めて戸締まりを済ませると、気が抜けたように手近な椅子に座り込んだ。
 おそらくもう逢うことはないだろう。そんな気がしていた。

***

「今ここでその左腕も叩き斬ってやる!」
「…やれるものならやってみるがいい」
 静かに、だが確実に愁柳の言葉は桂鷲を威圧した。もともと、実戦経験からいくと桂鷲は愁柳に遠く及ばない。自ら剣を取って、真剣に渡り合ったこともない。その差は歴然としていた。
 確かに、愁柳の剣技は右腕を奪われたことによって大きな痛手を被っている。それは否めない。だが、それでもなお両者の技術の間には大きな隔たりがあった。
 他愛も無く、鋭い音と共に桂鷲の剣が叩き落とされる。拾う寸前に、剣は何かにはじかれて遠く飛びすさった。
「な…!」
 カチリという音で、桂鷲は初めて愁柳の右手につけられた手甲の存在に気がついた。桂鷲がうろたえた隙に愁柳は間隔を詰める。
 桂鷲は右腕を凄まじい力で掴まれてゾクリとした。…桂鷲は『竜神』と呼ばれた時代の愁柳を知らない。綺翔殿で隠棲同様の日々を送り、薬湯の調合ばかりしていた怒ることを知らぬ穏やかな皇太子しか知らないのだ。こんな、腕がへし折れるような…!
『殺される』
 本気でそう思った直後、腕を背側に捩り上げられる。思わず呻いた瞬間、右肩を中心として全身に痛みが走り、鈍い音がした。
 何が起こったか把握した桂鷲の喉が、奇妙な音を立てる。数瞬を置いて、けたたましい悲鳴が上がった。
 奇妙にねじ曲がった右腕を抱えてのたうちまわる桂鷲を冷然と見下し、愁柳は刀をおさめた。
「桂鷲…父上は今朝、息を引き取られた」
 呻きすら飲み込んで、桂鷲は一瞬身を固くした。
「今ここでお前を殺せば、亡き父帝が悲しまれよう。だから…殺しはせぬ。だが、この腕の借りだけは返させてもらった。
…せいぜい善政を敷くよう努められい、龍禅の新帝陛下!」
 悔しさと、痛みとで桂鷲が獣じみた唸りを上げる。それを黙殺して、愁柳は踵を返した。…と、そこに第三の人物が姿を現す。
「いい格好だな、新帝陛下。心配すんな、もう少しすれば助けがくるよ。忠義な家来に助けてもらいな」
エルンストである。
「貴様…!」
 桂鷲は目を見開いた。エルンストが言葉をつぐ。
「じゃあな、幸運を祈っててやるよ」
 そしてひどく意地の悪い笑いをすると、数歩先を行っていた愁柳を追う。
 その場から二人の気配が消えると、桂鷲は気力を総動員して立ち上がって林から逃げ出した。冗談ではない。自分の部下たちにこんな姿は見せられぬ。何としても、人に知られぬうちに陣屋に戻らねば…!
 不意に、桂鷲は国都の北のはずれにいるという医者の話を思い出した。どこの馬の骨とも知れぬという。治療をさせておいて、口を封ずることも不可能ではあるまい。桂鷲はそう計算して足を早めた。
 …その直後、視界が逆転し、上下感覚が狂った。

***

 痛みは、二箇所に増えていた。右腕と、左の大腿部と。
 桂鷲は、ぼんやりと仰向けになっている自分の前に人が立っているのを知覚した。
「…大丈夫ですかな?王都の北面は少々地形がややこしいですからな、お気を付けにならないと」
 その人物は、穏やかに、丁寧に、だがまるで荷馬車に轢かれた蛙にでも話しかけるように言った。
 助け起こすこともせず、物珍しいものでも見るように。怒鳴りつけてやりたいところだったが、桂鷲は必死に身を起こして言った。
「足を折ったらしく、身動き取れん。この辺りに腕のいい医者がいるという話を聞いている。そこまで連れて行ってくれ。礼ははずむぞ」
「ここらで医者といえば私ぐらいしかおりません…お褒めいただいて恐縮ですな」
その声が笑いを含んでいることに、今の桂鷲は気づけない。
「助けてくれ。金に糸目はつけぬ」
「むろん、人の命を助けるのが医者の務めですので…」
「早く何とかしろ、早く行かねばならないところがあるのだ」
「人の命を助けるのが医者の務め。なれど、人外のものとあっては責任を負いかねますな、桂鷲殿下・・・・
 桂鷲は目をむいた。
「何者……!?」
「何者でもよろしい。関係のないことだ。殿下、あなたは先刻、助けてくれとおっしゃった。だが、同じように助けを請われて顔色一つ変えずにその者を斬り殺すのが果たして人間でしょうかね」
「何の…事だ…」
 何か息苦しくなってきた。
「成程、やはりあなたには大した事ではなかったと見える。もう随分前の話ではありますが」
「何のことだ、人違いではないのか、苦しいのだ、早くなんとかしてくれ!」
「………」
 その人物は、先刻の愁柳以上に冷然として、若草色の瞳で桂鷲を見下ろしていた。
「早く…息が苦しい!」
「苦しいんなら黙ってなさい。遅かれ早かれ…もう助かりはしないんだから」
 無慈悲な宣告に、桂鷲は再びかっと目を見開いた。
「何故だ…何故…」
「骨が折れたぐらいで人間死ぬことはないと思うか?
 違うね。太い骨が折れると、髄腔の内容物が血管内に入ることがある。例えば脂肪塊とか。心臓へ戻って肺へ送られる段階で、肺動脈にひっかかるのさ。そうすると血液は酸素を得ることが出来ず、結果、窒息する。もしくは頚部から脳にかけての動脈で塞栓を起こす。
 なんとも運の悪いことだったな。おとなしく助けを待っていればこんなことにはならなかっただろうに…腕の骨にひびが入ったくらいではそうはならん。愁柳の慈悲も無駄になったか」
「何を…言っている…?…苦しい…!」
 彼の言葉はたとえ桂鷲のように意識が朦朧としていなくても理解できなかっただろう。この時代、大陸中を探してもこの言葉の意味を理解できる医者は、生者のなかでは一人としておるまい。
「俺は知らん…」
「龍禅国の公子殿には、市井の娘など雑草に過ぎぬのでしょうな。踏みにじったところで、なんら痛痒は感じぬご様子…」
 桂鷲は僅かに肩をビクリとさせた。だが、何かを言葉にする前に、その四肢が弛緩する。彼の言葉に何か思い当たる節を見出してのことであったのか、こうなってはもう判らぬ。
「……」
 桂鷲が動かなくなったのを見て、彼はその頚部で脈のないこと確認した。立ち上がって明るんできた東の空を見遣り、金褐色の髪をかきあげる。
「さて…愁柳が何というやら」
 サーティスは至って無感動にその死体を眺めやった。
 彼は殊更に、たった一度逢っただけの娘に執着していた訳ではない。
 むしろ、その娘を通して古い面影を追っていたに過ぎないと今の彼は断言できた。その証拠に、もはやその名もうろ覚えでしかない。ただ…その娘が親に売られ、桂鷲の玩具にされた挙句殺されたという事実を知ってしまってから、何か大事なものを奪われ、汚されたような気がしてならなかった。
 意味のない殺生をしたという意識は、サーティスにはない。桂鷲は妙な矜持プライドから、確実に助かる道を拒んだ。そして自らに致命傷を与えてしまったに過ぎぬ。しかし、サーティスの表情はどこか翳りをおびていた。
『…欺瞞に過ぎん』
 誰の、誰に対するものなのか。サーティス自身かくとはいえなかったかも知れない。
 サーティスは、歩き出した。国境地帯に続く街道沿いにある宿場町で、二人と落ち合うことになっていたのだ。
 この頃、皇宮ではようやく先々帝の孫に当たる人物を担ぎあげ、桂鷲軍に対しての備えを開始していた。