西方夜話Ⅹ

「エルンストは、もうツァーリに慣れた頃でしょうか」
 はるか東を眺めやりながら、愁柳が呟くように言った。
「あれも畢竟、順応性の塊だから…今頃結構いい役に就いてるかも知れないな。悪い女に引っ掛かって身を持ち崩しているという可能性もなくはないが…」
 エリウスの上月。大陸の北方街道はいまだ雪が消えず、通る者も彼ら二人より他にない。
『…何だ、真っ直ぐノーアに行くんじゃないのか?』
 無事に宿で合流を果たした夜の、宿の酒場。杯を乾して、エルンストが意外そうに言った。
『今の私は、少々非力に過ぎます』
『非力ったって…』
 エルンストは口ごもった。既に、愁柳の左の剣と五分五分のエルンストとしては、文句の一つも言いたくなったのだ。
『しばらく、私を鍛えておく必要があると思うので…。きっと、分かってくれることと思います』
 殊更に誰のことかは挙げなくても、エルンストやサーティスにも分かった。
『反対はしない…だがな』
 サーティスは口許の笑みを消して言った。
『医者として、言わせてもらう。あなたは、少なくとも一月、何処か静かなところで休む必要がある。腕の傷はまだ 完全に癒着した訳ではないし、神経も十分に再生していない。再生する間に訓練が必要なのは、前々から言った通りだ。とりあえずけりはついた。一月や二月ぐらいの余裕はあると思うが?』
『しかし、静かなところといっても…』
『当てはある。どうせ私もそこに行くつもりだったんだ、ついでということで、私に任せてくれないか』
『当て?…』
 エルンストが首を傾げた。
『シルメナに知り人がいる。少々曲者だが、話せばものの分かった人間だ』
『へぇ…シルメナね。じゃ、この三つ先の宿場でお別れってことになるな』
『何だ、お前は来ないのか?』
 サーティスが意外だな、というように聞き返した。
『シルメナの東…ツァーリって国に、傭兵部隊があるらしい。まずそこへ行って、そこがダメだったらまた何処か他所に飯の種を求めるさ』
『ツァーリ…?』
 サーティスは一瞬、心底嫌そうな顔をしたが、一瞬だけだったため、気づいたのは愁柳だけだった。
『…そうか…ま、がんばれよ』
 そう言って、酒杯をかかげた。それがサーティスの送辞だった。
 ────月日の経つのは早いもので、あの宿屋で飲んでからもう三ヶ月以上になる。
 エルンストと別れた後、サーティスはどういうつてがあったものか韓嵐山脈をはるか北方に望む、シルメナのセファルタ郷に立派な冬別荘を借り受け、春までに愁柳の右手が何とか把持ができる、というレベルにまで持ちこんでいた。
『…ただ、弓を引くのはもう無理だな。ここまできてこれだけしか力が戻らないとなると…』
『また動くようになったこと自体、奇跡ですよ、私にとってはね。…感謝しています』
 だがこの頃には既に、愁柳は手甲と左の剣を以前の右の剣以上に使いこなすようになっていた。
春を待って、サーティスと愁柳はセファルタ郷を出た。愁柳はもともとノーアに行く前にもう少し旅をするつもりでいたが、サーティスが北回りで東へ行く、というのでそれに途中まで付き合うことにしたのである。
 見渡すかぎり、一面の雪。街道だけがその中に、一本の黒い線となって地平の彼方へ続いていた。
 愁柳は、不意に口火を切った。
「…そろそろ、私にも教えてくれていい頃だと思いますが…?」
「愁柳…?」
「何を、待っていたんです?」
 サーティスは馬をとめ、まじまじと愁柳を見て深く息を吐くと金褐色の髪をかきあげた。
「…鋭い御仁と居るというのも、なかなか疲れるものだな」
「無理にとは言いません。ですが、あなたにしては何か焦りを感じておられるようだ。セファルタ郷に居たときも、セファルタ郷を発った今も」
「…焦り…そう見えるのかな。まあ、そう見えたとしても仕方無いのかもしれない。実のところ、少々苛ついている」
 はるか東を望み、些か自嘲気味な笑みを浮かべて言った。
「愁柳には偉そうなことを言っておいて…自分も迷っているからさ。…全く、お笑いぐさだ」
「サーティス…」
「風が吹いている。…はるか南、海神の国から…。嵐が近づいているんだ。だのに、私は私の成すべきことを知らない」
「…誰も、いつも自分の成すべきことを知っている訳ではありませんよ」
「…ありがとう」
 サーティスは苦笑とも取れる微笑をした。
「実のところ、あの館の主の帰りを待っていたのさ。彼と話ができれば、もう少し、路も見えるだろうと思ってね」
「館の主というと…」
「ルーセ…シルメナのレーダ大公、ルアセック・アリエル」
 愁柳は一瞬だけ顔をこわばらせた。そして、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「…先のシルメナ王の妹姫が、例によってツァーリへ嫁したあと・・・男児を産んだと聞いています。13歳で颯竜公の位を受け、十年ばかり前に王都から失踪した由。私は現王カスファーに暗殺されたと聞いていましたが…」
サーティスは笑った。だがその笑いは、ひどく禍々しい響きを持っていた。
「詳しいねえ。そこまで近隣王国事情に詳しくて、何故かの雪姫に出会ったときに分からなかったんだ?」
「…サーティス…!」
 いつも涼しげな顔をしている愁柳を大いに慌てさせておいて、サーティスは初めて屈託のない笑いをした。
「…莫迦話はさておくとして、実際のところルーセがあれだけ長いこと国都を留守にしているとなると、やはり大当たりだったのかも知れない」
「…?」
「いや、これはこの際あなたには関係のないことだな。…さしあたり、あなたが気に掛けねばならないのは北方のサマンだろう…時に愁柳、あれは何だと思う?」
「…何ですか?」
 サーティスが指差す遥か彼方の雪稜。一つの騎影があった。遠目にも明らかな、銀のヴェール。
「……!」
「そういえばもう、ここらはノーアの領域だな」
 わざとらしくそう言った。だが、これはこの際聞こえてはいない。
「サーティス…!…」
 視線はその騎影に留めたまま、彼にしては少し厳しい語気で何かを言いかける。だが、サーティスが機先を制した。
「あまりひとを待たせるものではない。…とりあえず、安否ぐらいは知らせておくものだぞ」
 さあて、というように騎首を返す。
「私は行く先がこちらなのでね。…また、会うときがあれば、その時に叱言は聞くということにしておこう」
「まさかあなたはセファルタ郷を出る前に…」
「くどいようだが、あまりひとを待たせるものではないよ。…これだけは言っておく。あなたがたに、もう離れる必要はあるまい」
 サーティスの口調には、冗談口以上の何かがあった。
「…元気で」
 愁柳は暫時の沈黙の後、口を開いた。
「…あなたの上に、風神の御加護のあらん事を…」
 その言葉に、サーティスは苦笑した。風神。旅人の守護神。いずれ、漂泊に漂泊を重ねるのが彼の運命と、愁柳は見抜いたのだろうか…?

 ―――――――大陸暦八九七年、ツァーリの南国領シェノレスにおいて、大神官リュドヴィックは『海神の御子』レオンを奉じて決起する。世にイェルタ戦争といわれるシェノレスの国土回復戦争の勃発であった。

西方夜話 了