西方妖夢譚Ⅲ

 狼が地を蹴る。サーティスは寸前で抜き、狼の右の前足から左肩へまっすぐに斬り上げた。刹那の間隙。直後、白い毛皮が朱に染まる。
「…お前か、シルヴィア…!」
 先刻、雪の上に打ち倒されたとき、脳裏に閃いた映像。吹雪の雪稜に、佇立する女。髪も、服も、肌も、全て雪の色。そして、哀しげな表情…。
 サーティスの声は、絶叫に近かった。
「…どうしても…お前だというのか、シルヴィア!」
 その見事な白い毛皮を血に染めて、その狼は立っていた。
『サーティス…私を殺してくれる…?』
 ────あの女は、優美に笑んでそう言った。
『…女は殺せない? …でも、貴方を殺そうとする者なら、それが男であれ女であれ、貴方は殺せる筈だわ。そんな眼をしているもの…』
 ────サーティスの瞳をその視線で捉え、すっ…とその白い手を伸ばして彼の首筋に触れた。
『私が…貴方の喉を咬み裂こうとしたら、いくら貴方でも私を殺してくれるわね…?』
 牙を剥き、雪を紅く染めて白い狼が襲いかかる。
「何故だ!」
迫りくる牙を、サーティスは剣の平で退けた。飛びすさる狼。だが、間髪入れずに再び襲いかかってくる。今度は肩などではなく、喉を狙って…。
「シルヴィア!」
 息が切れ、脚が身体を支え損ねて雪の中へ片膝を埋める。絶食の余波がこんなところにまで及ぶとは!
 サーティスは雪上の二点を狙い隠し持っていた鉛玉を投げた。雪の中から地上二尺ばかりの高さに張られた鋼の紐が跳ね上がる。狼はそれに引っかかったがものともせず、逆に支柱ごと引き抜いた。鋼線と支柱をを引きずったまま、サーティスの剣すらはじいて襲いかかる。
「……っ!」
 打ち倒され、とっさに狼の首に絡んだままの鋼の紐で絞め上げた。狼はもがいたが、サーティスの手にも緋色の線が走った。
 毛皮に守られた狼の首と、文字通り素手を同じ力で絞めたら無論先に切れるのはサーティスの手のほうである。だが、サーティスはぎりぎりまで粘って手を放し、疾うに中身は使い果たした短槍の筒で狼を退けた。
 跳ね起き、掌から滴る血を舐めて肩で息をしつつも、残された山刀やまがたな一振で態勢を立て直した狼を牽制する。
「…何故だ、シルヴィア。答えろ。それとも中身まで獣になり下がったか!?」
『…大体、人間にしろ狼にしろ、それぞれ別系統の進化を遂げて現在の形態になったんだ。一個体にそれが同居するなど、人為的に遺伝子を操作しなければ起こりえないことだ』
 それは、つい先刻のサーティス自身の言葉。考えたくはなかったが、当たっていたのかも知れない。その成長の完成、あるいはその後の何かが引き金になってもう一つの形態へ変化する造られた生命。
 引き金は…例えば生命の危険といった、強烈なストレス。
 処理・・もされず、あまつさえ一千年以上の時間を一つの種として生き残っていた?それは考えられない。むしろ、何らかの方法で保存・・されていたというのが妥当なのではないか。
 どこに?誰が?…そんなもの、遺跡レガシィ以外にある筈がない!
 その研究の資料からして、あそこ・・・にあった。現物・・があの広大な空間の中のどこかに保存されていたとして、何の不思議があろう。実際、膨大な標本サンプルの存在を把握はしていた。だが、サーティスはその詳細まで調べたわけではない。
標本サンプルが、死体であるとは限らないのだ。
 生体を超低温で保存する技術。時間を超える技術として提唱されたその方法が、未来への遺産レガシィに援用されていない訳はない。
 それが、なぜ今? 考えられるのは、一千年ぶりに行われたインターフェイスの再起動に伴う誤動作の一つとしか考えられない。
 だとしたら、彼女の…彼女たちの苦しみを生み出したのは…!
 変化前の特性をどれだけ残すのかまではあの研究に触れられていなかった。果たして今のシルヴィアに、人間とコンタクトを取るだけのものが残されているのか…?

 ────て、いたのに…。

 耳に入ったのか、頭に直接響いたのか、今一つ判別しにくかった。あるいはサーティスの幻聴だったのかも知れない。

 ────愛していたのに…。

「…お前を叩き出した、亭主をか」

 ────それでも、愛していたわ…。

「身代わりか、俺は」

 ────ひとのことが言えるの?

「…何が言いたい?」

 ────似ているわ。もう逢える訳もないひとを、必死に捜し続けてる…。

 サーティスの双眸にはじめて殺気がはしった。秀麗な眉がつり上がる。

 ────似すぎていたわ…だから、まきこんで・・・・・しまった…。ごめんなさい…貴方はそんなつもりはこれっぽっちもなかったでしょうに…ね…。死にたかったのは貴方じゃない、この私だったのに…。

 塞いだはずの心の間隙。深すぎる哀しみの記憶。シルヴィアには、つけこんだつもりはなかっただろう。だが、最も触れられたくない部分であるのも確かだった。
 間違いない、これは遠隔感応能力テレパス。ヒトか、狼か…いずれの遺伝子に備わっていたものかはわからない。あるいは突然変異ミューテーションかも。しかし、無制限に発動するわけでもないだろう。物理的接触がある種の作動鍵トリガーとして作用するのか。


 ────貴方の言う通りだったわ。獣は自らの命を絶ったりしない。自己保存の本能が死なせてくれやしない。でも、残された心はどうすればいいの…? 私はもう、生きていたくなんてないのに…!

「だから、喰えもしない人間を襲ったのか」

 ────兎や鼠の生肉を食んでいる自分に気づいたときの私の気持ちが、貴方に理解わかって!?

 …叫びであった。人間としての最後の意識が上げる、血みどろの絶叫。


 先刻サーティスが斬りつけた傷から、紅が滴り落ちて雪を染める。既視感のある紅い瞳。
『何故だ…?』
 サーティスはしかし、最早その問いを口に出すことをせず、ただ山刀を握りかえた。
白い狼がこうべを垂れてゆっくりと歩み寄る。サーティスは雪の中に膝をつき、血で汚れた白い毛皮にそっと手を触れた。
 身体の変化の兆候を感じ取ったとき、どんな気持ちでこの家から姿を消したのだろうか─────?
 手の中の小刀は、いまだ力を込められる事なくその刀身の半ばを雪に埋めている。
 どうして、こうまで想いの届かない人間を想い続けることができるのだろうか───?
 膝立ちのまま石像のようにその動きをとめてしまったサーティスの頬に、白い狼は促すようにそっとその頭をすりよせた。

***

 狼の体当たりをくらって脳震蕩を起こしていたエルンストが身を起こして頭を振った直後、目に入ったのは血の色に染め変えられた雪だった。
 雪の所為でよけいに広がってみえるのだろうが、そのあかさにエルンストは思わず一瞬呼吸を停めた。
「サーティス!」
 視線を上げる。紅の中心にいたサーティスの腕の中には、彼の上着に包まれて白い狼が絶息していた。
サーティスの頬も髪も、紅の飛沫に彩られて凄まじさを際立たせる。そのなかで若草色の瞳だけが、静けさを通り越して凍てついていた。
 打ったのは頭だけではなかったらしい。身体の節々が痛むのを我慢して、エルンストは立ち上がった。
「……」
 何を言おうとしたのか判然としないが、エルンストが口を開きかけたとき、サーティスはそれを制して静かに言った。
「エルンスト…済まないが、裏から薪を取ってきてくれないか。…夜が明けきらないうちに、荼毘に付す」
 訊きたいことがなくもなかったが、サーティスの言葉にはそれすら許容しない何かがあった。それで結局何も言わず、何も尋かずにに薪を取りに行った。
 東の空が明るみはじめた頃、庭の一隅に火柱が上がった。
 炎を見るサーティスの眼は、終始ひとかけらの感情も含んでいなかった。
「…あれの、遺品だ」
 やおら振り返って、サーティスは何か光るものを放って寄越した。不意を突かれて慌て、何とか受け取ったそれは、紅玉のピアスだった。
「耳に、ついていた。さすがにそれは取れなかったと見える」
 そう言って、そのまま家の中に入ろうとする。
「おい、サーティス…」
「要らなければその火の中に投げておけ。俺は要らん」
 にべもなく、そう言い放った。そして再び家の中から出てきた時サーティスの手の中にあったのは、あの銀の腕輪だった。
「おい、それは…!」
 止める暇もなかった。銀の腕輪は東の空からの光を一瞬だけ反射して、火中に消えた。

***

 障子を通してくる雪明かりで、外は曇っていたが綺翔殿の内は穏やかな明るさを保っていた。
「…人狼ウェアウルフ…って、信じますか、殿下」
 エルンストから出し抜けに、それも突拍子もない話題を切り出されて…竜禅皇太子愁柳は目を瞬かせた。零陵香の薬湯を淹れる手が思わず止まる。
「…何ですか?」
「人間が狼になるってやつですよ」
 彼はまじまじとこの異国人の食客を見て、罪のない口調で言った。
「酒を飲むとまれにそうなる人もいるようですが・・・、なんて言うとひっぱたかれそうな雰囲気ですね」
「…殿下」
 浮世離れしている上に普段は莫迦莫迦しいほど真面目な人だが、こっちが真面目なときに限って妙にふざけてみせてくれるから、困ったものである。
 彼は微笑って、薬湯をつつがなく淹れ終わると言った。
「狼というのは聞いたことがありませんが、人が虎に変わる、という伝承ならこの龍禅にもありますね」
「虎…ねぇ」
 茶碗から立ちのぼる湯気をその深緑の瞳に映しながら、記憶を手繰るように言葉を継ぐ。
「凄惨ですが、悲しい伝承ですよ。身体はすっかり虎なのに、心はまだ少し人間の部分が残っている…狂わないためには、そのまま虎になり切ってしまうしかなかった。尤も、それが狂気でないとは誰にも言い切れませんが…」
 薬湯だから美味しくはありませんが、と言いつつ勧められた茶を啜るエルンストの脳裏を、白い狼の骸がかすめる。
「…時に、狼と言えば北の森の狼騒ぎはおさまったようですね」
 いきなり話題を振られて、エルンストは慌てた。
「え、ああ、そうらしいですよ」
 あの白い狼が、北の森で二十人近くを惨殺した狼だという証拠はない。だが、あの夜以来人喰い狼が出たという話は聞かなかった。
 そしてあの白い狼が人狼だったかどうかも、今となっては確かめる術はない。だがあの日のサーティスの様子から見て、まず間違いないだろうと思われた。
 無表情に女が残した銀の腕輪を火中に投じたサーティス。あのピアスは、結局エルンストも持っていることができなくて、躊躇ためらった挙句火中に投じた。
 …山の端から陽がその姿を完全に現す頃には、火は全てを喰い尽くしてその勢いを落としていた。
 あるいは、全てを夢で片付けてしまいたかったのかも知れない。だが夢と言うにも、あまりにも寝覚めが悪すぎる…
 この間行ってみたとき、どうやらまた新しい蝶があの館に止まったらしいのを感じた。全く、寄りつく蝶も蝶だが、ああいうことのあった直後によくもまあ…という気がする。だが、次々と蝶を引き寄せる割に、大抵は一月待たずに遠ざけてしまうのだ。

 ────ひとつの情景イメージがある。
 河原に座り込む頑是無い幼児。お気にいりの光る石を捨てられて、手と目を真っ赤にしつつ、何日も何日もただその一つだけを捜し続ける────
 それは、古い記憶に重なる映像だった。

「…まあそのうち、気が向いたら暇な時にでも話して聞かせてください…」
 さり気なく言われて、かくっと頬杖がはずれる。
「…気づいてましたね、あんた」
「それはもう。エルンストに隠し事は無理ですね、何かあったらすぐ態度に出るから」
 エルンストのジト目をさらりと躱し、底が見えないという点において誰かと同類項だが、あれよりはずっと穏やかな笑みをしてそう言った。
「…ちょとまだこう…何が起こったんやら今一つ、よく整理できてないんで…いずれまた」
 頭髪をかき回して、エルンストはあらぬ方を見遣った。

風が、樹園の中の花の香を幽かに運んでくる。…春神の到来は遠くない。

西方妖夢譚 了