繚乱の風

西方夜話

 彼は、古びた扉を開けたときに確信した。
 埃は被っている。だがとても十年も前に主がいなくなった部屋とは思えない。それは、自分の部屋と比較しても分かることだった。
 染みついた、薬香の香。その効用を、彼は知っていた。
「…どういうことなのか…聞かせてもらう権利はある筈だな?」
 後ろに控えている老人をかえりみる事なく、彼はそう言った。声は一触即発の怒気を含んでいる。だがその半分は自身へ向けられていた。
「今更申し開きすべき事はございませぬ。いかようにも御処分を」
 老人の言葉は枯れきっていた。
「…事の次第…それと理由。筋だった説明をしてもらいたいな。何故だ…何故、あんな嘘をついた?」
 老人は口を開かなかった。
 ────流れるのは、沈黙と風の音。だが、答えは理解りすぎるほど理解っていた。
 だから、自分以外の誰を責めることもできない…。
「…もういい…!」
 彼は老人をその場に残して部屋を出た。
 外は、いつかと同じように白い花が霞を成している。

***

 王都に巣喰う盗賊団の駆逐・掃討は、衛兵隊第三隊としては、ごくありふれた任務だ。
 王都の森には数多くの館があるが、なかには廃屋と化しているものもあることは周知の事実である。そんな館の一つに盗賊団が入りこみ、そこを根城にしているのは決して珍しい話ではない。そういう輩を指してタヌキという隠語があるくらいだ。
 今回問題なのは、その盗賊団の規模がかなり大きいらしいこと、根城にしている館というのが廃棄されて久しいために、精確な所在地が判らなくなっているという事実であった。
 廃墟となった館に続く道は森に侵蝕されてよく判らなくなるため、既に存在すら誰も知らない、という館さえある。王都の森は広い道を歩いている間はいいが、ちょっと道をはずれればもう立派な迷路であった。
 誰だ、こんな物騒なところに都なんか作りやがったのは…とぼやいたのはいうまでもなく衛兵隊第三隊隊長・エルンストである。
「城の周りに迷路を築く、というのは、戦を想定しているからでしょうね」
 衛兵隊第三隊隊舎・隊長室。出所の怪しい王都の森の地図を片手に、セレスがそう言った。
「戦を?」
 ディルが地図を覗き込んだ。
「道の付け方にしても、かなりひねくれているでしょう?まさかのときにこの森全体を要塞迷路として使うためよ。何処だったか、壮大な迷宮の中央に城を築いた国があるという話を聞いたことがあるわ。それと同じね。…もっとも、既にこの国の人間にも森の全容が分からなくなっているから、その意義は失われているけれど」
「とてつもないこと考えるよなあ…」
 ディルが感心するが、エルンストは苦虫を噛み潰して髪をかき回した。
「だがそのおかげで俺たちが苦労するってわけだな。…全く、この地図にしたって何処まで信用できるか怪しいってんだからとんでもない国だ」
「…そうですね、ここが間違っています」
「何っ!?」
 セレスの指摘にディルとエルンストがあわてて地図を覗き込んだ。セレスが筆を取って数ヶ所に×を入れる。
「こんなにか!?」
「ええ…私が知るかぎりでは。私にしたところで、王都の森の全てを識っている訳ではありません。聞いた話では、地下には使われなくなった通路が無数にあって…しかもそれが陥没しておとしあなのようになっているところもあるとか」
 エルンストは天を仰いだ。
「冗談じゃない、盗賊どもを燻り出す前に、こっちが遭難しちまう」
「…使うやつを選んだほうがいいですよ、隊長」
 ディルの提案はもっともだった。
「包囲殲滅ってのが一番確実だが、完全な包囲が出来るほどの兵力を動かせばいくらなんでも感づかれるだろう。土地に詳しいもので根城を急襲させて、直近の街道で網を張る」
「それが妥当でしょう」
 地図を修正して、セレスが言った。
「ディル、土地…いや、森と言うべきだろうな。詳しいやつを十人ばかり選び出しといてくれ。全く、ウチの周囲も分からんとは情けないかぎりだが…。
 で、セレス。“網”の配置と運用をお前に任せる。頼んだぞ」
「はい、隊長」
 セレスは微笑んだ。美しい、という点において普段と変わるものではないが、どこか凄味がある。銘刀の刀身を見るときの感覚に似ていた。

***

 王城の森を、闇が包む。その闇の中に、セレスは馬を立てていた。蹄の音が近づくのを耳にし、闇を透かし見る。
「セレス、配置完了!」
 馬から飛び降りながら、ディルが言った。
「ご苦労様。…あとは、隊長が踏みこむだけ…か」
「…いつも思うんだけど、セレスってこういう大掛かりな罠張ったりとかが上手いね。遠くの国の地理や歴史にもやたら詳しいしさ。どこで習ったのさ」
「さて、何処だったかな…」
 そういう台詞と笑みとではぐらかし、セレスは再び闇を透かし見るように遠くへ視線を投げた。
 ディルが木の上にあがった。状況を監視するためである。
 ややあって、興奮した声が降ってきた。
「セレス、始まった!」
「ディル、“網”は?」
「待って、今数えてる…」
 踏みこむのとほぼ同時に、「網」は篝火を灯す。万一突破されるようなことがあったときは、信号用の煙玉を入れる。夜間作戦の伝達方法とするにはディルのように身軽で目のいい観測者が不可欠だが、手っ取り早い急の告げ方である。
 あらかた夜も明けかかった頃、もう終わっただろう、という頃になって、ディルが叫んだ。
「ダメだ、マティスのところが破られた!」
 一呼吸分の時間もおかず、セレスが指示を出した。
「ヴィクター、ミカエルの隊へ信号!今ならラグナ侯の館の前辺りで捕まえられる」
「ヘクトの隊もだ!」
「ファラー、西側の道からまわりこんで援護!」
 同じ場所で待機していたひょろ長い青年が即座に隊を引き連れて動く。今まで何度となくセレスの手腕を見ているから、文句の一つも出ない。
「森に伏せて追っ手をやりすごそうにも、夜が明ければ発見されやすくなるから、どうあっても今此処を抜けるしかない…向こうも捕まればくびられると分かっているから死にもの狂いだ。
 そろそろ強引にでも押し通ろうとする奴がいるはず。篝火を増やせ!」
 東の空が明るくなってきた。そろそろ追立て組と合流してもいい頃だ。大捕物もそれで終わる。そんなときになって、木立の影に身を潜めていた盗賊の一人がセレスの視界に入った。
 ─────本来、セレスは網の指令塔であって、戦闘には参加しないはずであったが、そのセレスが、俄かに馬に鞭を当てる。
「…何処へ…!」
 叫んだとたんに、ディルも網からもれそうになった盗賊に気づいた。だがその時には、セレスのレイピアが一閃していた。
「…あーあ」
 やっちまった、と言う代わりに、ディルは溜息をついた。指示を出すより自分が動いた方が早かったのだろうが、網の要であるセレスが動くのは本来まずい。何事もなかったからいいようなものだが。
 森の向こうから、聞き慣れた声がした。追立て組がここまで来たのだ。森の木々の向こうから朝日が射し込む。
「やれやれ、ようやく帰って眠れる」
 欠伸ひとつして、ディルは木を降りた。繋いでいた自分の馬のほうへ歩きながら、納剣したセレスに一応言ってみる。
「お疲れさん。でもさ、何いきり立ってんの?セレスが動いちゃ駄目だろ」
「すまない、言うより動く方が早そうだったから。ディルこそ、疲れたでしょう」
 先刻の剣幕を全く感じさせずにそう微笑む。
 あとは、盗賊どもをまとめて獄舎にぶち込むだけだ、という気の緩みを、ディルの視界の隅で動いたものが一気に引き締めた。
「伏せて!」
 ディルの警告に対するセレスの反応は早かった。
 先刻セレスが斬り捨てたはずの盗賊が、いつの間にかむくりと起き上がっていた。そしてセレスめがけて短剣を投げたのである。
 短剣はセレスの肩口を切り裂いて失速する。身を屈めるのが一瞬遅ければ急所に当たっていた。
「セレース!」
 セレスが滑り落ちるようにして下乗したのを見て、ディルの悲鳴に近い声があがった。しかしセレスは自らを傷つけた短剣を空中で捉えて投げ返し、加害者を仕留めるだけの余裕を残していた。
「…やってくれる…」
「大丈夫…!?」
「かすっただけ。何もそんな真っ青な顔しなくても…」
 そう微笑した直後、セレスの顔から一瞬にして血が引き、身体が傾いた。
「…セレス…っ!」
 ディルはその場に声もなく崩れ落ちたセレスを抱え起こして揺さぶり、必死で名を呼ぶ。
 だが、それを厳しく制止する声に動きを止めた。
「揺さぶるな、毒がまわる!」
 一体いつからそこにいたのか。セレスが仕留めた盗賊のすぐ傍に、一人の青年が片膝をついていた。事切れた盗賊から引き抜いたその短剣を検分し、無造作に棄てる。
 金褐色…少し癖のある髪で、その両眼には淡い緑瞳。衣服は平民のものだが剣を帯びていた。ゆっくりと立ちあがり、側まで来ると、静かにセレスを横たえるようディルに命じる。
 何処の誰とも知れない。ひょっとすると盗賊の一味かも知れぬ。なのに、誰もその人物に逆らうどころか、咎めだてできる者すらいなかった。
 ディルも例外ではなかった。完全に呑まれ、何も言えないままその指示に従う。
 決して雄偉な体格というわけでもないが、その挙措に全く隙がなく、威圧感が尋常ではない。彼が傷の様子を診て、自らの片袖を引き裂いて止血をする間、ディルは身動き一つできなかった。
「あれは毒刃だ。刀身に触らんように始末させろ。このひとには治療が必要だ。五日ばかり、私が預かる。責任者にはそう伝えておけ」
 セレスを抱き上げて立ちあがると、そう言った。
 有無を言わせない、と言うのはこういう状況であろう。ディルがようやく声を出すことができたのは、その姿が森の中へ消える寸前のことだった。
「…待てよ!あんたどこの誰だ!?」
「そこの館のあるじさ。朝っぱらから五月蠅うるさいから出てきてみただけだ」
 それ以上の質問は、しても黙殺されただろう。だがそれ以上に、異様な威圧感に声を出すのが苦しかった。

 そして、ディルは取り残された。

◇*◆*◇

五花の馬 千金の革衣
持ち出して美酒に換え
万古の愁いを消さん…

 春とはいえ、樹上を渡る風は決して暖かくはない。
 だが、今はとても暖かかった。
 朗々たる声が難解な古謡をうたう。意味はわからなくても、少女にはその響きがただ心地好くて、しばらく目を閉じたままその古謡を聴いていた。
 目を開ければ、春の風に揺られ、闇と白い靄が繚りからまる。そうだ、今夜は花篝の宴だった。いつの間にやら姿を消してしまった宴の主人を捜して、見つけて…。
 我に返って、かけられている上着に気づく。
「あ、起きた?」
「わたし、眠って…?」
「ほんの少しだけどね」
 微笑む少年の顔が、僅かだが紅い。少女がいくらも食べないうちに眠りこむほど強い酒に浸した干葡萄を、一体いくつ食べたのだろう?
 眠り込んだことに恥じ入る少女に、気にしなくていいさと言って、笑う。
 頬は紅い。だが決して酔っている訳ではないらしいことに、少女は気づいた。
 古い詩編にのせて少年が呟いたことは、少女にとってまだ理解の範疇の外にあった。しかし、彼が今難しい立場に置かれていること、そしてその立場から逃げない覚悟を固めようとしていることは知っていた。
 支えたい、と思った。身の程知らずな想いであっただろう。だからこのひとのために、自分にできることをしたい、と思った。
 わたしに何ができますか、と訊いた。笑って、じゃあとりあえず傍に居てと言われ、至極真面目に頷いた記憶がある…。

◇*◆*◇

 自分の身体の異様な熱っぽさに、セレスは目を覚ました。
 一年近く見ていなかった天井に、ここが何処なのかを悟る。だが、どうして?
「…カーシァ」
 低く、落ち着いた大人の声。声の質は変わっても、アクセントは変わるものではない。
「カーシァ」
 胸が詰まるのを感じたのと、涙が溢れたのに、大きな時間差はなかった。
 二度と会ってはいけない。自身に繰り返し言い聞かせた言葉が、霞む。
 変わることのない金褐色アンティークゴールドの髪と、自分に向けられる若草色の瞳。会えないと分かっていながら、十年、ずっと会いたかった。…カーシァと呼ばれていた少女が腕を伸べる。
「今度は…逃げないな、カーシァ…」
 十年前の少女のままに泣き続ける彼女を腕の中におさめて、サーティスはその背を宥めるように軽く叩く。
 近侍たちの嘘を責めても、今更詮無いことであった。彼女が生きていた・・・それで十分だ。
 彼女が死んだ、と一方的に知らされ、有無を言わさず王都から連れ出されたときのどうしようもない脱力感を、サーティスは忘れない。
「もう泣くな…傷に障る。衛兵隊には、五日ばかり預るといっておいた。ゆっくり休むといい」
 そう言って、再び横たえさせた。だがその時、衛兵隊という言葉に彼女の肩が震えたのを、サーティスは看過した訳ではなかった。
 だがそれを敢て何も言わず、立ち上がって踵をかえす。
 部屋を出たとき、控えていたエクレス老の、物言いたげな顔をサーティスはこれも無視した。ただ、坦々と伝える。
「熱が上がるのは、解毒の薬が彼女の裡で奏効し始めた兆候だ。明日の朝まで眠ったら、短剣に塗られていた毒はもう心配ない。傷自体はそう深いものではないから、感染でも起こさないかぎりすぐに起き上がれるだろう」
「・・・・殿下」
 すれ違いざまにかけられた言葉に、サーティスは振り返らずに応えた。
「言うな」
「どうか、あの子を隊へ帰されませ」
「まだ・・・動かせる状態じゃない」
「では、熱が引いたらすぐにでも」
「・・・・・何故だ!」
 努めて冷静になろうとしていただろう。だが、蓋をして抑えきれるものではなかった。
「館に留め置いて何の不都合がある。カーシァは、私の…!」
「あの子はもう、あなたがカーシァと呼んだ娘ではありませぬ。館を出たことの意をお汲みあれ。あの子がどんなに・・・・」
 サーティスはそれへは何も言い返さなかった。
 ただ暫時立ち尽くして時代を経た廊下を凝視みつめ、ややあって歩き始める。
「・・・・私は、カーシァに側にいて欲しいだけだ」
 サーティスが去ったあと、取り残されたエクレス老は深く吐息して呟いた。
「・・・理解っております。ですが殿下・・・・それは決してあなた様にもあの子にも、よい結果はもたらしますまい」

***

 ───── セレスが怪我したってぇ!?

 そんな、いつぞやディルが酔っ払いの喧嘩に巻きこまれて軽い怪我をしたときのような反応そのままを期待していたわけではない。でも、それに近いものを想像していたディルには、伝える最中から物も言わずに蒼ざめたエルンストの反応が怖かった。
 エルンストは、今回の作戦区域の地図を広げた。包囲網…その要となるセレスの陣の背後に、一つの館がある。
「…ああ、この館って…例の、一時期噂になったところですよね。ほら、去年の夏だったっけ…妖精が出たとか憑り殺されたとかって話」
「…読み取りにくいな…なんて書いてある…?…Se…r……?」
「セルア館、ですかね」
 エルンストが地図に眼を落としたまま、言った。
「…ディル、ここの主が誰か…もしくは誰だったか、調べられるか」
「え、ええ…でも、死んでる可能性が高いですよ?」
「だが、そいつはそこの主だって言ったんだろう?」
「わかりゃしませんよ。ぱっと見、完璧に廃屋ですからね。適当な奴が入りこんで主を名乗ったって、誰も怪しみゃしません。…そりゃまあ、野盗タヌキっていうには少々品がよすぎる感じの奴じゃありましたけど。そんな話はこの王都にはいくつもあるじゃありませんか」
 ディルが笑った。今回のような大がかりな捕物はそうそうあるわけではないが、そういった館址やかたあとで徒党を組む盗賊どもの制圧は、第三隊のほぼ日常的な業務の一つだ。…だが、地図を凝視するエルンストの表情を見て、思わずその笑いを引っ込める。
「調べてみてくれ、頼む」
 エルンストの顔は、今までディルが見たことのある中で一番深刻そうだった。
「は、はい…」
 その表情が気掛かりだった。なによりその場に居合わせた自分が何もできなかった負い目があり、ディルはできるだけ詳しい話を集めようと奔走する。
 だが翌日その結果を知らせたときのエルンストの反応は、前日よりも深刻だった。
 常に血色の良い貌が蒼いのを越して白くなっていくのを見て、思わずディルはエルンストの肩を掴んで揺すぶった。
「隊長!しっかりしてくださいよ!?」
「…王弟…レアン・サーティスだって…?」
「まだほんのガキだったらしいですが、当時既に颯竜公っていう称号を受けていました。十年ぐらい前に、ふいっと王都から消えてます。宰相家にとっちゃ目障りだってんで、暗殺されたってもっぱらの噂ですよ。それからこっち、消息不明。公的に死んだと明言はされてませんね。行方不明のままです。
 暫くは亡くなった母親についてきた近侍の一族が館を維持しちゃいたようですが、あの様子ですから…離散したのかも」
 エルンストは、答えなかった。ややあって、こう言っただけだった。
「済まんなディル、有り難う…」
 先方に五日ほど預かる、とは言われたものの、エルンストの性格からして本来なら報を受けたら即座に件の館に乗り込んでいって不思議はなかったのだ。あの館には、この豪胆な隊長をして躊躇わせる何かがあるというのだろうか。
 報告すべきことは報告してしまった。退出すべきではあるのだろうが、敢えて…問うてみる。
「…隊長、俺が探りを入れてきましょうか?」
「いや、俺が行く」
 間髪いれず、エルンストがそう言った。
 気掛かりがなにひとつ解消されたわけではないのだが、踏み込めない何かを感じてディルはそっと部屋を出た。

***

 ディルが退出したあと、エルンストは椅子に身を沈めたまま、書机の上に置いた手を漫然と見ていた。
『…ここにいて…』
 あの夜。かきのけられた髪が元通り傷を覆ったとき、声は弱々しい呟きにしかならなかった。
『ここにいて…私をここに留めて…私…何処へも行かない…ここにいたい…から…』
 怯えでも、怖れでもない。ただ、かなしさ。哀しさ、愛しさ。その所以。…ようやく、分かりかけた気がする。
 セレスは、再会してしまったのだ。彼女が、命を賭けて護ろうとした旧主に。
 レアン・サーティス。…サーティス。聞き覚えのある名であり、口にするのも初めてではない。
 だがこの際、それは意識の外にあった。サーティスという名は、殊にシルメナにはザラにあるからだ。ツァーリの大侵攻の後、王弟にして宰相ヴォリスを暗殺しようとしたシルメナの「風見」も、ソラリス・ディレン・《サーティス》という名だったと聞く。
 ────── それよりも。
 あの夏の日、燃えるような緑の下で彼女が春の情景を語ったときのような…あの妙な感覚。今また、それと同じ感覚がエルンストの中にわだかまり、息苦しさと共にやりきれない鋭さで内側から胸壁を刺すのだ。
「…痛ェな…何だよ、こりゃ」
 知らず、胸の上に手を置く。掻き毟りたいような衝動さえ感じた。
 あの方のものになれないのなら、生きている意味がない。彼女はそう言った。…だから誰のものにもならない、と…。

 彼女が居るべきところに戻ったのなら、エルンストにできることは何もない。
 何も約束できない。最初からそう言われている。

 ――――――それでも、得体の知れない熱塊が胸奥で呼吸を圧する。