緑瞳の鳥

 北に逃げていれば、それはすなわち命取りであったに違いない。幾分気候が緩んだノーアへ逃れたからこそ、十歳にも満たない女児一人、凍死も餓死もせず数日間の逃避行ができたのだ。
 だがアズローの北面にある林のなかで、ついに動けなくなった。そこへたまたま来合わせたのが、狩りにきていたリオライだったのだ。
 猟犬に吠えたてられ、動くこともできずに身体を竦ませていたとき、その猟犬の主人あるじが彼女を見つけた。
「莫迦、ひとじゃないか」
 猟犬を叱りつけて、手を差し伸べる。
「大丈夫か?噛まれたりしなかったか?」
 リオライの黒い髪に、ふと、ここがまだサマンの領域なのではと錯覚した。だが彼を追って現れたのは…。
「リオライ様、この子供は…サマンの人間ですよ」
 淡い色の髪。ノーアの人間!
 彼女が再び身を竦めたのを見て、リオライはむっとして後ろから現れた淡い髪の人物に文句を言った。
「ほら、怖がってるじゃないか。この際サマンがどうでも関係ないよ。けがしてるのかもしれない。…ほら、立てる?」
 差し伸べられた手を、そうあっさりと取れるほど、彼女も世間知らずではなかった。親から見捨てられ、部族から抹殺されかかった身の上では仕方のないことだったが、それがリオライを困らせた。

 異民族サマンの子供一人、ノーアの領域でぼろぼろの格好で蹲っているという状況が尋常でないことぐらい、リオライに分からない訳はない。どうやら訳あり、と見たリオライは近くの狩小屋に彼女を匿い、食料と衣服を提供した上で事情を聞いた。この時、事に関わったものすべてに箝口令を敷くことを忘れていなかったというから、たいしたものだ。敷いたほうも敷いたほうだが、それを聞くほうも聞くほうである。この件に最初に関わった面子の中に目付役とでも言うべきカイ=エトラスが含まれていれば、また状況は違ったのだろうが。
 同年代の気安さか、マキという名を貰ってからは自分の身の上をぽつぽつと話し出した。
 そして、リオライも話した。ツァーリ宰相の後継者でありながら、ノーアで育つことになった微妙な身の上のこと。そして、未来のこと…。
「負けない。言いなりになんかなってやらない。自分の生き方は、自分で決める…!」
 何だかよく分からないけれど、彼が相手にしようとしている存在の大きさだけは、彼女にも理解できた。
 そうして数日するうちに、マキの体調が回復した頃、さすがにリオライもいつまでもこの状態は続かないと判断したらしい。その日、どうにかしてくれそうな人がいるから、と言ってアズローの北縁を回ってキルナへ向かおうとした。……その途上で、祭司の一人に襲われたのである。
 結果として、リオライは勝ったものの、いまわの際に不意を突かれて足を斬られた。致命傷には程遠かったが歩けなくなって雪の中に立ち往生し、付近を旋回していたエルウに見つけられた。
 そのエルウがシェラとユアスに知らせて事無きを得たのである。
 あくまでも隠し通そうとシェラに糸と針だけ(むろん無断で)借りてくるように指示する辺り、やはりまだ子供っぽいというべきだったが、ユアスが事を憂えてカイに通報する。カイに知れてしまったら、もう大公まで知れたと同じことだった。
 大公邸の手勢が繰り出され、リオライはマキとともに保護された。
 居直ったリオライは大公に彼女の身の安全を保障するよう訴えた。それは至極真っ当なことで、大公はあっさりとそれを受け容れたが、隠し事をするためについた数々の嘘について、彼はきっちりお叱言をくらった。
 しかし、彼女としても居たたまれない。気持ちは嬉しい。彼女自身もそこに居たかった。だが、これからも祭司たちは自分を地母神の元に送り届けるためにやってくるだろうし、その時また彼が傷つくようなことがあったら、それこそもうここにはいられない。
 大公邸を出るしかない。ここを出て、ギルセンティアを越えて、さらに南へ…!
 祭司達はいつ来るか分からない。そう思った彼女は、小雪がちらつく夜であったにもかかわらず、そこを出たのだった────。

***

 なんとも、あの坊やも因果な名を付けてくれるものだ。
 暖かい日差しの中、次々とその白い花を開く木の下で、サーティスは軽く吐息した。
 マキ――木の梢や、木の茂るさまを表す、竜禅の言葉から取ったのだろう。ことさらに西方の言葉を使ったのは、同じ瞳と髪をした義兄シュライを連想したからか。
 黒髪ということ以外、似ても似つかぬ。重ねるつもりもさらさらないが、彼にしてみれば〝マキ〟という名はかつての近侍衛士マーキュリア・エリスの愛称なまえ以外の何物でもなかった。
 マーキュリア・エリス。サーティスの生母アスレイア・セシリアに随行してきたエリュシオーネ一族の当主。生母亡き後サーティスの実質的な後見の立場にあり、レリア=ヴォリスの凶行で傷を負ったサーティスをナステューカから脱出させるために尽力した。
 そして、シルメナの神殿に寄留していたサーティスの傷がようやく癒えた頃……あまりにも突然に夭折してしまった。
『泣いては…駄目…前を、前だけを見つめ、あなたの道を歩んでください…』
 かのひとの最期の言葉。まず自分の道とは何なのか、そこから模索しなければならなかった彼にとって、その言葉は己に己の無力を思い知らせ、刻みつけた。だがそこが他ならぬ出発点。
 進むための出発点であり、生き方の分岐点だった。
 殺されたとしても、無力感に拉がれて自ら死を択んだとしても、結果は同じ。全てが終わる。だがそれは、ほかならぬ敗北であった。
 そして現在の自分の掌中にあるものは、一国の興亡などというレヴェルを遥かに越えた存在なのだ。

 ─────“レガシィ”。大陸暦以前の、この世界の記録。

 使い方を誤れば、再びこの世界が破滅の坂道を転がり落ちるのは目に見えている。いずれ滅びるさだめの人の世なら、せめて少しでも永く健全な形を保つよう、その役に立てなければならない。“レガシィ”を遺した男はそう願い、地底で独り、乾涸びて逝った。
 サーティスとて、その後の世界に生を享けた一人の人間に過ぎぬ。たまたま“レガシィ”を蘇らせるだけの能力を持ち合わせた…ただそれだけの、不死でも不老でもない、ただの人間。五十年あるかなきかの時間で、いったい何ができるだろう。

 だが、何もしないよりは、ただ一歩でも踏み出すほうが遥かにましだ。
 居場所さえ見つけられない流浪の身。だがそうして様々なものを見聞きすることで、自分の成すべきことを見定めようと決めた。だが、興味のままに色々寄り道をするものだから…まだなにひとつ成せた気がしない。
 ────さてはかのひとが叱言でも言いに降りてきたか。
 苦笑するよりなかった。…だがその苦笑は何故か、過去への拘りを消し去る力を持ってもいたのである。
 その時、神経に障る気配に若草色の瞳が凍てついた。
「…こんなところまでご苦労なことだな。……祭司殿よ!」
 サーティスの小剣が空を裂いて飛び、祭司の袖を貫いて木の幹に突き刺さった。抜こうともがく間に間隔を詰め、相手の剣をもぎとる。あまり手入れのよくない山刀と見えた。
「年端のいかない子供ひとり、こんな物騒な刃物で追い回すとはな。……あの子が何をしたというんだ」
 サマンとノーアはある程度お互いの言葉が分かるということは愁柳から聞いた。ならば、ノーアの言葉なら通じるはずだ。
 喉元に突きつけると、祭司は脂汗を垂らして竦み上がった。だが、口にした言葉は。
「お前らの知ったことではない……あの子供は神に供されねばならぬ」
 血走った眼。自身の正しさを微塵も疑わぬ狂った眼。幹に突き刺さった小剣を抜くことを諦め、貫頭衣の衣嚢に片手を差し込む。更に短い、儀式用と思しき短剣が姿を現した。贄の血に汚れた石剣。

『……お前は死なねばならぬ。呪わば己の生まれを呪え』
 ――――――そう言って振り上げられた刃は、既に血に染まっていた。
 ――――――たった今、カーシァを切り裂いた刃。護りたかったのに。護れると思っていたのに。

 旧い記憶との重なりが、サーティスの神経を逆撫でした。その双眼に危険な光が疾り、次の瞬間サーティスは手にした山刀を一閃させていた。
 ─────飛散した鮮紅色が、無垢の花を染める。
 紅に染まった花に、我に返った。血潮の只中に石剣が落ちる。舌打ちして、山刀を放り投げると、首のない祭司の身体を立たせていた小剣を引き抜いた。
『これだから、いつまでたっても答えが見つからんのかもしれんな』
 もとより、サーティスは身を守るために剣を振るうことに関して、躊躇いを感じたことはない。だが時に、身を守るためという範疇を超えて…必要以上の流血を引き起こしているような気がする。そのうち見境がなくなるのではないかと自分自身に不気味な恐怖さえ覚えるときがあった。殺すことはなかった。手一本、足一本も斬り落とせば済むことではなかったか。……情報を引き出すためにも、その方が妥当であった筈だ。

 足下に転がる、恐怖に凍り付いた祭司の首を見遣り、ふっと息をつく。
「…愁柳に叱られるかな」
「そうですよ、せっかくの手掛かりを」
 ぎょっとして振り返ったが、こういう場面に気配を消して近づく人間が愁柳以外の誰である訳もなかった。しかし無論、こんなところにマキを伴うようなことはしない。
「…性格変わったな、愁柳」
「そうですか?私は今も昔も立派な利己主義者ですが。しかしまぁ、こんなお粗末な山刀で頸骨両断とは…どんな膂力ですか」
 愁柳が感心したように、サーティスが投げ捨てた祭司の剣と死体をあらためる。サーティスは苦笑した。
愁柳おまえに言われたくないな。昔、西方にいた頃に聞いたぞ。〝紫電竜王の剣風は、刀身が触れずとも首を飛ばす〟と…」
「それは誇張というもの。妖術じゃあるまいし、そんなことできるわけないでしょう。そもそも、相応のエモノでないと頸骨なんて…って、何を言わせるんですか。物騒な」
 少し眉を顰めながら、愁柳が外套についている乾涸びた草の実を注意深く剥ぎ取る。
「…東の丘の茂み辺りによく生えている草の実ですね」
「あそこに潜伏は可能か?」
「容易でしょうね。食料持参なら、の話ですけど。あの辺りで野盗が増えてないか調べてみると案外当たりかも知れませんよ。…ご苦労な事ですね、やはりそれほど大事な贄なんでしょうか」
 愁柳が形ばかり、死者を悼む祈りを口にしてから立ち上がる。
「さて…どうしましょうか。この人が帰らなければ当然ここに疑いを持つでしょうし、今夜辺りお客様がいらっしゃるかも知れませんね」
「家主の判断に任せよう。ここの庭を血で汚すのは、愁柳としても本意ではあるまい。…早々と流血沙汰を起こした者の言い種ではないがな」
「あたたかな配慮、いたみいります。…よくわかってるじゃありませんか」
 愁柳は微笑んで、断を下した。
「─────本拠を叩きましょうか。この際、追跡を諦めて貰う必要があります。やるなら徹底的に」
「あとどのくらい残っていると思う?」
「彼女の話では部族全体で祭司は7人ばかりだそうです。内一人は祭司長で、絶対に部族を動くことはないそうですから・・・・総出演+たすことの何某なにがしでの来訪としても、10人を越えることはないでしょうね。もっとも、あなたと組むのなら10人が50人でも平気ですが」
「だからそう買いかぶるな。…だが、良いのか?一晩ここを空けることになるが」
「ここのことはラースに頼みます」
「…アテになるかな」
「失礼ですよ、彼の技量も知らないで…。ナルフィの剣術について、基礎指南をしたのは彼だって事、あなた知らないでしょう」
 返答までに、さすがに数秒が必要だった。
「…そうなのか?」
「ナルフィ本人から聞いたんです。これ以上確かなことがありますか?」
「分かった、もう何も言わない」
 ノーア公の目も、確かに節穴ではない訳だ。人は見かけによらないとはよく言った。
「それでは、準備しましょうか。こんな山刀よりは、もうすこしまとも・・・な得物を差し上げますよ。気に入って頂けるとよいのですが」
 まるで花見の支度でもするかのような、健全な気軽さでそう言った。だがその深淵の緑は、決して笑ってはいない。
 ─────かつて西方諸国の将軍達をして、刺客を放たせるほどに怯えさせた“竜王”…。

***

『明日になったら、もう何にも怯えずに済むようになりますよ』
『何も心配することはないさ』
 どうやら出かけるらしい気配に気づいてマキが二人を捜したとき、そういう返事がかえってきた。
 でも、だからと言って安心できるほど鈍感でも単純でもなかった。サーティスには一言、『子供はもう寝る!』と言われ、愁柳には噛んで含めるような言い方ではあるが同じことを言われて仕方無く寝床に入りはしたが、目がさえて眠れない。
 何度目かの寝返りを打ってから、我慢ならなくなって起き上がる。上着を引っかけると、そっと扉を開ける。館はとうに寝静まって、梟の声が聞こえるばかりだった。
 すぐ隣のサーティスが使っている客間は当然人の気配がなく、寂しくなって愁柳の私室の方へいこうとして、道、いや廊下に迷った。
 自分の部屋すら分からなくなって行きも戻りもできなくなったとき、ふと笛の音を耳にした。近い。行って聞けば、客間のある方向ぐらいは教えてもらえるだろうと思って、耳を澄ませた。
「…こっちかなぁ」
 音は、反響をする。静寂の中で細く揺蕩たゆたう笛の音が、いったい何処からのものなのか・・・さっぱり分からなくなってしまう。それでも、笛の音は時々途切れながらもずっと響いていたから、ついには一つのドアに行き着いた。
 とても優しい、暖かい調べだ。子守歌にも似た安心感を与えてくれる、懐かしい感じ。
 さっきまでの寂しさが、ゆっくり埋められてゆく…。
 不意に、笛の音が止んだ。
「…だれかいる?」
 若い女性の声でそう問われて自分がこの笛の音を捜した理由を思い出す。
「あ、あの、お部屋、わからなくなっちゃって…」
 ややあって、部屋の主がこっちへ歩いてくるのが聞こえた。
「こんな夜更けに、どうしたの?」
 そう言って、扉が開けられた。マキの、新緑の瞳が大きく見開かれる。