妖精の森

 その大樹の根元に座り込んで幹に凭れかかったまま、俺は何度目かの吐息を夜気に逃がした。
 そうして、傾きかけた月を眺める。
 ――――午後の緑陰。触れてすぐ離れた後。玲瓏たる月のような、触れる前と何も変わらないようにさえ見える透徹した眼差しを、彼女は不意に伏せた。
『…考えさせて』
 そう言って、するりと俺の腕をすり抜けて行った。
 木立の間に消えるその後ろ姿を見送りながら、思わず深く息を吐く。彼女にしてみたら唐突ではあっただろうし、すぐに返事が貰えるような話でもない。
 だが、明日には隊に帰らなければならないだろう。
 夕刻、セレスは姿を見せなかったから、食事を持ってきた爺さんにその旨を告げた。本当のところは今日のうちに帰隊すべきではあったが、投げた問いの答えを聞くこともなく此処を立ち去ることは出来なかったのだ。
 あそこでセレスを引き留めて、答えを求めるような強引さが俺にあったら…多分今、俺はナステューカに居ない。…きっと、まだあの北の荒地にいただろう。そして…
 それがいいことなのか、悪いことなのか…俺には判らない。
「…しかたないじゃないか…」
 誰に向かってか。そう呟いてしまってから、薄闇の向こうにセレスの姿をみつけた。
「…セレス…」
 彼女は何も云わず、俺のいる大樹の根元まで歩み寄ると、やはり腰を下ろして大樹の幹に背を預ける。剣は帯びていたが、髪を下ろしていた。
 鴉羽色の、髪。月の光をはじいて…────
 俺が手を伸ばして掬いあげると、生きているかのように跳ねておちる。その瞬間に、ふわりと香の匂いがした。
「…これは…」
 憶えがある。これは…
 セレスが頭を動かした。それが拒む動きではないことにかすかな安堵を覚えながら、俺は言葉を継いだ。
「…まだ、痛むのか?…その眼…」
「…どうして…?」
「この匂い、薬香だろう。それも、眼の病に効果のある…」
「薬香に、詳しいのね」
「以前俺が世話になってた御仁がな。…一時眼を患ってて、よくその香を使っていた」
「…ふうん」
 セレスは傷に手を触れて、無表情にそう言った。
「…時々…ね。痛むわ。その度にあの香を使ってるから、髪に染みついたのね。気になる?」
「いや…気がおちつく、いい匂いだ」
 然り気無く、その実結構びくびくしながら肩を抱く。すると、セレスがそっと俺の肩に頭を預けてきた。
「鎮静効果に重きをおいて調合された香だもの…」
 セレスの笑みは、寂しげだった。
「…衛兵隊って…どんなところ?」
 不意に、話題をかえる。少し背を反らせ、俺のさして長くもない前髪を弄びながら。…これ以上は、傷のことに踏み込んでしまうのだろう。俺は、セレスの問いに答えた。
「そうだな、俺にとっちゃそれほど居心地は悪くない…な」
 王都の警察機構、その最下端の実働としての役割だから荒事ばかりだし、俸給がそれほどいいわけでもない。ただ、食事とねぐらの心配をしなくて済むのは大きい。隊の雰囲気は隊長の出来不出来にもよるのだろうが、クラウスのおやじさんがまとめる今の第三隊は俺にとっては悪くない居場所だった。
「俺としちゃ、身元を詮議されなくて済むってのが一番ありがたいけどな。…何分、表街道ばかり歩いてきた訳じゃないから…」
 俺が話す間も、セレスは無心に俺の髪を弄り続けていた。どこかあどけない仕草で、不意に口にしたのは怜悧そのものの台詞。
「…ルフトシャンツェ…アースヴェルテの『組織』…違う?」
「何で…!」
 余りにも正確な指摘に、俺の声がはねあがった。が、セレスは微かな笑みで俺を煙にまいてしまった。
「ふ…何となくね。あまりそれっぽく・・・・・ないけど、いくつかの証拠に基づく推論の結果…っていったらいいのかしら」
 暗殺者っぽくない、という指摘を受けるのは今に始まった事じゃないが、褒められているのか貶されているのか微妙だから、反応に困る。
 その時、複数の人間の気配に俺は反射的に身体を硬くした。腕の中のセレスも同様だった。
 だが、話し声からそれが誰だか気付き、俺はそっとセレスに耳打ちした。
「濡れ衣の返礼をするか、セレス」
「…無論」
 豹変。低く、凍てついた…『リャナンシー』の声。
 そいつらは、件の盗賊だった。リチャードを殺した第三隊の隊士のうちの数人だったのだ。性懲りもなく、盗みに入ってきたらしい。全く、何て奴等だ!
 セレスがすっと立ち上がった。猫のように、足音一つたてずに木々の葉越しにそいつらを窺える位置につく。

***

 曰く、妖精リャナンシーは人の命を啜る…と。
 リチャードが魅せられた所以とは…すこし違うのかも知れない。多分、リチャードが言うところの伝説の妖精リャナンシーというやつはいま少し詩的ポエティックなもので、血風の中を微かな笑みさえ泛かべて舞いながら侵入者を一刀のもとに斬り倒したりはしない。
 それでも、その美しさに俺は魅せられた。
 結果的に、俺がしたことと言えば二人の退路を断ち、内一人を斬っただけだった。後はすべて、セレスの細身の剣レイピアにかかって地に伏せた。
 息を乱しさえしない。一点の返り血すら浴びず、それでいて細身の剣は凄惨なまでに血で染まり、足下には喉をかき斬られた骸が転がっていた。その光景は沈む寸前の月明かりに照らされ、薄青く染まる。
 セレスが倒れた賊のひとりにゆっくりと歩み寄る。死に至るような傷は受けなかったようだが、足の腱でも斬られたか…立ち上がることもできず這って逃げようとしているところをセレスのレイピアに片脚を地に縫い止められ、身も世もない悲愴な声を上げた。
 セレスは携行していた小剣を抜き、もがく男の喉に擬した。何事かを訊いているようだった。ややあって満足のいく答えを得たものか、彼女は小剣をおさめ凄然たる微笑を浮かべて立ち上がる。
 累々たる屍と、その狭間で屍になりかかっている者達を睥睨しながら、月の下に佇立する妖精リャナンシー――――。
 彼女はゆっくりと視線を上げ、俺を見た。
「これが私よ。それがあの方の為なら、誰だろうと殺す。死ねと言われたら死ぬ。私はあの方の剣になるために生まれてきた。そう思って生きてきた。
 私はただ…あの方の力になりたかった。あの方を守るためだけにこの命があると思っていた。子供の戯言と思っていいけれど、私はそう決めていた。
 でも、おじいさまはもうそうしなくていいと言う。
 あなたがおじいさまに何か言われたことくらい、私にだって察しはつく。それでも、私は…」
 俺は最後まで聞かず…歩み寄り、剣を手にしたままのセレスを抱き締めた。
妖精リャナンシーだろうが化猫だろうが、今更俺は動じんよ。
 俺のところに来い、セレス。俺は…お前が欲しい」
 腕の中のセレスが一瞬、息を停めたのがわかった。だがその直後ゆっくりと息を吐き、そっと体重を預けてくる。
「……」
 何かを、呟いた。だが、俺には聞こえなかった。
 腕を緩め聞き返そうとした時、セレスはするりと俺の腕をすり抜けて数歩さがり、剣の血を払って納める。そして、やおら先程の小剣を抜いてその黒髪に当てた。
 鋭利な小剣は、彼女の黒絹のような髪をざくりと切り落とす。
「一体、何を…?」
 ─────セレスの手から、束ねられた黒髪が滑り落ちた。
「あの方のものになれないのなら、私は生きている意味がない。…だから私は誰のものにもならない」
 微かな笑みはすがしくすらあった。小剣をおさめ、真っ直ぐに俺を見る。
「私は此処を出て行く。…ありがとう、エルンスト。嬉しかったわ」
 その意味を問い返す間さえ、彼女は与えてくれなかった。また数歩退がり、踵を返して夜明け前の薄闇の中へ姿を消す。
 手を伸ばすことさえも、俺は出来なかった。
 何も言えなかった。何も言えないまま、東の空が白みはじめるのを見ていた。

***

『…あそこではもう何もおこることはありません。妙な欲かいて入りこみさえしなければね』
 隊舎へ戻った俺は、隊長にそう宣言した。ディル曰く、「得体の知れない迫力だった」そうだが、そりゃあ、余計なことを喋ってしまわないようにとかなり緊張していた所為だろう。
 リチャードを殺したのは妖物ばけものなどではなく、野盗紛いのことをしていた隊士の跳ね返り共であったことはきちんと報告した。連中が根城にしていた廃屋の中から売り捌くつもりだったらしい貴金属、装身具類が出てきたから、証言者の身元やその真偽についてやかましいことは問われなかった。
 ただ、辛うじて生き残っていた奴ーあの、地に足を縫い止められた男ーから訊きだしたところによると…いくつかの財物がそこから更に盗み出されていることがわかった。これは高く売れる、と買い手を捜していたのでよく憶えていたようだ。
 ――――――セレスだ。主人の財物を、先んじて取り戻しに来たのだ。
 言ってしまえば隊内の不祥事だから、あまりおおっぴらにもできなかった所為もあるだろう。行きがかり上とはいえ跳ね返り共を取り調べもしないまま始末・・してしまったことも、あっさりと不問に付された。
 煩雑な書類仕事から解放された後…俺はすぐにあの館へ向かった。
 セレスはいなかった。
 館守りの爺さんが言うには、あの夜ふらっと出て行ってしまったきり戻らないのだという。盗まれていた財物が戻ってきたかについては…訊くに訊けなかった。
 その日の昼過ぎまで待ってみたが、帰らない。
 だが、虚脱状態で隊舎に戻った俺の耳に飛び込んできたのは、第三隊特有の活気…異様な盛り上がりの歓声だった。
「おい、隊内試合か?そんなの予定になかったろ。一体何事だよ?」
 ようやくの事でディルを捕まえて事情を聞こうとした途端、ディルは突然くるりと背を向けて怒鳴ったものだ。
「おーい、新隊長のお帰りだぞーっ!」
「ちょっと待てディルっっ」
 俺の制止なんぞ聞かない。人だかりがわっと割れ、その向こうにいるのは、クラウスのおやっさんと…。
『…セレスっっ!?』
 …もう、何が何だか。
「このおっちょこちょいめ、どこへ消えてた?」
 おやっさんがにやにやしながら言う。
「どういうことです!? …隊長職のことなら断わったはずでしょーがっ!」
「受理した憶えはないな」
「おやっさんっ!」
「じたばたするな。わしはお前に“今度の一件、お前が片付けて見せたら次の隊長職はお前に譲る”と言っておいたはずだな?」
「聞きましたよ。でも俺はちゃんと…」
「お前に断わる権限があると思うか?」
「横暴だーっ!」
 わめく俺を、この古狸…豪快に笑い飛ばしやがった!
「…いい加減年寄りに楽をさせんか。細かいことはディルを副長に立てておけば大丈夫だろう」
「…ディル?」
 俺は、ディルを振り返った。
「応援しますからね、俺」
 俺は頭を抱えた。満面にキラキラした笑みを湛えてこう言われた日には、もう怒鳴る気力も萎える。
「…話はまとまったようですね?」
 俺がうろたえたもう一つの原因が口を開いた。いやまて、まとまってない。なにひとつとしてまとまってなんかいないぞ!?
「む。そういう訳だ。まあ、少々おっちょこちょいだが、そのうちわしよりいい隊長になるかもしれんよ」
 姿なりは男だが、声や体つきまで変えられる訳がない。
「…それでは、よろしく。〝隊長〟?」
 クラウスのおやっさんの隣に立っていたセレスがにっこり笑って、手を差し出す。
 俺は狭い手桶の中にいれっぱなしにされた魚よろしく口をぱくぱくさせた。
「どういうことです!?」
 俺は説明を求めた。おやっさんはにやにや笑いをしながら、何を分かりきったこと聞いてんだ、といった面持ちで言った。
「仲間だよ。今日から第三隊にはいるそうだ。…そもそもお前が誘ったんだろう?」
「じょっ…冗談でしょ!?」
「冗談だとして、何か面白いか?」
「まさか男の格好してるからわかんない、何て言ってんじゃないでしょうね!?…セレスこいつは…!」
「…エルンスト、よーく周りを見てみんかい」
 おやっさんの笑いが苦い。
「はぁ…?」
 俺は周りを見回した。
「…こういうことに顔突っ込みそうなツラが欠けてますね」
 言ってから気がついた。まさか!
「ウチの儀式みたいなもんだからな。そりゃあ見事なもんだったぞ。ジェロームの診療所は今頃満床だ。全く、こんなところにのりこんでくるだけのことはあるな。ま、なまってた奴らにはいい刺激にはなったか」
 言い忘れたが、ジェロームというのは例の山羊髭爺さんの名前だ。入隊には至って緩い第三隊だが、審査という名目で実技も見る。セレスの容姿に騙されて何人突っかかっていったか知らないが、命があっただけ重畳と思ってほしいものだ。
「…使ったのは修練刀だから、打撲で済んだ筈ですが」
 セレスがさらりと邪気のかけらもない笑みで言い放つ。
「ついでに言っておくが、彼女の入隊はわしの権限で手続きしておいたからな」
「…おやっさんっ…あんた、常識ってものがないんですか!? こんな男所帯に…! …てか、セレスは俺の…!」
 勢いとはいえ俺はとんでもないことを口走りかけていたのだが、セレスの考えていたことは俺の斜め上を行っていた。
「それなら大丈夫。当面オリガさんのところに厄介になるから」
 セレスが明言する。俺としては…開いた口が塞がらない。
 …そりゃぁ、妥当な線ではある。
 オリガというのは、ジェロームのおかみさんだ。診療所の助手でもある。こういう職場なので、ジェロームのところに世話になったことのない奴など第三隊にほぼいない。自然、隊舎の賄いであるセアラばーさんと同じく、隊内の者は誰も頭が上がらないのだが…見た目は至って上品な婆さんだ。いかにも宿屋の女将といったセアラばーさんと違っていっそ場違いなほど物腰が柔らかいとは思っていたが、実はエクレスの爺さんの係累だったという話は、随分と後になって知った。つまり、少なくとも騎士階級以上の育ちをした人間ということだ。
 だとしたら、あの爺さんはセレスが家を出てしまった時に行き先の見当はついていた筈だ。そうならそうと、教えてくれればいいものを…。
「自分の処に来いって言ったのはエルンストでしょう。それに…自分の身ぐらい自分で守れる」
 はったりでないことを、彼女はついさっき実証してのけている。挑戦者達の苦鳴という見えないインクで大書した証明書は、お調子者共を牽制するには釣銭がくるだろう。
「…むちゃくちゃだ…なんだってこんな…」
「他の方法を思いつかなかったので。生活手段としては、私はこれ以外持ってないから」
 そう言って、佩剣の柄を軽く叩いてみせる。レイピアと呼ばれる、細身で先端の鋭く尖った刺突用の片手剣。見た目ほど軽くないし、存外扱いが難しい。
「生活手段って…そりゃ、おまえの技術うでは識ってるが…よりによってなんて職業ところを択ぶんだ。大体、俺が言ったのは、そういう意味じゃなくて…」
「ごめんなさい…でも、一応私なりに考えた結果だから。
 私はセレス。誰のものにもならない。私は、私自身の望みのままに生きていく。…だから、あなたの傍にいるわ。エルンスト」
 そして流麗な所作でゆっくりと歩み寄り、セレスがその白い腕を伸べて俺を捉えた。
『…え?』
 周りからはもう訳の分からん声が上がるし、俺はと言えばはっきり言って状況をつかみかね、ぼうっとしていた。
 綺麗に切り揃えられたセレスの黒髪が俺の耳朶を擽る。あえかに紅をひいた唇が触れている間が、ひどく長かったような気がした。ひょっとすると、あんまりにも驚いてしばらく気絶でもしてたんじゃないかと思うほどに。
「畜生、やっぱりそういうコトかよ!」
「エルンスト、お前存外手が早かったんだな?」
 …いや待て。この場合…俺は後手に回りっぱなしなんだが…。
 唇を離して、セレスが喉奥で悪戯っぽく笑う。もはや笛や太鼓の音が聞こえないのが不思議なくらい、喧しく囃し立てる隊の連中の声を意識から無理矢理閉め出して、俺は訊いた。
「俺は言葉を間違えたのか、セレス?俺は、ただ…」
「私は何も約束できない。でも今はあなたの傍に居る。…それでは、駄目?」
 深い碧にひたと迫られ、俺は溜息を吐く。セレスの黒髪に触れ…今度は自分から抱き寄せた。
「…妖精でも化猫でも構わんって言ったからな」

 ――――隊長になった途端に女を引っぱり込んだ、と言われるかと思っていたのだが、然にあらず。セレスが女だということ自体、別に隠したわけでもないのにあまり広まる事もなかったのだ。姿が姿だからぱっと目には判らないといってしまえばそれまでなのだが。むしろ、セレスを男と勘違いした王城近辺の淑女サマがたから第三隊宛に恋文が届く始末。…世の中、存外いい加減なものである。
 しかしまあ、セレスの公私区別の厳格さには、この後十二分に思い知らされることになった。
 彼女はこの後、副長として隊の参謀的な立場ポジションにつくことになる。だが、あれほど派手な示威デモンストレーションをやらかした割には仕事中は絶対に俺の名を呼ぶことはなく、「隊長」で通した。仕事に関しても、その峻厳なこと。内戦の頃までには、隊の内外に“第三隊のセレス”の名が浸透していた。
 もうひとりの副長にはディルがついた。真面目だし、細かいことに気がつくし、物覚えも俺の三倍くらいはいい。第三隊の機能効率はこいつの双肩にかかっていたといってよかろう。
 そんなこんなで第三隊は新体制となり、夏が終わり、秋・冬が過ぎた。

 そして春。一陣の風が吹いたのだ。

END AND BEGINNING