風花の賦

冬の森、雪催

 セレスが自身の身体の変化に気づいたのは、停戦直前だった。いよいよ衛兵隊第三隊までもがイェルタ湾岸へ派遣されようという時期である。
 誰のものにもならない。ひとりの傭兵セレスとして生きていく。…そう決めた。
 旧主レアン・サーティスと再会したあとも、それは揺るがなかった。あるじがそれを許さないなら、死を賜るとしても受け容れようとさえ思ったが…サーティスは『セレス』として生きることを認めてくれた。
 剣か、紡錘つむか。『セレス』は剣をとった。剣をとる生き方を択んだときに、女であることは忘れたつもりだった。
 それが『つもり』でしかなかったことを、セレスは思い知らされた。身体の変調の理由に思い当たったときには、頭を殴られたような衝撃すら感じたほどである。
 今までまったく意識から抜け落ちていたと言っていい。この数年、可能性はあったのに…まったくそれを考えることさえしなかったほうがどうかしているのだ。
 変調の原因は、オリガにはすぐ露見した。
 オリガは今でこそ町医者の内儀おかみだが、往時はアスレイア・セシリア妃に近侍していた。『セレス』の事情を承知している数少ない人物で、館を出たセレスが衛兵隊に身を置くに当たって住居を提供してくれていたのだ。
「あなたはどうしたいの、セレス?」
 そう問われて、途方に暮れた。エルンストからイェルタ駐屯の員数から外され、本部内勤とされたのは、身体の不調に気付かれた所為かもしれない。たとえそうでなかったとしても、剣をとることもできない状態が長く続いた事実は、剣を持つ者としてのセレスを打ちのめした。
 自分の裡にもうひとつの新しい命がある。普通なら至って喜ばしいことの筈なのに、セレスには困惑しかなかった。そしてこのとき、一番最初に相談すべき相手は…戦場の真っ只中にいた。
「…私は剣を棄てなければならないのでしょうか?」
「そうとも限らない。ただ、与えられた役目を果たすまでは…剣を措くことは必要よ」
 穏やかな老婦人は、丁寧な言葉でセレスの困惑を解きほぐした。まるで、繭から一本の美しい糸を導き出してみせるかのように。
「与えられた役目…?」
「ええ、地上のものではない誰かがお授けになる役目。わたしたちにしか出来ない役目。…悲しいことに、やむにやまれぬ…時にはひどく身勝手な理由からそれを拒む者もいるけれど。
 セレス、ひとつだけ確認させて。…あなたはその役目を望まない?」
 オリガの言葉は至極柔らかかったが、セレスは息を呑んだ。オリガはジェロームと所帯を持って診療所を開いている。衛兵隊兵舎のすぐ脇という立地ではあるが、近隣の平民の診療もしているから、そういった相談もあるのだろう。…拒む、という選択肢について。
「…拒む、なんて! それだけは…」
 それが罪であることぐらい理解っている。だが、それ以前の問題だった。それを、問われて初めて意識した。困惑はしても、拒むという選択肢はセレスにはない。
「…ならいいの。身体を大切になさい、セレス。授かったものをこの世界に迎え入れるまで、あなた一人の身体ではないのだから」
 表現はオリガらしく穏やかで丁寧だが、要は腹を据えろ、身を厭えということである。流石に我が子に加えて身寄りのない子を数え切れないほど面倒を見た女傑の言には重みがあった。
 しかし、この事実をエルンストに告げることに…セレスは得体の知れない困難を感じていた。只でさえ停戦のごたごたで王都はざわついている。イェルタ湾岸を襲った津波は軍に多大な損害を与えており、ほぼ無傷の第三隊は凶悪なまでの雑務に追われていた。
 挙句、頑健をもって鳴るエルンストが高熱を発して倒れるという事態に至る。
 後日になってこそ、「実は知恵熱だったんじゃあ…」などと軽口も叩かれたが、当時はエルンストの代わりに王城へ出仕するディルの顔色まで日増しに蒼白になっていき、第一隊・第二隊が重用される第三隊を妬んで一服盛ったのではないかという噂まで流れた。

 看病に当たりながら、うしなうかも知れない、と思ったとき…セレスは目の前が闇に閉ざされるような感覚に襲われた。

 ――――誰のものにもならないつもりだった。それが、疾うの昔にこれほど囚われていたなんて。

 セレスは、堪らなくなって旧主の下を訪れた。エルンストを救って欲しい、と。
 優秀な医者でもあるセルア館の主人あるじ、旧主・颯竜公レアン・サーティスが王都へ還御したことは、実のところセレスは数ヶ月前から知っていた。養い児である少女が、以前セレスがシルメナに赴いた時に偶然出会ってからすっかり懐き、その頃いとも気楽にひょいひょいと第三隊の隊舎へ遊びに来ていたのだ。
 旧主が王城との関わりを忌避するであろうことなど、訊かなくても判っている。近侍衛士たるエリュシオーネの名を棄てて館を出ておきながら、虫のいい願いだとも判っている。だが、他の手段を考えつかなかった。

 セレスの懇請を、旧主レアン・サーティスは快く容れてくれた。

 エルンストはあっさりと快復した。だが、直後に起きたミティア=ヴォリス誘拐未遂事件は…セレスが「大事な話」を切り出すタイミングを完全に奪ってしまったのだった。

 ――――――ミティアの狂気寸前の悲嘆が、他人事に思えなかった。

 与えられた役目を拒むことはできない。だが、剣を措くことでエルンストの傍にいられなくなることを思った時、身体がバラバラになりそうな不安を覚える。
『私は…どうしたら…』
 リュースからの入内要請以降、別邸にひきこもり、リオライ=ヴォリスにすら会わなくなったミティアの苦衷は、自身の願いと斯く在るべきと思う姿の間で押し拉がれそうになっているセレスのそれと…何ら変わるところはない。

 そう感じた時、セレスはミティアを支えることを優先する方を択んだ。

 ただ目の前の事実から目を逸らそうとしていたのではないかと言われれば、返す言葉はなかっただろう。そんなことは…不調の原因を旧主サーティスに見抜かれた後も、この一件が落ち着くまでエルンストには言わないで欲しい、と懇請したセレスが一番よくわかっていた。

 それは、エルンストが快方に向かい始めた翌日のことだった。
 サーティスの使いで薬を届けに来たマキを、セレスが馬で送る途中だった。ついでに薬草摘んで帰っていい?というから、セレスは快くそれに付き合った。そこで、不穏な場面に出くわしたのである。
 街道から外れた館址やかたあとに集まる騎馬の一団。外套マントはこの時期であるから妥当としても、打ち揃って覆面というのはよからぬ目的で徒党を組んでいることを大声で喧伝しているようなものである。
「イヤだなぁ。大事な薬が採れるとこなのに。あんな怪しそうなおじさんたちにたむろされちゃ通りにくい…」
 マキが露骨に眉を顰めた。…が、その騎馬の間に女物の服が揺れたのを見つけてセレスを振り返る。セレスもほぼ時を同じくして気付いていた。
「マキちゃん、此処で待ってて」
 馬を下りようとするセレスをマキが慌てて引き留める。
「あ、駄目駄目。見るからにアヤシげな騎馬の集団にかちで斬り込むとか無茶! 降りるんなら私でしょ」
 そう言ってさっさと自分が下乗してしまう。
「大丈夫、私だって身の程は知ってるから!ちゃんと此処で隠れて待ってる」
「わかった」
 一刻を争うのはわかっていたから、それ以上セレスも言わなかった。即座に行動に移る。
「衛兵隊だ。役儀によってただす。そこで何をしている!』
 一瞬、セレスの声が一団の動きを固めた。だが一人であること、姿ナリはともかくセレスが女であることに気付いたらしい。一騎がものも言わずに馬首をセレスの方へ向けて突進した。その時、既に抜剣している。
 しかしその男がセレスがレイピアを一閃させただけでものも言わずに落馬したのを見て、空気が変わった。次々と抜剣し、セレスに殺到する。
 騎馬の一団がとりかこんでいた娘は、既に意識を失っているようだった。男の一人が馬に乗せて連れ去ろうとしている。
 あのまま駆け出されるとまずいが。
 殺到する男達を捌きながらセレスがそう思った時、娘を乗せた馬にまたがろうとしていた男がもんどり打って落馬する。代わって鞍上に座を占めたのはマキだった。落馬した男は腰でも打ったか、呻きながら地を這っている。
 流石のセレスも一瞬呆気にとられた。だが、訊ねる間が惜しい。
「走って!」
 マキはセレスの短い指示で的確に動いた。乗った馬にひと鞭くれると、姿勢を低くして一目散に森の奥へ駆け込んだのである。
 だれが『ちゃんと此処で待ってる』と?セレスはいい囮になったわけだ。あの機転と度胸は誰に似たのだろう。この非常時にそんな埒もないことを考えてしまった自分が可笑しくて、セレスは口許に微苦笑を浮かべた。獲物と馬一頭をを目の前で掠われて茫然としていた男達が、セレスの笑みにいきり立って再び殺到する。しかし、二人ほどが斬り倒された段階で無駄を悟ったのか、地上で呻いている仲間を馬上に引き揚げて撤退した。
 セレスは追わなかった。
 セレスが館へ到着したのはほぼマキと同じタイミングだった。一目散とはいっても一人と二人では馬の速度は変わってくる。それに、意識のない人間を乗せて走るのはそれなりに難しかった筈だ。むしろ、館までに追いつけなかったことがセレスとしては驚きだった。
「このひと、怪我してる!」
 気絶した娘を降ろそうとして、マキが青ざめた。自分が運んでくる間に怪我をさせたのかと思ったらしい。
「…刃物の傷だな。しかもこれは…」
 馬蹄の音を聞きつけたか、サーティスがいつの間にか出てきていた。マキを落ち着かせるように、その頭に軽く手を載せる。そして娘を鞍から抱き降ろした。
「…ミティア様!?」
 思わず、セレスが声を上げた。顔を見る余裕などなかったから、今まで気がつかなかったのである。
「…ミティア…って、ミティア=ヴォリスか、あの?」
 サーティスの眉目に露骨な嫌悪が疾る。だが、マキは何も頓着することなく手当の支度を始めていた。それを見て、サーティスは舌打ちさえしかねない表情をうかべたが、ややあって割り切るように軽く頭を振る。
「仕方ない、とりあえず手当だ」

「自分で自分を?…痛いのに。どうして?」
 自分と変わらない年頃の娘が自らの身体を傷つけていたことに、マキは少なからず衝撃ショックを受けていたようだった。
 まさに騎乗せんとする賊の背後に忍び寄り、すねに一撃いれて落馬させる。そこにすかさず入れ替わるなどと…自分の方が余程危険なことをやらかしているわりに、ミティアのしたことが理解できずに青ざめていた。

 どちらの理屈もわかるセレスとしては、とりあえずマキに温かい飲み物を用意して落ち着かせてやるしかなかった。ミティアはといえば、傷の手当ては終わったものの、発熱していて意識がはっきりしない。
 ミティアの方は医者・・に任せるしかなかったが、帰ってきた直後にあれほどきびきびと手当の支度をした割に、いまになって衝撃を受け止め損ねているらしいマキを宥めるため、セレスはミティア=ヴォリスという娘のこと、聖太子とおくりなされた前王太子・サーレスク大公アリエルのこと…知る限りを説明する羽目になる。

 まだ少女と言われる頃に数度逢ったきりのアリエルに想いを寄せていたらしいこと、そのアリエルの自害に対し、何も出来なかったことで自身を責め苛んでいたこと…しかしそれが、自傷行為に至るほどに深刻であったという事実を知ったのは、セレスも今日が初めてであった。
 王太子アリエルは罠の存在があろうがなかろうが計画を実行に移すことを決意していたのだ。そして、理を尽くして国王に直奏し…容れられなかった時、シェノレスとの和議を失効させないために自ら命を絶ったのである。ミティアに出来ることは何もなかった。
 理屈では解っていても、それを納得できるかどうかは別物。そんな経験をこの少女がしたことがあるのかはわからないが、マキはセレスの話を真摯に聞いた。そして、最終的には不得要領といった面持ちながら言ったのである。
「…つまり、大好きだったひとがいなくなっちゃって、生きてるのがイヤになるくらい悲しかったのね。うーん…だとしたら、あの子に…辛くても、悲しくても…生きていたいって…生きていかなきゃって思える何かがあったらいいんだよね」
 セレスにしてみれば眩暈がするほどの正論を堂々と言ってのける。あの子、といっても厳密にはミティアの方が年長の筈だが…。
 不思議な娘だ。この子にかかれば、どんな問題もすべて明確で、すぐに解決してしまうような気がする。セレスはそう感じていた。そして、しなやかにつよい。新しい命のために、自分で決めた生き方を変えることにすら逡巡している自分とは比べものにならぬ。
 以前より旧主レアン・サーティスの表情がすこし柔らかくなったのも…この子と無関係ではないだろう。だがそれは、確実に好もしい変化である筈だった。
 セレスに淹れて貰った飲み物の椀に残った温かみを両手で抱えたまま、沈思黙考していたマキが、やおら顔を上げて宣した。
「生きていたいって思えるような何か…いっそのことお腹に子供あかちゃんがいるとかさ?そうすればきっと生きていたい、それどころか絶対死ねないって思えるよね、きっと!」
 大真面目にそう言ってのける少女に、セレスは返す言葉を見つけられなかった。