風花の賦

冬の森、雪催

 ミティアを館に帰すことが出来たのは、三日後であった。傷の方は大したことはなく、発熱と…なにより起き上がる気力さえ無くしてしまっていたことが問題だった。
 「衛兵隊のセレス」の立場としては早く別邸に報せをいれたかったところだが、別邸とはいえヴォリスの家の者にセルア館へ迎えを差し向けられても困る。どうすべきか悩み抜いた末、所在はともかく無事だけでも報せなければなるまいと肚を括ったところで、マキがどうにか説得に成功したのだった。
「今はまだ、どうしていいのかわかんないけど…生きてたいって思えるもの、一緒に捜そう?」
 剛毅木訥は仁に近しという。サーティスが最初から諦め、セレスが熟慮して結局何も出来ずにいたことー自害を思いとどまらせるーを、マキは取り繕わない言葉と真っ直ぐなまなざしで成し遂げたのだった。
 別邸の責任者たるゼレノヴァ夫人がリオライの逆鱗に触れることを畏れてまだ不在を本邸へ連絡していなかったことも幸いした。結局、事態を隠したいゼレノヴァ夫人と、旧主レアン・サーティスの関与を表沙汰にしたくないセレスの間で無理矢理話の辻褄を合わせたのだった。

 無論、襲撃は事実だったから、調査は行わねばならない。しかし別邸の者への聴き取りなど他の者に任せれば襤褸ー自傷、失踪の事実ーが出るのは火を見るより明らかだったから、機先を制してセレスが買って出たのである。

 問題はそれだけに終わらなかった。件の、懐妊の噂だ。

 根も葉もない噂など放っておけば良い、というのがサーティスの当初の立ち位置だったが、マキの言ったことが聞こえてしまった訳でもあるまいに、ほかならぬミティア自身がその幻想に囚われてしまったのである。
 噂が先だったのか、彼女が思い込むのが先だったのか。あるいはほぼ同時であったかも知れない。…ミティアは、いるはずのない赤児を身籠もってしまった。

 ミティアは狂ってしまった訳ではない。ミティア自身は幻想と現実の間を行き来しているような状態で、あるときにはひどく冷静で、あるときには悪阻つわりに近い症状を呈することもあった。そのためマキが、最初は話をして落ち着かせるために、間ではその「悪阻に似た症状」による衰弱を防ぐための処方を持って別邸に通うことになる。マキでは処方の判断がつかない場合、最終的にはサーティスが赴くこともあったから…結果として噂の信憑性を高めてしまったのだ。

 そして、その噂が若すぎる新王の背を押してしまう。そのことがミティアの退路を断ってしまったとも知らず。
 ミティアは元々、王の妃として入内させるべく先代のジェドが養女としてヴォリス家にひきとり、扶育していた娘だ。それは確かに公然たる事実であったし、この場合の「王」がジェドにとっては自分の娘であるレリア所生のリュースであろうことくらい、王都で知らぬ者はなかった。この国におけるヴォリス家の立場を知っている者なら、リュースがミティアの入内を希望したとしても何の不思議もない…むしろ、要望するまでもない既定の事項と見えたであろう。

 だが真相としては、新王・ラリオノフ公リュースは、兄アリエルが孤独な戦いを強いられる中で、自分自身が何も出来なかったことに大きな負債を感じていた。このため、噂を知ってミティアが産むアリエルの子を自身の後嗣とすべくそう申し出たのだ。
 ひとつ誤ったとすれば、リュースがその噂の真偽どころか、意味さえも斟酌せずに事を急いだことにあっただろう。
 かくて、ツァーリ宰相・リオライ=ヴォリスをして大いに困惑させる事態となる。その上、件の誘拐未遂事件がリーンの内紛に絡んでいたことから、最終的には第三隊が出動するところにまで発展したのだった。

***

 その間もセレスの身体の不調はつづいていた。しかし、セレスの裡にはヴォリス別邸内におけるミティアの警護だけなら過酷な環境に身を晒す気遣いはしなくて済む…そういうある意味で狡い心算もあったのだ。
 ところが、セレス自身が悪阻という現象を舐めてかかっていたことを思い知らされたのは間もなくのことだった。その挙げ句が、よりによって警護すべき対象の目前で立ち眩みを起こして膝をつくという醜態であったのだ。

「…赤児が、いるのですよ」

 その場にいたのはミティアと、あとは例によって話し相手として訪れていたマキだけだったから…観念して、セレスはそう告げた。
「ええっ!?」
 最初、目を輝かせて手を拍ったのは…勿論というかマキであった。だが、直後にふと顔を曇らせる。
「…ね、ひょっとして…まだ隊長さんに…話せてないの?」
 セレスは言葉に詰まった。旧主にことが露見したのはサーティスの医者としての知識と経験ゆえであったろうが…この娘の直観力ときたらその斜め上である。
「…どうしていいか、わからなくて」
 思わず、素直すぎる述懐をして…セレスは思わずその場に座りこんでしまった。
「わかんないって…なんで?」
「…この子に…会いたい…でも、そうするためには…今の場所を離れなくてはならない」
 我知らず、まだ外側からは全く兆候の見えない腹部に掌を当てる。それを見ていたマキが、半ば泣きそうになりながらセレスの傍らに座り込む。
「今の場所って…衛兵隊? そんなの、お休み貰えばいいじゃない!無事に生まれたら、また戻ればいいんだ。隊長さんだってわかってくれるよ。優しい人だもん」
 非の打ち所のない正論。そう、この少女は正しい。あの夜、エルンストを診に来てくれた旧主レアン・サーティスの前で気の緩みから倒れてしまった後にも、同じ意味のことを言われた。
 それなのに、まだ言わないで欲しいと懇請したのは…他でもないセレスだ。
 間違っているのは、事実を事実として正しく受け止めきれないセレス自身に他ならない。
「ちゃんと言おうよ。そうじゃないと、大変なことになる。…身体、つらいんでしょ?」
 目許を拭い、マキが決然とそう言った時、座り込んだままのセレスの正面に、ミティアが音もなく膝をついた。黒目がちの眸がひたとセレスを見つめる。
「…そのひとの傍を離れるのが、 つらいのね? すぐ傍にいて、その人を護れなくなるのが、辛いのね」
 セレスは呼吸を呑んだ。ややあって、受け止めきれない原因を言い当てられた気がして、詰めた息をゆっくりと吐き出す。
「…私の、わがままなのですよ。ミティア様。私は、あの人の傍を離れたくない。でも、この子にも会いたい。どうすべきなのか、最初から判っているのに…」
 そう、最初からわかっていた。ただ、決心がつかなかっただけ。だが、もう潮時だろう。
 その時、ミティアがセレスの腹部の上に置いた掌に手を重ね、ゆっくりと言った。
「あなたも辛い思いをしてるのに、こんなこと言ってごめんなさい。でも、私はあなたが羨ましい。だって、生きてるんですもの。そして、生まれてくるんですもの。…それが、凄く…羨ましい…」
 そう言ったまま後は声もなく落涙するミティアに、セレスは暫く茫然としていた。だがマキは暫時黙考の後、はたと手を拍つ。
「…それだわ」
「マキちゃん?」
「セレス姐さんが此処に居るのは、ミティア様を護るっていう衛兵隊のお仕事なのよね。じゃ、無事に生まれるまでずっとお仕事ってことで、此処にいたらいい。
 で、ミティア様はセレス姐さんが身二つになるまでちゃんと護ってあげて。そうして、生まれたらセレス姐さんが安心して仕事できるようにこの子を育てるの。あ、勿論私も手伝うから!
 ほら、解決っ!」
 明快に言い切られ、セレスは呆気にとられて暫くこの少女を見つめた。ミティアに至っては、流れ落ちていた涙さえ驚きの余りとまってしまったようだった。
「ちょっと待ってマキちゃん、そんな、簡単に…大体、そうするには宰相閣下に話を通さないと…」
「だから、やっぱりちゃんと話、しようよ?
 あの怪しい連中のことは大体目星ついてるの。だから、それをセレス姐さんから直接報告するっていうことにして、お兄さんには、王様の手紙のことも含めて本当のところを知ってもらうべきだよ。それから、セレス姐さんは姐さんで隊長さんに赤ちゃんのこと…きちんと言う!
 でもね、勿論…最終的にはミティア様、あなたからちゃんとお兄さんにお話するの。自分がどうしたいかなんて、自分の口で伝えたい相手にきちんと言わなきゃ!」
 マキはミティアの手を取り、その溌剌とした緑瞳でひたと見据えて言った。
「あなたにはもうひとつ、護り育てなきゃならない存在ものがある。…この国だよ。あなたが大好きだったひとが、命と引き換えで護ろうとしたんでしょ。
 サティが言ってた。この国、大怪我して、病気して、ものすごくつらいことになってる。…でも、まだ生きてる・・・・・・。だから、治してあげなきゃ。護ってあげなきゃ…ミティア様、あなた自身が!」
「…私に、なにか出来る…?」
 ミティアの声はか細かった。マキは、一瞬だけ躊躇ったあと、昂然と言った。

「王妃になれば…この国の舵取りに参加できるよね」

 ミティアはおろか、セレスでさえ声を失った。
「ミティア様、大事なことだから答えて。…あなた、今の王様のこと…キライ?」
「マキちゃん…!」
 余りに直截な問いに、セレスが思わず遮ろうとする。だが、ミティアは弱々しくはあったが微かに微笑み、首を横に振った。
「お優しい方です。そして、あまり頑健とは言えないお身体なのに、懸命にご自身の職責を果たそうとなさっている…」
 マキがニッコリと笑う。
「…だったらいい。大丈夫だよ、機会チャンスなんて、私とサティでなんとでもしてあげる」

 なんとでもしてあげる、といわれても、言うほど楽ではないのはあきらかだ。だから後日、ヴォリス本邸から宰相リオライ=ヴォリスとの面会が叶う旨の連絡を受け取った時、セレスは耳を疑った。
『姐さんはとにかく、王様の手紙の件と、人攫いのおじさん連中のことをちゃんと伝えて。その上で、ミティア様と直接話してもらおうよ。
 ごめんね、ミティア様。その時私、傍についてあげられない。だって、私がいたらお兄さんにサティのことまで喋らなきゃならなくなる。…それは今、できないから』