巣立ちの唄

巣立ちの唄

「やっぱり、疑ってたね」
 喬木の影に身を潜めたセレスに、ディルは弩の照準を定めたままゆっくりと距離を詰め…足を止めた。弩の有効射程、かつ、セレスの間合いの外だ。
 いつもの剽軽ひょうきんさを装いながら、全く別の…独特の冷たさを持った口調。セレスがそれを恐ろしいと思ったのは、初めてだった。
「…あなたを疑ってたわけじゃない」
 隊内の誰かが関与している可能性。エルンストはそれを危惧した。だからセレス一人に探索を預けた。だが、まさか。よりによって。
「残念だ。ディル」
 セレスは剣を握る手に力をこめた。ディルは自身の有利が間合いにあると熟知している。向こうからは決して踏み込んでは来ない。ただ、ディルとて今、企てを知った自分セレスを取り逃がせば全てが崩壊することなど百も承知の筈だ。殺すか、捕らえるか。この場面で、それ以外の選択肢はあり得ない。
 ディルは、ここでセレスを殺せば当面の秘密は守れる。だがその逆は…セレスの手には何も残らない。ディルが叛乱に加担しているなら、セレスとしてはその情報をディルから引き出す必要があるからだ。互いに、技倆、手の内は識り尽くしていると言っていい。だから捕らえるにしても、無傷というわけには行かないだろう。むしろ、手一本足一本斬り落としてでも必ず生かして捕らえなければならない。

 不利だ。セレスは奥歯を噛み締めた――――。

***

 王太后がその叔父と結託し、宰相たる実弟を暗殺して政権奪取をはかるという陰惨極まりない構図。宰相暗殺計画に始まる五日間戦役は、刺客によって重傷を負った宰相が一時重態に陥るも命を取り留め、迅速に反攻に出たことで構図が逆転する。主導者と目された王太后は拘禁の後に地方荘園で蟄居、実働の指揮を執る算段であった叔父は逮捕を遁れて東部軍との合流をはかる前に戦死という結末を迎えた。
 重傷を負った宰相リオライが事態を五日間という極めて短い期間で収拾できたのは、20年近く行方不明だった先王弟・颯竜公レアン・サーティスが宰相の招聘に応じて叛乱軍の鎮圧に当たったからだ。
 衛兵隊第三隊隊長・エルンストは、その颯竜公の招聘に大きな役割を果たし、また俄に編成された颯竜公直属師団の団長として五日間戦役の鎮圧にも尽力した。しかし部下から反逆者…宰相暗殺未遂事件の実行犯を出したことを理由に、戦役平定後辞任を表明する。
 五日間戦役の火蓋を切った事件において実行犯となった衛兵隊第三隊副長のディルは、エルンストが腹心と恃んでいた人物であり、エルンストが隊長となる前からの友人でもあった。
『…隊長。あんたの軛、俺が砕いてやったよ』
 宰相リオライに瀕死の重傷を負わせ、自らも致命傷を負って狂気とも嘲笑とも知れぬ笑みを浮かべ事切れる寸前…ディルは、エルンストに向かってそう言ったという。
 彼が一体何を思って叛乱に加わり、宰相暗殺という暴挙に出たのか、結局明らかになっていない。確かなのは…この一件が、エルンストにツァーリと衛兵隊から離れる決心をさせたということだけであった。

***

 衛兵隊第三隊に籍を置くセレス。彼女はかつて、颯竜公家の近侍・エリュシオーネのケレス・カーラであった。
 まだ少女と呼ばれる頃、彼女は命を狙われた颯竜公を西方へ落ち延びさせるため死を装った。颯竜公を庇って傷を負ったものの、一族によってその生存を秘されたのである。そして後にセレスを名乗って館を出た。
 それは他ならぬ、エルンストの言葉がきっかけであった。
妖精リャナンシーだろうが化猫だろうが、今更俺は動じんよ。俺のところに来い。
 …俺は、お前が欲しい』
 そう言って差し出された手を、彼女は即座にとることが出来たわけではない。エリュシオーネとしての本分を全うしたいという意志と、差し出された手の朴訥な誠意の狭間で相応に悩みもした。
 そして下した結論を、彼女は衛兵隊第三隊に加わることでエルンストに示したのだった。
『私はセレス。誰のものにもならない。私は、私自身の望みのままに生きていく。何も約束は出来ない。…でも、今はあなたの傍にいる』
 そう宣言した彼女だったが、自身の心を完全に整理できたとは言い難かった。結局、ある事件をきっかけに…『セレス』としてではあるが、再び颯竜公の居館たるセルア館に出入りするようにもなる。
 ある事件…ミティア=ヴォリス誘拐未遂事件である。
 王太子アリエルの自害を止められなかったことに苦しみ、心の均衡を失いかけていた宰相家の養女ミティアが、リーンの内紛に巻き込まれたのである。その場面に遭遇したのがセレスと、颯竜公に養われていたマキと呼ばれる少女であった。
 マキ。つやのよい黒髪と闊達な緑瞳が印象的なその少女は、そろそろ少女というより娘と呼ばれてもおかしくない歳ではあったが、常に髪を短く切り揃え、活動的な狩着チュニックを着て軽捷に動き回る様子は、少年といっても通る。何も知らぬ者が見れば、颯竜公の小姓か従騎士と信じて疑わなかったであろう。
 颯竜公の仕込みであろう。およそ、宮廷書記官でもこれほどの博識はそうはいまいと思えるほどの知識を、この少女は有していた。セレスでさえ一瞬たじろがせる程の行動力に加え、洞察力にも長けており、他愛ない話をしていてもセレスは時々はっとさせられることがある。
 生きる気力さえ喪いかけていたミティアを辛抱強く説得し、ミティアに共同統治者たる王妃となることで聖太子アリエルが護ったツァーリを護り育てようという決意をさせたのは、他ならぬ彼女マキであった。
 その頃、自身の裡に新しい命を授かりながら…そのことをエルンストに告げることも出来ずに去就を決しあぐねていたセレスに一つの解決を与えたのも、またこの少女である。
 結果としてセレスが生んだ嬰児は『エミーリヤ=ヴォリス』としてミティアの手許で育つこととなり、セレスは衛兵隊に身を置いたままそのミティアを陰ながら支えることに…意味を見いだしつつあった。
 その矢先に勃発したのが、五日間戦役である。
 セレスは、隊長エルンストの命で叛乱とそれに連動する動きについて内偵を続けていた。しかし旧主からシードル卿謀反の決定的な証拠となり得る密書を見せられた時、目指すものを見つけた高揚感よりも深い困惑に苛まれ途方に暮れることになる。
 おおかた、シードル卿にしてみれば現在のヴォリス宰相家を快く思わない勢力に片っ端から当たったのであろう。旧主レアン・サーティスがそんな誘いを一顧だにしないし、旧主が王都から再び姿を消したのもセレスに密書を有効・・に使うよう示唆されているのだと理解ってはいたが…セレスとしてはそうすることで静かな暮らしを望んでいる旧主を王城へ引っ張り出すことへの躊躇がまさった。
 ――その結果、他の証拠を得んがためにシードル卿の周辺を探っていて、ディルの裏切りに突き当たったのである。

***

 まさか、と思った。
 シードル卿の関係先である建物からでてきたディルを認めても、一瞬セレスはその状況を整理しそこねた。シードル卿は仮にも宰相家の係累であり、王城でも相応の地位を持つ人物である。衛兵隊のディルが接触を持つのはそれ自体何も問題は無いはずだった。ただ衛兵隊第三隊は身分は低いながら現宰相リオライ=ヴォリスの信篤く、旧勢力から毛嫌いされていたから、不自然と言えばそうだ、という程度であった。
 ――――ディルが、セレスの姿をみとめるなりクロスボウを向けたりしなければ。
 セレスにできたのは、全力で回避することだけだった。ディルは剣を取っても決して人後に落ちる者ではないが、弩の速射にかけては抜きん出ていた。自身の弩に改良を加えて速射に対応しているのもあるが、ただ数が撃てるだけでは戦場ではともかく王都の警察機構としての衛兵隊ではものの役に立たない。その正確性は隊内随一。だからこそ、イェルタでレオン狙撃にも一役買ったのである。
「残念だ。ディル」
 何かの間違いであってほしかった。喬木の陰からディルの気配を窺いながら、唇を噛む。
 間合いが悪い。接近戦に持ち込めれば、相手がディルでも互角の勝負をする自信はあった。しかし、ディルがクロスボウを手にしている以上、これだけの距離があれば相当なダメージを覚悟しないと一撃入れることさえ難しいだろう。
「…訊いていいか。何故だ?」
「やっぱり、裏切ったと思ってる?」
「叛乱の首魁はシードル卿だ。現宰相リオライ閣下を排することがその目的」
「ご名答」
 嘲笑するかのような声音だった。
「証拠は挙がっている。宰相閣下がエルンスト隊長と第三隊にどれだけ信を置き、重用なさっているか…その閣下を排そうとする企てに加担することが、隊と隊長に対する裏切りでないという理屈が成立するなら…聞いてみたいものだ」
「冷静だね、セレス。俺が独自に内偵してたのかも知れない、とかいうありきたりな希望的観測に陥らない…貴女のそういうとこ、俺は尊敬してるよ」
 セレスが身を隠している喬木の幹に矢が突き立つ音がした。明らかな威嚇。
「俺はね。裏切ったつもりはないよ?俺は俺の落とし前をつけるだけ」
「…落とし前?」
「セレス、知ってた?貴女が第三隊うちへくる前…あのひと、隊長職とか真っ平御免って逃げ回ってたんだよ。それが俄にはら括ったのって…なんでだったんだろうね」
「…何の話をしたいのか、理解らないな」
 その言葉は確かに間合いをはかり、隙をみつけるための時間稼ぎではあったが、セレスにとって偽らざる問いであった。
 ディルは笑う。
「まあ、聞いてよ。俺だってあのひとに隊長になって欲しかった。クラウスの親爺さんが引退したがってるの知ってたから、隊長なるならあのひとしかいないよなって。…だから俺、あの話が出たときは両手もろでを挙げて喜んだクチなんだ。俺からも勧めたし、隊の皆に働きかけもしたさ。でもね、俺は今それを後悔してる。
 俺達はあの時、あのひとを軛に繋いでしまったんだ。アーン 1の脚に鉄輪を着けて、ツァーリって軛に繋いでしまった。俺は何も考えてなかった。それがどれだけ残酷なことなのか、考えもしなかった!」
「隊長が…この国ツァーリに繋がれてしまった…と?」
 セレスは愕然とした。考えたこともなかったからだ。
「俺達は傭兵だ。屋台骨が腐りかけたツァーリなんか捨てて、またどっか行ったって良かった筈なんだ。そうせずにぶっ倒れるまで走り回ってたのは、隊長がこの国に縛られてたからだろ。違うか、セレス?
 俺はあのひとの軛を砕く。それが俺の落とし前だよ」
 ディルの声が熱を帯びて吊り上がっていくのを聞きながら、セレスは逆に胸腔に霜が降りるような感覚を味わっていた。
 エルンストが西方といわれる世界よりも向こうの土地から流れてきたことはセレスも知っている。本来、一カ所に定住するのをこころよしとはしないたちだろうということも、薄々ではあるが気付いてはいた。  いつまでも、このままではいられない。それを解っていながら、セレスは気付かない振りをしていた。そのことを今…驟然しゅうぜんと突きつけられた気がしたのである。
 黙ってしまったセレスに、ディルもふと自身が喋りすぎたと感じたのかも知れない。ディルが口を噤み、弩を改めて構えたのが判った。しまった、今踏み込んでおけば。
「証拠が挙がってる?嘘喝ハッタリだね。もしそうなら、貴女が地道に探索を続ける意味がない。証拠があるなら、さっさとあの狸爺たぬきじじいどもをまとめて刈り取ってしまったらいいんだ。足回りに誰がついてようが、頭を落としてしまえば関係ないんだから」
 セレスは返答に詰まった。そう、ディルは正しい。明確な証拠が存在するなら、それを明示してシードル卿を拘束すれば良いのだ。自身の理由でそれをしなかったセレスの失策だった。
「出てきなよ、セレス。…俺を捕まえて口を割らせることが出来たら、何か決定的な証拠が出てくるかもね?」
 二の矢が装填される音を、セレスは聞いた。
「――っ!」
 装填中だ。そう判断した。
 木の陰から飛び出したセレスに、間髪いれず黒羽の矢が襲いかかる。その瞬間に、自らの失敗に気付いた。もう一つの弩…馬の鞍に提げられていた装填済みの連弩2がディルの手の中にあったのだ。
 通常の弩には弓ほどの速射性はない。それを補うため、ディルはしばしば二つ目の弩…大概は連弩を乗騎の鞍から提げている。――分かっていたのに!
 灼熱感が左腕を抉る。自身が焦りから判断をたがえたことを、セレスは自覚していた。だが、ディルもまた舌打ちした。セレスの動きを確実に止めるべき一射がセレスの左腕を掠めたにとどまったからだ。
 セレスが踏み込む。ディルは後退せず、剣を抜いて受けた。
「では、確実な証拠とやらを此処で抑えよう」
「やってごらんよ」
 ディルの笑いは、いつもと何も変わりが無いように見えた。ちょっとおどけたふうをしながら、必要なときにいつでもエルンストが隊を動かせるように準備を整えている。副官としては得難い人物だと、セレスも思っていた。
 つい先刻までは!
 ディルは剣をあわせた瞬間にセレスが放った投げ刃を躱し、腰に横様よこざまに帯びていたソードブレイカーを抜いた。
 セレスのレイピアがソードブレイカーの櫛刃に捕らえられる。
 だが、レイピアを折られる直前にセレスは剣から手を放して身を沈め、両手が塞がっているディルに足払いをかけた。ディルは転倒はしなかったものの態勢を崩す。
 ソードブレイカーに絡め取られたセレスのレイピアが音高く折れた。セレスは零れ落ちたその切っ先を捉えてディルへ向けて打つ。仰け反ったディルの頬を薄い緋色の線が走る。
 次の瞬間、セレスは後退していた。
 セレスの脳裏には、宰相とリーンの使者との接見予定が閃いていた。ディルが絡んでいるなら、あの機会を措いてあり得ない。此処は何としてでも退いて、この事実を一刻も早く隊長に報せるべきだ。
 走り出す。だが、ディルが態勢を立て直すのは早かった。
 セレスは矢羽根の唸りを聴いた。すぐ傍の立木に矢が突き立つ。第2射も辛うじて躱す。あと1射躱せれば有効射程外だ。そう思った時、背に灼熱感が襲いかかり、跳躍するために足をかけていた倒木の幹から足が滑る。
 そのまま、落ちた。
 倒木は森の只中にあいた深いあなの上に倒れていたのだ。一年前、アレクセイ=ハリコフが文書館を脱出するのにも使った地下通路。王都を縦横に走っている通路の中には、崩れかけ地上に接しているものもある。
 セレスはまさに、その坑に落ちたのだ。陥没した地面の周囲には木が生い茂り、完全に隠れていたから気が付かなかった。木の枝や蔓に引っ掛かりながら、どれだけの距離を落ちたのか。
 だが、木の枝や蔓のお陰で墜落死は免れた。矢傷の他に数え切れないほどの擦過傷はあったが、骨折はなかったのだ。ディルも坑の下まで追ってはこなかった。
 まだ、戦える。
 しかし、木や蔓が生い茂っているといってもその坑を登るのは容易ではなかった。背の矢傷の痛みで片腕に力が入らず、何度か滑り落ちそうになりながら…ようやくセレスが地上に這い出た時には、もはや一刻の猶予もなくなっていた。

  1. Ernアーン…エルンストという名前の一般的な愛称・略称のひとつで、オジロワシの異称でもある。
  2. 連弩…連射機構、もしくは一度に複数の矢を撃ちだせる機構を備えた弩の一種。速射性はあるが威力で落ちるといわれる。デイルの場合は連射機構。