巣立ちの唄

巣立ちの唄

 セレスは隊長職を引き継ぎ、それまでエルンストが使っていた戸建ての隊長用宿舎へ移った。入れ替わりに隊を辞したエルンストはセレスが間借りしていた離れに寄留することになる。
 しかし実の処、ジェロームとオリガはセレスが館を出て衛兵隊へ身を寄せた時から彼女を二人の娘として遇しており、離れはそのまま、セレスが帰省するときの部屋というのがジェロームとオリガの認識だったのである。有り体に言えば、エルンストはそこに転がり込んだだけだ。
 旅の支度を調える間を、エルンストはこの離れで過ごしたのだった。

 ――――月が、星々を圧して皓々と輝いていた。

 セレスが離れを訪れた時、エルンストは、アレクセイ=ハリコフから餞別として贈られた地図を机の上に広げていた。
 〝ユーディナの文書館で一番範囲が広く、一番詳細〟とのアレクセイ折り紙付きの地図である。アレクセイがセレスの依頼で作成した写本であった。耐水性に優れた紙で丹念に装丁されたその写本を見て、セレスはアレクセイがこの短い期間で真摯に依頼に応えてくれたことを知った。
 ただ、セレスはそれが彼女からの依頼であることは伏せてくれるように頼んでいた。そのため、アレクセイからエルンストへの餞別という形をとったのである。
 ただ、エルンストは卒然と此処を来訪したアレクセイにこれを渡される時、怨言うらみごととしか聞こえない送辞を蜿々と聴かされたらしい。…曰く、
『本来、門外不出なんですからね? 殿下にはリオライ様と違って、有事に動ける私兵がいるわけじゃないですし、この国もまだ平穏というわけではありません。ですから私として正直な処を言えば、あなたにはまだこの地で摂政殿下の力になってあげて欲しいんです。
 でもまぁ、あなた自身が居づらい状況なんだってことは分かってますし、何よりあなたには殿下とリオライ様を引き合わせてくださった恩義があります。だから、私にできることをさせて頂きました』
 異国への旅路に正確な地図ほど有難いものはない。くれるというものを断るエルンストではなかったから、アレクセイの言葉になにやらチクチクと刺さるものを感じながら…遠慮なく受け取った。
 しかし後刻、場違いな来客に何事かと様子を見に来たジェロームに向かって『あの御仁…結局慰留したいのか、とっとと出てけ薄情者、って言いたいのか、よくわからなかった。どっちにしても、書記官長があれほど執拗しつこい御仁とは思わなかったなぁ』とぼやいてジェロームを苦笑させたのだった。
「…とりあえず、東…リーンを通って、南の海のほうへも行ってみるつもりだ」
「…南…シェノレスへも?」
 地図の上、南海に散らばる群島に目を落として、セレスは穏やかに問うた。
「気が向いたら…かな。ついこの間まで戦をやってた国だ。直接に刃を交える機会がそれほどあったわけじゃないが、さすがに躊躇ためらうな。ただ、南海航路とやらに興味もある」
 そう言って、エルンストが笑う。…笑って、ゆっくりと切り出した。
 ─────明日、旅立つと。
 一瞬の空隙があった。だが、セレスの声に揺らぎはない。
「では、明日は旅立ちの日ね。さきの宰相閣下もノーアへ発たれるとか」
「ああ、聞いてる…」
「明日の朝は…殿下に頼まれて、マキちゃんの支度を手伝ってくるわ。ひるまでかかりはしないと思うから…送らせて」
「それは構わんが…支度?」
 エルンストが訝しむ。やはりマキが軽捷に馬を駆る姿しか思い浮かばないものだろう。セレスはあえかな苦笑を浮かべた。
「颯竜公の名代として、ラリッサ公主リュシアン=ミアレスが前宰相リオライ卿に旅の餞を贈る。…儀式には、相応の支度があるわ。あの子は少々辟易していたようだけど、大事なことだから」
「…そうだな」
「そして殿下はそのまま、あの子をノーア佐軍卿にお預けになる…つもり」
「…は? 愁柳に!?」
 エルンストが一瞬目を瞠り、次にしばたたかせる。
「殿下からはまだ内密にと言われているけど…ノーアの佐軍卿閣下はあの子をリオライ卿の正室にとお望みだそうよ。殿下もそれを是とされている。正室云々はともかくとして、あの子自身がリオライ卿の力になりたいがために…いままで色々なことを学んできたのだから」
「やっぱりあの嬢ちゃん、最初からリオライのこと識ってたのか。何かあるとは思ってたが…。じゃ、サーティスが言ってた…あの嬢ちゃんの〝なにやら遠大な計画〟ってのは…」
「殿下自身は最初からご存知だったようだけれど。…知らない振りを通されていたのね。それでいて、ご自身の知識や技術を惜しみなく与えただけではなく…ラリッサの名跡を含め、大陸中何処の王侯にも釣り合うだけの支度をなさっていた。
 …本当に、大切になさっていた…」
「それでも、手放すんだな。あの、緑瞳の鳥を…」
 エルンストはいっそ痛ましげな表情を湛えて大きく息を吐いた。
 セレスの脳裏を、庭園で『昇翔賦』を奏でる旧主の表情がよぎる。おそらく、エルンストも同じことを考えているのだろう。雛鳥は、いつか巣立つ。それはとても寂しいことだけれど、雛鳥をより広い空に放つために大切なこと。
 地図に目を落としたまま、エルンストは問うた。
「…セレス。サーティスが…な。只酒が飲みたくなったら、いつでも館に来いとさ…。セレス…俺は、ここへも…戻ってきていいのか…?」
 思わず、セレスは呼吸を停める。声が震えないように、セレスは少なからぬ努力を要した。
「…それを訊くの?」
 エルンストが顔を上げる。それまで、やや逸らしがちだった黒褐色ダークブラウンの眼がひたとセレスを捉えた。
「此処を離れたいっていうのは…俺の我が儘だ。
 書記官長殿の言うことは正しいさ。俺はサーティスに『俺を王城に引きずり出しておいて、自分ひとり夢を追うつもりか、この薄情者』って言われたとしても、返す言葉がない。この上、お前まで連れて行きたいって言ったら…それこそ俺は、今度こそあいつに殴られるだろうな。…いや、殴られるぐらいのことはこの際甘んじて受けてたっていいんだ。何より、お前が護りたいと思ってるもの全てを手放させる権利なんぞ、俺にはない。
 …だから、『一緒に来てくれ』とは口が裂けても言えなかった。そうして、俺はお前に択ばせたんだ。
 狡いんだ。卑怯なんだよ。それは判ってる。
 それでも、お前が赦してくれるっていうなら…俺はまた、此処へ帰ってきたい。…帰ってきても、いいか…?」
 言うべきことを言い切ってしまって、エルンストはセレスを見つめたまま口を閉ざす。
 セレスは椅子に掛けたままのエルンストの背に身を寄せ、その両腕で背中から抱き締めた。そのまま、エルンストの耳朶のすぐ傍で…ゆっくりと告げる。
「私は私の望みのままに生きると決めた。…私は此処にいて、護るべきものを護る。それが私。
 だから怪狼フェンリスウォルフでもアーンでもいい…あなたもあなたのままでいて、エルンスト。
 行くあてのない旅に地図は要らない。その地図は、此処へ戻ってくるために持っていて。そして見るべきものを見たら、帰ってきて。…私は、此処にいるから」
 囁くような声になったのは、声が揺れるのを押し止める方法が、ほかになかったからだ。
「ありがとう、セレス…」
 エルンストがセレスの腕に触れる。そうしてセレスの腕をそっとほどいたのは、立ち上がってセレスを抱き締めるためだった。

***

 王都の森の周囲に北面・東面・西面の城壁に囲まれた街があり、これらを総称してツァーリ王都ナステューカと称する。王都の森の南側だけは城壁が存在しないが、その分王都の森が天然の要害として整備されていた。王都の森南側からの道を真っ直ぐ北上するとまず衛兵隊第三隊の屯所に行き当たるのは、その一環でもある。
 セレスは東区ヴァストークと称される東側の城壁に囲まれた街区にいた。つい先程、東の城門からエルンストを見送ったのだ。
 任を外れることができるのは午前中だけだ。この足で王城へ回り、その後は摂政府を兼ねるセルア館へ赴かねばならない。この日でよかった、とセレスは思う。
 通り抜ける市場は盛況だ。王城へ着く時間を考えると道草を食っている場合ではないからその賑わいを横目に見るだけだが、シェノレス叛乱や先だっての五日間戦役の影響で一時物流が滞り、行き交う人々にも活気がなかった。それが日々、回復していくのが分かる。

 ふと、黒っぽい何かがセレスの眼前を行き過ぎた。思わず手綱を引いたが、すぐにその正体は知れた。
 燕だ。道の脇にある商家の軒先に巣を営んでおり、そこへ餌を持って帰ってきたのだった。銀鼠色の巣から、小さな嘴が並んで覗いているのが見える。セレスはあえかに口許を綻ばせ、馬を進めた。

 ――――今朝のことだ。オリガが腕によりをかけた「ラリッサ公主リュシアン=ミアレス」の仕上がりは最高と言うべきだった。

 仮合わせの時にはひたすらぶつくさ言っていたマキが、今朝という今朝はやや青ざめて口数が少なかったのが気にはかかっていたが、ともかくも彼女を出立させ、セレスはこのヴァストークでエルンストと待ち合わせたのであった。
 マキの様子が、慣れない衣装以上に…昨夜旧主から申し渡されたであろう用務の所為であることはあきらかだった。だが、セレスにはもう…マキの選択はわかっている。

 森に入ると、喧噪は遠くなり、鳥の声と微風に揺れる木々の囁きが周囲を満たした。

 古謡『昇翔賦』は旅立ちの詩だ。巣立ち、そして惜別の詩でもある。
 しかし今、セレスの耳に届く鳥のこえは、惜別を謳ってはいなかった。

 どれだけの時が過ぎようと、必ずまた逢える。
 だから、私は此処に居る。

END AND BEGINNING