第参話 Moonlight Waltz


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

すべて世はこともなし
第参話

 

Moonlight Waltz


 その夜、シンジは不思議な夢を見た。
 銀色の天使が、傷ついた羽を休めにベランダへ降りてきたのだ。
 ごめんね、迷惑かけないから。
 ぽたぽたと、血を流しながら天使が笑う。
 気にしなくていいよ、もう行くから。
 応急セットをとりにあたふたと部屋へ戻ったシンジが再びベランダへ出たとき、天使の姿はもうそこにはなかった。
 ベランダから身を乗り出して、あたりを見回す。
 シンジの視界は、猫の子一匹とらえることはできなかった。
 思わずシンジは叫んでいた。
「カヲル君!? 何処へ行ったの!?」

***

「どないしたんや、朝っぱらから景気の悪ィ顔してからに!」
 心臓が飛び出しそうな勢いで背中をひっぱたかれ、シンジは思わずのめって額を机にぶつけてしまう。
「あたたた・・・・」
「なんや、いつもみたいにぼさっとしとっただけかいな」
 情け容赦のない言いぐさではあった。今日はヒカリのお弁当がある日なので、トウジは殊の外浮き立っている。もはや、何を言っても無駄、というレヴェルだ。それを悟っているシンジは、額を擦りつつ小さく吐息を一つついただけだった。
「おい碇、本当に大丈夫かよ。何か今日はボケ具合に拍車がかかってるぞ」
「うーん・・・・ちょっとね」
 確かにシンジが「ぼうっとしている」のは珍しい話ではないが(それにしてもえらい言われようだ)、今日という今日は寝不足と考え事との両方であった。
 あの後完全に寝そびれてしまい、明け方近くまでまんじりともしなかった。少しだけ眠ったのがかえって逆効果で、学校に着いた今もまだすこし目がさめきらないような気がしていた。
 出がけにベランダを見てきたが、血の痕らしいものは見当たらなかった。白い腕を伝うほどの出血が、ベランダに落ちなかった訳はないのだが・・・・。
 それとも、やっぱり夢だったのだろうか?
 寝惚けて応急セットを持ち出したのだろうか?しかし、それが一番まともな解釈という気がしていた。
 何と言っても、碇家は7階にあるのだ。7階のベランダにそうそう簡単に出入りできるわけがない。・・・というより、できるような造りでは、困る。
 そして解釈をもっと難解にしているのは、件の天使がカヲルそっくりだったということだ!
 カヲル・・・渚カヲル。同じ中学の3年生で、クラスメイトである綾波レイの兄。そして、不思議な出会いをした友人。
 まともに登校するようになったのはつい最近の話だが、かつてレイが男子生徒を一網打尽に信奉者としてしまったがごとく、カヲルもまた全校女生徒の崇拝を一身に受ける身となってしまった。そのうえカヲルの場合、レイの信奉者の他にアスカ派やミサト派もいてそれなりに勢力を分割したような事情が成立しない。
 シンジあたりからすれば気の遠くなるような話だが、本人は至って瓢瓢としたものである。そして追っかけの目を盗んでは、シンジの所へ遊びに来るのだ。
 ケンスケあたりは『全校女生徒の嫉妬の炎で消し炭にされかねない』などと脅すのだが、男子生徒が集団でつるんでいたところで嫉視される謂われはあまりない。どちらかというとカヲルのようなタイプは同性からは好かれにくいものだが、そこらあたりは心得たもので、トウジを食物で、ケンスケをミリタリーマニア垂涎の極秘情報とやらですっかり懐柔して上手に利用していた。
 …しかし、食べ物はともかく、情報通のケンスケを唸らせるような情報なんて、何処から仕入れてくるのだろう。
 ともかくもシンジの日常は、僅かな変化はついたものの、平穏だった。
 少し息を弾ませて、レイが着席する。どうやら今日も起きたのはぎりぎりだったようだ。
「おはよ、綾波」
「あ、おはよう、碇君」
「今日、カヲル君は?」
「あ、多分休みだと思うわ。とりあえず一限はパス、とか言ってたから」
「怪我したの!?」
 シンジが急に声を大きくしたので、レイはびっくりしたように目を見開いた。
「ううん、そんなことないよ。ただのエスケープでしょ。どうして?」
「ごめん、何でもないんだ。変なこと聞いてごめんね」
「そんなのいいわよ・・・でも、本当にどうしたの?」
「はは、本当につまんないことなんだ。ほんと。ごめんね、びっくりさせちゃった」
「うん・・・・・・?」
 そうはいうが、怪訝そうにシンジを見る。
 しかし、カヲル君が怪我をしている夢を見たんだ、などと真顔で喋るのも・・・・どうにも間が抜けていた。
 夢を見たんだよ。そう自分に言い聞かせて、シンジは席に戻った。

***

 ――――――うたた寝をしていたらしい。
 カヲルはゆっくりと目をあけた。
 帰ってきたのが6時前で、シャワーをつかって、レイの分の弁当と朝食を用意して、横着な眠り姫を起こす。そして送り出してから・・・・。
「眠ってたんだ・・・・・」
 もう陽が高い。不自然な格好で横になっていたせいか、少し身体が痛かった。
 軽く伸びをして、身を起こす。頭が少し重い・・・・。
 パンをトースターに放り込み、コーヒーを入れるために湯を沸かす。普段のカヲルならこれくらい動く間にはっきりと覚めるのに、今日はなぜかいつまでも霞がかかったような具合だ。
 パンが焼きあがるまでに顔を洗うくらいの暇はある。タオルを一枚出して、カヲルは洗面所へ行った。
 冷たい水は、さすがに目を覚ますには十分だった。
 タオルで顔を拭いたとき、ケトルとトースターがカヲルを急き立てる。
 慌てて身を翻したとき、鏡の中の紅瞳に一瞬だけ動きを止めた。
 ――――――そうだ、変な夢を見た。あんなことを言われたから・・・・?
 だが、それ以上は立ち止まってなどいなかった。キッチンに戻り、ケトルを黙らせてトーストにバターを塗る。
 あのとき、幸せな夢の中にいるはずの彼女が、その目にはっきりとカヲルを捉えて笑った。
『冒険も程々にね。怪我するわよ』
 暗示が解けかかっての混乱か。否、そんなふうではなかった・・・・。第一、あのひとは他人に向かってあんなもの言いはしない。
・・・猫ならばともかく。
 誰を見ていたのか?
 既に用事は済んでいたし、暗示が解けかかっている可能性が絶無でない以上、下手につつくような真似は出来なかった。だから、おとなしく撤退したのだ。しかし、気になることは確かだった。

***

「白状なさい」
 と、ダークブルーと深紅の瞳に二方から詰め寄られては、シンジに勝ち目はない。
 学校帰り。シンジがパーラーなぞにいるのは、アスカとレイの二人に殆ど首根っこを掴まれるようにして連れ込まれた所為である。
「ふたりとも・・・そ、そんなにムキにならなくても・・・・・」
 笑って誤魔化そうにも無駄だった。シンジを挟んでいまだ互いの距離をはかりかねている二人だが、なかなかどうして怖いくらいのコンビネーションである。
「シンジがぼーっとしだすとろくなことないんだから。またぞろ失踪されちゃ困るのよ、この鈍感不感症莫迦シンジ!」
 なにもそこまで言わなくても、という感はあったが、現についこのあいだ周囲に大迷惑をかけた前科者としては、ここはひとつ、おとなしく白状せざるを得ない。
 ・・・しかし、話すとしても爆笑されるのがオチのような気はしたのだが。
「そんなにぽんぽん怒鳴らないでよ。話すから。・・・・笑わないでよ?」
 結局、かいつまんで昨日の夜のことを話す。
 ・・・・・・・・。
 この沈黙が、怖い。
「あんた莫迦ぁ!?」
「ご、ごめん」
 とりあえず、謝ってしまう。今回は何より、自分自身が莫迦みたいだと思っていたのだから、尚更。
「首すくめてんじゃないわよ、この軟弱者! 朝っぱらから深刻な顔してるから何かと思ったら、夢の話ぃ!?」
「だから、その時は夢とは思わなかったんだってば。救急箱だって出しっぱなしにしてたし・・・」
「あんた寝ぼけるにも程があるわよ。寝言は寝てから言やいいの!!」
「うん、僕もそう思う」
 真顔で頷かれた日には、立場がないのはアスカのほうだ。
「~~~~~~~~この莫迦シンジ!! 野郎の夢見てぼーっとするなんて、あんた変なシュミあるんじゃないでしょうね! ったく心配して損したわよ。一生やってなさい!!」
 レシートをシンジの頭に叩き付けて、アスカが立ち上がる。
「だから、いいたくなかったんだってば・・・・」
 頭を抱えたくなる程、予測範囲内の展開に、シンジは深くため息をついた。だが、レイの表情はやや硬い。
「・・・・そんなに似てたの?」
「う、うん。あのね・・・・・」
 より鮮明に思い出そうと、視線を少し上げる。その時、シンジは思わず声をあげて立ち上がっていた。
「あれ? カヲル君?」
 帰りかけていたアスカがつられてそちらを見る。その方向を背にしていたレイもとっさに椅子を引いて振り返った。
 人ごみのなかで、銀の髪は目立つ。ブルーのTシャツにジーンズという格好で、左肩に小さなリュックをひっかけていた。こちらに気がつかないのか、そのまま雑踏へ紛れてゆく。
「・・・・・ちがう、あれ、カヲルじゃない」
 レイの言葉に、シンジとアスカが凍りついた。
「だって、どう見ても・・・・」
「あーんな目立つ風体した奴が、そうそういるわけないでしょ!?」
「・・・・でも、あれはカヲルじゃない。私、分かるもの」
 身内の言葉ほど確かなことはない。シンジとアスカは思わず顔を見合わせてしまった。

***

「いいお月さまですね」
 十日夜とおかんやの月。ベランダの手すりに腰かけて、その少年は足をぶらぶらさせながら、とても愉しそう呟いた。
「わっ! 何やってんだ、降りろ!!」
 部屋の中から青葉の慌てたような声が飛ぶ。少年はいい気分を邪魔されたことがさも残念なように、すこし恨みがましい視線を肩越しに投げたが、すぐにまたくすくすと笑った。
「心配しなくったって落ちやしませんよ。・・・ふふ、まあ落ちたって死にやしませんけど?」
「莫迦、そんな訳あるか。いちおうここ、3階だぞ」
「冗談です。ま、でも引っ越し祝いってことで、これだけは許して下さいね」
 そう言って、飲みかけのアイスティを揺らす。
「リュック一つで引っ越しも何もないもんだ。荷物は明日だって?」
 呆れたような声に、少年は笑った。少し寂しげな笑みだった。
「僕には何もありませんから。明日来る荷物だって、僕のって訳じゃ…」
 栗色の髪を揺らす、冷たさが心地好い夜の風に顔を向けて、少年は不意に話を変えた。
「時に青葉さん、僕のこと、何て聞いてます?」
 月を仰いで、呟くような問い。
「何て・・・って言っても」
 言いにくそうにあらぬ方を見遣る青葉。
「・・・・暫く預かってくれといわれただけさ」
「ふうん・・・」
 彼は事もなげに、そう流した。
 恩師からの頼み事とあっては是非もない。あまり根掘り葉掘り聞くようなことはしなかったが、事情がかなり複雑なのは分かりきっていた。
「しばらく、ご厄介かけますね」
「・・・別に構わんさ。広いだけで、あんまりきれいなところじゃないけどな」
「あんまり硬くならなくていいですよ。息子ったって養子ですしね。そういうことにしとく・・・・・・・・・ってだけの。向こうも子供だなんて思っちゃいませんから」
「・・・・・・」
 冷静な言葉に、何と言ってコメントして良いやら分からず黙る。その沈黙を彼なりに気遣ったのか、ゆっくりと振り向いた。
 初対面の時はカラーコンタクトレンズでその色彩を隠されていた紅い瞳が、淡い月光を受けて光る。栗色の髪が染めたばかりのものであることは、かすかな薬品臭でわかっていた。
 沈黙を繕うために、青葉は話を別の方向へ振ろうと試みた。強いてのことではない。初対面から思っていたことだった。
「・・・・・・・君に良く似た生徒を知ってるよ。・・・・・いや、似てるなんてもんじゃない。そっくりだ」
「へえ・・・・・・」
 彼は笑った。
 先刻のような寂しさの翳りのない、むしろ少し悪戯っぽい笑みであった。