第五話 Moonset Air

Full Moon

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

すべて世はこともなし
第五話

 

Moonset Air


 ――――――――星空。
黒い影となって林立する廃ビルの上から、眩暈すら感じさせる星空が彼を穏やかに見下ろしていた。
呼吸が止まりそうなほどの静寂の中で、彼はその手を空へ伸べた。透き通るように白いその手は、朱に染まっている。
あぁ、どこで傷つけたんだっけ・・・。
廃ビルの谷底に横たわり、朱に染まった手を懸命に空へ伸べながら、彼は脱落していく記憶を必死に繋ぎとめていた。
星明かりに浮かび上がる、はるか上の壊れたフェンス。そう、あそこから落ちたんだ。どうして? ・・・身体が動かなくなって。
上膊部に残る針の跡。・・・・麻酔。今ごろになって効いてきたのだ。麻酔は彼の運動神経を鈍らせ、平衡感覚を狂わせた。
身を翻す一瞬の眩暈にバランスを崩し、踊り場のフェンスにしたたか肩を打ちつけ・・・・脆くなっていたフェンスごと、落ちたのだ。軽く15メートルはある筈。
何を急いでた? ・・・追われていたんだ、僕は。
何故? ・・・・逃げ出したからだ、あそこから。
記憶を奪われたくなくて。
自分の中に生まれた、とても大切な何かを奪われたくなくて。
なおも手を伸べると、星空が揺れる。・・・揺れる?水面みたいに?
まるで水面に触れたかのように、その指先から波紋が広がる。細波に揺られて、星が揺れる。ビルの影も、また。
不意に星空が消え、無機的な天井がたゆたう水越しに見えた。
「システム、Serial-03からの信号受信。フィードバック良好。排水開始」

『血圧が少し下がってるだけで、脳波もフラットって訳じゃないから、脳死でもない。こればっかりで申し訳ないが、お手上げだ。本人のいう数時間後、いったいどうなるのかはまだわからんから・・・モニタ類はいちおうつけておいた』
高階の言葉を、カヲルはほとんどまともには聞いていなかった。
加持あたりは経緯を・・・特にゼーレが絡むあたり・・・・を聞きたげであったが、敢えて黙殺した。
月が穏やかに照らす海へ出る。海鳥の声も絶えて、取り囲むような波の音だけがそこにあった。
『タカミ』は死んではいない。何も終わってなどいない。『槍』とやらになす術もなく身を晒していたわけではなく、周到な・・・あるいは辛辣な計算の下に敢てそうしたのだ。
だが、この息苦しさは。

 ――――――――触れるのではなかった。

 触れることで思考や感情を読み取る、精神感応の能力を閉じていなかったことを今更悔いても遅い。触れた一瞬に、感じた想い。結局言葉に出すことのなかった、彼の本当の理由。・・・理解わかりたくなぞ、なかった。
正気を保っていられるのが不思議なほどの葛藤。それを越えて、彼は一つの選択をした。その成就のために、多くのものを犠牲にして。
夏も終わり近くなったとはいえ、夜の海を渡る風は昼間の熱を抱いて、暑くすら感じられた。
息苦しさと風の熱さから逃れるように、カヲルはひどく無造作に靴を脱ぐと、岩場から足を踏み出した。・・・・夜の海へ。
波に紛れる、水音。
海水は思ったよりもほどよい冷たさをもたらした。岩場から少し離れ、海面に身体を浮かせて、波のままにたゆたう。
空には星。そして欠け始めた月。
潮は引き始めている。
海水に顔を打たれ、カヲルは煩わしくなって目を閉じた。

 カヲルの姿がないことに気付いたレイが、一番最初に探したのが海だった。
岩の性質の所為だろうか。このあたりの岩場は滑らかで平たいものが多く、一種の石組みを彷彿とさせる。だから、ワンピース姿のレイでも岩場を歩くのに然程の困難はなかった。
果たせるかな、波打ち際の岩に上半身を預けて俯せているカヲルを見つけて、ゆっくりと岩場を降りる。
「・・・・風邪、ひいちゃうよ・・・カヲル・・・」
滑らかな岩の上に膝をつき、塩の粒をまとわりつかせた髪にそっと触れる。身体の半分はまだ波の下だ。
「・・・・冷たくて気持ちいいよ。レイも泳ぐかい?」
カヲルはそういいながら、顔を上げようとはしなかった。
「・・・もう、あがったら? 髪、バサバサだよ」
「もう少しこうしてるよ・・・・今夜、暑いもの」
「・・・・・・嘘吐き」
すっかり体温のさがったカヲルの頬に触れて、レイが拗ねたように呟く。
「・・・レイ、そんなとこ座ってたら濡れるよ?」
「べつにいいもん」
あくまでも声をつくるカヲルの一言毎に、レイの機嫌は悪くなってゆく。
「レイ、ひょっとして機嫌悪い?」
そう言ってまた海の中へ入ろうとするカヲルを、レイが些か乱暴に引き留めた。
「・・・・カヲルの・・・莫迦っ!!」
ありったけの呼気を声にして怒鳴られ、カヲルが諦める。大人しくレイのワンピースの膝に頭を預け、小さく吐息した。
「・・・大丈夫だよ、レイ・・・・・」
「全然大丈夫じゃないくせして。カヲル、自分が苦しいのを絶対に見せようとしないよね。・・・なんで?」
「・・・なんでって・・・」
「本当に苦しいときぐらい、泣いたって誰も笑ったりしないよ。知らない処で泣かれる方が、よっぽど辛い・・・」
「・・・・泣いてなんか、いないよ・・・・」
「そうかもね。でも悲しいでしょ。苦しいでしょ。・・・・私もそうだもの」
つとめて平坦にした声が揺れて、カヲルの耳朶に温かな雫がはねた。
「レイ・・・・・」
カヲルは頭をレイの膝に載せたまま、仰向いて両手を濡れた頬にのべた。
「レイ・・・どうして君が泣くの」
一転して、心細い声音。気遣わしげなまなざしにまっすぐに見つめられて、レイが目を伏せる。
「彼は死んじゃいないよ。・・・ここにいなくなっただけ。多分、もうすぐまた会うことになるよ、次の彼にね。だって彼は・・・・・」
「・・・そんなの、分かってる・・・!! ちがうの、そんなんじゃなくて・・・!」
カヲルの言葉を、絞り出すような声で遮る。
「・・・彼は私達と同じだったよ・・・」
だがカヲルもまた、レイの言葉を遮った。
「それは違うよ・・・」
レイの青銀の髪をかきやる。
「・・・・彼は僕とは違う・・・・彼は僕よりも遥かに生きることに積極的で・・・そして強かだ」
思いがけない言葉にレイがカヲルの顔を見る。
だが誰かが近づいてくる気配に、カヲルは即座に岩場へ上がった。
「・・・そこか」
加持だった。息を切らせた様子にカヲルが目許を厳しくする。
「・・・先刻から、心拍が下がっているそうだ。自発呼吸も止まりかかっている。高階が、挿管するかどうかの決断を君にと」
レイがはっとしてカヲルを見る。
「・・・今、携帯持ってますか」
「・・・あ、ああ、一刻を争うからと・・・」
加持が携帯を出してコールする。ほどなく向こうが出たらしく、加持がすぐに携帯を渡した。
『保護者は君に訊けというんでな。自分ににきかないでくれと怒鳴られた。君が彼の何なのかについては、とりあえず訊かんよ
・・・説明は、必要か?』
そういう言葉で、高階医師は事態を要約した。一切感情を交えてはいないのに、不思議とその声から冷たさを感じることはなかった。
「・・・・Neinいいえ
多分、保護者とは青葉のことだろう。困惑する人の好い古典教師の顔を一瞬で脳裏から消し、カヲルは瞑目すると静かに言った。
彼はもうここにいない。一切の人為は無駄なだけでなく、彼の意思に反するだろう。
Neinいいえ・・・挿管と・・・一切の延命術を拒否します」

「私が、分かる?」
「はい、博士」
リツコの呼びかけに、彼は静かに答えた。だが、そのあまりにも無機的な紅瞳に、側に立っていたマヤが思わず顔を背ける。
だが、リツコは坦々と質問を続けた。
「調子はどう?」
「問題ありません」
「今日は点滴が終わったら部屋に戻っていいわ。マヤから薬、貰っておいてね」
「はい」
リツコは立ち上がった。
「あとは頼むわね。彼に薬を渡したら、あなたもあがって頂戴。ずっと詰めきりだったから、疲れたでしょう」
そう言うリツコの顔までもが、なぜかひどく無機的に見えて・・・・何か怖い。
「・・・あ、はい」
あまり締まらない返事をして、マヤは操作卓に戻った。
だが、すぐには作業に戻れないまま、部屋を出ていくリツコを見送る。扉が閉まったあと、軽く頭を振って吐息した。
だが、直後におもわず硬直する。
ベッドの上で点滴を受けている彼が、その仕種を不思議そうに見ていたからだ。
「・・・・あ、あの、気分、悪くない?大丈夫?」
そのまま目をそらすこともできず、マヤが引き攣った愛想笑いと言葉を繋ぐ。
彼は、まったく表情を動かさずに言った。
「はい、問題ありません」

 引潮の海。
そして明けはじめた空の、どこか冷たい蒼を仰ぎ、高階が吐息した。
青葉は、ソファに沈みこんで俯いたまま動かない。
理不尽といたましさとをないまぜた表情で、眠っているかのような顔を見つめるミサト。
フラットラインを描くばかりのモニタに、問いかけるようなまなざしをむける加持。
大人達は何も言えず、何もできなかった。
レイが静かに歩み寄り、体温を失いはじめた皮膚から導子を剥がして襟元を整えるまでは。

 机と椅子とベッド、それと小さな冷蔵庫。
部屋の狭さを補うように壁面には十分な収納スペースがとってある。だが、そのなかに荷物らしい荷物は殆どなかった。
彼は、今まで入ったことのない筈の部屋に至るまでに、些かの感情の揺らめきも見せなかった。だが、この殺風景な部屋に入って初めて、それに微妙な変化が訪れる。
探すように、部屋の中を眺め渡す。いや、探していたのは、彼の中の記憶か?
クロゼットを開くと、はずみで中のハンガーが揺らめく。・・・・なにもかかっていないハンガーばかりが。
がらんとしたクロゼットの下方の棚に、ビニール袋に入ったまま封の開けられていない衣類が数着積まれているのみ。
閉めようとしたとき、ふと収納扉の裏側に取り付けられた小さな鏡に気付いた。不思議なものでも見るように、それを覗き込む。
白い顔、紅い瞳、銀色の髪。
数歩を退がり、硬いベッドに腰かけて小さく吐息する。
しかし落ちかかる髪を気怠げにかきあげたとき、その口許は笑っていた。