Evangelion SS「All’s right with the world」
第六話
暫し空に祈りて
吐く息が白い。
外気温がかなり下がっていることを、カヲルは皮膚感覚よりもその光景で気がついた。
霜、天に満つ・・・そんな一節が、脈絡もなく意識を過ぎった。知らず、空を仰ぐ。林立するビルの向こうに、冴えた星空が広がっていた。
凍りついた星々が砕け散って降り注いだかのような粉雪が、さらさらと舞い落ちてくる。
―――――こんなに、晴れているのに。
浮遊しそうになる意識を引き戻す。空へ向かって掌を伸べた。
自分が何のために生まれ、何のために今ここに在るか。好むと好まざるに関わらず、それをあらかじめ与えられる者がいれば、一生かけてそれを探し続ける者もいる。
『渚カヲル』はおそらく前者なのだろう。
出生からして仕組まれていた。そして、他者の思惑のために、目的に適うように育てられた。
与えられるものが全てであれば、いかなる理不尽にも疑問を抱くことすら出来ない。他者の都合で押し付けられた運命も、それしかないのだと思い込む。
そうするしかない、という思い込みから自由になるのは決して簡単ではない。…契機が必要なのだ。
だが、カヲルにとっての契機は、実は物心ついたら目の前に在った。それを認識できなかっただけで。
「…必ず、戻るよ。レイ…」
用意された軌道を外れることが出来なければ、「レイ」は永遠に失われる。人類を人工進化させるという試みは、レイを媒介にすることを前提としていた。
それに先立って、道は整えられなければならない。…すなわち、アダム系の生命は殲滅されなければならないのだ。それでも『渚カヲル』が生を享けなければならなかったのは…地上に散った筈のアダムの眷属を殲滅するため。
自らの眷属を殲滅するために、生まれ落ちた者。それが『渚カヲル』という存在だった。
しかし、それはあくまでも彼等の事情だ。
そこから自由になるために、そして、人工進化の試みを根こそぎ破壊するためにあそこを出た。レイを守ることと、自身を押しつけられた運命から解き放つことは、カヲルにとって同義だった。レイは彼ひとりが身を犠牲にしているように思って心を痛めているようだが、それは違う。むしろ逆なのだ。
レイはその存在がカヲルにとっては救いそのものだった。救われたいと願う。そのために自身が汚れ堕ちようが構いはしない。極めて利己的と言うべきではないだろうか。
自分自身で出来ることをしたい、と言ったレイをあの部屋に置いてきたのは、彼女を喪うことが怖かったからに他ならない。なんという身勝手だろう。いっそ笑いが出そうだった。
碇ユイ博士が倒れたことで、計画に大きく齟齬を来したのは研究所もこちらも同様だったが、ゼーレの無力化という突発事はカヲルにいささか強引な行動開始を決断させた。
伸べた掌を握りしめ、知らず、胸を抑えていた。
粗悪なコピーごときにいいようにされるほど落ちぶれてはいない。そのつもりになればこの都市ごと吹き飛ばしてでも突破することは可能だった。それでも、レイを守ることはできる。むしろ、そのほうが確実で早い。
だが、そうしてしまったら。
握りしめた手を凝視めながらそっと開く。・・・春から夏の、束の間の安寧が、最も確実な手段を躊躇わせていた。
『そんな・・・僕たちと、何が違うのさ・・・』
・・・違うのだ。それはとても哀しいことであったが。
包囲の輪が縮められてきているのが分かる。・・・おぞましいものたちの気配が詰め寄っていた。
雑然とした路地裏に月の光は落ちてこない。しかし、路地の向こうに立つ影シルエットははっきり見えた。そして、それが手にしているものを視認して、慄然とした。
第3新東京市を根こそぎとは言わないが、この街区ぐらいは吹き飛ばすべきなのかもしれない…そう思い直した時、最初の一撃が来た。
投擲された槍は直前で弾いた。だが、間髪入れずに次の槍がくる。軌道を逸らせて次に備えようとして、動きを止められた。
「・・・!」
背にしていた廃ビルの壁ごと、背後から肩を刺し貫かれたのだ。
瞬間、呼吸を停めた。
油断と言うべきだった。背後にも迫っていることを感知していたのに。
核は外れている。…しかし、禍々しい緋色の槍が、身体に残った力を無慈悲に収奪していくのがわかった。動きを止めたと見るや、次々と槍が撃ち込まれる。…全ては遅い。
ひとひらの雪が、足許へ舞い落ちて緋に染まる。
磔刑にされたまま、それでも昂然と頭を上げて、カヲルは無表情な加害者を睨ねめつけた。
自分と同じ、その顔を。
紅い硝子玉のような双眸を。
皓く、蝋の塊のように生気の無い手が、カヲルの咽喉にかかる。
両の腕は槍で縫い止められ、凄まじい収奪に障壁を展開することもできない。それどころか意識は拗伏せられて、深い闇の中に引込まれそうになる。
何かを、叫んだ。しかしそれは誰にも、何にも届くことはなく…。
目も眩むばかりの慚愧に唇を噛む。世界はただ、闇の底に沈んだ。
造り付けのもの以外、すべての家具が取り払われたリビングはひどく寒々としていた。テラス窓の傍に延べたラグの上に座り込み、レイは暮色を濃くしていく鉛色の空を見上げる。
かつてカヲルと住んでいたマンションに比べれば間取りは贅沢な程だが、それだけにがらんとしてうら寂しい印象は拭えない。
バルコニーのフェンスは腰の高さまでタイル仕様で、レイの視点からは空しか見えない。低く垂れ込めた雲に、街の灯がぼんやりと映り込んでその存在を僅かに知らせる程度だ。
小さく吐息して、窓に身を凭せかけた。
断熱ガラスは外界の寒さをほぼ完璧に閉め出していたが、ひらひらと舞い落ちる雪片はこの街を押し包む寒冷な空気をうかがわせた。暖房は入っていないが、室内の温度はおそらくそれほど下がってはいない。それでもレイは骨の髄に染み込むような寒気に思わずブランケットを引き寄せた。
『必ず帰ってくるよ』
そう言って、カヲルは微笑んだ。その言葉を疑うわけではないが―――――。
レイは自分が何者であるのかを、情報としては持っている。だが、実感はなかった。
物心ついたら研究所にいて、カヲルが傍にいた。わがままが許される立場ではなかったが、衣食に事欠くこともなく、過大な苦役を強いられる訳でもない。ただ、外に出して貰えることはなく、定期的な検査を受け、いくつもの薬を飲まねばならなかっただけだ。
だが、カヲルが傍にいてくれるなら…何処だって良かった。
だから、碇ユイ博士に研究所を出ることを告げられたとき…ただ怖ろしかった。今にして思えば、先行きの困難よりも、単純に環境の変化が怖ろしかったのだと思う。
自分には何もなかった。大人達はそうは思っていないらしいが。
何を期待されているのか。自分はどうすれば良いのか。…あるいは、何のために生きているのか。そんな疑問が次から次へ湧いてでるようになったのは、その前後だったと思う。課せられた使命といわれても、よく理解らない。そのために存在するのだと言われても実感がない。使命とやらを全うするためにどうしたらよいかさえもわからないのだ。
何のために生きているのか。
それを考え始めると、足下ががらがらと音を立てて崩れだすような恐怖に駆られる。その正体が掴めないことが、余計にその恐怖を煽っていた。
一度は、その思考のループから逃げられなくなってパニックに陥り、鎮静剤を投与されたこともあったらしい。らしい、というのは自身がそれを憶えていないからで、意識が闇に呑み込まれた後、気づいたらカヲルの腕の中にいた。
自分のことさえもよく理解らないレイと違って、カヲルはユイ博士の危惧を正しく理解していた様子だった。積極的にユイ博士に協力し、脱出のための工作にも関与していた。
自分は手伝わなくて良いのかという問いに、カヲルは優しく笑った。
『レイは何も心配しなくていいよ。僕が守るから。…ずっと、一緒だよ』
それならいいと、レイは思った。何処に行こうと、どんな境遇になろうと、カヲルがいてくれるなら。
『レイはレイのままでいいんだよ』
その言葉が、レイを支えていた。
研究所を出た後の生活も、レイにとってはカヲルさえ傍にいてくれればよかった。
ユイ博士が倒れたときも、心細い思いをしなかったと言えば嘘になろうが、それでもカヲルがいればなんとかなると思っていた。
短い間ではあるが、学校に行くこともできた。物語の中でしかなかった普通の生活というものを、ほんの短い間ではあるが、経験することが出来た。
それが、カヲルが払う犠牲の下に成立していることも理解していた。…その生活を楽しいと思える反面、苦しくもあった。それは…おそらく後ろめたさ。カヲルひとりに全てを背負わせて、気楽な生活を享受しているという自責の念。
だが、恐怖と困惑に顔を引き攣らせながらも、事実と向き会おうとするシンジを見て、やっとわかったのだ。
碇シンジ。ユイ博士の息子。本当に小さな頃、一緒に遊んだ記憶はひどくおぼろで、学校で初めて出会った日、こんな顔だったっけと間の抜けた感想を抱いた程だった。先方に至っては彼女がユイ博士に形質が似ていることでかすかな関心を持った程度であったらしい。
最初は、実の母親を長く占有してしまった後ろめたさと、あの施設の所長の息子という肩書きから、レイはシンジとの距離をどうとってよいものかはかりかねた。だが、少しずつ話す機会ができるにつれて、なんとなく理解するようになった。
…ああ、このひとも私と同じなんだ、と。
自分が何者で、何をしたくて、どうすればよいのか。迷って、探して、苦しんで。
逃げていては駄目なのだ。自分自身が、『綾波レイ』の名を持つ以前の自分とも向き合わなければ。
それを口にすると、カヲルは哀しそうに微笑った。
―――――そうだね。でも、まだもう少し待って。
私は、甘えてばかりだ。
何もわからなくて、何も決められなくて。
だが、カヲルの足手まといにだけはなりたくない。だから、ここで待つ。…当処なくただ逼塞しなければならないとしたら、とても保たなかっただろう。待つ相手がいるのだから、待つことは怖くない。
ただ、待つ相手が永遠に失われることだけが怖かった。
解っている。自分はおそらく、カヲルを喪うことに耐えられない。
不確かな使命などどうでもいい。カヲルと共に在る静謐だけが望みだった。
そっとしておいて。世界の浄化も新生もしなくていい。いまここに、在るがままにさせて。カヲルだってきっとそう望んでる。
引き寄せたブランケットを握りしめて、迫り上がってくる嗚咽を呑み込もうとするが、果たせなかった。
微かに震える肩を抱えて、呟く。
「カヲル、お願いだから帰ってきて…」