第九話 眩惑の海から

闇・水・光

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 幹線道路を避け、片側一車線の峠道を走る車の中で、二人は無言だった。
 あたりはすっかり陽が落ちている。人家も絶えて久しく、車のヘッドライトが闇をいびつに払い除け続けるのみであった。
 ハンドルを握る加持は、ミサトの額の包帯が気になってはいた。が、コントロールパネルが放つわずかな光の中にも明らかな…不機嫌の粒子をまき散らしながらの沈黙を、敢えて針でつつくような真似をするつもりもなかった。
 加えて、何から切り出したものが考えあぐねていたというのもある。
 その時、俄に加持のポケットで暢気なメロディが鳴り始めた。
 ミサトが柳眉を逆立てるのがわかったが、加持は携帯をポケットから取り出して発信元を見るなりミサトの膝の上に投げた。
「悪い、出てくれないか。すぐ停めるから」
 これ以上無いというくらい胡散臭そうに膝の上に乗った携帯電話を取ったミサトだったが、表示された発信元に顔色を変えた。すぐに【通話】のボタンを押す。
「リツコ!アンタ無事なの!?」
【ミサト!?】
 向こうも吃驚したらしい。
「ごめん、今こいつ運転中なの。それよりリツコ、あんた無事なのね!?」
【それはこっちの台詞よ。あなた、研究所…ネルフに引っ張られたっていうんじゃなかったの?】
「全くその通りよ。おかげでえらい目にあったけど…とりあえず脱出成功したとこよ。今どこなの?」
【第2東京からから箱根に行く途中よ。あなたの安否がわかったってリョウちゃんから連絡もらったあと、ナシの礫だから電話してみたんじゃない】
「あら、心配してくれたんだー。じゃ、何?こっちへ来る途中なの?」
 その時、不意に対向車のヘッドライトがミサトの目を射た。殆ど同時に、加持が方向指示器を上げて路肩へ寄せる。旧道を整備したときの名残か、20メートル四方ほどの駐車スペースがあったのだ。
 殆ど時を同じくして、通り過ぎた対向車が派手なブレーキ音を立てて停車し、方向転換するのがわかった。

 シンジは、待ち合わせに現れた人物を見て、たっぷり5秒ほど口を開けたまま硬直した。
 ユイに連れられてレイが潜伏しているというマンションの前まで来たものの、協力者を待つというユイの言葉に大人しく助手席で待っていたところだった。
 夕闇の降りつつあった駐車場に、一台の車が滑るように入ってきたかと思うと、ピタリと停まる。いつも葛城ミサトのタイヤを軋らせながら爆走してきて接触すれすれで停まる姿を見ていたシンジとしては、ああ、車ってそういえばこんなに静かに停まれるんだ、と場違いな認識を深めてしまって、なんとなくまじまじとその車を見ていた。
 その車がまさに待ち人とは思っていなかったのだが、ユイがドアを開けて降りたのでシンジも慌てて車を降りた。…そして、呼吸を呑む。
「済みませんね、遅くなってしまって」
 助手席から降りたその人物は、三角巾で片腕を吊り、夜目にもやや顔色が悪いのがわかる。だが、間違いない。
「高階…医師せんせい…?」
 シンジの呆然にユイも気づいたらしい。
「そういえば知ってるのよね、シンちゃんも」
 運転席からマーメイドラインのワンピースを纏った女性。確か、ユキノとかいった。シンジの手当をしてくれた人物。そして後部座席から往診鞄とおぼしき重厚な荷物を下ろしながらもうひとり。
「…ぁ…!」
 どうして、そう思ったのだろう。そもそも背丈も違えば、風体も違うのに。
「協力を感謝します、高階さん。もう、動かれても大丈夫?」
「碇博士、諄いようですがこちらも既に当事者ですからお気遣い無く」
「それはそうかも知れませんけど…ご無理なさらないでね。ところで、ひとつ問題が」
「マンションのキー、でしょう? 問題ありません。適当な話をして管理者に開けてもらうって手段もあるでしょうが、ネルフに通報が行くのはまずいでしょう。ここは、こっそり開けるというのが妥当かと。ま、それに関しては専門家スペシャリストがいますから」
「サキ、人聞きの悪いコト言わないでください。確かに、ロックが電子制御ならどうとでもなるって言ったのは僕ですけど」
 その人物は、むっとしたように反論する。シンジの記憶にある彼は、そんな表情を見せたことがなくて…別の意味で少し驚く。
「判った判った。文句言わずにキリキリ荷物運んでくれ。…行きましょう、碇博士」
「ええ。ほら、行くわよシンちゃん」
 思わず出遅れたシンジがようやくエントランスに入った時、彼はもうロビーインターフォンに手を置いていた。
「…きます」
 何をどうしたのかはさっぱり判らなかったが、住人がエントランスを通るのとさして変わりなさそうな時間であっさりと彼はそう言った。事実、目の前の自動ドアがすっと開く。
 一同がエレベーターに乗り込むと、シンジは丁度彼の横に立つことになった。頭一つほど背が高い分、見上げるような格好になる。
 今この場にいるということは、ネフィリムの一人であることは間違いないだろう。栗色の髪は、後ろでひとつに編まれていた。それでもわずかに癖があるのがわかる。シンジが知っている彼が嵐の海に消えてからわずか半年あまりしか経っていないというのに、十二、三年も経ったらこんな感じなのだろうかという雰囲気である。
「…あの…」
 目の前の光景が信じられなくて、それでも確信させる何かがあって。シンジは思わず言葉に詰まった。小鳥遊ミスズの件といい、自分はとらわれすぎているのではないかとも思う。でも…。
 見上げたまま、口をぱくぱくさせているシンジに気づいてか、彼は柔らかく笑った。
「…お久しぶり、碇先輩・・?」
「え―――――っ!」
 悪戯っぽい微笑は、あのときのままで。でも、何で。何がどうなって?
 奇声を発してその場にへたり込みそうになり、エレベーターの壁に背中をぶつけてしまったシンジを、ユイが慌てて支えた。
「あらまあシンちゃん、どうしちゃったの?貧血?」
「ふっ…冬月く…」
「え?」
 目を白黒させているシンジに、頭の上に疑問符を舞わせるユイ。
「君さえよければタカミ、でいいよ。もうあの苗字みょうじは関係無くなっちゃったから。…ええと、とっても経緯いきさつがややこしいんだけど…聞く?」
 悪戯っぽい笑みが多分に苦笑いを含んでいることを察して、シンジは首を横に振った。
 物わかりが良くなったという訳ではないと思う。どちらかというと既に…諸々、常識で測ることに限界を感じているのだ。
 かの夏の出来事も、シンジにとっては日常をひっくり返す程の衝撃であった。しかしこの一昼夜ほどの出来事は…シンジをそういった境地に行き着かせるに十分な破壊力があった。
「ありがとう。カヲル君とレイちゃんを助け出そう。君も協力してくれるなら嬉しいな」
「う、うん、僕に出来ることがあったら!」
 ただ、あの夏に感じた深い断絶を埋められそうな感じがして…シンジは全力で頷いた。
「何だ、大丈夫そうね?」
 こちらも舞った疑問符が解消できたわけではなさそうであったが、ユイが笑って言った。
 その光景を、高階が少し呆れたように見ていたが、シンジがそれに気づくわけもなかった。

「お前、性格変わったな?」
 エレベーターを降り、目的の部屋まで歩きながらマサキが言った。
「そうですか?こんなもんじゃなかったかと思うんですが」
 しれっとしてそう答え、往診鞄を持ち直す。持ち慣れない荷物は意外と重かったらしい。
「…何というか…したたかになった」
「凄い言われようですね。あの頃だって、そう従順な子供ではなかったような気がしますが。…まあ、僕がまったく50年前のままだったら…あの水槽から出られてませんよ」
「そりゃそうか…」
「まあ、その最たるはこれ、でしょうね。何が起こるかわからないから触るな、と言われてたのに。挙句あの騒ぎですから…その、ごめんなさい」
 少し視線を逸らして、胸の上に手を当てる。鳥の髑髏のような奇怪な瘢痕は、マサキの他には彼だけにあった。
 「仮面」…便宜的にそう呼んでいる、時間と空間を越えた認識を可能にする器官。マサキはそれをヨハン=シュミットから受け継いだ。本来、ネフィリム達誰にでも発生する素因はあるのだろう。しかしヨハン=シュミットが強制同調による一部体組織の再構成という荒業で発現させたそれは、ひどく制御が難しい。
 タカミは物理防御系の能力にはあまり恵まれなかった。その代わりというべきなのか、破格の接触感応系能力はマサキから「仮面」の情報を読みとってしまい、発現させてしまったのだった。
 その結果は…タカミ自身はもとより、マサキが危惧していたよりもはるかに激甚だった―――――。
「…『未来』は、変わったのか?」
 その辺には一切触れず、端的に訊く。その意図を素直に謝して、タカミは呼吸を整えた。
「50年前と…大筋で変わっていないんです。僕が観測した限りでは、いくつかの分岐があって…その中に、まだサードインパクトが残っています。何とか、回避したいですね。あれだけは」
「同感だ。…じゃ、とりあえず手の付けられるところから始めよう。ドアロックの解除、できるな?」
「了解」
 問題の部屋の前であった。
「…今更なんだけど、サキ、タカミ」
 ユキノである。今回はマサキが片腕な事情から看護師がひとり必要だというのでついてきたのだ。
「レイちゃんだっけ?一斉にこんな大勢で押しかけて、パニックになったりしないかしら。場合によっては、南極の一件みたいなことになったりしない?」
 二人して思わず、息を呑む。決して有り得ない話ではない。
「ん~。こればっかりは考えても仕方ないし、面識のある私が先に入ってみるわ。一応、母親の代わりみたいなことはしてたから」
 さらっとそう言ったのは、ユイであった。
「じゃ、お願いしますね、鍵」
 やっぱり只者じゃないな、という感想を呑み込んで、マサキはタカミを眼で促した。
「…開けます」
 開いたドアに、何の躊躇もなく入っていくユイ。残された四人が固唾を呑んで待つこと数十秒で、ユイの慌てたような声が飛んできた。
「…っ大変! 高階さん、お願い!」

 眼を開けても、カヲルがいないことに失望して再び眼を閉じる。そんなことを何度繰り返したか…既に憶えてはいない。
 次第に身体を動かすことが億劫になっていき、眼を開けることすら嫌になっていた。
 だから、名前を呼ばれていることに気づくのにも随分と時間がかかってしまった。
「……イちゃん…レイちゃん、お願いだから眼を開けて頂戴!」
 殆ど掠れた涙声になっているが、誰の声かははっきり判った。驚いて、眼を開ける。まず視界に入ったのは、涙目のユイであった。
「あーよかったっ! 私、心臓止まるかと思ったわ。大丈夫よレイちゃん、もうなにも心配しなくていいの。長いこと留守して、本当にごめんね」
 一息にそう言ってから、ユイはぺたりと座り込んでしまった。
 気がつくと、看護師らしい女性がすぐ傍で点滴の準備をしている。その向かい側にいる人物を、レイは知っていた。水を含ませたガーゼで唇を拭ってもらったことで、声は出せる。
「高階医師せんせい…?」
「ああ、憶えててくれたか。脱水を起こしているから、点滴させてもらっていいかな」
「は、はい…」
「じゃ、ごめんね、ちくっとするけど…あ、大丈夫ね」
 研究所にいた人たちよりも遙かに手際よく、その女性はレイの腕から血管を見つけてくれた。ストロー付のボトルを差し出して、針の入ってない方の手に握らせる。
「飲めそうだったらちょっとずつでいいから飲んで。無理しないでね」
 その途端に喉の渇きを思い出し、言われたとおり少しだけ飲む。
「母さん、綾波…大丈夫なの?」
「碇君…?」
 少し混乱する。碇君が、何故ここに?…そもそも、私は何故ここに…
「…っ!」
 頭がはっきりしてくるに従って、思い出す。
「カヲル…カヲルは!?」
 思わず跳ね起きて、簡易型の点滴台をひっくり返しそうになるが、看護師らしい女性が慌てず騒がず受け止めた。
「レイちゃん、それなんだけど…」
 ひどく言いにくそうなユイを見ればわかる。カヲルはここにいない…
 俯き、思わず眼を閉じた拍子に、涙が零れる。ユイですら言葉をかけ損ねて、その場に沈黙が降りた。
「…君の力が、必要なんだよ。月の姫様」
 新しいガーゼで涙を拭われて、レイは顔をあげた。憶えのある声だった。
 ―――――月の姫様。
 そういう呼び方をした。彼は。
 先刻まで高階がいた場所に、彼はいた。姿は変わっていたが、すぐに判った。
「…戻って、きたの?」
 おずおずと、訊ねてみる。幻でなければよいと思いながら。
「カヲルくんにはものすごく大きな借りがあるからね。返してしまわないことには落ち着かなくて」
 そう言って、彼が笑う。それを見ると、思わずぽろぽろと涙が零れた。先刻の、失意の涙とは違う。気持ちが緩んだ所為だと自分でも判る。誰も聞いてくれる者がいない中で、何度となく叫んだ言葉。それをようやく口にすることが出来た。
「カヲルが…カヲルが帰ってこないの。帰ってくるって…必ず帰ってくるって言ったのに…!」
 青銀色の髪を宥めるように撫でながら、彼は苦笑した。もう片方の手には、簡易端末タブレットがある。
 あの日、『タカミ』が自身の記憶のバックアップを圧縮していた端末。「三人目」が波間に消えた直後、そのファイルは消滅していたが、その代わりに暗号錠をかけたファイルが残されていた。
『土産を残しておくよ。あなたが何者か、あなたが忘れないように』
 カヲルはそのファイルの解析に熱意を示さず、破棄すらしかねないふうだったが、レイとしては破棄はもとより置いていくこともできなくて、結局この部屋まで持って来ていたのだった。
「うん、困ったもんだよね。カヲルくんったら折角お土産置いといたのに、結局ほったらかしなんだから。だから、一緒に迎えにいこう。皆が助けてくれる。…君は一人じゃないんだから」
「ひとりじゃ…ない…?」
「ああ、ごめん。ずっと、カヲルくんと二人だったんだね。…でも、二人だけでもないんだ。実を言うと、僕も、ようやく思い出したばかりでね。話してると長くなるけど…」
 そこまで言って、後ろの高階に問いかけるような目を向ける。
 高階は、点滴ボトルの残量を一瞥して、姿勢を低くした。レイの視線に高さを合わせた上で、ゆっくりと話し始める。
「それについては、ここで説明してあげられるほど時間が無い。…悪いけれど、うちに来てもらってもいいかな?」
 レイは頷いた。
「碇博士も、よろしいですか」
「私もそれがいいと思うわ。おそらく、市内のどこよりも安全でしょう。私も同行します」

「A-17文書?」
「正式名称じゃないわよ。ただの整理番号。…なにせ戦前でしょ、データ化されてたのが不思議なくらいよ。…当時も、それ以降も、真贋にかなり疑問を持たれていた所為かあまり重要視されていた様子がなくて…欠損箇所もまったく放置されてたわ。ひとつ間違えば廃棄されていても不思議はなかった。でも、『記録』にしがみつく人たちはモノが棄てられないらしくてね」
 リツコと邂逅した峠道。路肩の駐車スペースに車を入れて、互いの無事を確認したあと、ミサトはようやくくだんのメモの正体を知ることが出来た。
「ねえ、今更だけど大丈夫なの?こんなところでおおっぴらに話始めちゃって」
「尾行が無いことはお互い確認済みだし、とりあえずは大丈夫でしょう」
 それもそうね、と周囲を見回す。街灯とてない山の中だ。
「もう一つ言えば…最近、私の監視が微妙に緩んできてるの。まあ、おかげでこうして抜け出してこられたんだけど?…多分、ネルフ自体に余裕がなくなっている」
「…ネルフにも何かが起こり始めている?」
「そこはわからないけれど…もしくは、事を起こす準備が整ったから、リスクの低い標的ターゲットから監視を終了させているのかも。もしくは監視するのが面倒になって消しにかかる直前とか」
「怖いこと言わないでよ。リスク低いかしらね、この物騒な姐さんは」
「ミサトに言われたくないわね。こっちは低リスクと思ってもらうために一生懸命猫かぶって逼塞してたのよ」
「その成果が、あのメモ?」
「正確に言えば、データ化されたA-17文書自体は以前からMAGIが管理するデータベース内に存在していたの。殆ど注目する人がいなかったってだけでね。…でも、碇ユイ博士はどうやら着目していたわ」
「死海文書の無謬性に疑問を持っていた?」
「碇博士は、17th-cellの存在がどうしても腑に落ちなかったようなのよ。私はこの半年で、その忘れられた文書を精査していたの。研究所で扱っていたデータは何一つ手元に残らなかったんだけど、この文書に関してはまったく私の関知しないところで実家のサーバに潜り込ませてあったの。
 それが誰の意図によるものかってことは後回しにするけど、A-17文書の『CODE:Kaspar Hauser』、および『CODE:Nephilim』は、そこにひとつの仮説を与えてくれる。
 即ち…死海文書に出現を予言されていた使徒たちは、既に一度ゼーレの手中に落ちていた。おそらく『核』の状態でね。1914年のクムランで事故が起きて、ひとつの『核』が非常に特異なかたち…ヒトとの融合で活性化した」
「当時のゼーレの慌てっぷりが想像できるわ」
「しかし、彼等はそれをチャンスと捉えた…使徒をコントロールする可能性として。それが『CODE:Kaspar Hauser』」
「…高階マサキか」
 加持が参ったというように額を押さえてずるずると座り込む。十年来の知り合いが実は使徒だった、などとなまじな怪談よりも背筋に氷塊を奔らせる事実を再確認してしまい、軽い眩暈を感じたのだ。
「細胞が強烈なストレスに晒されたとき、多能性幹細胞に変化する「リプログラミング現象」が起こる可能性については…今でこそいくつも論文があるけど、当時は『CODE:Kaspar Hauser』の活性化した状況をもとにかなり荒っぽいやり方をしたことは想像に難くないわ。
 そうして生まれたのが『CODE:Nephilim』…ヒトに限りなく近い形質を持った使徒、という訳よ。基地が空襲を受けたときにサンプルや記録が散逸したことになっているけど、実際には生き延びていた。
 …この事実は、既に死海文書を裏切っている」
「2000年の南極ってのも、予言されていたことなの?」
「一応。でも、沈没した潜水艦の中に、ヒト型の使徒が眠ってたなんて記述じゃなかったのは確かね。…相当に面食らった挙句、下手につついて暴発させてしまった。結局、規模こそ限局されたけれども、大惨事には違いなかった。…神様を手に入れようとしてバチがあたった、というに相応しい顛末になってしまったのよ」
 ミサトは天を仰いだ。
「ヒト型の使徒なんてものをアダムだと認めるには、ゼーレの面々は頭が硬すぎたようね。だから、17th-Angel…第十七使徒なんて死海文書にない架空の名前を振ることになった。
 …何のことはない、アダムはおそらくその随分前から、この惑星に生きる者達とよく似た形質を獲得していたのに。そうして、ヒトの歴史の中を彷徨いながら同胞の行方を捜していた。…1943年のヨーロッパでは、ヨハン=シュミットという名前で軍籍まで持ってね」
 まさに眩暈がしそうなほど途方もない話の広がりに、ふう、と吐息してミサトが呟く。
「…これから、どうなるのかしら」
「…あの子たちの中にはアダムとリリスの魂が在る。でも、渚カヲル、綾波レイという人格を形成するに至る以前の記憶はおそらく残っていない。…死海文書に残されているような、アダムとリリスの確執がもう存在しないのなら…このまま何も起こらないという可能性だって残されている。
 でも、ネルフがあくまでも文書の記述に拘ってアダム系の生命を殲滅しようとすれば、アダムの現身うつしみは黙ってはいないでしょう。…それこそ、この第3新東京市で南極の惨劇が繰り返されるわ。今度こそ、全地球規模の」
「セカンド…いや、サードインパクトか。うわー、待って待って、そりゃまずいわよ!」
「…まあ、高階たちはそれを回避すべく動くんだと言ってたが…」
 加持がタイヤに背を凭せかけたまま煙草に火を付ける。ミサトもまた、そこはかとない無力感になんとなくボンネットに寄りかかる。
「私たち…何も出来ないのかしらね。他のメンバーに強硬派はいないようだから、ぶっちゃけ碇司令さえ白旗掲げてくれれば、万事丸く収まりそうな気がするんだけど。あの頑固なド外道オヤジ、日が西から昇ってもそれはないわよね。
 ジオフロントから引きずり出して、ヴィレあたりで保護監察ってことにしてくれないかな。そういうことなら私喜んで協力するんだけど」
「おいおい…」
 加持が苦笑いする。
「おまけに、高階医師センセには私がいると邪魔だから避難しといてくれって言われちゃったしなぁ」
 そう言ってばつが悪げに頭をかくミサトを見遣って、リツコが嘆息する。
「…随分と直截なのね」
「私がいると、彼等の生存率が下がるんですとさ。…近傍の平行世界を観測した結果なんだって。私にゃよくわかんないけどね。莫迦丁寧に説明してくれた上、迎えまで呼ばれちゃぁ…ゴネて居座るのも大人気おとなげないじゃない」
「近傍の平行世界…観測? 彼等にはそんなことも?」
「話しぶりだと全員が出来るって訳じゃなさそうだけどね」
「…そうか、上古に死海文書の元になった啓示…そういうことなのね」
 独り納得したようなリツコに、ミサトはとりあえず待ってみた。こういうとき、この友人は大概いい解決策を持ってきてくれる。だが、ひとつ確認しておかなければならないことに気づいた。
「…そういえば、ごめん、話を戻して申し訳ないんだけど。リツコの実家にそのファイルを退避させてたって…結局誰なの?」
 ミサトの問いに、リツコはふっとその表情を翳らせた。
「多分、そうじゃないかと思っているだけ。置き土産、ないしは謎かけ…確証があるわけじゃないのにね。私がそう思いたいだけで、実はなんのことはないエラーで母さんの資料ファイルが残ってただけかも」
「ひょっとして、それ…」
「私には…」
 リツコが何かを言いかけたとき、山道の静けさを引き裂くようにしてエンジン音が近づいてきた。まさか、と三人とも身体を硬くする。はっと気がついて、ミサトはすぐ脇にいた加持の襟を掴んだ。
「加持、あんた最後に車のチェックしたのいつよ? 何か付けられてない!?」
 無精髭だらけの口許から煙草が滑り落ちる。次の動作でドアポケットに入っている検知器に手を伸ばすが、ミサトに勢いよく後ろ頭を押さえつけられただけだった。
「あーっもう!いいわよ、この莫迦!! リツコ、隠れて…!」
 だが、その声に軽機関銃の掃射音が被る。ミサトは身体を低くして車道側へ転がると、銃を構えた。車種は判然としないが、装甲車の類ではなさそうだ。ヘッドライトがまぶしくて狙点が定めにくいが、殆ど即座に発砲する。だが、その直後に左上腕を灼くような感覚がはしった。
 加持が何事かを叫ぶのが聞こえた気がしたが、構ってはいられない。
 車体を平手でひっぱたくような音がして、急追してきたバンが俄かにふらつきガードレールに接触する。悪いことにはフロントバンパーの一部がガードレールの切れ目にあたり、つんのめるようにしてガードレールを跳び越えてしまった。
「善良な一般市民を通りすがりに襲撃する方が悪いんだからね」
 ミサトが立ち上がって膝の砂を払う。左腕はどうやら擦っただけで済んだらしい。一拍遅れて木々がへし折れる音が響きわたったが、その後は静寂が戻る。
「うまいこと木にひっかかったか。ま、結果オーライね。上がってくるまでにはそこそこ時間要るでしょ。加持、発信器探して潰しといてよ。…リツコ、大丈…!?」
 言いさしたミサトの顔が引き攣る。リツコの車の傍に、姿がなかった。
「リツコ!?」
 リツコの車は加持の車よりも車道に対して奥側へ停めてあった。その車の車道側へ立って話をしていたのだが、車を背にしていた加持とミサトとは違い、角度によっては車道からまる見えだった筈だ。
 肺腑に霜が降りるような感触に鳥肌をたてながら、ミサトは車の陰に回り込んだ。
 リツコが、車の間で倒れていた。

――――――第九話 了――――――