第拾壱話 神は天に在り…

上弦の月

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

「はぁ?司令が逃げたぁ!?」
 発令所はほぼ無血開城される次第となった。
 そもそも、セキュリティの大半を機械任せにしていた関係で、偽造IDを携えていたヴィレの実働部隊はほとんど邪魔されることなく発令所のすぐ近くまで侵入できた。小競り合いはあったが、先日の騒ぎで警備部も人手がなく、小火器ばかりとはいえ相応の人数を繰り出しているヴィレの実働部隊の前に、更に決死の抵抗をするような人材はほぼいなかった。
 有り体に言えば、士気が低いのは発令所ばかりではなかったという事情もあった。
 実働部隊の侵入が発令所に届かなかったのは、それに先立つ―概ねエレベーターシャフトを自由落下形式で侵攻してきたパーティのほうだが―が、手当たり次第にケーブルを切断して回った所為もあった。それに、施設内の回線には数種類のウィルスが蒔かれて誤報を頻発させ、どれが本当の侵入者なのかが判断できなかったという事情もある。
 周到な布石。自分達はその余慶を被っただけなのだとミサトは感じていた。
 半分は碇ユイの仕込み。もう半分は 天使の落とし子ネフィリムを自称する者達。
 発令所の接収作業を進めながら、ミサトは量産機ケイジに向かったという碇司令の所在を掴むのに多くの労力を割いた。…とはいえ、接収のほうは引き継ぎ作業に等しく、投降者の殆どがすこぶる協力的だったので、ミサトは本来の目的に専念できたというべきであったろう。
「時間的にはまだケイジに辿り着いていないと思うんですが…あの司令なら抜け道の一つや二つ知っていたって不思議じゃないですからねえ」
 協力的な投降者の筆頭は作戦部の多摩であった。ミサトの健在な姿に涙を流さんばかりに喜んで、一番最初に両手を挙げたくちである。本来の上司が戻ってきたのだから従うのはあたりまえ、といわんばかりであった。
「量産機のケイジには『彼等』が先乗りしている筈だけど…出来れば話がややこしくなる前に司令の身柄は抑えておきたいのよね。彼等だってあんなのに首突っ込まれちゃ迷惑だろうし…」
「えーと、『彼等』というと…」
 本部内のマップに目を落としながらミサトがそう呟くのへ、多摩は一応訊いてみた。状況の激変―つまり、もう戦闘は不要―については一応説明を受けてはいたが、陽動部隊についてはまだ何も聞かされていなかったのだ。
「ああ、説明してなかったわね。ネルフの言う、使徒のことよ。彼等は自身をネフィリムと言っているようだけど。…大丈夫、碇司令よりもよっぽどマトモに話が通じる人たちだから。ま、ちょーっち変わったところもあるけどサ」
 事も無げに、ミサトが言った。そのままマップに見入って口の中で何か呟いている。
「…はい?」
 さすがに一瞬、多摩が固まる。

 男は、焦燥を感じていた。
 すべてが砂のように、手から滑り落ちているような気がしていた。
 信じたものがあった。そのために何でもやった。反対者は蹴り落とし、利用できる者は利用した。他者がなんと言おうと関知しなかった。…ただ一人が認めてくれれば何も問題なかったから。
 だが、今。
 信じたものは揺らいでいた。採った手段は非難されている。離反者が徒党を組んで自分に対抗しようとし、ただ一人認めて欲しかった者も、否定の言葉を口にした。
 何かが間違っている。
 何かが狂っている。
 何処で何かの歯車が狂い、全体の動きを止めてしまおうとしている。
 止めてはいけないのだ。世界を救うために。これは、正しいことなのだから。契約が履行されれば、すべてがうまくいくのだから。
 そこに救いが在るはずだから。
 ―――――それなのに。
 描いた図面を姿の見えない何者かに蚕食されていくような感覚であった。
 何者なのか。邪魔をするのは。
 2000年の南極。あそこで見つかるのは、アダムの卵である筈だった。少なくとも自分達はそう解釈していた。
 アダムを構成する組織片は確かに回収された。だが、不可解なものも回収されたのだ。
 現生人類の形質を有する、アダム系の使徒の細胞。有り得ない。あってはならない。二つの生命は決して相容れない筈だから。そう記されていたのだから。
 アレが全ての元凶か。
 ありうべからざるもの。
 制御可能な使徒、という可能性を探るために行った研究は、すべきではなかったのか。
 修正は可能なのか。
 できるとすれば、どこからか。
 過ちを修正出来る点はどこにある?

 『STAND BY』で表示が止まっているディスプレイを前に、リツコは虚脱したようにふうっと息を吐き、一度枕に頭をつけた。
 そして時代のついた天井を見上げていたが、ふと起き上がる。
 準備は完了している。あとは、彼等が望むタイミングでプログラムを発動させるだけだ。自分の仕事は終わった。
【僕がやるって言ったじゃないですか! 何故、あのひとを巻き込んだんです!? 医者のくせに他人の傷を抉るようなコトして、何考えてるんですか!!】
 リツコへの状況説明の手間を省くためか、高階は常に通信をスピーカーモードにしていた。
 だから、その声は筒抜けだった。
 やはり、彼は 自分赤木リツコを知っているのだ。
『すみません、僕は榊といいます。…医院の事務にいる者ですが、人手が足りないと院長に言われまして…』
 初対面を装う、それは今となってはあまりにもわかりやすい嘘だった。
 …だが、何故?
 彼を見たときに一体誰と思ったのか…実のところ、判然としない。だが、混濁した意識が覚醒に向かう僅かな時間…その刹那、何かがリツコの中で明確に繋がっていたのだ。
 彼がMAGIを騙すために潜らせたというウイルスや、偽造IDを検証した。人格移植OSを基礎理論とするMAGIの、言ってみれば『癖』を知悉したやり方だとすぐに判った。MAGIにここまで関わった技術者がそうそう巷に転がっている訳がない。
 しかし、高階医師…『CODE:Kaspar』の身内だとすれば、高階は詮索を嫌うだろう。それまでスピーカーモードにしていた通話を、俄にヘッドセットに切り替えてしまったことでもそれは明らかだった。
 リツコの疑問は、宙に浮いたままになるしかない―――――。