第拾弐話 すべて世は事もなし


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

すべて世はこともなし
第拾弐話

 

すべて世はこともなしAll’s right with the world!


 その庭ではもう桜の蕾がほころんでいた。
「えろう早いなぁ。陽当たりええ所為やろか」
 ロビーから見えるテラス越しの景色は、その桜を除けばまだまだ寒々としている。
 鈴原トウジはひとけのないロビーで座して待つのにも焦れて、檻の中の熊のようにうろうろと歩き回っていた。その時、無彩色と見えた風景の中に不意に現れたかのような薄紅色にふと足を止めたのである。
「確かにここは陽当たり悪くないけど、あれ、彼岸桜だからねー。いわゆるソメイヨシノよりもちょっと早いよ?まあ、本来今頃が時期かな」
 不意に声を掛けられ、トウジは危うく大声をあげそうになってへたり込む。
「あ、ごめん。びっくりした?」
 テラス窓をあけて入ってきたのは、自分と幾らもかわらないようにみえる少年だった。金褐色の髪と、よく灼けた顔。泥だらけのバケツにハンドスコップと肥料袋を突っ込んで、首にタオルを掛けている。この寒空にジーンズと長袖のTシャツという風体であるが、どうやら庭で一仕事してきた直後らしく、軽く汗をかいてさえいた。
「そーいや、今日って休日診療の当番だっけ。やっべ、サキに叱られる。あ、此処で会ったのは内緒にしといてくれる? そんじゃっ!」
 あたふたと出て行こうとする少年を、別の声が引き留めた。
「タカヒロ! なーにが『内緒にしといて』だ。診療時間内に作業着のままロビーをショートカットすんなって言ってるだろうが」
 いつの間にか診察室の扉が開いて、腕に包帯を巻いたサクラが立っていた。その後ろに、スラックスにポロシャツという格好の上から白衣を引っ掛けた人物がいる。先ほどの声はこの人だろう。
「丁度いい、家へ戻ってナオキに声かけてくれ。処方出してるから。あと、リエ…は寝てるな。ミサヲに会計処理を頼んでこい」
「りょーかい」
 タカヒロと呼ばれた少年がいそいそと出て行く。
「親御さんの代わりに君が来ていたんだったね。見た目が派手だからびっくりしたろう。幸い深くはなかったが、原因が建材から飛び出た針金と言ったか?感染が怖いから3日ほどは薬を飲んだほうがいい。痛み止めも出しておく。腕を下げて痛みが強くなるなら、腕を吊っておきなさい。気にならないなら自由にしておいていいよ」
「すんませんセンセイ」
「大丈夫、いたくないよー」
 笑いながらサクラが包帯をしていない方の手を振る。
「3日以内に貼ってあるフィルムが剥がれそうになったら、一応紹介状を書いておくから中央総合病院のほうへ受診を。終いまでフォローしてあげたいんだが、申し訳ないことにうちもこういう次第でね」
 そう言って、壁の張り紙を指す。そこには、柔らかい書体で「閉院のお知らせ」という文字があった。その期日は、明後日になっている。
「ああ、閉めてまうんですか、ここも」
 冬の最中さなか、未明に第3新東京を襲った地震は、直下型にもかかわらず警報が早くに出たおかげか奇跡のように人的被害は少なかった。
 しかし、建造物やライフラインに関しては甚大な被害があり、おかげで遷都計画も白紙に戻ってしまった。自然な流れとして、この都市から人は減少していく。学校からは同級生が次々と転校し、企業も撤退していった。病院もその例外ではなかった。
 おかげで、家の片付けをしていて怪我をした妹を受診させようとしても、休日診療所を捜すのは楽ではなかった。
「この街の先行きのこともあるが、弟が…体調を崩していてね。まあ、転地療養でもさせようかと思っているんだよ」
「へえ…そら、お大事に」
 適当な言葉を探しあぐねて、トウジはそう言って一礼した。そこへ玄関から、スエットの上下に白衣を羽織るという更にラフな格好の青年が、指先に引っ掛けた鍵をくるくると回しながら入って来る。
「あーごめん、ちょっと待っててー」
 ばたばたと薬局の鍵を開けて入っていった。
「…すんません。何か立て込んでるところへ無理にお願いしてしもうて…」
「いや、そこは気にしなくていい。こちらこそ済まないね。なんだか落ち着かないだろう。まあ、薬の調整と会計処理にもう少しかかると思うから、座って待っていてもらえるかな」
「は、はい」
 立って待っているのも何か苛ついているように見えるかとも思い、トウジはベンチに腰を下ろした。サクラはにこにこしながら当然のようにそのすぐ隣に席を占める。
 その医師は両手を白衣のポケットに突っ込んだまま、対面のベンチに腰を下ろした。
「二人で家の片付けを?」
「片付けいうほど大仰なもんでもないです。ウチは両親とも研究所勤めで…なんや、家の被害よりも研究所のほうが大事になってるらしいて…とりあえずここは一旦引き払って実家に戻るんで、ゴミはええから身の回りをまとめとけって言われたんです。新学期にはまた戻ってこれるて言うてましたけど。
 建物は何とか無事やったんですけど、まわりの道路やらはむちゃくちゃです。鉄骨やら針金やらあっちこっちから飛び出しとるんで。一緒にゴミ出しに行って、うっかり転んだらこの始末で」
「そうか、危ないな。応急処置キットは家にあるかな?」
「ありますけど、半分砂被ってしもうて使いモンになりませんねん」
「それはいけないな。少し診療材料から分けておこう。ああ、ただ。今日の傷はもし変わりがあったら早めに中央総合のほうを受診すること」
「えろうすんません」
 トウジがまた頭を下げる間に、その医師は診察室へ引き返す。取り残された ていのトウジは、とりあえず隣のサクラに笑いかけた。
「優しいセンセでよかったな?」
「うん、全然痛くなかったし、怖くなかったよ?」
「そかそか」
 そう言って年の離れた妹の頭を撫でる。

「…こうしてみるとお前、よく高校の制服なんかで誤魔化せたな」
 抗生剤をカウントするナオキの傍らで応急キット代わりになりそうな診療材料を見繕いながら、マサキはしみじみと言った。
「今更かよ。ま、どーせ俺らはミスズの学校の周りまで行って帰ってただけで、実際に学校にはいってないけどさ。…あのにーちゃん、例の学校の生徒だろ?ひょっとして俺が出てきたの まずかったんじゃないの?顔見られてたかどうかまで憶えてないけどさ」
「それこそ今更だな。まあ、バレやせんさ。お前、どーみても学生には見えん。…っていうか、お前をミスズの護衛にしたのはいいとしても、学生の格好コスプレまでさせたの誰だったんだ?」
「そのミスズだってば。父兄同伴で登校なんておかしい、ここは俺達も学生の格好してないと怪しまれるって。…今考えると半分遊ばれてたよーな気がするけど」
「一応筋は通ってるが、まあ間違いなく遊ばれたな」
「ま、べつにいいけど…ほい、調剤完了。そっちのアクリノールも俺が説明しとこか?」
「…ああ、頼む」
 アクリノールの小瓶とガーゼの入った袋をナオキに預けて、マサキは勝手口横のコートハンガーに白衣を引っ掛けると外へ出た。
 家と医院を仕切る小さな庭は、冬枯れているように見えても春の息吹を隠していた。微風はまだ冷たいが、一歩外へ出ると沈丁花の芳香が漂う。
 立ち止まって目を閉じ、風の中の微かな香りと、遠くで稼働する重機の音を聞く。
 ほんの数ヶ月前までは次々と新しい建物を建てるための音であったが、今は倒壊したり、取り壊しが決まった建物を解体する音ばかりだ。
「後悔してる?」
 例によって全く気配を感じさせなかったが、それで今更驚きもしない。だから、振り向きもせずにマサキはただゆっくりと目を開けた。…ただ、よく澄んだ空。
「あの子達、帰ったわよ。お兄ちゃんのほう、今時珍しく折り目正しい感じね」
「ああ、お疲れさま。事務長サマに雑務頼んで悪かったな」
「どういたしまして。リエもさすがに疲れてるもの。あれだけ大規模な空間操作したのなんか初めてだったでしょうね」
「まあ、座標出すだけでも俺だったら頭痛がするな。…だからお節介高速演算装置ユニット補助サポートにつけたんだから」
 苦笑しながら、ミサヲはマサキの肩に上着をかけた。
「…タカヒロじゃあるまいし、そんな格好で外をぶらぶらする時期じゃないわよ?」
「ああ、有り難う」
 上着に袖を通しながら、ゆっくりと家の方へ歩き出す。半歩遅れてミサヲがそれに続いた。
 ヴィレの実働部隊やネルフの投降者を撤退させ、カヲルたちを収容した後。ジオフロントはレミの空間転移能力で更に数十キロ下の地層とそっくり入れかえられた。
 第3新東京市のジオフロントは事故の際に墜落・埋没した移民船が基幹機能を衛星軌道上へ転移させた跡…つまりは抜殻である。9割近くが埋まったものの、残った空洞が人工進化研究所、後のネルフの拠点として開発された。そこに集積された資料、サンプル、その他営々と建設されてきた「人類補完計画」のための道具立てを、言わば地面の下で地面をひっくり返すことで埋めてしまったのである。
 直上にある第3新東京市の被害を最小にすべく、タカミが転移元と転移先の座標を詳細に特定してレミに送り、マサキがマーカーとなるため水脈を伝って再度ジオフロントへ降りた。ついでのことで太平洋と水脈を繋げておいたから、数年後ジオフロントは完全に水没するだろう。事が落ち着いてから、また昔の資料を掘り出そうという人間がいたとしても、相当苦労することになる。
 一気に大穴を開けてしまわなかったのは、それこそ東南海地震どころではない大災害になるのは明白だったからだ。
 細心の注意を払っても、大質量を転移すれば直上で地震は起こるし、ジオフロントと第3新東京市のリンクをばっさり消滅させてしてしまえば、第3新東京市の電気・水道その他インフラは壊滅的な打撃を受ける。第3新東京そのものが、ジオフロントの上に造ることが前提の設計なのだから仕方ない。
 しかし、あの二人の静穏を護り続けるためには…全ての資料と共にジオフロントは消し去るか、そうでなければ今度こそ人の手に触れられない場所に移さなければならなかった。
 そして、未明の地震となったわけである。
「後悔はしない。今更…な。あのひとがいったとおりだ。俺の手も真っ白ってわけじゃない…」
 その時、不意に襟首を摘まんで引き戻され、さすがにマサキが 均衡バランスを崩す。
「おい…!」
 ミサヲは背が低い方ではないにしろ、リエやレミほどの長身ではない。そのミサヲに不意討ちで襟を引っ張られたら、派手に後ろへ転んでもおかしくはなかったが、マサキはぎりぎりで立て直した。…というよりは、ミサヲに襟首を掴まれたままだったからそこで止まったというほうが正確だろうか。
「なに独りで悲愴感出してんのよ。俺、じゃなくて俺達、でしょう。そこ、間違えないで。私達が最善と信じた方法で、出来ることを、出来るだけ。私達は神様じゃないんだから」
 体勢を崩した所為で低くなったマサキの耳許に、すっかり鋭角的になったミサヲの声が刺さる。言わんとすることを理解し、マサキは不意討ちに対する文句クレームを速やかに引っ込めた。
「わかった。訂正する。だから襟を放してくれ」
「よろしい」
 荘重に宣してミサヲが手を放す。
「俺も少しあの坊やの感情に巻き込まれたか…そうだな、良くない」
「まったく、みんな手がかかること。面倒見るのも大変だわ」
 そう言って軽くマサキの背を押す。
「…みんなって…まさか、また嵌まってるのか。あのお節介高速演算装置は」
「あのねサキ。いー加減ちゃんとタカミって呼んであげたら?」
「あいつが大層な平行高速演算が得手で、いろんな予測が出来て、行動に移るための手段を揃えるのに長けてるのはよく分かったが、今回それで予定が多少狂った面もあるからな。…当分呼んでやるもんか。
 それで?やっぱり同じところでループしてるのか。鬱陶しい奴だ」
「鬱陶しいことにかけてはサキだって人後に落ちないじゃない」
「そこを蒸し返すか…」
「50年越しの懊悩がそんなに簡単に解決したら苦労はないでしょう。で、どうするの。私達はもう明後日には此処を離れるのよ?」
 マサキはもう一度天を仰いだ。
「さて。どうするかなぁ…」

「行ってきます」
 玄関で靴を履き、シンジは廊下の奥へ向かって声をかけた。
「あら、もうそんな時間?行ってらっしゃい、気をつけてね」
 手を泡だらけにしたまま、母が廊下へ顔を覗かせた。
「今夜、お母さん遅くなるけど…何か食べられるもの置いといてもらえると嬉しいな」
「わかった、何か作っとくよ。多分、今夜もおかず持ってアスカが押しかけてくると思うし」
「うんうん助かる! あー、キョウコんとこにも迷惑かけっぱなしだわ。今度お菓子でも持って行かなきゃいけないわねー」
「母さんも無理しないでね。行ってきます」
 扉を閉め、エレベーターへ向かう。
 母が戻ってきた。それはそれでとても喜ばしい事なのだけれど、代わりに父が入院した。母の時と違って、入院先はちゃんと判っているし、会おうと思えばいつでも面会可能だ。
 …だが、今のシンジはまだそんな勇気は無かった。
 母は相変わらず忙しく、3日に1回は泊まり込みになるし、2日に1回は夜遅く帰ってくる。それでも、泊まり以外は必ずシンジと朝食を共にした。
『シンちゃんがとってもこまめな子に育ってくれて助かった。おかげで母さん、とっても楽させてもらってるわ』
 至って気楽にそう言ってのける。シンジはといえば、なんだかいろいろありすぎて、実のところ今まだ整理がついたとは言い難い。
 夏の事件も、冬の出来事も、目の前で起きたのに…シンジは友人のために何一つ出来なかった。
 カヲルの救出には成功したと聞いたが、カヲルには会えないままである。
 意識と左腕を失った父とはあのあと一度だけ病院で対面することになった。当然言葉を交わすことはできず、シンジの記憶にあるよりもかなり年老いて見えた。自身の身体を実験に供した結果だと聞かされた。
 カヲルからあれほどの憎悪を買い、ミスズ達からも嫌悪を向けられた父も、自分が信じたもののために自身をも犠牲にしていたということなのだろうか。もっと別の理由があったのだろうか。
 だが、事実として…父は全てを失い、意識が戻ったとしても通常の生活は送れないかも知れないという。身体的にも、社会的にも。
 人類補完計画とやらも阻止されたのなら、カヲルはその目的を達したのだろうか。そして今、どうしているのだろう。
 あの後、テロ騒動もすっかり地震の被害で吹っ飛んでしまった。復旧が始まっているとは言ってもまだまだ途上である。ここが首都になるという構想さえ無期限に凍結されてしまって、首都構想に乗って増えた人口は既に流出を始めているという。
 ―――――だが、学校が再開になってしまえばシンジ達の日常はそんなことを欠片も斟酌せずに流れていくのだ。
 とりあえず、いつものように隣のインターフォンを押す。
「アスカ、行くよ?」
『あらシンジくん、早いのねー。寒いから入って待ってらっしゃい。アスカったらまだ食べてるのよ』
 アスカの母、キョウコの快活な声が返ってきた。返事しないうちに扉が開く。
「はい、お邪魔します」
「なにー、莫迦シンジの癖にやたら早いじゃない」
 なにやら口の中に入っているのか、ややくぐもったアスカの声。間取りは碇家と左右対称だし、日常的に往来があるのでアスカが陣取っているダイニングの場所は目を瞑っていても判る。シンジはそこへ向かって歩きながら、軽くため息をついて言った。
「…やっぱり忘れてたんだ、アスカ。今日、生徒会の引き継ぎやるからって話…」
「…!」
 反応は激烈だった。シンジが丁度ダイニングを覗いたとき、アスカは残りのトーストを凄まじい勢いで咀嚼しながらコーヒーの入ったマグカップを音高くテーブルに置いたところだった。
「ごちそうさまっっ! ママ、行ってきます!」
 それでも席を立ったのは、ちゃんと呑み込み終えてからというのがある意味偉いのだが。
「なにしてんの、行くわよシンジ!」
「はいはい。…あ、行ってきます」
 こういうときのアスカに余計なツッコミを入れるのは、益無くて被害ばかりが大きい。シンジは笑いながらキョウコに一礼してアスカに続いた。

 シンジやアスカが生徒会に引き込まれたのには理由があった。
 執行部として決まっていた中にも、親の転居に伴い転校してしまう生徒が複数いて、急遽アスカに白羽の矢が立ったのである。
 比較的成績の安定しているいわゆる優等生に声がかかったわけだが、常ならアスカはそんなことに関わろうとしない。副会長というオファーの話を噂で聞いたときも、シンジはアスカが断るものと思っていた。
『アタシ、副会長の話受けるから』
 その宣言をぼんやりと片手頬杖で聞いて、ああ、珍しいこともあるもんだな、などというのんびりした感想を抱いていたシンジだが、次の一言で思わず顎が落ちた。
『だからアンタは書記やるのよ。いいわね』
 否も応もない。アスカが宣したからには、それは既に決定事項である。開いた口が塞がらないとはこのことであったが、急遽行われた信任投票でも結局通ってしまって今に至る。
 愚痴半分に母に話をしたら、『いいじゃない、がんばってね』と赤飯でも炊きかねない喜びようである。
『シンちゃんはもっといろんな人や、いろんな世界に関わるのがいいと思うの。とってもいいお話だと思うわ。アスカちゃんも、案外同じこと思って声かけてくれたんじゃないかしら。あるいは…そもそもアスカちゃんが副会長受けたのも、シンちゃんのためだったりして!』
 …とまあ、別方向へ勝手に盛り上がってしまい、シンジの愚痴は見事に行き先を失った。
「…結構いそがしいよね、これ」
 放課後の生徒会室。年間の校内行事予定表に沿った、執行部のスケジュールをまじまじと見つめて…シンジは吐息した。
 成績が常に上位のアスカならばともかく、いつも中の中、悪いときで中の下あたりをふらふらしているシンジとしては、えらいことに足を突っ込んでしまったと早くも後悔していた。
「何言ってんの、こういうことをちゃんとこなすってのは、内申書のプラスにはいってくるのよ。アンタ、成績イマイチなんだからこういうとこでがんばらなきゃ」
 容赦の欠片もないことをばっさりと言い渡され、ぐうの音も出ない。だが、こういう話を聞いていると、やはりアスカは自分のことを気に掛けていてくれるんだなといっそ申し訳ないような気がしてくる。
 このめまぐるしい一年ほどで、わかったことがある。
 去年の今頃。自分はおそらく何も見ない、何も感じないことで自分を守ろうとしていた。母の失踪、父の変貌…理由を知りたいと、なんとかしたいと思う気持ちはあったのに。知ることが怖くて、今よりも寂しくなるのが怖くて、全てに蓋をして日々を送ることに専心していた。
 それに気づかせてくれたのがあの二人だった。
 わからないことはまだたくさんある。いろんな事を見て、聞いて…それでも、この一年ほどの間に起きたことの全てを理解できたとは到底思えない。…結局何も変わってはいないのかも知れないと思うほど、わからないことだらけだ。
 だから、受け容れることにした。今あるそのままの世界を。そして、今自分に何が出来るかを考えることにした。それが、自分を気に掛けてくれる人たちへの、一番真摯な返礼であると気づいたからだ。
 だから、降って湧いたこの仕事も…できる限りがんばってみようと思う。時折、愚痴は出るにしても。
「まあ…あとはセンセとよく話して、どんどん新しいこともやってみてね。慣例と規則だけで動く生徒会なんて面白くないよー」
 そんな台詞で卒業間近の先輩から資料を託され、その膨大な量に思わず眩暈を覚える。一年という任期の、大まかな流れと今までの資料の場所を確認するだけでも結構な手間だった。
 それでもようやく一通りが済んで、アスカと職員室へ生徒会室の鍵を返しに行ったら日はとっぷりと暮れていた。
「うわ、真っ暗。おまけに寒い!」
 アスカがぼやく。
「だいぶ日は長くなってきたけどね。まあ、時間が時間だから」
 そう言いながら校門を出かけた二人のすぐ傍に、一台の車が止まった。するすると運転席のウインドウが降りて、わずかに無精髭をつけた顔が覗く。
「いようお二人さん。聞いたぞ、執行部やるんだって? 大変だね」
「あ、加持さん」
「良かったら送ってくよ?もう真っ暗だしな」
「きゃー、いいんですかぁ?」
 アスカが乗らない訳はない。シンジとしても加持の申し出は有り難かったから素直に乗せてもらうことにした。

「…加持さん、車変えました?」
 シンジの何気ない…多分、沈黙を避けるための実に当たり障りのない話題を選んでの言葉に、加持は内心で冷汗をかきながら応えた。
「ああ、前のヤツも中古車だったからね。どうもトラブル多いんで買い換えたんだ」
 ミサトを高階邸から第2東京へ送ろうとして、不覚にもネルフの諜報部に付けられていた発信器に気づかず…襲撃を受け、ものの見事に蜂の巣にされて廃車と相成った事情についてはこの際伏せておく。
 あれは痛恨の一撃ではあった。腑抜けていたと言われても、一言も反論できない。
 結果としてミサトを危険に晒し、忍耐でノーマークを勝ち得ていたリツコに重傷を負わせるという失態を演じた。堕ちる処まで堕ちた、というのは今の自分を言うのだろうな、と自虐を込めて呟くこと、何度になったか数えるのも鬱陶しい。
『君にはもう、何が起こりつつあるのかわかっているんじゃないのかい? だったら教えてくれないか。このままじゃ、俺たちは動けない』
『…だったら、動かないでください』
 当てにされてなどいない。そんなことはとうに理解していたつもりだった。だが、面と向かって言い放たれると思いのほかこたえた。
『いずれ、あなたにはどうすることもできない領域ですよ』
 どうすることも出来なくて。ただ、傍観するだけ。
 立場としてはそう変わりが無かった筈のシンジさえ、静かに再建を果たしつつある。聞いてみたいこともいくつかあったが、アスカが一緒ではそうも行くまい。
 もともと、そう長い距離でもない。碇家と惣流家のあるマンションの前で車を停めた。
「素敵な車ね!今度はコイツ抜きのときにドライブに誘って」
 アスカの言いぐさに苦笑しながら、シンジが律儀に一礼する。…そして、アスカがエントランスへ向かって歩き出すのを明らかに見計らって口火を切った。
「あの…加持さん、カヲルくん達には…会えました?」
 シンジの表情には、聞くに聞けなかった焦慮が覗いていた。一瞬、加持でさえ呼吸を停めそうなタイミングではあったが、それを外に出すことはなかった。
「いや、まだ会えてないんだ。何度か行ってはみてるんだが」
 会わせてもらえなくてね、という一言を、加持は呑み込んだ。
「そうですか…すみません。今日は有り難うございました」
 もう一度、深々と一礼してドアを閉める。エントランスへ到着しているアスカから声がかかったのだろう。走って後を追うシンジを見送って、加持は車を発進させた。
 見かけによらず、強い子だな。そんな感想を持った。
 もう半年以上前のことになるが、雨の中逃げ出したシンジをカヲル達と共に捜し歩いたときのことを思い出す。加持は望んで首を突っ込み抜き差しならなくなったクチだが、あの子は全く巻き込まれただけだ。事を始めてしまったのが、たまたま両親であったというだけで。
 知ったことかとひねくれるのは簡単であったに違いない。でも、そこを真っ正面から受け止めてしまった。当然と言うべきか、その精神は崩壊寸前まで追い込まれていた。だがそれを、最後には受け止めきってしまったのだ。
 …あの二人が無関係な訳はない。
 ただ、生きようとした。自分の在り様ようを捜しながら。シンジも、カヲルも、レイも。
 何も出来なかったことを償う機会は、残されているのだろうか…?
 そんなことを考えながら、本来の目的地にハンドルを切る。こちらは半ば巻き込まれ、どちらかと言えばなし崩し的にヴィレの実働部隊を率いることになってしまったミサトの迎えである。ネルフが崩壊した事後処理に結局最後までつきあうことにしたらしい。
 ネルフ攻略におけるヴィレの橋頭堡として使われたビルは、以前はただ地下部分が武器庫にされていただけで、地上のオフィスは完全なダミーであった。そこが今、1階から3階までびっしりと通信機材や書類、押収した資料を収める段ボールが置かれている。

 3階の奥まった部屋、うずたかくなった段ボールに半ば囲まれるようにして、ミサトはいた。書類箱はデスク周りと休むためのソファ、そこの延長線でドアに至るまでの小径以外の場所を完全に占領している。加持は毎度、ミサトに声を掛けるにもそれらを倒さないようにそろそろと入らねばならなかった。前にうっかり箱ひとつ倒して整理するのに2時間拘束されてから、懲りたのだ。
「おーい、葛城?」
「あら、もうそんな時間?」
 ディスプレイの周囲に付箋をべたべたと貼り付けたパソコンの前に座したまま、両手の書類をまとめて決裁済に放り込んだミサトが顔を上げる。
「いつも不思議なんだが…何でも電子化のご時世に、どうしてこの部屋ってのはかくも書類だらけなんだ?」
「私に訊かないでよ。組織ってヤツはどうしても書類にサインしないとコトが収まらないらしいわ。ま、そりゃ私が整理苦手ってのもあるけど?」
「お疲れさん。…それにしても、葛城のOL姿が拝めるなんて…長生きはするもんだな」
「あのねぇ!OLなんて死語よ死語! …っていうよりむしろセクハラ?あんまりしつこいと蹴飛ばすわよ」
「わかったわかった。俺が悪かった」
「さーてお迎えきたんなら、帰ろっと」
 ミサトが軽く伸びをしてから立ち上がる。実質的な最高責任者である碇ユイほどではないにしろ、ミサトも俄に大量の仕事と責任が降りかかっていたが、週末は必ず第2東京へ帰ることにしていた。母のところに顔を出すためである。
 …以前は自分で運転していたが、睡眠不足から居眠り運転をしかけて車をガードレールに擦ってから、加持に運転を頼むようになっていた。
「じゃ、私は上がるから。また週明けにね。皆もあんまりがんばりすぎないのよ~」
「あ、お疲れ様です葛城さん」
「そっか、金曜だから迎えつきなんだ。いいですねえ」
「そんないいもんじゃないってば。ホントは自分で運転したいけどね。峠でクラッシュすんのは願い下げだもの。それじゃ、お疲れ様」
 1階へ降りる間に各階オフィスを順々に覗いて行くミサトを見ながら、加持はその違和感のなさに軽い驚きを感じている。中学校で教師をしていても、実働部隊の陣頭でH&K USPを片手に疾走していても、こうしてオフィスで書類仕事をしていても…何年も前からそこにいたように馴染んでいる。
 週明けからの段取りだろうか。出がけにスタッフからの電話に引っかかってしまったミサトから、ゼスチュアで車で待っていてくれといわれて、加持は外に出た。
 車のドアを開けたまま、煙草に火を付ける。
 車内に匂いを付けないように配慮するようになったのは、いつからだったろうか…?
 シンジを、ミサトを羨むばかりで一歩も先へ進めていない自分を嗤う。進めないのは、何処へ行っていいかわからないからだ。
 ジャーナリストとして命を賭ける覚悟で臨んだつもりの仕事だった。だが、現実は…想像を超える大きな力に何も出来ず、やがて現れた真実とやらはとても一般に公表の出来ないものであった。
 自分が何をしたかったのかが、わからなくなったのだ。
 そのことに気づいたのは、良かったのか悪かったのか。
 漫然と…夜空に紛れていく紫煙を見送っていて、出し抜けに鳴動した携帯電話に思わず煙草を取り落としそうになって、くわえ直す。
 そして、発信者を見て…加持の口の端から煙草が落ちた。