Scene 3  Saturday,4:30 p.m.

 夕刻の4時半といえば既に黄昏時だが、よく晴れているからまだ十分に明るい。とりあえず今日の課題を終了させて研修棟を出たタカミは、夕焼け空を仰いで軽く伸びをした。
「レポートは終わったし…あとは明日の11時に冬月教授の口頭試問で終わりかぁ…日曜の午前なんて、よく時間とってくれたな」
 口に出してしまってから、それが他でもない「赤木リツコ博士」の広範な人脈の賜物であることに思い至り、折角伸ばした背をすこし丸めてしまう。
 だがその時、研修棟を囲む緑地の向こうに脱色された金色の髪を認めて立ち尽くした。

 土曜日の勤務もあと30分。『勤勉な臨時職員』が午前中で退勤したため、加持リョウジは久し振りに身体を使う仕事もこなしたが、特に問題はなかった。もう半年も経っているのだ。本来、もっと普通に動けるだろうと突っ込まれても文句の言えない状況ではあるはずだった。
 のんびりと業務日誌の記入をしていると、俄に携帯が鳴る。
 発信者表示を見て、加持は思わず目を疑った。

 初老の穏やかな学者。そういう表現以外に、高階マサキはその人物を言い表す言葉を持ち合わせなかった。
 冬月コウゾウ教授。形而上生物学部の名誉教授。碇ユイからすれば師匠すじにあたる人物で、碇ゲンドウと共に人工進化研究所、ネルフの基礎を創り、ネルフがネルフとして機能する直前、ダミーシステム暴走事件の責任をとるかたち…ありていにいえば犠牲の羊スケープゴートのような形で当局に収監された。
 その後、ネルフを制圧する目的で成立したヴィレ…主に碇ユイに担ぎ上げられて実働部隊の最高責任者として据えられた人物である。
 だが、昨冬のジオフロント事件が終熄して後はそれも引退し、ようやく安逸な生活を手に入れたばかりだ。
 それとて、完全に無罪放免というわけではない。元と言ってもNo.2である。当人は決して危険な人物というわけではないが、野に放つにはいろいろ問題がある…ということで、悪くいえば飼殺しの身の上ではあった。しかし、研究が出来ればそれで良い、という立ち位置スタンスは一貫していたから、行動に然程の制約を受けることはない。特定の企業、研究所との接近を監視される程度のものだ。
「…そうか、君が…」
 そう言ったきり、冬月教授は暫く何も言わずにじっとマサキを見ていた。教授は碇ユイから彼が何者かを知らされている。
「…私は昔、『高階マサキ』氏に会ったことがあるよ」
 ややあって、冬月はそう切り出した。今ここにいるのは『アーネスト・ユーリィ・サーキス=高階』という名の医師で、形而上生物学部の留学研修生。その建前を一応尊重してくれるらしかった。
「…その時私はまだ学生でね。彼もそうだった。今にしてみればそうは思えないフシがないでもなかったんだが、当時の私は人付き合いというやつにひどく無頓着でね。…ああ、それは今もあまり変わっていないのかも知れないが。
 あの頃にもう少し、私が人の話をきちんと聞くことができていたら…或いは…私は正しいと信じたものに裏切られることもなかったのかね?」
 アダムとその眷属は、リリスが創った世界を肯定する。…そんな些細なことが、死海文書の記述に縛られた者には、決して受容れることは出来なかった。ゼーレ然り、碇ゲンドウ然り。冬月でさえそうだった。アダムやリリスのとの接触実験に成功し、死海文書の記述に抗える確証を得た碇ユイに説得されるまでは。
「歴史に『もしIF』は無意味ですよ、教授」
 マサキは苦笑する。
「全てが終わってしまったような口ぶりでいらっしゃるが…あなたはまだ生きておいでだろう」
「この年寄りにもまだ何か出来ることがあると?」
「それを決めるのはご自身だ。…と、大伯父1なら言うでしょうね。終わったと思ったときにすべては終わる。終わったと思わなければ、いくらでも、いつからでも変えていける。それができないのは、命を失ったときだけだ」
「至言と言うべきだな。それも高階マサキの言葉かね?」
「いいえ…高階マサユキからの受け売りと聞いてます」
「…成程」
 高階マサユキ。ドイツの研究所に集められていたネフィリム達に、そうと知らずに関わりを持ち…戦後、研究所を離れてから再会した彼等を保護して日本での生活を与えた人物。
「…では、その金言に従うことにしよう。碇ゲンドウが消息を絶った時の話だったな。
 正直、ユイ君があの二人を連れて姿を消しただけでも研究所は大騒ぎだった。
 しかも大量の標本サンプルを、丁寧に破壊してからの出奔だったからな。一時は研究の続行も不可能かと思われていたほどだ。標本のうち、回収可能なものの選別だけでも一苦労だった。その上、管理・解析に使用するソフトウェアの被害も甚大で、赤木君の参加を急がせたのはその所為もあった。無事だったのはハードウェアだけでね。
 だから実直に、碇が姿を消しても私はユイ君を探しに行ったんだと信じて疑わなかったよ。ユイ君が見つかればそれでなんとかなるんだからね。
 それが違ったんだと判ったのは、あれが帰ってきてからのことだった。
 私が、ユイ君は見つからなかったのかと訊いたら、何故そんなことを訊かれたのか判らないというふうに、「ユイはいません」ときたものだ。
 多分あの時、あれなりに時間を掛けてユイ君なしでも研究を続ける覚悟を決めてきたのだろうな。
 後日、ゼーレから報告書をせっつかれて…申し訳に行き先をいくつか割り出した。どうやら以前、家族で旅行したところを回ってきたようだった。報告書自体はMAGIと一緒にジオフロントで埋まっているが、必要ならここで思い出せる限りを書き出しても良いよ。ただ…」
「ただ?」
経緯いきさつを聞くと、存外近くでふらふらしてるだけという気もするな。あるいは、行き場がなくなったと感じてただ途方に暮れているだけなのかも知れん」
 だが、そこまで言って、冬月教授は頭を横に振った。
「…いいや、やっぱりあの男の考えてることなぞ、私には判らんね」
 そう言って、抽斗を開けて紙とペンを出した。手許のタブレットに地図を出しながら、記憶を辿りつついくつかの地名を書き出し始める。

「や。勉強は捗ってるかい? 迎えに来たよ」
「あれ…加持さん?」
 夕刻、マンションに戻ってきたカヲルが伴っていた人物に、シンジは目を丸くした。
 これには、レイも実はシンジの後ろで目を丸くしていたのだった。いつかのように、今夜はシンジが此処マンションへ泊まるものと思っていたのである。
「碇博士がね、君のお父さんが事件に巻き込まれた可能性も考えて、念のため今夜は加持さんに泊まり込んで貰うように頼んだんだって。碇博士は大学に泊まり込みらしいから」
「そっ…そうなの…」
 急な話にシンジはしばらくぽかんとしていたが、カヲルが例によって風のような微笑で立て板に水な説明をしてしまうと、とりあえずそのまま立ち上がって靴を履きに出なければならないような気になってしまった。
 そもそも身一つで転がり込んだのだから、持って帰る物があるわけでもない。
「あ、じゃあ、今朝貰ったミスズちゃんのタルトタタンがまだあるから包んであげる。加持さんと食べてね」
 レイがあたふたと台所へ駆け込む。
「へえ、それは有り難い」
 加持がそこへ調子を合わせるから尚更だ。何だかよく判らないうちにシンジはタルトタタンの包みを持たされ、加持に伴われて帰宅していった。
 加持の車に乗るシンジを、カヲルがベランダから見送っている。
 それが何やらほっとしているふうなのを見て、レイは客用のカップを片付けながら声をかけてみた。
「やっぱり何か、危ないことになりそうなの?」
 問いかけるレイの表情に、自身が余程切羽詰まった顔をしていると思ったのだろう。カヲルが柔らかく笑んで言った。
「いや、大丈夫。此処に危険があるわけじゃないよ」
 そうして、ややその笑みが苦くなる。
「正直、シンジ君には今夜一晩くらいここに泊まって貰ったって構わなかったんだけど…そうなると、ひとつ問題があって」
「え?」
 何か問題があっただろうかとレイが首を傾げる。
「タカミだよ。いいタイミングで出かけてたから良かったけど…タカミが今のシンジ君の様子を見たら、碇ゲンドウの件が一発で筒抜けてしまうよ。だから、ユイ博士に了解もらって加持さんに連絡したんだ」
 正直なところ、レイやカヲルでさえ…タカミに読まれていないという確信があるわけではないのだ。幸いというか、底無しのお人好しは他人を気遣うことはあっても疑うということを知らないが。
「今回ばかりはサキの言うのも尤もな話さ。タカミには、本分に徹して貰わないとね…で、レイ。何笑ってるの?」
「ん?何でも無い。何となーく、嬉しいだけ。あ、そろそろお夕飯準備するね!」
 この際、何でも無いというのは嘘である。カヲルがマサキの正しさを認めていながら、言うことをすんなりくのは滅多にないことだからだ。カヲルが示す微妙な反発を心配しながらも、レイは実のところ少し面白がってもいた。

――――――to be continued

  1. 大叔父…アーネスト・ユーリィ・サーキス=高階は「高階マサキ」の妹である「高階ミサヲ」の孫という偽造戸籍。(だからミサヲちゃんが「何で私がお祖母ちゃん!?」と怒髪天)「知らない奴には不審を抱かせず、知ってる奴には判ったって構わない」為の細工。 公的には「高階マサキ」はスコットランドの古城に逼塞していることになっている。