第Ⅰ章 「シ者」たち


Senryu-tei Syunsyo’s Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」


第Ⅰ章  「シ者」たち


A Part

 いつの間にあの硝子の牢獄から出されたのか、明確な記憶は僕にはない。
 ただ、気がついたらその一室で天井を見上げていた。
 血の匂いのする液体のかわりに、数々のモニタ端子が直接僕の身体に張りつけられているのが分かる。血の匂いもうんざりだが、これはもっと嫌だ。引き剥そうとして、まだそんな力がないことに気づいた。
「まあしばらくは我慢することだ」
 僕がしようとしたことが分かったのか、誰かがそういった。・・・《誰か》?
 僕はゆっくりと顔を声がする方へ向けた。20歳よりは上、30にはいかない・・・それくらいの、白衣の男。ラボでは見なかった顔だ。だが、モニタのデータを引き込んだラップトップパソコンを操作しながら、時折点滴の落ち方を気にしている。
 声を出そうとして、咳込む。気道内壁に残留する液体と言うより、上がってくるその臭気にむせたのだ。
 その《誰か》が窓を開けた。外は日差しが強いようだが、緑陰を渡り流れ込む風は涼しかった。
「いきなり起きようと思うなよ、目を回すぞ」
 最後に勢いよくリターンキーを叩いてディスプレイを伏せ、どこから出したかグラス一杯のよく冷えた水を枕元に置いた。
「血圧が80mmHgを割り込んだら警報が飛んで、即刻逆戻りだからな。嫌だろう? もし飲めそうなら、ギャッジで上げるがどうだ?」
 僕はその問いを、態度で肯定した。低いモーターの駆動音がしてベッドの上半分がわずかに持ち上がる。それに伴って、視界が天井から開け放たれた窓のあたりまで広がる。頭を枕から持ち上げようとして、僕は諦めた。
かろうじて、グラスの水を持つくらいの力はある。薬品臭のない水は、喉に心地良かった。
喉奥の不快感が去り、声が出そうだと分かると、僕はグラスを置いた。そして、頭に浮かんだ一つの名前を口にする。
「・・・・”Sachiel”・・・・」
「・・・そうだよ。どうやら、ある程度は理解るようだな」
 再び開いていたディスプレイ表示された数値に満足したらしく、彼は椅子を引き寄せてベッドのすぐそばに座った。しかし、僕はそのことに一切頓着しなかった。いまは、いろいろなことを思い出すのに忙しい・・・・。
「おまえさんの頭の整理がつくまで待っててやりたいが、こっちも時間が差し迫っている。・・・悪く思うな。と、ATフィールドは勘弁してくれよ。何も取って啖らおうってんじゃない」
 不器用そうな指が、僕の額に触れる。警戒心を莫迦莫迦しいものにするかような言葉の調子についのせられてしまい、払いのけるタイミングを逸した。
「・・・・・・・っ!」
 瞬間、物理的衝撃とまがうほどの大量の情報が僕の中に入り込み、僕は思わず彼の手をはねのけた。エンパシー。そう、これは僕の能力だ。本来僕はこの同調の深さを恣意的に調節できる筈だった。僕がまだ完全でないからか、調節がうまくいかない。危なかった。相手が魂のないモノだったら呑み込まれていたところだ。
「すまない。大丈夫か?」
 手が赤くなるほど叩かれたというのに、彼は静かだった。それどころか、こちらの心配まで。
「・・・・もう、時間なのか」
 僕の声は、すこし震えていたかもしれない。
「・・・・そうだ。俺は、行かねばならない」
 沈黙の幕が降りる。外のやかましいばかりの蝉の声だけが、殺風景な室内を占領していた。
「・・・Ja・・・」
 僕は、ようやくそれだけ言った。彼は頷き、椅子から立ち上がる。
「こんなことを頼める立場じゃないのは、よく理解っているつもりだ。・・・しかし、ただ従容と運命に身を任すのも癪じゃないか」
 僕は、もう何も答えるつもりはなかった。
「一番辛い役目を振ることになって、すまないとは思っている」
 それだけ言って、彼は部屋をあとにした。
 僕が次に視線を上げたとき、先刻のコップはもう一度冷たい水で満たされていた。
 身を起こす。警報は鳴らない。張りつけられた不快なセンサを一つ残らず剥がし、モニタ類の向こうへ放り投げる。かけてあったガウンを羽織って、足を下ろした。
 一切の反応を感知できなくなったモニタが警告を発する前に、僕はラップトップのディスプレイを開いた。適当な数値を適当な時間流し続けるように設定して閉じる。
 先刻――――といってもどれくらい前だろうか?――――まで彼が座っていた椅子にかけて、いまだに冷たさを守っているグラスに手を伸ばす。

――――――――外はもう暗い。