第Ⅲ章 「自由」の意味は


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」


「Dr.榊 タカミ・カーライル?」
 タカミの動きが止まっていたのは、ほんの一瞬。
 訝しんで当然の時刻であり、そして場所だった。それにも関わらず、彼はすぐに人好きのする笑みで応えた。
「Yes…..」
 そしてシルバーフレームの眼鏡を外し、穏やかに訊ねかえす。非常灯の頼りない光の中で、その双眸の色が浮かび上がった。
「….Tabris?」
 それは黒い髪にいかにも不釣り合いな、希少な緑柱石と同じ色。


第Ⅲ章 「自由」の意味は
A Part

「正直、これほど早く、それも直接的に接触してくるとは思わなかったね」
 部屋の照明をつけながら、タカミは苦笑混じりに言った。
「すまない。片づいてなくて悪いが、そこらに座っていてくれ」
 まるで気のおけない友人を招じ入れるような調子で、リビングを指さす。
 確かにこのとき、カヲルは反応を選びかねていた。タカミがそれを察してかどうか。冷蔵庫を開けて中を物色しながら、からかうように言った。
「ま、こういうときは普通、『お邪魔します』とかなんとか、月並みな挨拶が入るものだけどね」
 カヲルは暫時思案していた様子だったが、ややあって言った。
「…”お邪魔します”」
「なんともま、棒読みだね」
 それはあまりにも正直過ぎる感想だった。ばつが悪そうに目を伏せるカヲルに冷えたアイスティーの缶を差し出して、笑う。
 カヲルが手を伸ばすまでに、このときもまた躊躇うような間があった。
「…”ありがとう”」
 差し出された冷えた缶を両手に収め、カヲルは顔を上げた。だが、いかにも微笑ましいものを見た、というようなタカミの顔を見て、再び目を伏せる。
「お、拗ねたかな。…って、嘘だよ。まあ、それにしてもよくこんなところまで一人で来たね。よりによって、君が」
「…?」
「いや…。君だからこそ、ここまで来ることが出来たんだろうね。運命に縛られた者にできる真似じゃない」
 アイスティーの缶を傾け、呟くように言う。
 その横顔を、カヲルは不思議なものでも見るように凝視した。その虹彩は、日英クォーターとしては何の変哲もない深い鳶色。
 先刻と似た沈黙が降りる。ややあって、カヲルは口を開いた。
「…答えを、探しに来たんだ。イロウル」
 さすがに、缶を傾ける手が止まる。缶をおろした手を、指先を漫然と見つめて、数秒。
「…たいしたものだ」
「あんなメイル、他に考えられない。あの家にいないのは二人…予想はつく」
「敗けたよ」
 缶を置き、両手を上げてみせる。
「しかし、僕が答えを知っているわけではないよ。それぐらい、理解っていたんだろう?」
 カヲルは頷いた。
「ならどうして、危険を冒してこんなところまで?」
「・・・答えを知らなくても、答えに近づく方法を知ってる」
「買いかぶられたね、どうも」
 タカミ…イロウルは黒い髪をかき回した。
「…まあいいさ。そう思うなら、気が済むまでここにいればいい。どうせ僕はほとんどいないし、この部屋のものは自由に使っていいよ」
「…ひとつだけ。サキエルは、このことを…」
「知っていたさ。その上で、あえて知らない振りをとおした。何せ、”榊タカミ・カーライル”は紛れもなく実在の人物だったんだからね。これ以上安全な場所はないさ」
「…」
「…まぁおいおいと話すさ。でも、僕が君よりも物識りだなんて思わないでくれよ。僕に出来るのは、おもしろくもない昔話だけなんだから」
 タカミはアイスティーの缶を空にしてしまうと、キッチンの一隅に置かれた缶専用と見えるボックスへ放り込んだ。わりあい几帳面な質らしく、本人が言うほど室内は荒れていない。
 それどころか、この部屋に入ったときからかすかに芳香を感じていた。その正体が何であるのか、カヲルには見当がつかなかった。しかしおよそ、30男の一人住まいには不似合いなものであるには違いない・・・・・。

***

 闇の中で、その紅瞳を開いたままカヲルは何度目かの寝返りを打った。
 マンションという家屋の造りは、カヲルに一種の圧迫感をもたらすものだった。何ゆえかはわからない。ただ、強いて言えば窓が少なく、通気が悪い。
 無論エアコンは十分に効いているし、採光は悪くない筈だった。今も、月の光がカーテンの隙から忍び込み、灯の消えた室内を蒼く照らしている。朝となれば、眩いばかりの陽光が差し込むだろう。
 それなのにこの息苦しさは何なのか。
 ソファをベッド代わりにしていることがさほど睡眠を妨げているとは思えなかった。それなのに、眠りに落ちかけると、得体のしれない悪寒に襲われて目が覚める。・・・・その繰り返しだった。
つい先刻も、今夜何度目かに目を覚ましたばかりだ。
 どうにも目が冴えてしまい、ついにカヲルは起き上がった。
 嘔気を催しそうな不快感が、汗と一緒になって肌にまとわりつく。しかしそれは、エアコンがのせてきた香りにふと癒された。
 この部屋に入って以来ずっとしているのだが、別にきつい感はない。気を落ち着ける、佳い香りだった。人の手が入った香りとも違うようだ。生花のものか。いや、この部屋にそんなものがあったか・・・・・?
 カヲルは、軽く頭を振った。
 どうも、勝手が違う。榊タカミ・・・否、イロウルは、カヲルが今までに接してきたものたちとは完全に一線を画していた。14年、リリンの間で暮らした経験がそうさせるのだろうか。それとも、他に・・・?
 彼は明らかにリリンではない。・・・かといって自分たちと同じ存在というふうにも、簡単に割り切れない部分がある。
 リリンとも、自分たちとも、似て非なる者・・・・・・
 荒れた息を宥め、ソファに背を預けたとき、また悪寒。
「――――!」
 ――――――今度こそ、わかった。
 今までは眠りに落ちかけた瞬間のことで、不快感だけが残ったが、今度こそわかる。
これはリリンの感情。この同じ建物の中に棲んでいる、別のリリンたちの感情を拾っていたのだ。
 ATフィールドの扱いには慣れたつもりだった。しかし、こんな大勢の<他人>がひしめく中では、こころを閉ざすのも一筋縄な業ではない。
『よく、こんなところに棲める・・・・・』
 カヲルは静かに毒づき、身を横たえた。
 前よりも強く、こころを閉ざして。

***

 翌朝出勤したタカミは、2時間もしないうちに戻ってきた。
「R警報」が発令され、民間人のシェルター移動が通告されたというのだ。
「僕はこれでも非戦闘員なんでね。有事の際にはシェルターヘ行くことになってるが、君はどうする」
「・・・・ここにいる。別に逃げる必要もない」
 タカミはやれやれといった風に、一旦持ち上げた自分のバッグを机の上に戻した。
 シェルターへ移動するというなら職場から直接行けばよかった筈だ。それをわざわざマンションまで戻ってきたのは、警報なぞ聞き流しているだろう客人を案じたのだろう。
 しかし、やはりというか、カヲルの返事は淡々としていた。
「・・・別に、居てくれとは言ってない」
「まあそうつれないことを言いなさんな。・・・・まったく、君を見ていると、リリンの振りをするのに汲々としてる自分が莫迦らしく思えてくるな」
「リリンだろう。今は」
「きついねえ」
 タカミは苦笑し、先刻電源を切ったばかりのポットの残量を確かめて、棚からインスタントコーヒーの瓶を引っ張り出した。
「・・・・・イスラフェル、なのかい?」
 暫時、沈黙があった。ややあって、俯いたまま告げる。その声は、絞り出すような息苦しさに満ちていた。あるいは、ひび割れていた。
「・・・多分」
 その癖、カヲルの表情は動かない。ソファのうえで膝を抱えた、その格好は昨夜と変わらない。身体を硬くしているようにも見えた。
「とりあえず、戸締まりはさせて貰うよ。こっちもまだ怪しまれたくはない」
 タカミはカヲルの前にコーヒーを置くと、ベランダに続く窓を閉め、雨戸を閉めた。闇に閉ざされる室内。
ややあって、静寂が訪れた。それまで雨戸越しにも僅かに聞こえていた、街の喧騒が消えたのだ。
「・・・・さて、何から話したらいいのかな」
 世界の中にたった二人取り残されたような静けさを破り、タカミが立ち上がる。
 サイドボードの上にあった、小さなインテリアランプの台に手を触れる。硝子の鳥が、闇の中で光の翼を広げた。
「・・・・あの天変地異に巻き込まれた、小さな子供がいたんだ」
 カヲルは、タカミを見た。
 タカミはインテリアランプの光をじっとその双眸に映していた。その優しい光の中に、何かを見ようとするかのように。
「・・・母親は疾うに死んでいた。爆風の中、我が身を盾にしていたんだ。もう動かない母親にしがみついて、震えていた。傷も負っていたし、多分あれでは助からないだろうと思った」
 タカミの表情は、カヲルにはひどく読み取りづらいものだった。自嘲とも、哀れみともとれた。
「それでもその子供は、生きたいと願っていた。恐怖にこころを侵食されていて、もうまともではなかったけどね。・・・死にたくないと。生きていたいと」
「・・・助ける、つもりで?」
「それは違うと思うな」
 タカミ・・・・否、イロウルは苦笑した。
「興味、だろうね。そして、僕自身を守るためでもあった。コアのままだと遅かれ早かれ探知され、連中の手の中に落ちるだろう。・・・・君たちのようにね」
 そこで一旦言葉を切り、カヲルを見る。
「・・・・怒らないんだね」
「別に」
 カヲルの無表情な答えに再び苦笑し、言葉を継ぐ。
「生命活動を維持するために、その子の身体を僕のATフィールドで維持した。自身の身体を展開させる程の余裕はなかったし、苦肉の策だったのかも知れない」
「融合?」
「さてね、なんと表現したものか。未だによくわからないんだ。自分にそういう芸当ができるものとも思ってなかったんだがね。・・・・・結果として、”榊タカミ・カーライル”は生存している。多少の記憶の混乱、体質の変化を残してね。
 僕には14歳までのタカミの記憶がある。そしてイロウルとしての記憶も。ただ、それがはっきりしてきたのはここ数年の話でね。自分が何者かは知っていたつもりだが、それがどんな意味を持つものかはよくわかっちゃいなかった…」
「知ることと理解することは、同義ではない」
「まさにね、そうだよ」
 タカミは黒い前髪をくしゃりとやって、吐息混じりに言った。
「実のところ、記憶を除けば今の僕には何の能力があるわけじゃない。その気になれば榊タカミというひとりのリリンとして一生を終えることも可能かも知れない。
 …笑うかい?でも僕は、本当にそんなことを考えているんだよ」
「・・・・無理だ」
「・・・かもしれない。そうじゃないかもしれない。父なる方はリリンが地上に満ちることこそ嘉し給うた。その理由が、この14年でほんの少しだけ・・・わかったような気がしたのさ。淡い夢かも知れないがね」
 イロウルの感慨は、カヲルの理解を超えていた。彼の言葉を反芻するような間を置いた後、呟きともとれる調子で言う。
「あのひとと…同じようなことを言う」
 彼は<あのひと>という言葉の示すところを、事細かく聞くような真似はしなかった。

―――――――――どれだけの時間が経っただろう。
 不意に、カヲルが膝を抱えたまま、肩を震わせた。
 何かを言いかける彼を片手を軽く上げることで制し、深く、ゆっくりと息を吐く。
「まだだよ。勝負は持ち越しだ」
 それは、安堵の吐息なのか。あるいは痛ましさを呑み込んだ嘆息か。
 このとき駿河湾では、エヴァンゲリオン2機を排した”第7使徒”が、UNのN2爆雷攻撃で活動停止に追い込まれていた。
 体表を石化させていたが、それは一時的な損耗を回復させるための繭のようなもの。活動再開は時間の問題だ。
「5日・・・・いや、6日後か・・・・・・」
 イロウルがカヲルの肩に手を触れて、そう呟いた。

***

 哀れなひと。僕は、あなたが思うような者ではないのに。
 あの小さな世界に、かつてのエデンを夢見た音楽の天使。
 楽園は戻らない。
 我々は運命に逆らうことはできない。
 ただ父なる方の定め給うたままに、存在するだけ。そして、消えてゆくだけ。
 僕には何もできはしない。
 いつか僕にも時は訪れ、そして消えてゆくのだ。どんな形であれ。

***

 カヲルが目を覚ましたとき、カーテンの隙から漏れていたのはもはや月の光ではなく、薄明のそれであった。
 水音がする。雨? 否、どうやらバスルームからだった。
 最初は何とも思わなかった。彼にとって、あまりにもありふれた匂いだったから。
 そして気づく。ここはもう、LCLの中ではない。
 なぜこんなところで、この匂いがするのだ?
 カヲルは飛び起きた。気の所為ではない。
 あの芳香さえも、打ち消すことのできない金属臭。・・・・・血の匂い!
 薄闇のなかでも、その血臭は、カヲルにフローリングの床を横切る禍々しい文様を教えた。
血。赤い血。
 開けっ放しの寝室から、リビングを横切ってバスルームへ点々と続いている。
 寝室はもぬけの殻。乱れたシーツもまた、汚れていた。
 すぐさま踵を返し、その部屋を出ようとしたカヲルは肩を撫でられて足を止める。
 花。白い半球型の吊り鉢から、つやの良い深緑の葉の間から、零れるようにして咲いている・・・・白と深紫の小さな花。
 芳香の正体だった。
 香りの強い花だ。だが、カヲルはそれがリビングに居たときに嗅いだものとは微妙に異なっていることに気がついた。
 ふと、足元の禍々しい緋の文様に目を落とす。そして眉を顰めた。
 これだ。
 リビングに残っていたのは、この花と、血の匂いが混じり合ったものだったのだ。
 ―――――気がつくと、水音は止んでいた。
 洗面所にも同じ花が、足のついた鉢に植わっていた。
 花の香りと、血の匂いが強く混じり合う。気分が悪くなるほどだ。
 洗面所とバスルームを隔てる、曇りのはいった滑り戸は、その向こうの光景を色だけで伝えていた。
「一体・・・・・・!」
「来るなよ。・・・・あまり気持ちのいい見せ物じゃない」
 詰めた呼吸の下から、辛うじて絞り出した忠告は、不幸なことに僅かに遅かった。
 意識を向けた一瞬に同調シンクロを起こしたカヲルは、全身を灼かれるような感覚に声もなく昏倒する。
「・・・・言わんことじゃない・・・・・・」
 凄惨な光景を無感動に眺めながら、タカミは吐息した。
 その身体には、無数の裂創。
 赤黒い裂け目からは、ときおり微細な血塊がずるりと這い出てくる。
 全身を灼く熱感は、冷水のシャワーごときではとうてい鎮まらない。
 もはや苦しむことにも倦んだ彼は、ただ静かに時が過ぎるのを待っているのだった。