第Ⅳ章 存在のかたち

ある晴れた日に

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」


『周到だよ、おまえは。俺にはとても真似ができんね。俺ならとっくに匙を投げてるさ。何事も、父なる方の御意志のままにってな』
『私にもお前の真似は出来ない。根が憶病にできているものでな。・・・・・・・・私は、滅びたくない。ただ、それだけだ』
マトリエルもまた、出ていった。
そして、何も起こらなかった。


第Ⅳ章 存在のかたち
A Part

「直截な奴だったよ。羨ましいほどにね」
 揺り椅子にかけた格好のまま、サハクィエルは呟いた。彼の望みで開け放たれた天窓から、遠くの蝉の声が降ってくる。
 彼の両手両足はもう動かない。揺り椅子から落ちてしまったら、まずもう自分で立ち上がることはできまい。
 彼に、さだめの時が訪れていた。
「あれに比べれば、無様なものだ。ぐずぐずしている間に、機会を逸するとはね」
「いずれ出ていってしまうなら、どこから消えても同じだ」
 揺り椅子のすぐ側に立っているのは、カヲル一人。
 後の皆は、知りもしない。
 辛辣な台詞を載せた声が、どこか拗ねたような響きを持っていたことに驚いて、サハクィエルはカヲルを見た。
「皆、そうだ。出ていきたくないような事を言って、結局みんな行ってしまう」
 首を動かすことはできるが、手は動かない。もの言いたげに口を開いたが、結局噤んでしまう。
「・・・何を望むんだ。僕に・・・・・」
 サハクィエルは微笑んだ。
「何も。・・・・君自身が、我々の希望のぞみなのだから」
 その言葉のあとに、最後の呼吸が静かにはきだされた。
「・・・・!」
 彼がそのかたちを保っていられる最後の瞬間。カヲルは窓へ足早に歩み寄ると、いくぶん乱暴に開け放ち、風を呼び込んだ。
 夕刻の微風が、一瞬だけその足を早める。
 窓枠に手をかけたまま、カヲルは暫時動かなかった。ただ祈るように瞼を閉じたまま、風が彼を通り抜けて屋根裏部屋アティックへ滑り込むのを感じていた。
 そして、天窓から空へ還るのを―――――。
 どれほど、そうしていただろうか。
 カヲルは部屋の一隅に畳まれていたカバーを掴むと、誰もいなくなった揺り椅子へかけた。そして、後も見ずにその部屋を出ていく。
 カバーの房飾りが夕刻の微風に触れ、そっと揺れた。

 爆発の衝撃波が、その一帯を襲った。
 小高い丘のひとつが一瞬にしてカルデラと化した。

 リリンにとっては、それは奇跡と映った。
 だが、それだけのことだった。

 ネルフ本部B棟地下・シグマユニット。
「なぁに?また水漏れ?」
「いえ、侵食だそうです。このボックスの真上」
「何か支障があるの?」
「いえ、今のところは」
「では、実験は続行します。このテストはおいそれと中断するわけには行かないわ。碇司令もうるさいしね」
 技術部一課・赤木リツコ博士はあっさりとそう言い放ち、ディスプレイに視線を戻した。
 榊タカミの失踪から後、また2体の使徒の侵攻があった。しかし、それは今までと何ら変わりばえのしない、巨大な生物兵器にすぎなかった。
 高い知能を有する、人型の使徒。あるいは彼も、と思ったのは、やはりリツコの考え過ぎだったのだろうか?…だとしたら…
 ―――――しかしいずれ、もうそんなことにはかかずらってはいられない。E計画責任者として、彼女にはやらなければならないことが山のようにあったのだ。
 彼女の思考を妨げたのは、けたたましい警告音だった。
「今度は何?」
「第87タンパク壁に侵食発生。爆発的なスピードです!!第6パイプにも汚染が広がっています」
「実験中止!第6パイプを緊急閉鎖」
「駄目です。侵食は壁伝いに進行しています」
「ポリソーム、用意!」
 水中作業用の自動機械。工作用とはいえ搭載しているレーザーは汚染源を焼却するに十分な出力がある。それをパイプ周囲に展開させ、変化を待つ。
 しかし、待ち受けた次の変化は別のところから現れた。
「きゃぁぁ!」
 レイの悲鳴。模擬体が、動いている!?
 侵食が模擬体に及んだのだ。レイのコントロールを離れた模擬体の右腕が、ゆっくりとコントロールルームへ伸びる。
 リツコは非常用スイッチで右腕を爆破した。吹き飛んだ右腕が監視窓にぶつかる。
 衝撃と共に監視窓にひびが入り、つかまるものがなかったミサトがその衝撃にわずかにバランスを崩す。だが、辛うじて踏みとどまった。
「レイは!?」
「無事です!!」
「シュミレーションプラグを緊急射出!レーザー照射、急いで!!」
 レーザーが汚染されたパイプへ殺到する。だが、効いていない。レーザーはパイプ表面に展開した無数のオレンジ色の光にはじかれていたのだ。
「・・・・・ATフィールド!?」
 事態の進行の異常性から言って、その原因として誰しもが心の底で恐れていた答えがそこにあった。
 それとほとんど同時である。模擬体の表面に、一斉に赤い斑点が浮かび上がった。
「・・・・・分析パターン、青。間違いなく・・・使徒よ」
 それは同時に、作戦部へ指揮権が移ることも意味していた。
「ボックスは破棄します。総員退避ッ!!」
 ミサトの指示に、スタッフが立ち上がる。
 しかし、当のリツコは窓にひびが入って行くのをただ見つめていた。決して立ち竦んではいない。それはむしろ、ひび割れた窓の向こうにいる者を牽制するような眼差しであった。
「なにやってんの、早く!」
 その一言にようやく、ミサトについて走り出す。
 リツコがボックスを出るのと、コントロールルームが浸水したのがほぼ同時であった。

 それはおそらく、言葉とは違うものであったに違いない。
 暗い部屋の中で、カヲルは異様な感覚に寒気を感じて飛び起きた。
 誰なのか? いや、何なのか? 呼ばれたような気がした。いや、ほんとうにそうであったのかもわからない。言葉をなさない感情の発露。それは、願いを聞き届けられない幼児が上げる叫びにも似ていたかもしれない。
 カヲルはタオルケットをはねのけてベッドから降りた。
 もう行くつもりのなかったアティックへ上がり、パソコンを起動する。スイッチを入れた直後にまた先刻の異様な感覚が絡みついてきて、思わず呻く。
 先刻より随分はっきりしてきている。幼児の声が、急に彼と同年代の声で聞こえてくるといった感覚に近い。
 その<声>を、カヲルは知っていた。
 いや、知っていたと言うべきかもしれない。
 あまりにも似過ぎていた。そしてあまりにも違い過ぎた。先日、白い墓場のような無人プラントの狭間で、消えうせたはずの命に。
 榊タカミ・カーライル。・・・・・・否、イロウル。
 しかし、そこに在るのは物静かな笑みを湛えたタカミではない。自らが生き残るために、自らを常に進化させて増殖し続ける生命のシステムそのもの。『イロウル』というひとつの『システム』であった。
『一つだけ頼みがある。この身体のひとかけらも、連中の手に渡らないようにしてくれないか』
 その言葉のもう一つの意味を、カヲルはおぼろげに理解した。
 無人プラントの白い床を染めた、紅の池。
 それがプラントや床の接合面に達していたとしたら?
 あるいはプラントそのものを侵食したとしたら?
 その一滴でも、内部のプラントに浸潤していたとしたら?
 そしてタンパク壁の中で時を迎えてしまったとしたら・・・・・・?

 ―――――――――莫迦な、リリンたち。

 第11使徒と認識された<それ>が嫌気性から好気性へとその性質を変えてしまうまでに、さほどの時間はかからなかった。
 もはやオゾンで駆逐することもかなわない。レーザーを打ち込んでもATフィールドの前ではエネルギーの浪費でしかない。もはやシグマユニットは救いようのないところまで汚染されていた。
 使徒殲滅の切り札であるEVAも、相手が細菌では逆に汚染され、模擬体同様に宿主とされるか、最悪、本部への破壊行動に走る可能性とてゼロではないのだ。司令の指示もそれゆえのことであった。
 その時。最悪のタイミングで強引なハッキングが始まった。
 逆探知されることを少しも警戒しないやりくちはいっそ豪快なほどであったが、疑似エントリーは瞬く間に回避され、あるいは展開に失敗した。防壁も破られ、発令所のメンバーの顔は刻一刻と青くなっていった。
「逆探知成功。・・・・B棟の地下・・・・・・・・プリブノーボックスです!!」
 模擬体に浮かび上がっていた赤い斑点が沈みこんだと思うと、不意に黄金色の幾何学模様として浮かび上がる。
 それは、コンピュータに他ならない。
 模擬体に寄生したモノが、自らを知能回路を形成するまでに進化・増殖させ、ハッキングを行っていたのだ。
 保安部メインバンクの防壁など、もはや紙の箱ほどの力もなかった。

 おかしい。やることが方向を見失いかけている。
 カヲルは、僅かに眉をひそめた。
 シグマユニット全域を侵食したところまではよい。だが、「彼」の目的はアダムのはずなのに、突如としてMAGIへと矛先を変えているのだ。
 「彼」のやり方は正しかった筈だ。何も力を以て押し入らなくてもアダムとの邂逅は果たせる。セントラルドグマの物理閉鎖とて、時間をかければ侵食出来ないことはない。それを防ぐ手段はないに等しいのだから。
 何故。
 MAGIシステムを制御下に置いた所でなんになる。リリンの持ち物、リリンにしか必要のないものなのに。
 自律自爆?本部の?
 邪魔立てする者を自爆によって消去しようというのか?
 それはリスクが高すぎる。それなのに、何故!?
 イロウルの意識は、カヲルが捉えている限りではまともとは言い難かった。それは既に「タカミ」を彷彿とさせるものにまで成長しているにもかかわらず、である。
 ・・・・・イッショニ・・・・・
 ・・・・ヒトツニ・・・・・・・
 異常なかたちでの再生が、彼の裡のプログラムに微妙な狂いを生じさせたのか。生命の源、アダムへの回帰というプログラムは、父なる方の手によって彼ら全てに植え込まれたもの。それは彼ら自身に制御の効かない、衝動に類するものであった。
 アダムに似た匂いに引き寄せられ、シグマユニットに閉じ込められたイロウルは、狂ったようにアダムを捜しまわったのだ。
 そして、MAGIをみつけた。
 「母親」を見つけたのだ。
 しかし、その「母親」にイロウルを受け入れることが出来るはずもなかった。

 今や使徒の培養槽となってしまったプリブノーボックスで受けた感覚。
 増殖を阻止しようとするうちに頭から追い払ってしまっていたが、保安部のメインバンクからパスワードを操作するやり方にリツコははっとした。
 まさか。
 そんなことが。
 I/Oシステムのダウンもはねつけられた。当の昔にそんなものは使徒の影響下に入っていたのだ。メルキオールがリプログラムされるまでにいくらもかからない。
「人工知能メルキオールより、自律自爆が提訴されました。否決。否決。否決・・・・・・・」
 リツコは静かに青ざめた。・・・・考えられないことではない。
「今度はメルキオールがバルタザールをハッキングしています!!」
 白衣のポケットの中で、拳を固める。
「ロジック・モードを変更。シンクロコードを15秒単位にして!」
「は、はいっ!!」
 オペレータ達が必死の形相でコンソールに取りつく。ややあって、侵攻速度が急激に落ちた。応急処置と知っていても、発令所の各所でため息に近い声がもれる。
「・・・・・・まさか、MAGIが敵に回るとはな」
 碇と冬月の視線の先に、蒼白な顔をしたリツコの姿があった。